ミラボーの死が王室を追い詰めた理由とは
前回までのフランス革命編では、パリの女性たちの暴動によって、国王ルイ16世がヴェルサイユからパリへ連れてこられるところまでが語られました。樋口さんはこの出来事を、冗談めかして「パリジェンヌたちの国王拉致」と振り返ります。
深井さんによると、この暴動の結果、王は2つの宣言を受け入れ、教会の土地は没収されて財政難の穴埋めに当てられました。王の一家はテュイルリー宮殿 ── パリ中心部、セーヌ川沿いにあった宮殿。ヴァレンヌ逃亡事件以前から国王一家の住まいとされ、のちに火災で焼失しましたに移されます。
この暴動の激しさを見て、当時の国民議会の議員の中には、怖くなって亡命する人も出たといいます。民衆を抑えきれないという空気が、議員の間にも広がっていたことがわかります。
さらに王室にとって大きな事件が起こります。革命初期を先導した議員のミラボーが亡くなるのです。
深井さんの説明では、ミラボーは貴族出身でありながら第三身分の議員という、両方の属性を持つ珍しい人物でした。王室には「民衆の暴動は自分の力で抑え込む」と言い、民衆には民衆に都合のいいことを言う、橋渡し役のような存在だったといいます。
その人(ミラボー)が死んだことによって、王室の人たち、特にマリー・アントワネットとかがめっちゃ怖くなるんですよ。あれ、もうこれほんと殺されるんじゃない?みたいな。
ミラボーを失って怯えたマリー・アントワネットは、実家オーストリアの皇帝である兄に助けを求める手紙を送ります。深井さんは、この皇帝を「レオポルド二世だったかな」と記憶をたどりながら紹介しています。
ところが兄にとって、フランスは今触れると危ない国でした。介入してもメリットはないため、本心では何もしないつもりだったと深井さんは話します。
一方で、妹から助けを求められた以上、メンツとして何かは言わなければなりません。そこで皇帝は「こういう条件なら攻める」という強い言葉を使いつつ、その条件が絶対に揃わない書き方をしました。
メンツ守るためだけに攻めるつもりないけど攻めるよっていうことを、一見するとわかんないんだけど、その外交の基本がわかってる人だったらわかる書き方で書いて送るんですよ。
従来の外交官なら、この書き方の意味はすぐにわかったはずです。しかし当時のフランスの議員は外交経験の乏しい若い人たちで、全員が本当に宣戦布告されたと受け取ってしまいました。
深井さんは、現代の政治家の過激な発言を聞いても、ロシアが本当に日本へ攻めてくるとは誰も思わない、という例えで当時の誤解を説明しています。
この誤解が生まれるまでの流れを整理すると、次のようになります。
ミラボーの死
王室と民衆をつなぐ橋渡し役がいなくなる
王妃の恐怖
マリー・アントワネットが兄のオーストリア皇帝に助けを求める
形だけの脅し
皇帝は攻める気がないまま、メンツのために条件付きの強い言葉を送る
議員の誤解
外交経験のない若い議員たちが本当の宣戦布告と受け取る
ヴァレンヌ逃亡事件はなぜ民衆を失望させたのか
オーストリアの兄が実際には助けてくれないとわかり、国王一家はパリからの逃亡を決めます。パリに連れてこられた時点で、マリー・アントワネットは「こんなとこ住みたくない」「ヴェルサイユに帰りたい」とかなり後ろ向きになっていたと深井さんは話します。
国王一家は実家のオーストリアへ逃げようとしますが、途中で見つかり、連れ戻されます。これがヴァレンヌ逃亡事件 ── 1791年6月、ルイ16世一家が変装してパリを脱出し、国境近くのヴァレンヌで正体が見抜かれて連れ戻された事件ですです。
深井さんによると、この事件が起こるまで、民衆は王様にずっと友好的でした。長い歴史を持つ王には一種の宗教的な後光が差していたといいます。
だからなんか変なことしても貴族のせいにされるし、いいことしたら王様のおかげにしてくれるしみたいな。
当時の議会は、2つの宣言をもとに立憲君主制 ── 君主を残しつつ、その権力を憲法で縛る政治体制。王は存在しても、法の方が優位に立ちますのための憲法を作っている最中でした。王様がいて、しかし法律の方が優位に立つ国を作ろうとしていたのです。
ところが、立憲君主制を作っている途中で王様が逃げてしまえば、その体制は成り立ちません。民衆は再び怒り、王に大きく失望します。
もうこの社長をいただいて、新しい制度に変えていこうってせっかくやってるのに、その社長が無責任にも逃げてしまったら、じゃあ僕たちどうすればいいの?ってなって。
逃亡の様子そのものも、緊張感を欠いていたと語られます。豪華な馬車を使ったため移動がとても遅く、マリー・アントワネットは逃げた安心感から、途中でランチョンマットを広げてピクニックをしたといいます。
