讃岐への赴任は左遷だったのか?
菅原道真は、讃岐国に移されます。讃岐国は今の香川県です。役職は今でいう県知事にあたり、その地域を統治する最高責任者でした。
この讃岐赴任には左遷という説もあります。ただ、楊さんによると、今の通説では左遷ではなかったと考えられています。
当時は地方の律令制が緩み、税金が集まらない、農民が逃げるといった課題が出ていました。道真は紀伝道 ── 中国の歴史や文学を学ぶ大学寮の学科。漢詩文に通じた人材を育て、文章博士などの官職につながりました出身の実務官僚のエースとして、この課題に対応するために送られたとみられています。
讃岐は統治エリアとしての重要度も高く、多くの税収が見込めました。讃岐の担当を経験したあとに内閣入りした人も多かったそうです。
中央から地方へ飛ばされたとみる説
地方統治の課題に対応するため、実務官僚のエースとして重要な国へ派遣された
送別会で嗚咽した道真の都への執着
讃岐赴任が左遷でなかったとしても、菅原道真本人はとても嫌がりました。道真は平安京で生まれ育ち、京都の中央政治に関わることを自分の存在意義だと考えていたといいます。
もう地方の役人になることは、もう菅原家の先祖代々のやる仕事じゃないよっていう不満まで言い切ってるんですよ。
当時、都を離れることは、今よりずっと断絶に近い感覚だったと楊さんは話します。私塾の菅家廊下 ── 菅原家が開いた私塾。多くの門人が学び、道真の父祖の代から学者を輩出する拠点でしたも放っておくことになり、家族のことも心配でした。この時の道真はすでに42歳を超えていました。
あら、僕と同級生。
送別会では、太政大臣の藤原基経が漢詩を詠み、道真にも詠むよう促します。けれど道真は一声を発しただけで涙を流し、嗚咽するばかりだったと伝わっています。
あ、読めんかったん?うわぁ。
家に帰っても一晩中眠れず、病気のように胸が塞がったことを、道真はのちに自分で漢詩に詠んでいます。
嫌でも手を抜かない讃岐での仕事ぶり
菅原道真は、讃岐に3年余り赴任します。その間、都が恋しい、宮中で詩を詠みたいという漢詩を次々に書きました。夢の中で都の家に帰る詩もあります。
一方で、讃岐での仕事はきちんとこなしました。人事で評価されたいという気持ちもあり、中国の優秀な官僚の話を引いて、自分を奮い立たせていたようです。
嫌ではあったけれども、仕事を放棄をしないんですよね。
讃岐では、本来いるはずのナンバー2が都から来ませんでした。道真は右腕がいない状態で、次のような幅広い業務を担っていたと記録に残っています。
不正をはたらく現地の役人を、道真は漢詩の中で「穢れた蠅」と呼んで批判しました。本人には抜群の成績を出せた手応えはなかったものの、人事評価ではしっかり評価されたそうです。
帰京した道真が天皇の宴で詠んだ直訴の詩
讃岐での勤務を終えた菅原道真は、帰りたすぎて引き継ぎもせずに都へ戻ってしまいます。細かく真面目な道真らしくない行動で、楊さんはそこも魅力だと話します。
都で天皇のプライベートな宴に特別に招かれた道真は、「私を地方に飛ばさないでほしい」という趣旨の漢詩を詠みました。
ストレートやな。
天皇の宴で詠む漢詩は、天皇を讃えるのが常識でした。楊さんによると、こうした宴は遊びではなく、天皇を頂点とする国家体制にみんなが賛同していることを確かめる政治の場でした。
その場で人事への不満を詠んだのは異例ですが、それほど都で天皇のために詩を詠み続けたいという気持ちが強かったと考えられます。
事前に提出したセットリストを変えたんでしょって、急に。
宇多天皇のもとで始まった出世街道
この宴のあと、菅原道真は出世街道を突き進みます。そのときの天皇が宇多天皇で、楊さんは重要人物だから覚えてほしいと話します。学問や芸術を好む宇多天皇と道真は、とても波長が合いました。
宇多天皇の側にも、道真を取り立てる理由がありました。宇多天皇はいったん皇族を離れて源氏になり、後継ぎのピンチヒッターとして皇族に戻った人で、権力基盤が弱かったのです。そこで私的な宴を頻繁に開き、側近集団をつくりました。
道真には役職が次々に与えられました。内閣の事務方の中枢、省庁のナンバー2、天皇に学問を教える役、当時最も忙しい省庁だった民部省の長官などです。さらに蔵人頭 ── 天皇の秘書官の筆頭。天皇の意思を官僚に伝える役で、家柄の高い貴族が就くのが通例でしたにも抜擢されます。
家柄が問われ、天皇の最も近くで動く蔵人頭にはリスクがあると感じたのか、道真は辞退を申し出ます。しかし宇多天皇の答えは「ダメ」でした。
俺のそばに、私のそばにいて。じゃないかなと思いますよ。
道真は、200巻ほどある歴史書『類聚国史』の編纂にも関わりました。部門別に分類されて事例を探しやすく、政治実務のマニュアルとして使われた書物です。
優秀な人に仕事が集まるのはいつの時代も同じ?
