アメリカが送り込んだ最高クラスの司令官ペリーとは
前回のエピソードはこちら
ペリー来航編の第4回は、いよいよペリー本人の登場から始まります。前回は、ペリー以前にもアメリカの船が日本近海に来ていたことが語られました。
楊さんは、ペリーを当時のアメリカがアサインできるほぼ最高クラスの海軍指揮官だと説明します。階級は大佐で海軍のトップの一人。艦隊を指揮する権限を持つ司令官でした。
ペリーの経歴は多岐にわたります。現場での艦隊運用や戦闘指揮に加え、敵国や海賊との交渉経験、基地司令官としての組織運営や人材育成の経験もありました。
さらにペリーは蒸気船に関する専門知識を持ち、蒸気船海軍の父と呼ばれる人物でもあります。蒸気船による郵便航路の開拓も手がけていました。
楊さんが最強と表現したのが、ペリーの人脈です。娘婿のオーガスト・ベルモントを通じて、ロスチャイルド家やアメリカ・ヨーロッパ両産業界とのつながりを持っていました。
日本遠征計画の実質的な立案者である戦略家アーロン・パーマーは、この娘婿の仕事上の仲間でした。パーマーとペリーはつながっており、ロスチャイルド家や政府中枢ともコネクションがあったことになります。
ペリーのもう一人の娘は、師匠であるロジャース提督の息子と嫁いでいます。ロジャース提督は海軍随一の名司令官と言われた人物で、ペリーはその直系の継承者にあたります。
強強やん。
強強ですよ。義理の兄は民主党の有力議員なんですよね。
ただし、そんなペリーにも一つだけ弱点がありました。持病のリウマチです。樋口さんは、この持病が後々効いてくるのではと予感を語ります。
地中海に行きたかったペリーが遠征を引き受けた理由
ペリーは東インド艦隊を率いて日本遠征に行けという辞令を受けますが、最初から了承していたわけではありませんでした。就任を渋ったといいます。
理由は個人的な事情でした。当時の海軍の花形は地中海艦隊のほうで、ペリーは地中海で仕事をしたいと政府に対して粘っていました。
ペリーはこの時、まもなく60になる年齢で、体調も良くありませんでした。未知の海域に行き、未知の日本人を相手に開国させる仕事は、この年齢にはハードなものでした。
もう一つの事情として、ペリーの娘と娘婿の家族はヨーロッパにいました。地中海の司令官として赴任すれば家族に会えるという、公私にまたがる思いもあったようです。
めっちゃわかるわ。もう六十前で家族に会いたい気持ちになるの、今の感覚やったらわかりますけどね。知らんけど。
それでもペリーは、最終的に東インド艦隊の仕事を受けます。アーロン・パーマーと繰り返し意見交換を重ねた上での決断でした。
ペリーは、このプロジェクトが国家にとってどれだけ重要かを認識していました。中国との関係を深めるための中継地として日本を確保することが、パーマーの戦略の核心でした。
「圧倒的な武力で見せつける」が絶対条件だった
遠征を引き受けるにあたり、ペリーは条件を出します。艦隊の規模を強くしてほしいというものでした。大規模な艦隊を日本に見せつけることが、成功の絶対要件だと考えていたのです。
ペリーはこれまでの日米の接触や、パーマーとの意見交換、自身の研究を踏まえ、圧倒的な武力で落とす必要があると判断していました。それができないなら、自分は地中海艦隊の指揮を執るという条件を政府に突きつけました。
見せつける武力の規模を確保することは、ペリーにとって極めて重要でした。そして、ここには武力にこだわるもう一つの理由がありました。
発砲厳禁——「撃てないのに脅す」という縛りプレイ
