墓をつくる一族は、なぜ苗字を変えたのか
コテンラジオの菅原道真編は、第1回で大学寮や律令の統治システムといった「構造」の話をしました。楊さんによれば、菅原家は大学寮の中でも、歴史と漢文学を学び実務の現場へ入っていく紀伝道という学科から出てきた一族です。
第2回の楊さんは、道真を理解するために、まず菅原家の起こりから話を始めます。菅原家はもともと菅原ではなく、「土師(はじ)」という名前の一族でした。
土師氏は、天皇など身分の高い人々の墓を作り、管理し、葬儀にも深く関わる技術者集団だったといいます。天皇の墓や葬式は権威を形にする代表的なものであり、土師氏はその中心を担っていました。
ところが、天皇の葬送のあり方が変わっていきます。仏教の影響で火葬が広まり、負担軽減のために儀式も簡略化されていきました。
さらに、死を穢れ ── 古代日本で、死・出産・病などに触れることで生じると考えられた不浄。穢れは人から人へ、空間を通じて移ると考えられ、平安時代には特に強く意識されましたとして避ける意識が強まり、遺体が置かれた空間や、そこに出入りした人まで穢れるという感覚が広がっていきました。遺体に直接触れ、遺体の安置された場で食事を作っていた土師氏には、ネガティブなイメージが付いてしまいます。
そこで道真の曾祖父である菅原兼人が、一族15人を率いて天皇に改姓を願い出て、認められました。新しい苗字の菅原は、本籍地だった現在の奈良市菅原町に由来するそうです。
ひいじいちゃんのジョブチェンジと、祖父の大出世
菅原家の運命を変えたのは、この曾祖父でした。曾祖父は葬送のスペシャリストをやめ、学問を頑張って一般の官僚の道を歩む、いわばジョブチェンジを選びます。
曾祖父はある程度出世したものの、暮らしは貧しく、子どもたちは苦労したといいます。それでも曾祖父の死後、桓武天皇から息子4人に奨学金や衣服が与えられ、子どもたちは学問を続けられました。
その息子の一人が、道真の祖父菅原清公(書き起こしでは清房)です。祖父は儒学を修めた官僚として出世し、公卿 ── 朝廷の最高幹部層にあたる上級貴族。国政の重要な審議に参加しました、今でいえば内閣に入るところまで上り詰めました。
楊さんが重要な点として挙げるのは、祖父が大学寮の紀伝道を受験して合格し、そこから官僚デビューしたことです。貴族が大学寮で学んで出世するケースはそれまであまりなく、祖父は紀伝道出身官僚の先駆けだったといいます。
紀伝道がこの時期に盛り上がった背景には、唐の制度や学問・文化をあらためて実装しようとする天皇の唐風化政策 ── 中国・唐の制度や文化を積極的に取り入れようとした平安初期の政策。儀式や建物の名称まで唐風に改められましたがありました。その流れの中で大学寮も重視され、以後、紀伝道出身の官僚グループが政治力を持っていきます。
祖父はさらに、紀伝道の最高責任者である文章博士 ── 大学寮で紀伝道(歴史・文学)を教える教官の最高位。楊さんは「東大文学部の学部長」にたとえていますに就き、この地位は菅原家に引き継がれていきます。
祖父は遣唐使にも選ばれ、同じ船には最澄が、別の船には空海が乗っていたといいます。楊さんが「最澄とコテンラジオの話をしたんじゃないか」と冗談を言うと、深井さんはすかさず否定しました。
絶対してないでしょ。
祖父のもう一つの功績が、菅原家の私塾「菅家廊下(かんけろうか)」です。楊さんは、官僚志望者向けの受験予備校のようなものだと説明します。紀伝道から出世できると知られるにつれ、中級・下級貴族がこの私塾に集まるようになりました。
(大学寮を)出たらいいとこ行けて、そのための予備校とかが出て。普通に大学っぽいな。なんか。
三代続く秀才の家に生まれる重圧とは
