天下統一の次は明?秀吉が求めた「外からの承認」
秀吉・家康編の前回までで、豊臣秀吉は全国を統一し、制度づくりに取り組んできました。今回の話は、その秀吉が統一後も軍事行動を続け、海外の朝鮮へ攻め込んでいくところから始まります。
当時の朝鮮半島は李氏朝鮮 ── 14世紀末から約500年続いた朝鮮半島の王朝。儒教を国の柱とし、明を宗主とあおぐ朝貢関係にありましたという統一国家でした。楊さんによると、秀吉の朝鮮出兵は歴史上の愚行としてよく語られ、認知症だったのではないかとまで言われているといいます。
へー。ってことはうまくいかなかったってこと?
楊さんの答えは、うまくいかない、というものです。秀吉は朝鮮を経て中国の明まで攻め、そこに新しい国家を作ろうと構想していました。巨大な明を攻め落とし、その後も統治し続けるのは難しいと楊さんは話します。
では、秀吉はなぜ朝鮮出兵に踏み切ったのか。楊さんは、秀吉には東アジアの国際社会に認めてほしいという欲求があったのではないかと推測します。
武士からの承認
実力で同じ武士たちに自分の存在を認めさせた
朝廷からの承認
関白になり、朝廷にも存在を認めさせた
部外者からの承認
残るピースとして、明など国外からの承認を求めた
楊さんは、室町幕府の3代将軍足利義満が明から「日本国王」の称号を受けていたことも挙げます。室町幕府はその称号をもとに日明貿易を行っていましたが、豊臣政権はまだ持っていませんでした。
九州平定の頃から、秀吉は東アジア諸国との外交を本格化させます。明には通好を求め、朝鮮や琉球などには国王の出頭と入貢を求めました。明は同等、それ以外は格下という扱いです。
ところが明から見れば、秀吉の天下一統は「誰お前?」というものだったと楊さんは話します。樋口さんは、明が管理貿易しか認めていなかった事情を補足します。
日本はそのオフィシャルな貿易相手から外されてたんです。それはなんでかっていうと、密貿易団の倭寇を全然取り締まってくれねえから、日本は。
それが大体1570年代頃からそういう状況になってるので、まあおそらくは、まあ秀吉はなんとか明との交易のルートを作りたかったっていうのも背景にあったと言われてます。
さらに朝鮮には、明が中華なら序列の1番目は朝鮮だという小中華思想 ── 中国を文明の中心とする中華思想を受け継ぎ、自国をその次に位置する文明国とみなす考え方。朝鮮王朝で強く意識されましたがありました。科挙も律令制も機能していない日本の要求は、朝鮮から見れば理解しがたいものだったといいます。
なぜ引けなかったのか?武威の論理と現代の「売り上げ」
楊さんは、ここで「武威の論理」という考え方を持ち出します。100年ほど万人の闘争状態が続いた戦国日本では、力が強い者の言うことを皆が聞き、その勝ち残りの頂点にいたのが秀吉でした。
前回語られた北条攻めで20万を超える軍勢を見せたのも、武威の論理の表れだと楊さんは言います。頭のよさや人徳、財産ではなく、兵を動員できる強さだけが評価される世界だったというわけです。
秀吉は国内をずっと力でまとめてきたため、これからも力を示し続けない限り地位が危うくなります。外国に通好を求めて相手にされなかったとき、強気に出なければ国内になめられる、という状況でした。
楊さんは、武威の論理は現代企業の「売り上げ」とほぼ同じだと話します。売り上げで存在価値を示してきた会社が、外圧なしにウェルビーイングのような別の軸へ自ら変わるのは相当難しい、という指摘です。
秀吉の場合、外部の明は力で屈服させられない相手でした。本来は別の論理で向き合うべきところを、力の論理のまま進んだことで「バグっていく」と楊さんは表現します。
楊さんは、売り上げのために不正をして信頼を失う現代の企業も、100年後には「認知症でもない限りできないほどバカ」と言われるかもしれないと話します。そのうえで、当事者はおそらく大真面目にやっていて、そこから逃れるのは難しい、というのが楊さんの主張です。
ルールが変わってるのに力で屈服させられないから、もっと力を、もっと攻撃を、もっと威張って大きく見せるみたいなものがどんどんどんどんエスカレートしていくっていうのは、僕らの世界でもあるなと思って。