実は、ペリー艦隊は最初から発砲してはいけないと大統領から命令されていました。武力で脅すしかないのに、絶対に発砲してはいけないという縛りがあったのです。
当時のフィルモア大統領は、ペリーに発砲厳禁を命じていました。自衛の場合、つまり日本側から乗組員に暴力が振るわれた時などは軍事力を使ってよいものの、それ以外は一切使うなという命令です。
この命令の背景には、アメリカの憲法上の権限の問題がありました。軍の指揮権は大統領にありますが、宣戦布告の権利は大統領ではなく議会にあります。
艦隊の指揮権を持つ。大統領の権限で東インド艦隊を日本に派遣できる
宣戦布告の権利を持つ。議会が許可しなければ戦争はできない
ペリー艦隊の派遣は政府の権限内で行えますが、戦争には議会の決議が必要です。もし艦隊が発砲して戦争に発展すれば、大統領や海軍省、東インド艦隊の権限を超えてしまいます。
では議会で決議すればいいかというと、それも難しい事情がありました。当時の議会の多数派は、大統領のライバルである民主党だったのです。
大統領が派遣したペリー艦隊が日本と戦闘状態になれば、多数派の民主党から勝手に戦闘するなと突っ込まれるおそれがありました。こうしたお家事情があったわけです。
さらに当時のアメリカ議会は、日本遠征の宣戦布告を議論できる状況にもありませんでした。国内問題で手いっぱいだったのです。
この時期のアメリカは領土を拡大し、それを連邦に編入していく途上でした。新しく獲得した土地をどう編入するかで世論が沸騰しており、対外問題に強い関心を払う余裕がなかったといいます。
だからこそ大統領は、ペリーに絶対に撃つなと命じました。撃てば議会の決議が必要になるのに、その決議が取れる状況ではなかったからです。
武力を使ってかまさないといけないけど、武力を絶対使ってはいけない。なんかもうハリボテっすね。ハリボテの軍艦で行かないといけない。
顔を見せず、大艦隊で威圧する具体的な作戦
この裏事情は、絶対に日本に悟られてはならないものでした。舐められてしまうからです。その上でペリーは、日本に対して取るべきアクションを重視していきます。
ペリーが重要視したのは、大艦隊を率いて江戸湾に入り込み、幕府をビビらせることでした。幕府が大統領の手紙を受領しない場合は、大統領への侮辱として受け止め、武力をもって江戸城に持参するという断固とした態度を示すことを考えていました。
大統領の親書は、必ず幕府の閣僚に渡すことも重視していました。前回は下っ端の役人に渡してしまい、舐められる結果になったからです。今回は決裁者ときちんと会うという方針でした。
さらにペリーは、たやすく親切な印象を与えず、簡単に幕府側の前に姿を現さないことも重視しました。もったいぶった態度で臨むという作戦です。
三谷幸喜のドラマみたいに見えてきた。撃っちゃいけないの? って中で、よし、俺、最後まで顔出さねえみたいな。大ハッタリ劇みたいな。
理想の10隻がそろわず、実際は4隻での出発に
ここからペリーは具体的な準備に入ります。ただし片手間ではありません。未知の海で長期間活動し、刀を差した未知の人々と外交交渉を展開するには、計り知れないほどの変数をコントロールする必要がありました。
ペリーがまず行ったのは艦隊編成です。艦隊のインパクトで威嚇するのが基本方針で、それを日本人に見せつけて恐怖心を起こさせようと考えました。信頼できる全盛期の部下をアサインし、首脳陣を固めています。
