源氏の名を上げた義家と、粗暴だった子孫たち
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鎌倉武士編は前回で平家の隆盛を扱いました。今回からは源氏、それも頼朝の家系である河内源氏 ── 京都を拠点とした源氏の一流。のちに武家の頭領として地方化していきますの歴史をたどります。
話は頼朝のひいひい爺さんにあたる源義家から始まります。義家は前九年の役 ── 11世紀に東北の奥羽で起きた反乱。源頼義・義家父子が鎮圧しましたや後三年の役で東北の反乱を鎮圧し、源氏の名を上げた人物です。
義家は父の源頼義とともに戦い、武士としての功績によって白河上皇の御所への昇殿を許されます。深井さんは、これを当時としての快挙だと説明します。
この頃の河内源氏は、まだ京都の貴族社会の一員でした。その武力の主体は畿内で編成した家来たちで、京武者と呼ばれる京都周辺の武者を束ねる盟主的な立場にとどまっていたといいます。
自分の直属の部下じゃない人がたくさんいるってことですよね、つまり。
その義家が奥羽への遠征の過程で坂東武者たちを従えて戦いました。朝廷から直接命令を受けた将軍として派遣され、坂東武者を傘下に入れていったのが、この頃から始まっていたと深井さんは整理します。
一方で義家は武将として高く評価される反面、不必要な殺戮も行っていました。兵糧攻めで出てきた女子供を惨殺し、降伏した敵の兵を虐殺するなどの記録が残っていると深井さんは話します。
義家の息子の源義親はさらに暴力的でした。国司に任命された先で乱闘騒ぎを起こし、隠岐に配流され、そこから脱出して出雲で反乱を起こします。前回の平家の回で触れられた、清盛の祖父にあたる平将盛に鎮圧された人物がこの義親です。
源氏の評判を落とした為義と、坂東で育ったパパ友・義朝
頼朝の祖父にあたる為義の代には、祖父と父の乱暴のせいで源氏の評判はひどく落ちていました。為義もまた乱暴者で、その回復はうまくいきませんでした。
為義は国司として任地を与えられることもなく、粗暴な振る舞いから上皇に国を任される道を阻まれ、警察長官にあたる検非違使左衛門尉 ── 京の治安維持を担った検非違使の官職。武士にとっては相応の地位ですが、国司ほどの出世ではありませんにとどまります。祖父や父に比べればしぼんだ、と深井さんは評します。
この為義こそ、前回の保元の乱で息子に殺された側の父です。そして息子の源義朝が、頼朝と義経の父にあたります。
パパ友ですね。
頼朝のお父さんだから、パパ友って僕たちの間で呼ばれてるんですけど。
義朝は父があまり出世しなかったこともあり、京都ではなく坂東に下って少年期を過ごしました。番組では、この坂東下りが源氏と関東武士のつながりを生んだ点を重視します。
義朝をもてなしたのが、上総の有力武士である上総常澄です。深井さんは、大河ドラマで佐藤浩市さんが演じた頼朝の家臣・上総介広常が、この常澄の子にあたると説明します。
さらに義朝は、相模の坂東武者である三浦義明の娘婿にもなります。つまり頼朝の父の代に、源氏は坂東武者たちと改めて縁を結び直していたことになります。
楊さんは、義朝が坂東の勢力の対立を調停し、一時の平和をもたらしたうえで、彼らを自らの武力として編成したと補足します。坂東武者から尊敬される人物だったといいます。
13歳で流された頼朝、伊豆での20年
頼朝は1147年、京都で生まれた義朝の嫡男でした。3番目の男児でしたが、兄二人が平治の乱で亡くなったこともあり、母の家柄が高かったために跡継ぎとされていたといいます。
頼朝は14歳で元服した直後に出陣しますが、父は斬首、兄二人も死亡します。頼朝自身も殺されるかどうかの裁断を受けました。
そこで清盛の継母である池禅尼 ── 平清盛の継母。頼朝の助命を嘆願した人物として伝わりますが助命を嘆願し、頼朝は伊豆国に流されます。年齢は諸説あり、13歳とも14歳ともいわれる、まだ子供の時でした。
(頼朝は)まだ中学校1年、2年とかでしょ。戦争行って殺されかけて、ギリギリ許されて飛ばされてって感じですよね。
粗暴な家系ながら、頼朝自身は乱暴者ではなく、調停や関係構築が得意な人物だったと深井さんは説明します。武者としては弓が得意で、武者の本分は馬上で弓を射ることにあったといいます。
平治の乱で流刑となった頼朝は、14歳から34歳まで、実に20年間を罪人の立場で過ごすことになります。
34まで?20年?
