ギリギリ貴族じゃない伊勢平氏はどこから来たのか
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この回は、前回の荘園の話を前提に、平氏の台頭を追う内容です。平清盛が出た伊勢平氏は、関東で起きた平将門の乱 ── 10世紀前半に関東で平将門が起こした反乱。朝廷への反抗として鎮圧され、以後の武士の歴史で象徴的な事件とされますを鎮圧した平貞盛の家系にあたります。
伊勢平氏の始まりは、平貞盛の四男である平維衡が伊勢に下って拠点を築いたことにあります。深井さんは「名前は覚えなくていい、ストーリーで理解してほしい」と前置きしています。
平維衡は摂関政治を行った藤原道長に仕えていましたが、伊勢の所領をめぐる紛争を起こし、しばらく政治的地位を低迷させます。一方、同じ武士でも河内源氏 ── 源氏のうち、河内地方を拠点とした一族。源頼朝もこの系統にあたりますは地方の反乱を次々に鎮圧し、貴族社会で注目されていました。
つまり、平将門の乱の次あたりの世代では、平氏より源氏のほうが格上だったわけです。深井さんは、この差がどこから逆転していくのかを起点に話を進めます。
当時の貴族社会には位階の序列がありました。五位以上が貴族で、六位以下は貴族ではないという線引きが五位にありました。河内源氏は基本的に五位以上で、国司にも任じられる貴族でした。
これに対し、この頃の伊勢平氏は六位ほどの位で、「ギリギリ貴族じゃない」人たちでした。樋口さんも「結構な差がある」と反応しています。平氏はこの位置からスタートします。
五位以上の貴族。国司にも任じられ、地方の反乱鎮圧で貴族社会に注目されていた
六位ほどでギリギリ貴族ではない。所領紛争で地位を低迷させた時期もあった
平正盛の飛躍を支えた「寺社の御神木デモ」
平氏を大きく飛躍させるきっかけをつかんだのが、清盛の祖父である平正盛です。平家物語によれば、平正盛は院の近臣である藤原為房や顕季らに仕え、白河院に接近するきっかけを得たとされます。
あの、なんかお付きみたいな、すごい人の。
上皇のお付きみたいな人に仕えるみたいな感じで、上皇に近づいていったわけですね。
正規ルートじゃなくてね。
接近のきっかけを得た正盛は、白河院に荘園を寄進します。これによってさらに昇進し、院の身辺を警護する北面の武士 ── 白河院が院御所の北側に置いた警護の武士。院に直属する武力として整えられましたになりました。
この頃、寺や神社が自分の持つ荘園を守るために院へ直接訴える動きが激しくなっていました。暴力は使わないものの、御神木を担いで京都まで行進し、権威を見せつける手法がとられていました。
御神木を見た貴族は謹慎して家に引っ込まねばならなかった、と深井さんは説明します。訴えの主体が興福寺や春日社で、これらが藤原氏の氏寺・氏社だったことが、この権威の背景にあります。
貴族の半分以上は藤原氏でした。そのため寺社側は「謹慎しないなら、お前の氏を寺社から削除するぞ」と社会的地位の抹消をちらつかせ、政治機能を止めさせることもできたのです。
デモやん。
デモですね。自分たちの利権を守る主張を、軍隊を伴った形で京都行進させて、上皇に示威行為を行うことで無理やり認めさせるわけです。
この寺社豪訴 ── 寺社が僧兵などを率いて朝廷に強訴し、要求を通そうとした行為。院政期に頻発しましたが激化する契機として、深井さんは1095年の延暦寺による日吉社の強訴を挙げます。これを撃退した関白藤原師通が4年後に急死し、それが祟りとされたのです。
宗教的権威で国が動く時代のこと、人々は呪いに怯えます。寺社側はいい気になり、強訴を繰り返すようになりました。この強訴に対抗するため、院は武士を側に置いておきたいというニーズを強く持ちます。
このニーズにぴったりはまったのが平正盛でした。因幡守として在任中に出雲で反乱が起きますが、これを起こしたのが河内源氏の源義親で、源頼朝の曽祖父にあたります。
平正盛はこの反乱の討伐に成功します。深井さんは「この代から、頼朝と清盛の家はライバルとして戦っていた」と整理しています。
因縁だよ。
息子・忠盛の代で「軍事貴族」に君臨するまで
源義親討伐をきっかけに、平正盛はライジングしていきます。重要な国とされる但馬守に任じられ、丹後守、瀬戸内海に面した備前守や讃岐守を歴任しました。