しかし艦隊編成は思い通りにいきませんでした。ペリーは当初、最低でも10隻の大艦隊を編成する予定でした。理想は10隻からなる堂々たる艦隊です。
ところが出発までに準備が整わない軍艦が多く、装備が故障する艦も出てきました。結果として、ペリーが日本に率いたのは当初計画よりはるかに少ない4隻でした。
故障しすぎじゃん。半分以下になってますよ。10隻と言ってたのに。
最初の来航は4隻でしたが、2回目は船の数が増えました。戦術の根幹が圧倒的な武力での威嚇だっただけに、ペリーはこの規模の縮小にいら立ったといいます。
それでもこの4隻のうち3隻は蒸気軍艦でした。当時アメリカ海軍が運用していた超大型蒸気軍艦はわずか4隻で、そのうち3隻を日本プロジェクトに投入したことになります。
しかもいずれの船も、当時イギリスが東アジアに配備していたどの蒸気軍艦よりも規模が大きい最新鋭艦でした。4隻でも、この時点で東アジアで最も強い軍事力を持った艦隊と言えるものでした。
滑り止めとしての琉球、二段構えの交渉戦略
想定より艦隊が減ったことを受け、ペリーが考えたのが琉球でした。滑り止めとして、琉球とも開国交渉をしようと提案したのです。江戸幕府と琉球という二段構えの戦略でした。
仮に武力不足で幕府に開国を拒否されても、琉球と交渉して開国させ港を置ければ、最低限の実績を確保できます。ペリーの認識では、琉球は幕府に暴力的に支配されて困っており、江戸幕府より港を開かせるハードルが低いと踏んでいました。
最強のペリー艦隊にも、構造的な弱点がありました。前回から語られている補給の問題です。艦隊が大規模なだけに、大量の石炭、乗組員の食料や水が必要でした。
冷蔵庫がない船で1000人超を食べさせる補給の難題
ペリー艦隊は乗組員が非常に多く、1回目の来航では約1000人が乗り込んでいました。この乗組員を生活させながら任務を果たす必要があり、ちょっとした自治体のような規模でした。
当時は冷蔵庫がないため、保存の効く食料だけでなく、船内で牛や羊、鶏を飼育していました。その飼料となる穀物や干し草も必要になります。船の中で完全に生活を成り立たせなければなりませんでした。
野菜とかどうしよったんやろう。野菜無理っすよね。
だからライム果汁を飲めって言ってるんじゃないですか。ビタミン。
大軍団を出すほど、補給リスクは跳ね上がる構造でした。楊さんは、これを日露戦争でバルチック艦隊が日本まで来たのと同じくらいハードなミッションだったと表現します。
さらにペリーの航海ルートは太平洋ではありませんでした。大西洋を通って南下し、アフリカ大陸の先端を回り、インドやスリランカへ北上し、東南アジアを経て日本に来る、既存のルートを使っています。
地球の4分の3を回るこのルートに加え、アメリカは独自の補給線を持たず、イギリスが押さえる港を使わせてもらう必要もありました。これらの条件の掛け算で、補給のコストとリスクは一気に跳ね上がっていました。
書籍代7500万円——ペリーの徹底した事前調査
そのうえで、200年以上鎖国している侍と条約を結んで帰るのが最大のハードルでした。そこでペリーは、まず準備として日本に関する徹底的な研究調査を行います。
ペリーは事前調査から、日本人がアメリカ人から見て文明レベルの高い民族であることを把握していました。これは参考文献に書かれた表現で、なめてはいけない相手だと理解していたのです。
ペリーはまず、日本に関して欧米で出版されている主な書物をすべて集めました。この書籍収集にかかった費用は3万ドル、現在価値に直すと約7500万円だといいます。
7500万円?