20年間。これはつらかったと思いますね。
ただし、頼朝はそれなりに自由だったという見解もあります。伊豆での巻狩 ── 山野で獣を包囲して追い詰め、多人数で狩る武士のイベント。武芸の鍛錬と交流の場でもありましたに頼朝も登場し、各地の坂東武者と関係を築いたり情報交換したりしたのではないか、という説もあると紹介されます。
20年間の流人を支えた乳母たちのネットワーク
頼朝が流された当時の伊豆は、中央政界から隔絶した場所だったため、地理的に流刑地として選ばれたと考えられています。
その流人生活を支えたのが比企尼 ── 頼朝の乳母。流人時代の頼朝を長年にわたって支援した人物として伝わりますです。乳母は後見人にあたる存在で、頼朝の場合はこの比企尼から手厚い支援を受けていました。
(比企尼は頼朝に)20年間ずっと仕送りを続けてたんですよ。
比企尼は仕送りだけでなく、側近も送っています。流人時代からの側近である安達盛長は比企尼の娘婿で、頼朝の側近くに仕えるよう命じられていたといいます。
京都にも支援者がいました。下級役人の三善康信は、乳母の妹を母に持つつながりから、月に3回、頼朝に京都の情勢を手紙で伝え続けたといいます。
比企尼
頼朝の乳母。20年間仕送りを続ける
安達盛長
比企尼の娘婿。側近として仕えるよう送られる
三善康信
乳母の妹の子。月3回、京の情勢を手紙で伝える
伊東家を追われるきっかけとなった恋
この頃の頼朝は、平家の家来である伊東家の監視下に置かれていました。ある程度の自由を得ながらも、伊東氏の本拠地で流人生活を送っていたのです。
ところがある事件で、頼朝は伊東家を追われる身になります。伊東家の当主・伊東祐親の三女と恋仲になり、千鶴という男児が生まれてしまったのです。
大河ドラマではこの女性が八重として描かれ、新垣結衣さんが演じましたが、史実で八重だったかどうかは分からないと深井さんは補足します。
都から戻った伊東祐親は二人の仲を知って激怒し、幼い千鶴を川の底に沈めて殺し、娘を強引に他の武士へ嫁がせてしまいます。
そこまでやる?
楊さんの問いに対し、深井さんはその背景を説明します。伊東家は平家の家来であり、清盛が罪人として送った頼朝と血縁でつながれば、一族全員が殺されかねない政治的危機だったというのです。
生まれたのが男の子だったことも、殺さねばならない理由でした。やっていることは酷いが、一族が滅びかねない事態だったとは言える、と番組は整理します。
頼朝は何を考えてんだ。
頼朝としてはやっぱり、これしか生存戦略がない。
頼朝にとっては、地元の有力者との間に子をもうけ、その中で自分の地位を確立していくことが数少ない生存戦略でした。復活のために自分の血筋を使うしかなかったのだろう、と楊さんも受けます。
疫病神を黙認? 頼朝の北条入り
事件のあと、頼朝は伊東家から離れていきます。番組はこれを「頼朝の北条入り」と呼んで説明します。
伊東祐親には頼朝を夜討ちする計画があったともいわれますが、実行された形跡はありません。そこで祐親の次男・祐清が、北条家の当主・北条時政のもとへ逃げるよう頼朝に勧めたといいます。
祐清が時政を勧めたのは、祐清の元服の際の親が時政で、深い関係にあったからだと楊さんは説明します。頼朝は夜闇に紛れて時政のもとへ逃げました。
ゴッドファーザーみたいな。
楊さんは、この祐清の判断が頼朝だけでなく伊東家全体を救ったと指摘します。祐親にとって頼朝は疫病神ですが、清盛に許されて生きている罪人を殺せばリスクになり、かといって家に置き続けてもリスクだったからです。
殺してしまったらリスクかもしれない。でも殺さないでおくと、それも自分の家の中にいさせるのもまたリスクなんですよね。