楊さんは、成功体験を再現しようと同じ論理を追い続け、外部のルールが変わったことで失敗していくモデルケースだと応じます。ただし、秀吉がルールを切り替えていたら内部がどう反応したかはわからず、切り替えは非常に難しいとも付け加えています。
秀吉だけがめっちゃエネルギーを継続するんだけれども、現場に派遣された武将たちがだんだんだんだんとテンションが下がっていって、そこの乖離が社長である秀吉との間でどんどんどんどん大きくなっていくんですよね。
楊さんは、現場の武将たちはシンプルにしんどく、何のためにやっているかわからなかったと説明します。ノルマに追われる社員や、責めたくないのに部下を責めるミドルマネージャーのように、朝鮮出兵は「すごい株式会社っぽく」なっていくといいます。
板挟みの宗氏。「おめでとう」が従属に見えたすれ違い
明が応じないことから、秀吉は明へ攻め込もうと考え始めます。楊さんは、理屈で考えればやらないほうがよいことはかなり明らかで、それでも延長線上で進めてしまったのだと話します。
秀吉はまず、朝鮮や明との関係を持つ対馬の宗氏に、朝鮮へ「挨拶に来い」と伝えさせようとしました。宗氏は朝鮮や明の実情を秀吉よりよく知っていたため、この要求がどれほど無理なものかがわかっていました。
それでも宗氏は交渉を重ね、天下統一を祝う通信使を朝鮮から派遣させることに成功します。通信使は聚楽第 ── 豊臣秀吉が京都に築いた邸宅兼城郭。政庁としても使われ、天皇の行幸や外国使節の謁見の舞台になりましたで秀吉と謁見しました。
天下統一を祝われたことで、朝鮮が自分に従属したと受け止めた
宗氏にうるさく頼まれたので、ただ祝意を伝えてあげただけだった
楊さんは、これを完全なディスコミュニケーションだと表現します。日本の常識では従属に見えても、朝鮮にその意図はありませんでした。
その宗氏はもう板挟みになってるから、なんとか両方を刺激しないように国書を改ざんしたりとか、色々工作をしたんですよね。
楊さんによると、断交になれば宗氏自身が秀吉に首を切られるかもしれず、秀吉の言葉をそのまま伝えるわけにはいきませんでした。樋口さんはこの立場を「中間管理職」と一言でまとめています。
文禄の役。2か月で漢城陥落、秀吉は舞い上がる
朝鮮を臣下にしたと思い込んだ秀吉は、朝鮮に「一緒に明を攻めよう」と持ちかけます。明を宗主とあおぐ朝鮮にとってはありえない話で、朝鮮は当然これを明に伝えました。
秀吉は、黒田長政、小西行長、加藤清正ら自分が育てた武将に、佐賀県唐津市の名護屋に名護屋城を築かせます。愛知の名古屋ではなく、佐賀の名護屋です。
名護屋城を拠点に、宇喜多秀家を総大将とする15万とも16万とも言われる軍勢が朝鮮へ送られました。これが文禄の役 ── 1592年に始まった豊臣秀吉による1回目の朝鮮出兵。文禄元年に始まったためこう呼ばれ、朝鮮では壬辰倭乱と呼ばれますで、秀吉自身は名護屋城で指揮を執りました。
当時の日本軍は非常に強く、朝鮮国王は逃げ、王宮は民衆によって略奪・放火されました。朝鮮の王子2人も日本軍の人質になったと樋口さんは補足します。
最初の一発で結構いい成果を出すんですよね。秀吉側にとっては。朝鮮の国王ももう逃げるし、朝鮮の宮殿もなんか朝鮮の民衆によって略奪されて放火されたりとかして。で、これに秀吉めっちゃ喜ぶんですよ。
テンションが上がった社長が俺も現場に行くぜみたいな熱量なんですよね。
楊さんは、長く統一されていた文官の国である朝鮮に対し、戦い続けてきた日本は強かったのだろうと話します。朝鮮側の感覚は、元寇で九州も落ち、京都まで落とされるような恐怖に近いのではないかという例えも出ました。
天皇を北京へ、自分は寧波へ。「大唐関白」という夢物語
漢城陥落の知らせを受けた秀吉は、まだ明に攻め込んでもいないのに、明を取った後の「国割構想」を発表します。天皇を明の首都北京に移し、甥で養子の豊臣秀次を「大唐関白」として政務に当たらせるという内容です。
日本には親王を置き、関白には秀康か宇喜多秀家を就けるとしました。秀吉自身は、日明貿易で日本船の指定港だった寧波に住むつもりだったといいます。
