イギリスはなぜ植民地から税を取りたかったのか
13植民地ができあがった頃、イギリス本国は植民地への投資と度重なる戦争で、国のお金が尽きかけていました。当時の国王ジョージ二世は、そろそろ投資を回収したいと考えていたと深井さんは説明します。
イギリスが選んだ回収の方法は、植民地への課税でした。イギリスから見れば植民地は自分たちが治める土地の一つなので、そこから税金を取るのはおかしなことではありません。
イギリスはまず、アメリカで流行っていた帽子や、お酒に税金をかけます。すると植民地の人々から、ものすごい反発が返ってきました。
(イギリスとしては)何キレとんねんってなったんだけど、当時ヌーベルフランスっていって、フランスがまだ植民地としてがっつり持ってたから。
深井さんによると、ここでイギリスが自分の植民地と争えば、ヌーベルフランス ── 北米大陸にあったフランスの植民地の総称。現在のカナダのケベック周辺からミシシッピ川流域のルイジアナまで広がっていましたを持つフランスに漁夫の利を取られてしまいます。そのためイギリスは協調路線をとり、植民地の脱税を見逃す選択をしました。
なるほど。じゃあ内戦してる場合じゃなかったってことですね。
イギリス本国の政治も混乱していました。樋口さんは、内閣が代わり、植民地を担当する大臣のような人もころころ代わって、対応が適当になっていたと補足します。
植民地側も、本国から勝手に境界線を引かれるなどして、少しずつ怒りを溜めていきます。リーダーシップを発揮できないイギリスへのいら立ちが、この時期に募っていったと深井さんは話しています。
ワシントンの先走りで始まったフレンチ・インディアン戦争
このあと起きるのが、七年戦争とも呼ばれるフレンチ・インディアン戦争です。13植民地は人口が増え、もう少し土地を広げたいと考えるようになっていました。
当時バージニア総督だったロバート・ディンウィディは、勢力を広げるためにフランス領へ進出します。このとき若い司令官として登場するのが、のちの初代大統領ジョージ・ワシントンです。
深井さんは、ジョージ・ワシントンは文献によって英雄にも、ひどい人物にも描かれていると前置きします。そのうえで、この戦争のきっかけについて、ある説を紹介しました。
(ジョージ・ワシントンが)戦う意思のない物見みたいな兵士に対して、いきなり奇襲作戦を仕掛けて、宣戦布告なしで殲滅してしまったらしい。
むちゃくちゃするやん。
深井さんによると、ワシントンは上官から攻撃を止められていたのに、先走って仕掛けたようです。怒ったフランス側はワシントンを追い詰め、武器を持たないフランス兵をいきなり攻撃したと認める文書にサインさせたといいます。
こうして始まった戦争は8年間続きました。深井さんは、今から始まれば2028年まで続く長さだとたとえています。戦争はアメリカ側の勝利で終わり、パリ条約 ── 1763年に結ばれた、七年戦争を終わらせる講和条約。北米ではフランスがほぼすべての領土を失い、イギリスの優位が決まりましたで講和されました。
パリ条約で北米の領土の持ち主は大きく入れ替わります。番組で語られた移り変わりは、次のとおりです。
| 地域 | もとの持ち主 | 講和後 |
|---|---|---|
| カナダ | フランス | イギリス |
| ミシシッピ川より東のルイジアナ | フランス | イギリス |
| ミシシッピ川より西のルイジアナ | フランス | スペイン |
| フロリダ | スペイン | イギリス |
北米からフランスはほぼいなくなり、イギリスとスペインの土地になりました。深井さんによると、フランスはこのあとスペインに譲った部分を取り戻すものの、のちの時代にアメリカへお金で売ってしまいます。
フレンチ・インディアン戦争では、ひどいエピソードも残っています。ネイティブアメリカンとの戦闘で苦戦した植民地側の兵士が、天然痘患者の使った毛布を友好の印として贈り、相手に病を広げたというものです。
別に僕(植民地側を)ディスりたいわけじゃないけど、こういう時代があったんだよってことですよね。
