西洋人が「非科学的」と見た伝統社会は本当にそうか?
レヴィ=ストロース編の第4回は、構造主義とは何なのかを正面から扱う回です。冒頭、ここまでの話がわかったかという問いかけに対し、出演者からは「わかりそうでわからない」という率直な反応が出ます。
わかりそうでわかったかわかってないかわかんないみたいな感覚を、ずっと多分みんな(持っている)。
ずっと沼の中を歩いてるみたいな感じで。
樋口さんの説明によれば、レヴィ=ストロースは35歳で『親族の基本構造』を書いて一躍名を上げ、大学のポストも得ていきます。そして1962年、54歳のときに『今日のトーテミスム』と『野生の思考』の2冊を出版しました。
『今日のトーテミスム』は、現在では『野生の思考』の前哨戦、イントロのような位置づけとされています。2冊の出発点にあったのは、当時のヨーロッパ人が伝統社会の人々を、マジカルな幻想の中で生きる非科学的な人たちだと見ていたことへの疑問でした。
レヴィ=ストロースは『野生の思考』の中で、近代のヨーロッパ人も伝統社会に生きる人々も、基本的な思考のフレームは同じだと指摘することになります。その説明の入口として取り上げられるのが、トーテミズムです。
トーテムポールの「氏族」と、機能主義の苦しい説明
樋口さんはまず、トーテムポールを例にトーテミズムを説明します。深井さんはトーテムポールを、ネイティブアメリカンの「だるま落としみたいな巨大なやつ」と表現していました。
トーテムポールの背景にあるのは、人類学でいうクラン ── 人類学の用語で「氏族」。実際に血縁があるかはわからなくても、共通の祖先を持つ親戚だと考えている大きな集団を指しますという単位です。樋口さんは日本の中世の武士を例に、足利氏や吉良氏がみな源氏であるように、「源氏」にあたるのがクランで、血縁関係がかなりはっきりしている足利氏や吉良氏のような家族集団がリネージだと説明します。
ネイティブアメリカンのある民族では、クランごとに自分たちを表す動物が決まっていて、狼、亀、ザリガニなどが割り当てられています。トーテムポールは、自分のクランを表す動物を描いたものです。
クランが特定の動物と結びつくトーテミズムは、インセストタブーと並ぶ人類学上の謎でした。自分のクランの動物を殺さない、食べないといった決まりにも、何か実用的な機能があるはずだと考えるのが機能主義的な説明です。
樋口さんは日本の例として、祇園社の氏子がキュウリを食べない習慣を挙げます。キュウリの断面が祇園社の御紋に似ているからという理由は、近代人から見ると「似ていることに何の関係があるのか」と感じるマジカルな説明です。
似ているものを1つのものと考えるのが、人類学者ジェイムズ・フレーザーの言う呪術的思考 ── 本来関係のないもの同士に、類似や接触を根拠にしてつながりを見いだす考え方。フレーザーは著書『金枝篇』で呪術を体系的に論じましたです。樋口さんは、星の動きと人生を重ねる星占いや、動物占いも同じ発想だと例えます。
機能主義は、祇園社の習慣を「夏にキュウリを食べると体が冷えてお腹を下しやすいから、夏祭りをする氏子は食べない」と説明します。伝統社会のトーテムについても、大事な食料を絶滅させないために食べないのではないか、と考えられていました。
ただ、樋口さんによれば、これらの機能主義的な説明は「そうかもしれない」という程度で、検証のしようがないものでした。そこでレヴィ=ストロースは、トーテミズムと呼ばれるものはそもそも存在しないのではないか、と論じていきます。
科学的思考と伝統社会の思考は何が違って、何が同じか
トーテミズムの否定を理解する鍵として、樋口さんは『野生の思考』が西洋社会と伝統社会の思考を対比して進むことを紹介します。レヴィ=ストロースによれば、西洋社会の科学的思考で大事なのは抽象的な概念を使うことです。
犬、猫、狐のような具体的な動物に対して、「動物」や「哺乳類」という概念は、どの具体的な動物も指し示していません。具体性を取り除いた概念でロジックを組むのが、西洋の科学的思考のやり方です。
一方で伝統社会では、具体的な犬や猫や狐そのものを、象徴的なアイコン、つまり記号として使います。民族によっては何百種類もの動植物の名前を持ちながら、「動物」「植物」というカテゴリー名を持たないこともあるそうです。
具体的な要素を取り除いた抽象概念(動物・哺乳類など)でロジックを組む。規格化された部品で建てるヴェルサイユ宮殿のようなもの