もともと六位ほどだった平正盛の位は、従四位下まで上がります。深井さんは、これでかつてぶいぶい言わせていた河内源氏に代わり、武士の第一人者として君臨し始めたと説明します。
伊勢平氏の傍流の人たちは正盛の家来として官職をもらい、正盛の家を中核とした軍事貴族 ── 武力を担いながら朝廷内で官位を得た貴族層。院政期に武士が政治の場へ入り込む足がかりとなりましたの連合体という形をとっていきます。
続いて清盛の父、平忠盛の代です。正盛の跡を継いだ忠盛も白河院の近臣として活躍し、父よりさらに上へ上がっていきます。途中で白河院が亡くなり、鳥羽上皇が院政を敷いても、その近臣として君臨し続けました。
鳥羽院は白河院の膨大な荘園を継承しましたが、樋口さんによれば、その荘園を管理する武士の中心人物が平忠盛でした。忠盛は寺社の強訴の防御や海賊討伐を担い、院の親衛隊隊長のような立場まで到達します。
忠盛が任じられたのは御馬屋別当 ── 院の馬を管理する役所の長官職。武力に近い要職で、忠盛が抜擢されたことは平氏の地位上昇を示しますという役職でした。これにより畿内周辺の牧を支配下に収め、その地に武士団を組織できるようになっていきます。
貴族からは「ぬぼく国に満つ」、つまり身分の低い者がのさばっていると言われ、嫌われもしました。それでも忠盛は勢力を伸ばし続けます。
なんか気に入られたんでしょうね。
院からね。貴族からは「ぬぼく国に満つ」とか称されて、身分の低い者がのさばっているみたいなことを言われて嫌われてたりしたみたいなんですけど。
こうしていいポジションが伊勢平氏という家に蓄えられていきました。それを引き継いだのが平清盛です。清盛の代には、平氏の運命を決める大きな乱が二つ、連続して起こります。
保元の乱で、なぜ親子・兄弟が敵味方に分かれたのか
一つ目の乱が保元の乱です。深井さんは「内容は非常に複雑で、追って話すと聞いている人が混乱する上に重要でもない」として、ポイントだけを説明します。
保元の乱を一言で言えば、天皇家内部の対立に摂関家の分裂も絡み、皇位継承をめぐって二つの派閥ができ、貴族も武士もそれぞれ二手に分かれて戦った現象です。
背景には、鳥羽上皇が兄の崇徳上皇を嫌っていたことがあります。鳥羽上皇は崇徳の息子に継がせず、後白河天皇を立てて自分が実権を握り続けようとしました。この争いは後白河が天皇だった時に起きています。
あら、兄弟対決。
対立は「兄弟」「叔父と甥」「父と子」といった近しい間柄で起きたのが特徴です。天皇家では崇徳上皇と弟の後白河天皇が分かれ、藤原氏も兄弟で敵味方に分かれました。
じゃあたすき掛けになってるんですね。
平氏も分裂し、叔父が崇徳上皇側、甥の平清盛が後白河天皇側につきます。源氏も分裂し、父の源為義が崇徳上皇側、息子の源義朝が後白河天皇側につき、義朝の弟は父とともに崇徳上皇側でした。
ちょっと誰か図解して。
深井さんが強調したのは、細かい名前ではなく、「近しい人同士が二手に分かれ、武力で皇位継承を決めた」という点です。しかも実際に殺し合いが行われました。
平清盛は叔父を斬首させ、源義朝は父の為義を斬首、弟を配流させています。深井さんはこれを、永田町や国会議事堂に刀を持った人たちを呼んで殺し合いをさせるようなものだと例えました。
そして重要なのは、勝ったのが後白河天皇側であり、その側についていた武士が平清盛と源義朝だったことです。この時、清盛と義朝は味方だったのです。義朝の息子が、のちの頼朝にあたります。
天皇家では兄・崇徳上皇。藤原氏の弟、平氏の叔父、源氏では父・源為義とその子の一部
天皇家では弟・後白河。藤原氏の兄、平氏の甥・平清盛、源氏では子・源義朝
平治の乱で源氏が駆逐され、頼朝が助命された理由
続いて起きたのが平治の乱です。保元の乱の勝者である後白河天皇のもとで政治の実権を握ったのが藤原信西でした。この信西が実権を握ったことを強く嫌がったのが藤原信頼です。
保元の乱で最も武力的に活躍したのは源義朝でしたが、最も評価されたのは平清盛でした。清盛は最初から後白河天皇のパートナーとして選ばれ、実権を握る藤原信西と密接な関係にあったからです。
義朝は父を殺してまで戦ったのに恩賞が少なく、不満を募らせていました。深井さんは、その不満を持つ義朝と、信西に苛立つ信頼が結びついてクーデターを起こした、と整理します。