そのため祐親は、頼朝が北条家へ移ることを黙認したのではないか、と学者は考察しているといいます。勝手に去ってくれる、という状況があったのかもしれない、というわけです。
この北条入りの結果、頼朝は北条家の娘・北条政子と結ばれ、それがまた歴史を動かしていきます。深井さんは、頼朝は監視役の家の娘と必ず結ばれてしまう、と重ねて指摘します。
疫病神を受け入れた北条時政の思惑
では、北条家の側に頼朝を受け入れるメリットはあったのでしょうか。楊さんは、時政がむしろ受け入れに大きな利点を感じていたと説明します。
北条家は伊豆の中小規模の武士団で、高い位ではありませんでした。しかし時政は上昇志向が強く、そのためには都の貴族とつながる必要があったといいます。
頼朝は罪人とはいえ源氏のお坊ちゃまで、血筋が良い人物です。楊さんは、源氏の尊い血筋を抱えたものを自分のところに置くことが、時政にとって出世への一手になったと見ます。
さらに当時の時政は、伊豆を治めていた摂津源氏とすでにつながっていたため、平家にそこまで気遣う必要がなかった状況もあったといいます。あくまで学者の考察だと楊さんは断ります。
こうして頼朝の北条入りは、伊東家にとっても北条家にとっても都合のよい、win-winの事態収拾だったと番組はまとめます。
疫病神を殺すのも家に置くのもリスク。黙認して去らせれば一族を守れる
源氏の尊い血筋を抱え込み、都とつながって出世する足がかりを得る
北条家とはどんな家だったのか
頼朝は14歳から苦労を重ねながら、伊東家の監視下で娘との間に子をもうけ、それが殺されると北条家へ逃れ、政子と結婚するに至りました。ここまでが今回の流れです。
樋口さんは、北条家と平家が敵対していたのかを尋ねます。深井さんは、そもそもあまり関係がなかったと答えます。
整理すると、坂東の地は平氏系の人がほとんどで、北条家ももとは平氏です。それが枝分かれして血が薄くなり、土地の地名を苗字に名乗るようになった家だといいます。
北条という苗字も地名からとったもので、もとは平氏でも、平家の本流からは遠く、交流もないような立場でした。武士のグラデーションでいえば、真ん中あたりのランクにあたると深井さんは位置づけます。
そんなに血筋の尊さは公認されたものでもないし。
北条家は地方で役人や国主を務めながら、自衛のための武士団を持つ在地領主でした。血筋は良くないが昔は良かった人、という位置づけです。
一方で、北条氏は現地では有力な領主で、京都と盛んに貿易したという説もあると楊さんは紹介します。頼朝と組んだことで歴史の舞台に登場した家系だと見る学者もいるといいます。
どれほど有力だったかは分からないものの、民衆や農民よりはずっと上の、在地の武士団をまとめる立場だった点は確かです。次回、頼朝はいよいよ挙兵します。
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まとめ
今回は、源頼朝が挙兵の前に置かれていた立場を、父祖の代からの坂東武者との縁と、伊豆での20年の流人生活からたどりました。血筋という資産と、乳母たちの支援、そして監視役の家との縁が、のちの反乱の基盤になっていきます。
- 頼朝の家系・河内源氏は、義家が坂東武者を従えた一方、義親・為義と粗暴な当主が続き評判を落としていた
- 父・義朝が坂東で武者を編成し貴族社会でも地位を築いたため、頼朝はゼロからのスタートではなかった
- 頼朝は13〜14歳で伊豆に流され、比企尼ら乳母のネットワークに支えられて20年の流人生活を送った
- 伊東家の娘との子は殺され、頼朝は北条家へ移り北条政子と結ばれた
- 上昇志向の強い北条時政は、源氏の血筋を持つ頼朝を受け入れることに出世の好機を見ていたと考えられている