菅原道真に仕事が集中した理由について、楊さんはスタートアップの例えを出します。人を十分に採用できないとき、仕事をどんどん飲み込める人に仕事が集まるという構図です。
ここで、1回目で話した「貴族の中にも能力差がある」という話がつながります。得意分野も人によって違い、漢詩でも今のスタイルは得意だが昔のスタイルは苦手という人がいました。
菅原道真は、漢詩も和歌も、どの時代のスタイルの漢詩もすべてこなせたそうです。一方で、身分だけ高く実務能力のない貴族もたくさんいました。出自で位が自動的に上がるため、能力とのギャップが生まれていたのです。
いつの時代にも、はい。
娘を皇族に嫁がせた道真を動かしたものとは
菅原道真は最終的に内閣入りします。さらに、娘2人を皇族に嫁がせ、宇多天皇と姻戚関係を結びました。1人は宇多天皇の女御に、もう1人は宇多天皇の息子の后になりました。
道真がここまで働いた動機は、漢詩から読み取れます。楊さんによると、それは出世と子どものためでした。あくせくするのは名誉と利得にとらわれているから、そして子どもたちの将来を案じるからだと、道真自身が詠んでいます。
自分で言ってるんや。
夏の暑さを詠んだ漢詩もあります。火鉢の中のような蒸し暑さより世の中を渡るほうが険しいが、子どもがいるから逃げられない、自分は暑さに苦しむ凡庸な学者だ、という内容です。
なんか卑屈やな。卑屈じゃない?なんかそこまで言わんでいいのに。
書斎への乱入に苛立つ漢詩から見える性格
菅原道真は人付き合いが少し苦手で、神経質で繊細だったと書く本もあります。その性格がよく表れているのが、書斎を訪れる人たちへの苛立ちを詠んだ漢詩です。
この漢詩では、親しくもないのに親しげに話しかけてくる人、断りなく大事な本を開く人、机を削ったり本に落書きしたりする人、抜き書きしたカードを持ち出す人への苛立ちが並びます。
道真は一度締めたあとも止まらず、友人との会話に割り込んでくる無神経な人への不満まで書き足しています。それでも、書斎への立ち入りを全面禁止すると立派な人まで来なくなるのが心配だと続きます。
詩の最後は、私を理解してくれる人はせいぜい3人ぐらいしかいないという言葉で終わります。
僕もなんかあの自分のペースを乱す感じで人が来られると嫌なんですよね。うん。でも彼はものすごく嫌だったんでしょうね。
出演者の間では、自虐やユーモアを感じるという受け止めと、純粋な嫌悪感かもしれないという見方の両方が出ていました。
官僚としての道真は何をしたのか?