楊さんは、ヨーロッパ人の中に、天然痘を神が自分たちの土地のために使わせた恵みだと捉える人もいたと説明します。
僕らの手を汚さずにクリアランスしてくれるありがたい存在だっていう風に正当化した人もいる。
トランプにまで税金。「代表なくして課税なし」はなぜ生まれたか
フランスを北米から追い出したことで、イギリス本国にとっての利害関係が変わります。もう遠慮する相手がいないので、植民地に本格的に課税できるようになりました。そこでイギリスは印紙法と砂糖法を成立させます。
印紙法は、新聞、雑誌、公文書、手形、カレンダー、トランプまで、印字された紙のすべてに収入印紙を貼ることを義務づける法律でした。紙と言えるものすべてに直接課税する、荒技だったと深井さんは話します。
全部だよ。トランプだよ?トランプ。
砂糖法のほうは、それまでの糖蜜法をめぐる話です。植民地の人々は糖蜜法で課税された砂糖などの脱税をしていて、イギリスは有益な怠慢 ── イギリスが植民地の法令違反や脱税をあえて厳しく取り締まらなかった方針を指す言葉。植民地の自由な経済活動を黙認する結果になりましたとして見逃していました。
新しい砂糖法の税額は糖蜜法の半額でしたが、必ず納めるよう求められました。それまで脱税で実質0だった人にとっては、半額でもまるごと負担が増えることになります。
深井さんによると、当時のイギリスの財政は本当に限界でした。債務は国家予算の13倍あり、その利子だけで歳入の半分を占めていたといいます。
課税してきた本国に対し、植民地側は「代表なくして課税なし」と主張します。自分たちは本国の議会に議員を送り込んでいないのに、なぜ税金だけ取られるのかという論理です。
ここで登場するのがベンジャミン・フランクリンです。フランクリンは「JOIN OR DIE」、つまり結集するか死ぬかだという過激な言葉を掲げました。
自立とか自由を脅かされた時のこのエネルギーの出し方が日本人にはないよね。
アメリカの人々がここまで激しく反発した理由について、深井さんは植民地の成り立ちを振り返ります。前の回で紹介した3つのルーツの人々は、ほぼ全員が自立したい、しがらみから逃れたいという思いで新大陸に来ていました。
だからこっち(新大陸)に来てるのに、またこう縛られるってなったら、それは切れますよね。
深井さんは、自由を求めて来た人たちだけが集まった国だからこそ、反発が「JOIN OR DIE」という形になったと話します。こうした極端な考え方は、のちにフランスに伝わり、フランス革命にもつながっていきます。
ただし深井さんは、のちの独立宣言で人権を語りながら、アメリカ憲法は黒人奴隷を容認したと付け加えます。人権に対する振り切れ方が、フランス革命との違いだという指摘です。
サミュエル・アダムズらは自由の息子たち(Sons of Liberty)という集団を作り、イギリス製品の不買運動を広げました。運動が激しくなり、イギリスは印紙法の廃止に追い込まれます。
声を上げて法律を廃止させる経験を重ねたことで、植民地の人々の政治への関心や関与は高まっていきました。
抵抗運動すれば、あ、俺らの言い分通るんだっていうことを経験として積んでいってしまうんですよね。
「あの人は何ができるのか」。ベンジャミン・フランクリンが見せたアメリカ
ベンジャミン・フランクリンは政治家、外交官、自然科学者、社会運動家、文学者の顔を持ち、あらゆる分野で一流の業績を残した人物です。深井さんは「スーパースター系偉人」と呼び、建国の父の一人として紹介します。
フランクリンは自伝も残していて、深井さんによると自分の自慢もしっかり書いているそうです。楊さんは、電気のプラスとマイナスを発見したのもフランクリンだと補足しました。
フランクリンは18歳で初めてロンドンに渡って以来、10回近く大西洋を渡り、イギリス、フランス、オランダ、ベルギー、ドイツなどを回りました。当時のヨーロッパの人々にとって、アメリカは驚きの対象でした。
王様がいないってどういうこと?みたいな。なんで?みたいな。成り立つわけないじゃんみたいな。
ヨーロッパの人々は、教養のない平民に参政権を与えてどうするのかと考えていました。君主のいない共和国の誕生は、ヨーロッパに大きな衝撃を与え、各国はアメリカに強い関心を寄せます。