ずるい。
クーデターは失敗します。藤原信西は追い詰められて自害させられ、平清盛が盛り返して勝利します。清盛の前には、負けた義朝と、初陣だった息子の頼朝が引き立てられました。
この時代、勝者が敗者を斬首するのは普通のことでした。義朝は戦の中で死に、頼朝の兄は斬首されます。頼朝も斬首される流れでしたが、清盛の継母である池禅尼が助命を強く嘆願したことで、命を助けられ伊豆へ流されます。
樋口さんは、頼朝が助かった背景を二つの論理から補足します。当時の朝廷では、貴族なら重罪でも刑が減免されることがあり、頼朝も貴族に属するため死罪を免れる理屈は一応ありました。
一方、武士の世界では勝者が敗者を斬首する私的制裁が広く行われていました。頼朝は男子で、切らなければ将来の報復リスクにもなります。だから武士の論理では切って当然でした。
この助命が、のちの歴史を大きく変えていきます。頼朝はこの後に将軍となるため、ここで殺していれば鎌倉幕府は存在しなかったからです。深井さんも「まさに歴史が動いた瞬間」と話します。
これはまたあれですね、この時歴史が動いた瞬間やな。
平治の乱では勝者側に平氏、敗者側に源氏という構図だったため、源氏は政権中枢から駆逐されました。これによって平氏が台頭する礎が完全に築かれます。
信西への不満
藤原信頼が実権を握る信西を嫌い、恩賞に不満の源義朝と結ぶ
クーデター失敗
信西は自害。清盛が盛り返して勝利し、義朝は死に頼朝は引き立てられる
頼朝の助命
池禅尼の嘆願で頼朝は伊豆へ配流。のちの鎌倉幕府につながる
源氏の駆逐
敗者側の源氏が政権中枢から一掃され、平氏台頭の礎が築かれる
武士が朝廷の一員に。清盛の権力の握り方
平治の乱の後、源氏は政界から姿を消していく感覚になり、清盛は猛烈に出世していきます。樋口さんは、この出世を貴族側の視点から説明します。
貴族たちは、二つの乱で武士の実力を目の当たりにし、清盛への恐れを抱きました。清盛をきちんと処遇しなければ自分たちの身が危ういと感じ、清盛を中央政界に迎え入れるほか選択肢がなくなったのです。
清盛はその後、太政大臣 ── 律令制における最高の官職。清盛が武士として初めてこの地位に上り詰めたことは、大きな画期とされますまで上り詰め、武士のトップであると同時に政治家としてもトップになっていきます。
深井さんは、二つの乱が「武力を通じて皇位継承権を握ってしまった」ターニングポイントだと繰り返します。これ以前の武士と、武力で皇位継承先を操作できてしまった武士とでは、存在感が質的にまったく違うのです。
最初は後白河天皇と対立していた清盛は、やがて協調路線に入ります。後白河が上皇になった後は、後白河上皇とタッグを組んで政権を運営する形へと進んでいきました。
樋口さんは、清盛が最初は貴族ですらなかったことを振り返り「大出世やな」と驚きます。この段階で清盛は、朝廷内の軍事警察部門をほぼ独占するほどの権勢を誇っていました。
福原からの遠隔操作という距離の取り方
太政大臣まで上った清盛ですが、この役職は辞めた後のほうが権力を誇れたといいます。深井さんは、現職は儀式が多すぎて実務に追われるためだろうと推測し、清盛も3か月ほどで辞めたと語ります。
え?なんやそのシステム。
清盛は福原、今の兵庫県神戸市と同じ場所に移動します。福原は貿易港として機能しており、清盛はここでの日宋貿易 ── 平安末期に平清盛が力を入れた、中国の宋との貿易。瀬戸内海の海上ルートを掌握したことで巨万の富を生みましたで巨万の富を築きました。
樋口さんは、清盛が瀬戸内海の海賊を抑えていたため、宋から来た船が瀬戸内海を通って神戸まで来られたと補足します。それでも遠く離れた場所から政治に介入できたことに驚きを見せます。
深井さんは、むしろ離れていたからこそ良かったと説明します。京都中枢にいると、位は天皇や上皇のほうが上のため、表ルートで来られると清盛のほうが弱いからです。
そこで清盛は、あえて距離を置いてコミュニケーション量を減らしました。表向きのやり取りを減らし、軍隊という実力を背景に裏ルートで圧力をかける。これが清盛のやり方だったといいます。
朝廷の中枢の権力との距離の取り方っていうのがすごく戦略的に重要なんですよね。あまりにも近すぎると、なんか絡め取られる危険性とかもあるわけですよね。