菅原道真が官僚としてどんな仕事をしたのかについて、楊さんの答えは「わからない」でした。就いた役職や業務はわかっていても、政策にどう関わり、どんな制度を設計したかという記録が残っていないのです。
道真の活躍した前後で、地方行政や税制などの国家システムが変わった部分はあります。ただ、それを道真の業績と結びつける論拠は弱いと楊さんは話します。内閣にいた以上、関わっていたはずだと推測する学者もいます。
「譲位?今でしょ!」天皇の個人顧問という役割
菅原道真の役割は、宇多天皇の個人顧問、つまりメンターのような存在でした。宇多天皇が皇太子を決めたとき、相談したのは道真ひとりだったといいます。
道真は皇太子の事務局のナンバー2になり、宇多天皇から皇太子の学問の教育も頼まれます。しかし道真は多忙を理由に断り、教育係を弟子に任せました。天皇に対しても意見が言える関係だったことがわかります。
我が君、少々お待ちを。ちょっとマジで多忙なので、さすがにやばいですって道真は言う。
宇多天皇から息子の醍醐天皇への譲位にも、道真は関わっています。宇多天皇は息子への継承の既成事実を早く作りたく、譲位のタイミングを道真に2回相談しました。
1回目の相談
道真が「時期尚早」と止める
2回目の相談
譲位が世間の噂になり、宇多天皇は延期を考える
道真の後押し
噂になった今、中止するほうが危険だと進言する
譲位の断行
宇多天皇が醍醐天皇へ譲位する
で、道真がですね、いつ譲位するの?今でしょ?っていう風に背中を押すんですよ。
道真は天皇だけでなく、最高権力を握る藤原氏にも、言うべきことは言い、諫めるべきことは諫めました。宇多天皇も、道真から多くの諫めを受けたと自ら述べています。
楊さんは、この振る舞いが古代中国の諸子百家 ── 春秋戦国時代の中国で活躍した思想家たちの総称。孔子や孟子などが王に政治のあり方を説きましたに似ていると話します。中国の思想を深く学んだ道真が、それをロールモデルにしたのかもしれません。
鷹狩りと遣唐使。道真はどう諫めたか
宇多天皇は殺生を禁じる命令を出しながら、翌年に自分の楽しみのために鷹狩りに出かけました。菅原道真は、自分で禁止したのになぜやるのかと諫めています。
遣唐使の派遣でも、道真は待ったをかけました。外交の主導権を藤原氏から取り戻したい宇多天皇は、唐からの要請を受けて、内閣にあまり相談せずに派遣を決めます。大使に選ばれていたのは道真でした。
道真は、唐が衰えて内部が混乱しているという情報が届いているのに検討しないのかと指摘し、実現可能性をみんなで考えるよう提言しました。
授業では「道真が遣唐使をやめさせた」と習うことが多いものの、最新の学説は違うそうです。道真の提言で計画は撤回されず、模索が続くうちに唐が滅び、自然に流れたとされています。
道真の提言で遣唐使が取りやめになった
道真は再検討を提言したが、計画は模索され続け、唐の滅亡で自然に流れた
検税使の派遣に反対した理由と、生まれた敵
もう一つの例が検税使 ── 中央から地方へ派遣され、国の倉庫にある稲などの現物と帳簿が合っているかを監査する役職の派遣問題です。宇多天皇の発案とみられ、一度は閣議で派遣が決まりました。
当時、地方の倉庫の稲と帳簿がずれているのは普通のことでした。現地の役人の判断で、税として納めるはずの稲を民衆に貸し出し、翌年に利息を受け取る運用が定着していたからです。
現場の運用
税の稲を民衆に貸し出し、利息を取る形で回っていた
帳簿とのずれ
倉庫の現物と帳簿が合わない状態が普通にあった
監査の結果
検税使が行けばずれが見つかり、現地の役人が罰せられる
道真の判断
実態を無視した悪手として再検討を求める
菅原道真は、地方勤務の経験が豊かな官僚にヒアリングし、反論されないよう理論武装したうえで再検討を願い出ました。決まったことを覆す行動でした。
こうした実直さに信頼を寄せる人もいれば、反発する人もいました。道真と仲の悪い貴族は、道真を危険人物だと本に書いています。
でもこのムーブしたらそういう勢力絶対出てきちゃうよね。
でも出自はね、低いんです。
右大臣へ。その先の転落と天才の孤独
菅原道真はついに、国家官僚のナンバー2である右大臣になります。そしてそこから転落していくことが、次回の最終話で語られます。
楊さんは、周りを理解してくれる人は3人ぐらいという道真の言葉も、的外れではないかもしれないと話します。抜群に優秀だからこその孤独があったのではないか、という見方です。
そういう孤独感って、僕は天才じゃないからわかんないですけど、やっぱあるんじゃないかなと思うんですよね。自分だけ全部見えてる。
深井さんは、樋口さんも収録前に「なんでこんなことがわからないんだろう」と言っていたと振ります。
そうですね、それは思いながら生きてきましたね。
まとめ
讃岐赴任で号泣した菅原道真は、嫌な仕事でも手を抜かず、帰京後は宇多天皇の側近として出世しました。天皇にも藤原氏にも私心なく意見する姿勢は信頼を集める一方で、敵も生みました。次回はいよいよ転落の話です。
- 讃岐赴任は左遷ではなく、実務官僚のエースとしての派遣だったとする見方が通説
- 道真は都への執着を漢詩に詠みながらも、地方の仕事はきちんとこなした
- 宇多天皇の個人顧問として、譲位のタイミングや遣唐使、検税使などで率直に意見した
- 遣唐使は道真の提言で止まったのではなく、唐の滅亡で自然に流れたというのが最新の学説
- 実直な諫言は信頼と同時に反発も生み、道真を危険人物とみる貴族も現れた