具体的な動植物や出来事を記号として使い、レトリックで意味を与える。形の違う石を積む日本の城の石垣のようなもの
伝統社会の思考で意味を与える手段が、レトリックです。樋口さんは、重要なものとして隠喩 ── メタファー。似ている性質を手がかりに、あるものを別のもので表す表現技法ですと換喩 ── メトニミー。全体の一部分や関連するものに着目して、全体を指し示す表現技法ですの2つを挙げます。
隠喩の例は白雪姫で、白い雪と白い肌が似ていることからアナロジーでつながっています。換喩の例は赤ずきんで、赤い頭巾をかぶっているという部分に着目して、それを女の子全体の名前にしています。
オーストラリア先住民の例では、黒インコ族と白インコ族という集団がいて、黒いインコと白いインコはそれぞれ死と生のメタファーになっています。すると2つの集団の関係も、祭りの場などで死を司る側と生を司る側のように分けられます。
樋口さんによれば、呪術的思考と科学的思考は大きく違うように見えますが、実は対立を見つけ出し、その対立をもとに分類していくという点で同じことをしています。違いは、規格化された部品で建てるか、形の違う石を組み直しながら積むかにすぎません。
本質的には知的好奇心を持って世界を観察し、その観察された世界を分類していって、何らかの方法で積み上げていくっていうことでは同じことをやっているよねと。
この観点からトーテミズムを見直すと、黒インコ族が黒インコと特別な関係を持っているわけではありません。黒インコと白インコ、黒インコ族と白インコ族、死と生という3つの対立関係が、隠喩と換喩で変換されて同じ構造を持っていることが大事なのです。
クランと動物の個別の結びつきに意味を見るトーテミズムは、ヨーロッパ人がそういうふうにものを見るからそう見えるだけだ、というのがレヴィ=ストロースの言い分だと樋口さんは説明します。
『野生の思考』最終章はサルトルへの反撃だった
樋口さんによれば、『野生の思考』の最終章は、第1話で登場したサルトルへの批判になっています。サルトルまでの西洋哲学は、伝統社会の人々を「未開人」と呼び、劣った思考しか持たないと考えていました。
サルトルは、歴史は弁証法的に発展していくものであり、その法則にのっとって未開人の思考も西洋人のように発展していくと考えていました。しかし科学的思考と呪術的思考にあまり差がないなら、それはどこから見るかという視点の問題になります。
レヴィ=ストロースは、発展していく歴史というスコープを持っているのは、世界の中で西洋人と東アジア人しかいないと指摘します。未開人は歴史を持っていないのではなく、出来事の固有性を大事にする歴史を持っていて、レヴィ=ストロースはそれを純粋歴史と呼びました。
時間を一直線上に考え、起きた出来事を時系列に沿って並べていく
出来事は出来事として、固有の具体的事例のまま置いておく
歴史をどう扱うかは、それぞれの文化の思考のやり方にのっとっているだけです。だから未開人が劣った思考を持っているわけではない、というのがレヴィ=ストロースからサルトルへの批判だと樋口さんはまとめます。
正方形がひし形に見えても、構造は変わらない
樋口さんは、構造主義で大事なのは、いろいろな視点からものを見ることだと言います。その説明に使われるのが、平面に描いた正方形のたとえです。
正方形を描いて、自分の視点っていうのをずらしていくと、それがひし形になったり、台形になったりしますよね。
正方形の見え方は視点によって変わりますが、どれも1つの図形のバリエーションにすぎません。視点の置き方で見え方は決まるものの、究極的には構造があるだけだ、というのがレヴィ=ストロースの主張です。
樋口さんは、レヴィ=ストロースがこれによって西洋中心の哲学を乗り越えたと見なせると語ります。出演者の一人は、エピソードタイトルにもある「エイリアン」のたとえを持ち出し、西洋哲学が自らの腹を食い破って出てきたのに、いまは何もなかったことになっている状態だと表現しました。
一方で、ゲストのニキさんは「掴めたと思ったら数分後にどこかへ行ってしまう」と戸惑いを口にします。そのうえで、伝統文化のほうが人間の本質を保ち、宗教や哲学で理性を深めてきた西洋文化は人間らしさから遠ざかったのではないか、という疑問を投げかけました。
「伝統社会こそ人間の本質」はなぜ危ういのか
ゲストの「伝統文化のほうが人間の本質を保っている」という見方に対し、樋口さんは微妙な問題を含むと答えます。その見方は、西洋中心主義的な視点の裏返しだというのです。