樋口さんの紹介では、ルイ16世も途中で友人の家の近くを通りかかり、わざわざ立ち寄りました。訪ねられた友人のほうが「そんな場合じゃない」と慌てたというエピソードです。
はよ逃げろや、俺のとこ来んなみたいな。
こうした寄り道で待ち合わせ場所に遅れ、合流するはずの軍隊と会えず、守る人がいない状態で国王一家は捕まってしまいました。
王を残すか、殺すか。割れる革命派
ヴァレンヌ逃亡事件で国王一家がパリへ連れ戻されると、「逃げたこの王をどうするか」が問題になります。それまで一枚岩だったブルジョワジーの革命派が、ここで分かれ始めます。
深井さんは、細かい派閥は多いとしたうえで、大きく3つの立場に整理しています。
| 立場 | 考え方 | この時点の勢い |
|---|---|---|
| 王様を大事にする派 | 王の権威を守る | すでに劣勢 |
| 立憲君主派 | 王はいてよいが、イギリスのように議会を圧倒的に優先する | 優勢 |
| 共和派(過激派) | 王様はいらない | まだ劣勢 |
劣勢だった共和派は集会を開き、自分たちの意見に賛同する人の署名を集めていました。深井さんはこれを、比較的平和的な活動だったと説明しています。樋口さんは、広場には女性や子どもも多かったと補足します。
ところが立憲君主派は、この署名活動を「やばい動き」と勘違いし、集まった人々に軍隊を送って虐殺してしまいます。
なんかこういう恐怖の連鎖がすごく多いんだけど、勘違いして、この共和派とも呼べるんですけど、(その人たちを)虐殺するんですよ。
この事件のあと、革命全体は一度、立憲君主制の方向へ寄っていきます。
1791年憲法で王の権力はどう変わったのか
同じころ、オーストリア皇帝の形だけの脅し文句であるピルニッツ宣言 ── 1791年8月、オーストリア皇帝とプロイセン王が出した共同宣言。列強が足並みを揃えればフランス王を支援するという、条件付きの内容でしたをめぐって、フランスの若い議員たちは本当に宣戦布告されたと焦っていました。
議員たちは「憲法を作っている場合じゃない」と考え、戦争に耐えられる体制を急いで整えるため、立憲君主制の憲法を速攻で制定します。これが1791年憲法です。
深井さんによると、1791年憲法ではまず特権がなくなり、王の権力が大きく制限されました。その象徴が、議会の決定に対する拒否権の扱いです。
王は議会の監督下に置かれるようになりました。選挙権も以前より広がりましたが、深井さんの説明では対象はきちんと納税しているお金持ちだけで、女性や貧しい人には選挙権がありませんでした。
一方で、王にはもう一つ大切な権利が残されていました。大臣を誰にするかを選ぶ、内閣を組む権利です。
王様が選んでいい。だから与党がどうだろうが、野党がどうだろうが、勝手に大臣選んでいいと。
この内閣を組む権利が、のちに戦争へ向かう流れの中で大きな意味を持つことになります。
攻めてこないオーストリアと、戦争を望んだ国王
1791年憲法を制定して戦いの準備を整えたフランスですが、オーストリアはもともと攻める気がないため、いつまで経っても攻めてきません。深井さんは、その拍子抜けした空気を「シーン、あれ?」と表現しています。
当時の議会では、与党がフィヤン派、野党がジロンド派でした。深井さんは派閥名について「覚えなくていい」と添えつつ、各勢力の思惑を説明しています。
与党のフィヤン派は、戦わずに済むならそのままでいいと考えていました。一方、野党のジロンド派は開戦を唱えます。与党と反対の意見を言いたかったことに加え、支持基盤の中産階級が戦争でお金持ちになれる人たちだったからだと深井さんは話します。
では国王ルイ16世はどちらを望んでいたのか。深井さんによると、国王は戦争をしたかったといいます。
革命政府をぶっ潰して欲しかったからです。これで戦争でフランス自分の国に攻めてもらって、今の政府を倒してもらって。
攻めてくる相手は、王妃マリー・アントワネットの実家オーストリアです。国王は攻めてきてもらうことで王権を回復したいと考えていました。
| 勢力 | 開戦への態度 | 理由 |
|---|---|---|
| 与党(フィヤン派) | 戦争したくない | 攻めてこないなら戦わないままがいい |
| 野党(ジロンド派) | 開戦を唱える | 与党への対抗と、戦争で潤う中産階級の支持基盤 |
| 国王 | 戦争したい | 外国に革命政府を倒してもらい、王権を回復したい |
ここで国王は、1791年憲法で残された内閣を組む権利を使います。戦争をしない与党の大臣を、戦争に賛成する野党の人物へ入れ替えていったのです。