上海よりも南の方の都で、港、貿易港を持ってたんですね。で、室町時代に日明貿易が行われてた港で、日本からの船の指定港だったんですよね。
まあでも地方の会社がめっちゃ成功して東京に本社を移すみたいな感覚。
楊さんは「もっとすごい」と返し、絵面が夢物語っぽいと話します。「大唐関白」という肩書きは、後漢の黄巾の乱 ── 後漢末の184年、張角が率いた太平道の信者による農民反乱。黄色い頭巾を目印としたためこう呼ばれますで使われた派手な役職名と同じセンスに感じるといいます。
楊さんの見立てでは、律令制度の劣化版で運営していた日本の関白制度で、中国を統治できるはずがありません。現実を理解していない人が、現実感のない大構想を描いていたように見えると楊さんは語ります。
秀吉は自ら朝鮮に渡ろうともしましたが、徳川家康と前田利家が必死に止めました。現地では水が合わずに病死する人も多く、高齢の秀吉が死ねば何が起こるかわからなかったためです。
楊さんは、この時の秀吉の万能感を、経営者が「自分なら政治もうまくできそう」と思う感覚に近いと例えます。そのうえで、経営者や秀吉をばかにしているのではないと強調します。
楊さんによれば、自分もこの構造に絡め取られているという自覚からしかメタ認知は始まりません。上司や経営者をばかだと言う人ほど同じ構造にはまっている、と楊さんは念を押しています。
李舜臣の反撃と、秀吉が突きつけた講和条件
樋口さんは、秀吉の動機には別の説もあると紹介します。明を丸ごと乗っ取るのではなく、沿岸部の一部の割譲を受けて貿易利権を握るという、現実的な目標だったのではないかという説です。
押される一方だった朝鮮は、ここから反撃に出ます。李舜臣 ── 朝鮮王朝の武将で、日本では「りしゅんしん」とも読まれます。朝鮮出兵で水軍を率いて日本水軍を破り、韓国では救国の英雄とされています(イ・スンシン)が率いる朝鮮水軍が、屋根付きの亀甲船などを使って日本水軍を撃破しました。
楊さんは、水軍を失ったことで補給や増援が難しくなり、戦況が大きく変わったと説明します。李舜臣は現在の韓国で英雄とされ、釜山には大きな全身像があるといいます。
日本軍も苦境に立ち、明との講和交渉が始まります。明の使節が名護屋城を訪れた際、秀吉は7か条の要求を示しました。
| 分野 | 要求 | 楊さんの見方 |
|---|---|---|
| 明に対して | 皇女を天皇の后にし、日明貿易を再開する | 勝者としての要求 |
| 誓いの交換 | 両国で誓詞を交わし、朝鮮の重臣にも出させる | 臣従を誓わせる発想 |
| 朝鮮に対して | 半島南部の割譲、王子と大臣の人質 | 戦国時代の日本のやり方 |
楊さんは、これもVの論理、つまり武威の論理だと言います。全員で殺し合ってきた戦国日本では自己主張が激しいのが文化で、統一されてルールが守られていた明や朝鮮とはかみ合いませんでした。
樋口さんはさらに、国民国家以前の時代には国と国の境界線が今ほど明確ではなかったという本の指摘を紹介します。領土の割譲や大臣の人質を平気で要求できたのは、その世界観も一因かもしれないといいます。
偽の国書でつないだ和平は、なぜ再び決裂したのか
勝者として臨む秀吉に対し、日明双方の交渉担当者は、こんな条件を明の皇帝が飲むはずがないとわかっていました。明の皇帝も、折れれば体制が揺らぐため引けません。
日本側で折衝にあたった小西行長は、窮余の策に出ます。秀吉が降伏の意を示したという文書を偽作して明の皇帝に届け、明からは秀吉を日本国王に任命する形の文書を秀吉に持ち帰ったのです。
日本側と明側両方の折衝担当者が多分話し合ったんでしょうね。話し合って、ちょっとこういう感じに演出しましょうかみたいな。
当時の秀吉は、交渉が進まないため再出兵を計画していました。偽作を受けた秀吉は再出兵を撤回しますが、新たな条件として朝鮮王子の人質や、朝鮮南岸の15城のうち10城の破却などを求めます。
そうね、なんかもう極道の世界みたいな感覚があるな。