道真の父について、楊さんは親しみを込めて「パパ真(ざね)」と呼びます。父は早熟の天才、神童と呼ばれ、祖父から文章博士を引き継ぎ、多くの弟子を政治家に送り出し、国家運営のボードメンバーにも加わりました。
楊さんは、ここまでの菅原家を「律令制を足場に、出自の壁を世代間の積み重ねでじっくり突破していった人たち」とまとめます。公的には大学寮のトップ、私的には私塾の経営者という二つの顔を持つ家でした。
深井さんは、この家に生まれる道真の重圧に注目します。
おじいさんとお父さんと道真の3人とも群を抜いて勉強ができる人だったっていう。で、私塾開いてそこから輩出してるから、もうプレッシャーあるもんね。
歌舞伎役者はまだ競争がないけど、これはさ、ほら、学力の競争できちゃうから。
(道真が)強くないと、あそこの家の息子なのに強くないってことは、あの家の私塾ダメなん?みたいになるもんね。
実際、紀伝道の試験は並大抵ではありませんでした。楊さんによれば、道真の息子は大勢いたものの、官僚になるための試験に合格できたのは1人だけだったそうです。
しかも道真は一人っ子でした。最初からそうだったのか、兄が亡くなったのかはわからないものの、親からの期待と英才教育は「ヤバかった」と楊さんは話します。
パパ真の英才教育は、入試の「傾向と対策」を超えられたか
道真が勉強させられた最初の目的は、大学寮への合格でした。大学寮は中級・下級貴族の出世コースでしたが、生まれの高い道真は家の看板を背負って受験するため、他の受験生とは違う重圧があったといいます。
大学寮の入試では、字数制限や韻を守って漢詩を作る必要がありました。そこで父は自分の教え子を家庭教師につけ、道真の漢詩を鍛えます。
楊さんによれば、紀伝道はとりわけ狭き門でした。大学寮の明経道 ── 儒教の経典を学ぶ大学寮の学科が400名ほどを取るのに対し、紀伝道は20人しか取らず、欠員が出るたびに補充する方式だったといいます。
400名ぐらいを取る
20人しか取らず、欠員が出るたびに補充
そのため、紀伝道の受験勉強で一生を終える人もいました。深井さんは中国の科挙 ── 中国で隋から清まで続いた官僚登用試験。極めて難しく、生涯受験を続ける人も珍しくありませんでしたとの共通点を挙げ、樋口さんは受験生の年齢層に驚きます。
大学とイメージしちゃうと大学生ぐらいのイメージだけど、もうずっと年を取っても何回もチャレンジできるんや。
道真自身も不安を抱えていたと楊さんは話します。先輩の中には受験を続けたまま亡くなった人もいて、それを見て動揺したというのです。ただし深井さんが言うように、道真は若い頃から天才扱いされ、才能と英才教育という点でアドバンテージもありました。
道真は11歳で初めて漢詩を作ります。月夜の梅を題材に、月の光を晴れた日の雪に、梅の花を輝く星にたとえ、黄金色の月が夜空を動くにつれて庭の白梅が香ってくる、という内容です。
これピンインとかも理解してるってことだよね。多分韻踏まないといけないから。
楊さんによれば、当時は中国語の発音を教える先生もいました。父は試験の形式と傾向を踏まえた模試を毎日道真に課し、母も「学問の家である菅原の風を吹かせて合格してほしい」という趣旨の和歌を詠んでいたといいます。
こうして360度から期待をかけられた道真は、18歳で大学寮を受験します。ところが出題は、父の傾向と対策から外れたものでした。
一番の予備校のんじゃなかったんパパ、みたいな。
それでも道真は実力で合格をもぎ取ります。楊さんによれば、過去の合格実績から見ても18歳での合格は早いものでした。
論述試験「地震はなぜ起こるか」に道真はどう答えたか