(王様は)内閣組成権を持ってるから、大臣を戦争賛成派の人に入れ替えていくんですよ。これによってフランスは戦争の開戦にゴンって動くんです。
深井さんは、このとき始まった戦争が長く続き、その末期にナポレオンが登場すると予告しています。さらに王室は、攻めてくる側に勝ってほしいため、味方の情報をどんどん相手国に流していました。
ロベスピエールだけが戦争に反対した理由
戦争賛成の声が議会を覆うなか、野党の中でただ一人戦争に反対した人物がいました。のちに大きな役割を果たすロベスピエール ── フランス革命の政治家。ジャコバン派の指導者で、のちに恐怖政治を主導したことで知られますです。
深井さんによると、周りが戦争特需など自分の利害で動き始めていたなかで、ロベスピエールだけは無私の精神で国のことを考えていたといいます。
まだ革命したばっかりで、基盤が整ってないうちに外に戦争しに行くとってダメだよね。
ロベスピエールの懸念は具体的でした。今いる軍隊の将軍たちはもともとアンシャン・レジーム ── フランス革命以前の、絶対王政と身分制にもとづく旧体制のこと側の人たちで、彼らに戦争をさせても勝てないと訴えたのです。
しかし議会は戦争に傾き、開戦します。結果は、ロベスピエールの言った通り、フランスの大敗でした。
深井さんは、負けた理由を3つ挙げています。経験豊富な将軍や将校の多くはすでに亡命していました。残った将校ももともと体制派で、革命に反対していたため、そもそも勝ちたくありませんでした。さらに王室が、味方の情報を相手国に流し続けていました。
政府はさまざまな対策を打とうとしますが、国王は負けてほしいため、1791年憲法の拒否権を連発します。
(王が拒否権を使うと)6ヶ月後にもう一回審議するってなるけど、戦争中だから6ヶ月も待ってたらもうそれで死んじゃうわけですよ。
負けが続き、このままでは攻め込まれて蹂躙されるかもしれないと民衆が感じたとき、逃亡し、拒否権も乱発していた国王に、ついに怒りが向けられます。
ブルボン朝はなぜ終わったのか
深井さんは、ここまでのフランス革命の主導権が、少しずつ下の階層へ移ってきたと整理します。最初は特権階級から始まり、次にブルジョワジーの金持ちが引き継ぎ、そして貧困層と一緒に戦う人たちへと移っていきました。
特権階級
革命の始まりを担う
ブルジョワジーの上層
民衆の蜂起をコントロールしながら主導する
貧困層と戦う人々
ロベスピエールらが民衆を扇動し、王政廃止へ向かう
ロベスピエールは民衆のエネルギーをまとめ、王政を廃止しようと訴えます。民衆はついに武装して、国王一家が暮らすテュイルリー宮殿に進軍しました。
国王一家は、とても小さな部屋に10人ほどですし詰めになって2日間ほど隠れたといいますが、見つかって引きずり出されます。その後、国王一家はタンプル塔 ── パリにあった中世の要塞の塔。王権停止後、ルイ16世一家が幽閉された場所として知られますに幽閉され、もう王として扱われなくなりました。
こうして王の権利は剥奪され、数百年続いたブルボン朝が終わります。深井さんは、ここまでのミスがなければ王朝はなくならなかった、と振り返ります。
マリー・アントワネットについて、深井さんは「悪気はないけど民衆のことを考えるという概念がない」と評します。そのうえで、ハプスブルク家という非常にいい家に生まれた人が民衆の気持ちをわかる方がおかしい、とも話しています。
そこ(ハプスブルク家)に生まれて民衆の気持ちをわかるっていう方がおかしいので。時代の犠牲になった人ですよね。
王権が停止されたフランスは、王様のいない政府を作る共和政 ── 君主を置かず、国民やその代表が国を治める政治体制へと移っていきます。その続きは次回に持ち越されます。
まとめ
フランス革命の初期、民衆はまだ王に友好的で、議会も王を残す立憲君主制を目指していました。しかし、ミラボーの死、ヴァレンヌ逃亡事件、外交の誤解から始まった戦争、そして国王自身による妨害が重なり、王室への信頼は地に堕ちていきます。最終的に王権は停止され、ブルボン朝は終わりました。
- 王室と民衆の橋渡し役だったミラボーの死が、マリー・アントワネットを追い詰めた
- ヴァレンヌ逃亡事件で、立憲君主制を作ろうとしていた民衆は王に大きく失望した
- 形だけのピルニッツ宣言を、外交経験のない若い議員たちが本当の宣戦布告と誤解した
- 国王は内閣を組む権利と拒否権を使い、開戦を後押しし、さらに敗戦にもつながる妨害をした
- 大敗で怒りが王に向かい、テュイルリー宮殿への進軍を経てブルボン朝は終わった