結果として秀吉は日本国王の認可を正式に受け、家康や利家、宇喜多秀家、上杉景勝、毛利輝元ら大名も明の官職を授かりました。明の皇帝の部下になることを意味しますが、秀吉もそれで良しとしたといいます。
ところが、秀吉が求めた朝鮮王子の人質は差し出されませんでした。講和は決裂し、秀吉は再び軍を送ります。これが慶長の役で、朝鮮では丁酉再乱と呼ばれます。
秀吉も明もお互い自分が勝者のつもりで交渉に臨んでたわけなんですよね。
10万以上の兵力を動員しまくってるんですよね。で、全く成果がないんですよ。
楊さんが「サンクコスト」と言うと、樋口さんは、名目だけでも朝鮮を服属させないと秀吉自身の威信と足場が揺らぐ、という焦りがあったのではないかと話します。
慶長の役の泥沼と、石田三成に集まるヘイト
2回目の出兵である慶長の役は、小早川秀秋を総大将に14万の軍勢で朝鮮半島南部の確保を狙いました。恩賞として与える領地を得たかったのだろうと楊さんは話します。日本軍は戦功の証に朝鮮人の耳や鼻を切り落として送っていたことにも触れています。
加藤清正は蔚山に城を築く最中に明・朝鮮の軍勢に囲まれ、籠城します。寒さと食料・水の不足で死ぬ思いをし、戦線縮小を望むほどでしたが、秀吉は言語道断として許しませんでした。
日本から送られた戦目付という監視役は、現地の消極的な様子を秀吉に報告し、秀吉が本国から叱責しました。その監視役のボスが、日本に残ってロジスティクスとマネジメントを担っていた石田三成です。
秀吉の厳命
現地の戦線縮小を許さず、本国から叱責する
戦目付の報告
監視役が現地の様子を秀吉に伝える
武将の不満
秀吉に文句を言えない加藤清正らの怒りが監視役に向かう
三成への集中
出兵していない大ボスの石田三成にヘイトが溜まる
楊さんは、三成は真面目に仕事をしていただけだと話します。ミドルマネージャーにある程度ヘイトが集まるのは避けがたいものの、秀吉はそれを加速させてしまった、自分に集めるか分散させるべきだった、という見方です。
慶長の役の成果は、連れてきた陶工によって薩摩焼 ── 鹿児島県の陶磁器。朝鮮出兵の際に島津氏が連れ帰った朝鮮の陶工たちによって始まったとされますや唐津焼が生まれたことくらいで、武士には何の利益もありませんでした。
前後7年に及ぶ朝鮮の出兵によってですね、国内からもちろんその百姓とかも動員されてるんですよね。
納得感ゼロで社長だけがめっちゃイケイケドンドンで盛り上がってて、資金とかむちゃくちゃ溶かしたビッグプロジェクトなんですよね。
樋口さんによると、国内の農地は荒れ、大名同士の対立も生まれ、豊臣政権の没落を早めることにつながりました。この石田三成への恨みが、後の関ヶ原につながっていく伏線になります。
究極の権力者はなぜバグるのか?秀吉の認知の変化
楊さんは、昔の秀吉ならここまでしなかったのではないかと話します。理由の1つは、四国などでも現地に行かなかったものの、ここで初めて本当に肌感のない戦争をしたことです。
もう1つは、武威の論理で頂点に立った秀吉に、意見を言える人がほぼいなくなったことです。信長という強いトップの下で優秀なミドルマネージャーだった秀吉は、ボロクソ言われながら頑張る謙虚なスタイルでしたが、そのトップがいなくなりました。
信長の下の優秀なミドルマネージャー。謙虚で、金を渡し言葉で士気を上げるなど硬軟両方を使えた
頂点に立ち誰にも諫められない。力で言うことを聞かせる一方になり、柔らかいやり方が消えた
樋口さんは、秀吉の権力は当時の日本では前人未到で、どんなバグが起こるか誰にもわからなかったと続けます。楊さんも、秀吉を愚かだと考えるのは人文知から遠いと言い、皆からかしずかれて認知がバグらないのは難しいと話します。
楊さんの推測では、壇上でかしずかれる儀式を重ねるうちに、秀吉は「俺がやった」という感覚へ少しずつ塗り替えられていきました。千利休を切腹させたのもこの頃で、気に食わない者を殺すようになっていたといいます。
でももう最高権力になっちゃったから、もういくらでもね、殺したってね、俺なんともないっていう理解になったかもしれない。
楊さんは、立派な人物だったが最高権力を持つ器はなく、それを見ていた家康が学ぶ構図になると話します。樋口さんは、家康はそれを仕組みで解決していくと付け加えました。