京都には清盛の部下である平家の人たちがいました。上皇が何かを命じても、清盛が福原にいるために伝達に時間差が生まれ、やんわり断ったりうやむやにしたりできたのです。
当時の交通とか通信の状態だと、ある場所から物理的な距離を離れるだけで、そのコミュニケーション量がすぐに減ったりとかするんですよね。
貴族的な清盛、御家人を束ねる頼朝。対照的な権力
深井さんは、清盛の権力の握り方が、後に出てくる源頼朝と非常に対照的だと指摘します。ここは、この後の展開を理解する上での重要な対比です。
清盛は京都中枢に近いところにいて、朝廷内で自分の官位を上げ、朝廷を傀儡的に動かすことで権力を握りました。深井さんはこれを「貴族的な動かし方」と呼びます。
清盛も武士なので軍事力は持っていましたが、鎌倉幕府に比べると軍事力は少なめでした。各武士と個別に主従関係を結ぶというより、朝廷権力によって武士を動かす存在だったからです。
一方、後の鎌倉幕府では、御家人 ── 将軍と主従関係を結んだ武士。将軍への個人的な忠誠を土台にした点が、朝廷経由で武士を動かす方式と大きく異なりますは鎌倉殿の家来であり、そこには個人的な忠誠があるという感覚へ移り変わっていきます。
深井さんは、清盛を立領制が崩れた後の院政的なやり方をする「過渡期の存在」と位置づけます。武士でありながら、上皇と同じ軍隊の動かし方をしていたわけです。
頼朝の子飼いの武士は少なく、その他の武士は朝廷権力を使って動員する存在でした。頼朝がこの後に新しい組織を作っていく背景には、この清盛の権力構造が前提としてあると深井さんは説明します。
京都中枢に近く、朝廷の官位を上げて朝廷を傀儡的に動かす。朝廷権力で武士を動員する貴族的な握り方
御家人と個人的な主従関係を結び、忠誠を土台にした新しい組織を作る握り方
血のつながる皇太子をめぐる、後白河との衝突
後白河上皇と同盟して権力を握った清盛は、当然のように今度は後白河上皇と対立していきます。焦点になったのが皇位継承でした。
清盛の娘・徳子は後白河上皇の傘下にある天皇に嫁いでいましたが、長らく皇子が生まれませんでした。とはいえ平家の威勢を考えると、平家の血を引かない人を皇太子に据えるのは憚られ、皇位継承者が不在の状況が続きます。
後白河上皇はこの状況に苛立っていました。皇太子を立てられず、清盛が好きに振る舞うことに、「上皇は自分なのに」という思いを募らせていたのです。
これまで二人の関係を調整していたのが、清盛の妻の姉で後白河の妻でもあった建春門院重子でした。彼女が亡くなると調整役がいなくなり、後白河上皇が暴走していきます。
後白河は、平家の血が入っていない皇子を皇太子に立てようとします。深井さんは、後白河が状況認識をほとんどせず、結果を考えずに行動してしまう人物だと説明します。
後白河が焦っていた理由がもう一つあります。当時の高倉天皇がまもなく成人しそうだったのです。院政は子供を天皇に据えて牛耳る仕組みで、天皇が成人して自ら政治を始めると、上皇が実権を握れなくなるからです。
おかしい話ですよね。
この動きは清盛にとって、自分の孫ではない皇太子が王朝を継ぎ、権力が抑え込まれるリスクを意味しました。清盛には絶対に認めがたいことだったのです。
鹿ケ谷事件から治承三年の政変へ
平家の急激な台頭に不満を持つ人は、後白河上皇のほかにも多くいました。後白河上皇は自分の院の近臣とともに、鹿ケ谷という場所で清盛を失脚させる密談を行います。
ところが、その場にいたメンバーの一人が清盛に密告します。激怒した清盛は、後白河の近臣を拷問・死罪・配流と、自分の判断で徹底的に処罰しました。
ただし清盛は、上皇本人には手を出しませんでした。上皇の権威を利用して自分も権力を握っているため、上皇がいなくなると自分も困るからです。そこで手足をもぐように近臣を処罰し、脅す形をとりました。
この鹿ケ谷事件が起きた年の末に、待望の出来事が起こります。高倉天皇と徳子の間に、皇太子となる時仁親王が生まれたのです。平家の血を継いだ天皇の誕生が見えたことで、清盛は大いに喜びます。
時仁親王は生後1か月で皇太子になります。深井さんによれば、この頃の清盛は上機嫌で、源氏を出世させるようなご祝儀人事まで行っていたといいます。