紀伝道に入ってからの道真は勉強漬けでした。漢詩約800首・全30巻を収めた文選 ── 中国・南北朝時代に編まれた詩文集。日本の貴族教育で必須の教科書でした、『史記』を含む中国の重要な歴史書3つ(全350冊)を学び、しかも全部が漢文だったといいます。
大学寮の先には、さらに官僚登用のための方略試という試験が待っていました。受験資格を得るだけでも選ばれる必要があり、合格者はごくわずかだったと楊さんは話します。
方略試の準備でも父が登場します。父は、そこから多くの人が合格して飛び立った縁起のいい部屋を私塾の中で道真に与え、自分の文章執筆の仕事も手伝わせました。
道真は後年、この時期を振り返り、時間が足りず友人や妻子と会う暇もなく、とばりを下ろして儒教の本をひたすら勉強していたと書いています。
そんな中で道真は箏を習おうとしますが、才能がまったくなく、友人に「もうやめたら」と言われて諦めたそうです。この逸話に深井さんは好感を持ちます。
ここで才能があったらさ、箏までもう完全人間みたいになってくるけどさ、ここは才能がない。人間なんだなってね。
試験問題と道真の答案は今も残っています。一つは中国の古代の氏族について、もう一つは地震についての論述で、直前に三陸沖で大地震があったことを受けた時事問題だったといいます。
道真の答案は、儒教では君主への戒めとして地震が起こる、道教では大陸を支える亀が交代するときに起こる、仏教では大地の下の風が起こす、と各思想の説を並べるものでした。
亀が支えなかったらいいんじゃないかな。
道真は合格しますが、試験官のコメントは辛辣でした。前後の順序が整っていない、論理展開が不十分、事実誤認や誤字脱字がある、と指摘されていたそうです。
粉雪の朝に馬で通う、若手官僚の激務
合格した道真は若手官僚として政治デビューします。宮中の記録、人事や儀礼の実務、さらに戸籍・税・田んぼの管理など国家財政を担う民部省の仕事も経験しました。楊さんは民部省を今の財務省にたとえ、省庁の中で一番忙しかったのではないかと話します。
道真自身が漢詩でその日々を描いています。夜明け前の暗いうちに法で定められた服を着て馬で出勤し、粉雪が舞う中でお酒を少し飲んで体を温め、役所では凍えた手に息を吹きかけながら公文書の原案を書き続けた、という内容です。
酒飲んでんのだけ面白かった。温めるっていう理由で一杯やってから
楊さんによれば、当時の勤務は早朝から昼前までの5時間弱が基本でしたが、今と同じように残業もありました。道真も朝から晩まで駆け回り、人の顔色をうかがい、会釈して回る多忙な日々を送っていたといいます。
文章博士就任、父が恐れた「妬み」の正体
道真はやがて文章博士にまでなり、紀伝道のトップとして家業を継ぎます。周囲が祝う中、父だけは慌てて「その地位も給料も低くないからこそ、人はお前を妬むだろう」と忠告しました。父自身が中傷の中で仕事をしてきたからです。
楊さんは、菅原家がいい家とはいえ4代目程度にすぎず、天皇家や源氏、藤原氏とは格が違ったことも、周囲の貴族から攻撃された理由ではないかと考えています。
父の懸念は現実になります。講義を始めてわずか3日で非難され、推薦から外した学生からも悪く言われました。さらに、藤原氏の高官を揶揄する出来のいい漢詩が出回り、「作ったのは道真では」という噂まで立ちます。
道真は怒りを漢詩にしました。世間にはつまらない人間が多い、嘘で私の骨を溶かそうとするな、神に誓って自分ではないと証を立てても真犯人はほくそ笑んでいる、恥を知れ、という趣旨です。楊さんは、これを美しい文章で詠んでいる点が道真らしいと話します。