樋口さんは、映画『アバター』を例に、人類学でいう白人酋長 ── 力を持った白人が未開とされる民族の中に入り、その力で民族の指導者になるという物語の型を指す言葉として、この回では紹介されていますという概念を説明します。伝統社会の人々に共感しているようでいて、実は見下している構図だといいます。
つまり裏返しでどっちが優れているかじゃない。
樋口さんによれば、西洋社会は理性に基づいた歴史から物を見るように訓練されているだけで、人間一般はほかの視点も持ちえます。ただ根本では、人間はどこかに対立を見つけ、隠喩や換喩で関係性を作り、その関係に基づく体系を作ることで社会や文化を生み出しています。
対立を見つける
世界の中にどこかで区別・対立を見いだす
関係を作る
隠喩や換喩を使って、対立同士の関係性を作り出す
体系を作る
関係性に基づいたシステムを組み上げ、社会や文化になる
出発点となる対立が違うから、見た目の社会はまったく違って見えます。それでも、対立を見つけてカテゴリー分けし、それを展開していく方法そのものは一緒だ、というのがレヴィ=ストロースの主張です。
出演者の一人はこの指摘を「人文力のパワー」と評します。ある文化の内側にいると、その理解の仕方しかないように見えるものの、それはある対立構造の派生型にすぎず、ほかの対立構造を使えばまったく違う表現ができ、しかもそれらはフラットだという点が、構造主義の最もすごいところだと語りました。
視点の相対化と、世界史データベースのつながり
樋口さんは、構造主義がやっているのは視点の相対化だと整理します。サルトルまでの西洋哲学は、自分たちが客観的な視点を持てると考え、発展していない民族を「自分たちの発展段階の途中にいる人たち」とみなしていました。
レヴィ=ストロースが指摘したのは、それはあなたがそういうふうな文化に育ってるからそう見えるだけですよね。
ゲストが「めちゃくちゃ主観的ですよね」と応じると、樋口さんも「客観じゃないですよねって言った」と重ねます。出演者の一人は、対立軸が「発展と非発展」でなくなれば見え方も変わると補いました。
樋口さんによれば、いろいろな社会の事例をデータベース的に並べると共通のパターンが見えてきて、そのパターンこそが構造です。ここで話は、COTENが作っている世界史のデータベースへとつながります。
構造主義の結果なんだよね、世界史のデータベース。
情報と情報の関係が同じ構造を持っているかを分析したいから、データベースを作りたいのだと樋口さんは言います。出演者の一人は、情報同士の関係には無限ではないいくつかのパターンがあるので、タグ付けによって構造別に検索できるようにしようとしている、と説明しました。
ただしその出演者は、データベースが何なのかがほとんどの人にわからないのは、構造主義やその前のサルトル、ヘーゲルあたりの哲学が人類に浸透していないからだと語ります。戦後にエイリアンが腹から出たのに、みんなわからないので、なかったことになっているというのです。
ゲストは、第1回で触れたニューアカデミズム ── 1980年代の日本で起きた、現代思想の本が若者の間で流行したブーム。浅田彰『構造と力』などが話題になりましたのブームが去った理由を考えます。人間は客観的に考えているつもりでも主観やバイアスから逃れにくいので、構造主義もすぐには理解できないのではないか、という見立てでした。
神話論理と、構造主義者たちが変えた世界観
樋口さんは、レヴィ=ストロースと構造主義者たちのその後をたどります。『野生の思考』の後、レヴィ=ストロースは1964年から71年まで7年ほどかけて大著『神話論理』を出版しました。
『親族の基本構造』は「人を殴り殺せるぐらいの厚さ」だといい、『神話論理』は同じくらいの厚さの本が4冊あるそうです。構造主義的な見方で世界中の神話を分析し、批判はあるものの神話研究を一旦終わらせた研究とも言われています。
同じ時期には、歴史学のミシェル・フーコー、精神分析学のジャック・ラカン、文学や批評のロラン・バルト、マルクス主義のルイ・アルチュセールといった構造主義者たちも登場しました。アルチュセールからは、レヴィ=ストロースの主張も西洋中心主義的だという批判が向けられています。
構造主義者たちはそれぞれ言っている「構造」が違うため、構造とは何かは曖昧です。それでも構造主義は、人間が構造を作るのではなく、構造に思考が規定されているという新しい世界観を生みました。社会のルール、風習、階級のイデオロギーなどが、思考のパターンを決めているという見方です。