余裕ぶちこいてまあまあまあ。機嫌良かったんでしょうね。
しかし翌年、清盛に不幸が続きます。摂関家の正室になっていた娘の平盛子が亡くなり、その所領を後白河が没収します。さらに嫡男の平重盛も亡くなってしまいます。
重盛はバランス型で、清盛と後白河上皇の間に入って調整していました。その仲介役を失うと、後白河は重盛が持っていた越前国の利権を奪って別の者に渡すなど、平氏への挑発を強めていきます。
後白河は嫡男の死を悼むどころか、石清水八幡宮で遊ぶ様子をわざと見せるなどして、清盛を挑発しました。深井さんは、後白河が自分の権力のほうが強いと迫っていったと語ります。
数千騎で入京し、後白河上皇を幽閉するまで
後白河上皇のたび重なる挑発に、当然のように清盛が切れます。清盛は福原から数千騎の軍勢を率いて京都に入りました。
大軍を率いてガッツガツ京都に入っていくっていうんですよね。
清盛は、関白や権中納言といった重要な役職のうち平家と対立していた人たちを解任し、自分の陣営の人物を関白に据えます。深井さんは、関白は本来清盛より偉い立場で、それを清盛が付け替えたのだと説明します。
さらに清盛は、後白河の息のかかった院の近臣39名を一気に解任し、政界から根こそぎ追放しました。樋口さんは、この判断が逆に貴族たちの恨みを買いすぎたと指摘する学者もいると補足します。
後白河上皇は、清盛が本当にそれを実行したことにひどく驚きました。もう政務に関わらないから許してほしいと謝りますが、許されずに身柄を確保され、幽閉されてしまいます。
え?上皇?
これは院政が始まって以来の重大事件です。院の近臣から出発した清盛が、京都にさえいないまま、武力で上皇を幽閉したからです。この後、清盛の天下が完全に確立します。
深井さんは、その理由を院宣 ── 上皇(院)が出す命令。天皇の命令に準じる強い効力を持ちましたで説明します。院宣を発する人を幽閉し、清盛が出した命令を「上皇がこう言った」と言えばよくなるため、清盛が実質的に国を牛耳れるのです。
解任された39名に代わり、各地の土地を管轄する人が平氏に置き換わっていきます。当時の日本は66か国あり、その半分ほどが平家のものになったといいます。
もう日本乗っ取りやん。
深井さんは、これが「平家にあらずんば人にあらず」、つまり平家でない者は人間ではないという描写が平家物語に生まれた時期だと考えられると語ります。まさに平氏のクライマックスです。
やりすぎた平氏と、対抗して立ち上がる源氏
一方で、樋口さんが指摘したように、この一連の行動はやりすぎでもありました。清盛はかなりの反感を買ってしまいます。
さらに清盛は、福原への遷都まで進めようとします。上皇を福原に連れてきて首都を福原に移し、完全な傀儡政権を作ろうとしたのです。深井さんは、これはある意味で最初の武家政権とも言えると述べます。
そんなことよく考えつくな、遷都するとか。すげえな。普通京都に住もうってなると思うんですけど。
この平氏の権力集中に対し、反対勢力を束ねて台頭してくるのが源頼朝です。平氏がクライマックスを迎えたところで、この回はいったんフォーカスを変えます。
次回は、源氏がどんな経緯をたどって頼朝の代に至るのかが語られます。深井さんと樋口さんは、ようやく鎌倉殿に近づいてきたと話し、この回を締めくくりました。
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まとめ
この回は、六位ほどの伊勢平氏が祖父・正盛、父・忠盛の代で地位を蓄え、清盛が二つの乱と皇位継承争いを経て後白河上皇を幽閉するまでを追いました。武力で皇位継承を左右できる武士の登場という、大きな転換点が描かれています。
- 伊勢平氏は当初、五位以上の河内源氏に対し六位ほどの「ギリギリ貴族じゃない」家からスタートした
- 保元の乱では親子・兄弟・叔父甥が二手に分かれ、武力で皇位継承を決める前例が生まれた
- 平治の乱で源氏が政権中枢から駆逐され、平氏台頭の礎が築かれた。頼朝は池禅尼の嘆願で助命された
- 清盛は朝廷の官位を上げて傀儡的に動かす貴族的な握り方をし、御家人を束ねる頼朝とは対照的だった
- 後白河との対立が激化し、清盛は数千騎で入京して上皇を幽閉。「平家にあらずんば人にあらず」の絶頂を迎えた