そこにヨーロッパ中を回るフランクリンが現れ、大歓迎を受けます。文学者でもあり話のうまいフランクリンは、アメリカの姿を語って世界を動かしていきました。
深井さんによると、フランスがアメリカに多額のお金を貸したのもフランクリンの働きによるものです。フランスの国庫はさらに苦しくなり、フランス革命につながっていきます。
めちゃくちゃ口がうまいんでね。まあほぼほぼ詐欺みたいな感じで(お金を)取っていきましたね、彼は。
楊さんは、フランクリンがメディア王でもあったと紹介します。アメリカ全土に紙の供給網や印刷所を広げてネットワークで結び、郵便も整備しました。
アメリカを国として神経を通して結びつけた人、役割を果たした人と言ってもいいぐらいですよね。
深井さんも、フランクリンが独立宣言を印刷して全植民地に届けたことに触れます。楊さんは、フランクリンが独立宣言に署名もしていると付け加えました。
フランクリンの話を聞いたヨーロッパ人は、アメリカでは身分よりも「何ができるか」が大事にされることに驚きます。「あの人は何ができるのか」が先に問われる国だという話が、エピソードとして残っています。
紅茶で海が茶色に。ボストン茶会事件は何を引き起こしたか
印紙法を廃止したあとも、イギリスの国庫は破綻寸前のままでした。次にイギリスは、お茶、ペンキ、ガラス、鉛などの日用品の輸入に関税をかけようとします。
自由の息子たちは再び不買運動を始めます。なかでも植民地の人々が好んでいたのがお茶で、深井さんによると1人あたり年間1キロほど消費していたといいます。
対立は激しくなり、ボストンでは市民がイギリス兵に雪玉を投げつけ、イギリス軍が発砲して5人が亡くなる事件も起きました。
戦争が起きそうな状況になり、イギリスは妥協案を出します。紙、ペンキ、ガラス、鉛の関税は廃止するが、お茶の関税だけは残すというものでした。
だけどお茶が一番売れてるんですよ。ダントツで。だからそのお茶に関税残したら意味がねえだろつって。
自由の息子たちのメンバーはネイティブアメリカンの衣装を着て、ボストン港に停泊していたイギリス東インド会社の船から、紅茶の積み荷340箱ほどを海に捨てました。海が紅茶で茶色に染まったとも言われています。
このボストン茶会事件で、イギリスとアメリカの関係は完全に冷え切りました。課税から事件までの流れを整理すると、次のようになります。
印紙法の廃止
不買運動に押され、イギリスは紙への課税を撤回
輸入品への関税
お茶、ペンキ、ガラス、鉛などに課税し、再び不買運動
ボストンでの発砲
雪玉を投げた市民にイギリス軍が発砲し、5人が死亡
お茶だけ残す妥協案
一番売れていたお茶の関税だけ残る
ボストン茶会事件
紅茶の積み荷を海に捨て、関係が決定的に悪化
楊さんは別の見方も紹介します。お茶の輸入独占権がイギリス東インド会社に与えられたことで、アメリカの輸入業者や密輸業者、卸業者が怒ったという説です。
要は地元の中小企業がグローバル企業にブチ切れたみたいな構図が起こったみたいですよ。
なるほど。なんか時代が変わったら同じことが起こってるんですね、いろいろと。
戦争はいよいよ目前に迫り、話は次回の独立戦争へと続いていきます。
まとめ
今回の回では、財政難のイギリスが植民地への課税を強め、植民地の人々が「代表なくして課税なし」を掲げて抵抗する過程が語られました。自由を求めて海を渡った人々の気質と、ベンジャミン・フランクリンのような人物の活躍が重なり、ボストン茶会事件を経てアメリカは独立戦争へ向かっていきます。
- フレンチ・インディアン戦争でフランスが北米を去り、イギリスは植民地への本格課税に踏み切った
- 印紙法と砂糖法に対し、植民地側は本国議会に代表がいないことを理由に反発した
- 自立を求めて移住した人々の気質が、「JOIN OR DIE」という激しい抵抗につながった
- フランクリンは、身分より「何ができるか」を問うアメリカの姿をヨーロッパに伝えた
- お茶の関税だけを残したことがボストン茶会事件を招き、独立戦争への流れを決定づけた