そこから、自由で主体的な理性という概念は虚構であり、西洋的な意味での主体や人間は存在しないのではないか、という考えが出てきます。一方で構造主義は、自分たちが近代という時代に、資本主義に制約され、時間を時系列で並べるイデオロギーのもとで生きていることも教えてくれました。
前提を相対化できるという発想は、当時ベトナム戦争をしていたアメリカ人が、攻撃されるベトナム人からどう見えるかを考えるきっかけにもなったと樋口さんは言います。現代でも「いろいろな視点で考えよう」という考え方そのものが、構造主義の1つの結果だといいます。
ポスト構造主義からソーカル事件、人文学の失速へ
樋口さんによれば、1968年、レヴィ=ストロースが60歳のときに構造主義の流行は一旦終わり、ポストモダン思想やポスト構造主義が出てきます。自分たちが近代社会に生きていると気づいたことで、近代の次の時代を考えられるようになったからです。
ポスト構造主義は構造主義を批判しましたが、その批判も構造主義の1つのバリエーションにすぎないという見方があります。そしてポストモダン思想が構造主義を前提に議論を重ねるなか、1995年にソーカル事件 ── 物理学者アラン・ソーカルが、現代思想の用語を並べた無意味な論文を投稿して掲載させ、後にでっち上げだと公表した事件ですが起きました。
ニューヨーク大学の物理学教授アラン・ソーカルは、現代思想の雑誌『ソーシャル・テキスト』に、「構造」のようなジャーゴンやでたらめな数式で埋め尽くした論文を送り、それが掲載されてしまいます。ソーカルの狙いは、この人たちは何もわかっていないのに小難しいことを言って遊んでいるだけだと暴露することでした。
事件を受けて、現代思想は意味がないのではという空気が広がり、学問の主流は脳科学、物理学、コンピューターサイエンスへ移っていったと樋口さんは語ります。出演者の一人は、ソーカル事件だけが原因ではないだろうと留保をつけ、樋口さんも「一つの時代の流れとして」と受けました。
構造主義は現代を生きるうえで必要か?
ゲストは、断片的につかめた部分とふわっとした部分があるとしたうえで、構造主義はいまの時代に必要なのかと問いかけます。
出演者の一人の答えは「あったほうがいい」でした。構造主義を本質的に理解するかどうかより、構造主義的な考え方が存在すると知ることに、現代人にとっての実践的な効果があるといいます。
その理由は、現代人がインターネットなどでつながり、異なる思想や個性を持つ人々と共同でプロジェクトを行い、共に生活する必要がある世界に生きているからです。サルトルまでの西洋哲学的な理解だけでは、自分と違う構造を持った人間の存在を完全にスルーしてしまうと語られます。
樋口さんは、ゲストがわかりにくく感じるのは、あまりにも当たり前のことに聞こえるからではないかと言います。相対性や、別の民族は別のことを考えているということは現代人には当たり前ですが、一方で私たちは正しいか正しくないかで物を見がちです。
樋口さんによれば、正しいか正しくないかで考える思考のフレームこそ、自分たちを中心に置く考え方です。サルトルは理性によって発展する歴史に自らを投げ出す人間が正しいと言いましたが、レヴィ=ストロースにとって正誤は、ある文化の内部にはあっても、客観的な世界には存在しません。
出演者の一人は、フラットであることを体感的に理解していないとディスコミュニケーションが起き続け、通じていないことにさえ気づけないと語ります。ただし、現在の戦争のように実害がある場合は相互理解が実際には難しいことも認めていました。
その出演者は、西洋哲学が自らの力で構造主義にたどり着き、自らの腹を破ったことを素晴らしいと評します。一方で、その功績は受け継がれず、2022年のいまも世界は構造主義以前の世界観で進んでいると指摘しました。ゲストは、この思考法を身につけられる人とできない人という新しい対立が生まれそうだと懸念を示し、出演者たちも同意します。
上司が変なのか、関係の構造なのか
樋口さんは別の角度から、構造主義があることの良さを語ります。生きる意味に悩むのはサルトル的な悩みで、自分の生に絶対的な意味を与えてくれる特権的な視点があると思うから苦しいのだといいます。
でもレヴィ=ストロースはそんなもの(特権的な視点)ないって言ってるわけですよね。で、そう考えるだけでだいぶ違うと思うんですよ。