翌年には逆に、漢詩が下手だと批判されます。渤海使 ── 現在の中国東北部から朝鮮半島北部にあった国・渤海から日本に来た使節のリーダーと即興で漢詩を詠み合ったとき、道真の詩が文章博士にしては下手だと言われたのです。
道真はこのリーダーに「中国の漢詩に似ていてすごい」と褒められて大好きになり、絵師に肖像画を描かせて部屋に飾るほどでした。その大切な思い出の場を批判され、道真は再び漢詩でキレます。
文章博士に就任
父が「人はお前を妬むだろう」と忠告する
出来のいい匿名の漢詩
作者ではないかと疑われる
渤海使との即興の漢詩
今度は下手だと非難される
道真の反撃
怒りを美しい漢詩に詠み、他の学者も批判する
道真は下戸で酒が飲めず、怒りの漢詩はシラフで書いたものだと楊さんは話します。評価や中傷を過敏なほど気にしながらも、ひよらず、中身のない議論に明け暮れる知識人を「下手くそに歌うその口を閉じろ」とまで批判しました。
楊さんは、群れず、気に入らないことには歯に衣着せない道真の性格を、家柄や血筋のマウントが当たり前の貴族社会の中で、父がリスクと感じたとしても不思議ではないと見ています。
厳しい塾長が、息子の死に詠んだ漢詩
父の死後、道真は菅家廊下を継ぎ、教育者としても実績を上げます。父が亡くなった後の大学寮入試では、道真の弟子10人が紀伝道に合格しました。定員20名の半分にあたります。
道真は弟子に「できなくて顔を赤らめるより、死に物狂いで努力しなさい」「私の息子は4歳で読書を覚えた」と発破をかける漢詩も残しています。
一方で楊さんが紹介したいと語るのが、7歳で亡くなった息子阿満(書き起こしではアマロ)を悼む漢詩です。眠れず、眠れても夢に出てきて涙が止まらない、身長は去年の夏にこれぐらいだった、漢文も暗唱できるようになった、と道真は綴ります。
薬で痛みを抑えられたのは10日ほどで、仏も神も恨めしいと嘆き、息子の名を呼んで探し回る妹や、身をすり減らす妻の姿に耐えられないと詠みます。戸口の縁起物の弓矢、竹馬、ままごとで植えた花の種、壁に残る習字の跡と、描写は細やかです。
漢詩とか彼の漢詩がめちゃくちゃ解像度が高いんです。
いや、これすごいよね。1000年前の人の気持ちがここまでなんかダイレクトに(伝わってくる)。
気に入らないことには声を上げる攻撃的な道真が、子どもの死を前に打ちのめされる姿も、漢詩を読むことで想像できると楊さんは話します。樋口さんは、深井さんが同じ日にキャッシュレス非対応の店に怒っていたことを持ち出し、場を和ませました。
地方勤務で泣く道真へ、言葉が残すもの
次回は、道真が中央の肩書きを解かれて地方勤務となり、嫌すぎて泣いてしまうところから始まると予告されます。
楊さんは、当時の人は皆人間味があったはずだが、道真の場合はそれが残っていることがすばらしいと語ります。道真は大量の漢詩を書き、自分でアンソロジーのようにまとめて残しました。
楊さんは最後に、歴史に名を残したかったら、どんどんブログやnoteを書けと冗談めかして締めくくりました。
まとめ
菅原道真は、葬送の家から学問の家へと変わった一族の4代目として、重い期待を背負って育ちました。受験と激務、妬みと中傷の中で怒りも悲しみも漢詩に詠み、その言葉が1000年後の読者にも感情を伝えています。
- 菅原家の祖は墓づくりと葬送を担った土師氏で、穢れ意識の高まりを背景に曾祖父の代に改姓した
- 祖父が紀伝道出身官僚の先駆けとなり、文章博士の地位と私塾・菅家廊下が一族に受け継がれた
- 道真は父の英才教育のもと、傾向外の入試や方略試を突破し、激務の若手官僚時代を送った
- 文章博士就任後は妬みや中傷にさらされ、怒りを美しい漢詩で詠み返した
- 息子の死を悼む漢詩など、解像度の高い言葉が道真の人間味を今に伝えている