秀次事件。後継者一族40人の処刑は何を意味したのか
朝鮮出兵と並行して、秀吉はもう1つ大きな事件を起こします。待望の嫡男、鶴松は朝鮮出兵の直前にわずか2歳で亡くなり、60歳ほどだった秀吉は、甥の秀次に関白職を譲って後継者としました。
ところがその直後、後の秀頼となる拾(ひろい)が生まれます。拾が2歳の時、秀吉は突然、謀反を疑って秀次に激怒しますが、その理由は実はよくわかっていないといいます。
突然の激怒
秀吉が謀反を疑い、秀次の弁明を受け入れない
出家と出奔
秀次はまげを切り、高野山へ逃れて許しを請う
切腹
それでも許されず秀次が切腹する(命じられたという説もある)
一族処刑
幼児を含む秀次の妻子ら40人が処刑される
楊さんは、秀次が継いでいれば別の問題は起きたにせよ、幼い拾が後継者になったことで後々多くのことが起こったと話します。自分で自分の補佐役を殺してしまったというわけです。
楊さんの見立ては、前人未到の万能感を受け止める帝王学や儒教のような教育を受けていなかったために、バグり続けたというものです。
これは完全に学術の裏付けのない僕の想像なんですけれども、秀吉もなんとなく自分の周りの奴らの自分に対する雰囲気が変わったんじゃないかなって感じてるかもしれない。
40人ね、処刑するって40人殺せるっていう力を見せつけるっていう効果があると思うから
樋口さんは、失敗した社長が役員会の空気を察してさらに怒っていく場面を実際に見たことがあると話します。楊さんも、攻撃性は基本的に防御反応であり、秀吉は自分の地位を守ろうとしたのだろうと応じています。
五大老と五奉行に託した、秀頼を守るための遺言
秀吉は幼い拾を秀頼と改め、数え6歳で権中納言という高い位に就けて後継者の立場を固めます。その頃から秀吉の体調は悪化していきました。
1598年、大規模な花見の頃から体調を崩し、3か月後には重篤になります。死期を悟った秀吉は諸大名を集め、秀頼への忠誠を誓う起請文 ── 神仏に誓って約束を守ることを記した文書。違えれば神罰を受けると記し、武家の誓約に広く使われましたを出させました。
さらに病床の秀吉は、秀頼が成人するまで政権を保つため、後に五大老五奉行制と呼ばれる体制をつくります。楊さんはこれを現代の会社組織に例えて説明します。
| 役割 | 顔ぶれ | 会社での例え |
|---|---|---|
| 豊臣家 | 秀頼、淀殿 | 取締役会 |
| 五大老 | 徳川家康、前田利家、毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家 | 顧問・重要な社外取締役 |
| 五奉行 | 前田玄以、浅野長政、増田長盛、石田三成、長束正家 | 執行役 |
秀吉は、信長の時代を共に生きた家康と利家に特に「頼む」と託し、茶器や名刀、黄金などを贈って遺言を残しました。樋口さんらしき出演者は、秀頼と重臣たちの力の差を理解していた秀吉が、重臣たちの気持ちにすがるしかなかったのではないかと見ています。
こうして体制を築いて亡くなるのが秀吉の一生だと楊さんはまとめます。次回は、秀吉の死後に関ヶ原の戦いがどういう経緯で起こるのか、石田三成をめぐる対立も含めて語られる予定です。
まとめ
朝鮮出兵は、天下統一を支えた武威の論理を、力で屈服させられない国外にもそのまま当てはめたことから始まり、現場の疲弊と大名間の恨みを残して終わりました。楊さんたちはそれを秀吉個人の愚かさではなく、成功体験と最高権力が生む誰にでも起こりうるバグとして読み解いています。
- 秀吉は国内をずっと力でまとめてきたため、明や朝鮮にも力の論理で臨むしかなく、それが外交のすれ違いを生んだ
- 宗氏や小西行長ら間に立つ担当者は、国書の改ざんや偽作で破綻を避けようとした
- 慶長の役は成果に乏しく、現地の武将の不満が石田三成に集まり、後の関ヶ原の火種になった
- 諫める人がいない究極の権力は認知をゆがませ、秀次一族の処刑にまで至った
- 楊さんは、この構造を他人事としてばかにせず、自分も絡め取られうると自覚することが大事だと強調した