樋口さんが挙げる具体例は、会社で自分は正しいことを言っているのに上司の指示が変だ、という状況です。上司が変だからだと考えると、自分と上司の二者関係のストーリーの中でしか状況を理解できなくなります。
上司が悪い人だから、変な人だからと、二者関係のストーリーで理解する
大企業・役所・ベンチャーに勤める同級生の話と比べ、上司と部下の関係はこうならざるを得ないと気づく
同級生に上司との関係を聞いてみると、勤め先が違っても同じ構造だったりするはずだと樋口さんは言います。それが構造を見るということで、そうすると自分が次にできることも変わってくるのではないか、という話でした。
出演者の一人は、台本づくりの中で、サルトルとレヴィ=ストロースの考え方は必ずしも矛盾しないという話になったと明かします。自分の人生を主体的に生きようとする一方で、自分の人生にミッションや必然的な意味があるとは思っていないというのです。
その出演者は、使命やデスティニーに乗って生きるべきだという世界観は非常に近代的だと言います。自分は出雲市に生まれ、たまたまの家庭環境に置かれた偶然の重なりでいまがあり、同じ構造に置かれれば別の誰かでも似たことになった可能性が高いと考えつつ、他にやることがないので頑張ろうと思っている、と語りました。
樋口さんはこれを受け、構造主義は世界を説明してくれても意味や理由は与えてくれないと言います。だから自らの生に自ら意味を見いだすサルトル的な生き方は、構造主義に反していないのです。
なぜ初回にレヴィ=ストロースだったのか
樋口さんは、構造主義的な視点がいまも一般化していないと感じており、だからこそジンブンガクシリーズの第1回でレヴィ=ストロースを取り上げたと振り返ります。出演者からは「最終回でやるやつ」とツッコミが入り、樋口さんも台本づくりの段階で大失敗だと思ったと笑います。
レヴィ=ストロースのこの構造主義の考え方っていうのがめっちゃ有益だって思ってるのに、なんかあんまり通じないなと思ってて。
ゲストは、映画『シン・ウルトラマン』に『野生の思考』を読むシーンが一瞬出てくることに触れます。考察動画を見ても3割しか理解できなかったものの、今回の話を聞いて、どんな文化や環境にいてもホモ・サピエンスである以上どうしようもないところがあると思え、肯定されるような気持ちになったと語りました。
同時にゲストは、人間が対立構造を作りたがり、人種差別やミソジニーのように属性に優劣をつけてしまう問題にも、構造主義の理解が役立つのではないかと考えます。
樋口さんは、構造主義でいう「対立」は衝突ではなく、カテゴリーを考えるときの区別だと補足します。男性は社会的で女性は自然だといった結びつきも、野生の思考と同じくレトリックで意味づけられているだけで、必然的な関係はないのです。
樋口さんは、今回の話は多くの人にとって「わかったようなわからなかったような」感じだろうと認めます。出演者の一人は、構造主義は何に適用できるかの例をたくさん考えないとわかっていかないとし、今後は社会学など他の人文学も扱っていきたいと語りました。
最後は、学生時代にソシュールのシニフィエとシニフィアンを日常会話で使える人がかっこいいと思っていたという樋口さんの告白から、ゲストの「パーティーでチョムスキーと言う人に憧れた」という話へ広がります。ホームパーティーで構造主義を語る文化をもう一度流行らせよう、という冗談で回が締めくくられました。
まとめ
レヴィ=ストロースは『野生の思考』で、科学的思考も呪術的思考も「対立を見つけて分類し、積み上げる」同じ構造を持つと示し、トーテミズムや発展史観を西洋側の見方にすぎないと相対化しました。その発想は、異なる他者と共に生きる現代や、身近な人間関係の悩みを捉え直す手がかりとして語られています。
- トーテミズムは、特定のクランと動物の結びつきではなく、複数の対立関係が隠喩と換喩で変換された構造として説明される
- レヴィ=ストロースは純粋歴史の概念でサルトルの発展史観を批判し、伝統社会の思考が劣っているわけではないと示した
- 構造主義の核心は視点の相対化であり、「どちらが優れているかではなく、一緒」という見方にある
- 構造主義は1968年頃に流行が終わり、ポスト構造主義やソーカル事件を経て人文学は失速したと語られる
- 上司との関係やカテゴリー分けを「構造」として見ることで、自分を責めず次の行動を考えやすくなる