多分、書物の一冊一冊の値段が高いんじゃないですか。
市場に流通していない情報も外交ルートを通じて取り寄せており、そのコストもかかっていたと考えられます。さらにペリーはヒアリングも行いました。
ヒアリングの相手は、日本近海で船を操縦した経験のある捕鯨船の船長や、実際に日本に来て役人と話した軍艦経験者たちでした。面談や手紙で、ありとあらゆる質問を浴びせたといいます。
ペリーが吸収した情報は、日本のあらゆる分野に及びました。歴史では、古代に天皇がいたこと、源頼朝や尼将軍である北条政子のことまで知っていました。
鎖国政策の由来、外国との関係、地理、宗教、経済、科学技術、文化のレベル、資源、文学、美術、身分制度、幕府の行政や意思決定の構造も勉強しています。切腹や参勤交代といった事柄まで把握していました。
コテンで雇ったらいいじゃないですか。優秀なね。台本とか書いてくれたら、めっちゃいい資料作りそうだけど。
ペリーは天皇と幕府の関係も学んでいました。日本には二人の皇帝がいて、将軍が世俗権力を握り、神の子孫である帝は日本の心の将軍である、という理解をしていたといいます。
ただし参考文献によっては、この政治システムをすっきりとは理解できていなかったとも書かれています。結果的に、大統領の手紙を将軍に渡すという形を取れたことが功を奏しました。
ペリーの日本へのアプローチは、場当たり的ではなく、周到で冷静な分析に基づくものでした。1000人、2000人を動かし何十日もかけて成果を出せなければ致命的だからこそ、失敗は許されなかったのです。
武力だけでは落ちない——ハードとソフトの二段構え
日本を研究したペリーが到達した結論は、意外なものでした。武力だけでは日本との交渉は成功しない、というものです。武力での威嚇を最重要視していた彼が、勉強するうちに考えを変えたのです。
ペリーは、武力での威嚇に加えて、友好を深めソフトパワーを見せつけるアプローチも必要だと結論づけました。日本が独自の高い文化を持つ民族であることを、あらゆる文献が告げていたからです。
そこでペリーは、アメリカで最高水準の工業製品や科学技術の結晶を贈り物として持参する作戦を考えます。アメリカの技術と文化水準の力もアピールしようとしたのです。
さらに、日本側の役人を招いて晩餐会を開き、音楽の演奏会にも参加させて文化交流を行う企画も立てました。接待用に、フレンチの料理人や音楽家を艦隊に連れて行っています。
ペリーは、日本側を武力で脅しつつも、敵意や侵略の意図を相手に見せてはいけないというバランスを重視しました。武力だけで脅せば、逆に警戒感を抱かせてしまうからです。
もう一つ、日本研究を通じてペリーが到達した結論があります。日本は条約を結べば必ず守り、踏み倒さないというものです。日本が法によって治められていると理解したからでした。
なるほどね。それぐらいあの手この手を使わないといけない相手っていう感じですよね。
首里城に駕籠で乗り込む——琉球でのイメージ戦略
こうしてペリーのミッションが始まります。第一のターゲットになったのが琉球でした。ペリーは、江戸幕府との条約交渉と琉球王国との条約交渉を同時進行させていました。
琉球王国は特殊な立場にありました。尚氏という王族が統治する王国で、中国の王朝である清と薩摩藩の両方に属していたのです。
琉球王国は清に朝貢し、清を中華として認めてその臣下となる関係を結んでいました。清の冊封体制の中で、清の皇帝から琉球王国としての爵位を与えられていたのです。
一方で薩摩藩とも関係がありました。薩摩藩は琉球を武力征伐しており、琉球と清との朝貢貿易の実権を握っていたのです。朝貢貿易の主体は琉球ですが、薩摩藩がそこから利益を吸い上げていました。
薩摩藩は琉球に奉行所などの駐在オフィスを置き、実質的に支配していました。そこにペリーがやってきたのです。まず3隻が来航し、うち2隻が蒸気船の佐助鼻号とミシシッピ号でした。
琉球の人々は黒船に驚き、政策決定機関で対応を協議します。琉球は西洋諸国との国交を想定しておらず、通商も布教も拒否する方針でした。
そこで琉球王国がとった方針は、ペリーの要求への回答をできるだけ回避することでした。はっきりとは答えず、相手が諦めるまで粘る。戦っても負けるからこそ、ゆらゆらとかわす作戦です。
一方でペリーは強気に出ます。まず要求したのが、王宮である首里城に入らせろというものでした。神聖な場所に武力を伴って入り、既成事実を作って交渉を有利に進めようという狙いです。
琉球側は拒否しますが、ペリーがそれを拒み返し、結局琉球側が折れます。ペリーは約100人の将兵を率いて上陸しました。
上陸の隊列は、アメリカの国旗をつけた大砲を先頭に、隊列を整えた将兵が首里城へ向かいます。後ろに軍楽隊が続き、中央にはペリーを乗せた駕籠が進みました。この駕籠はわざわざ作らせたものです。
なんかそこ日本っぽくてですね。
自分があたかも王様であるかのようなイメージ戦略をとったんです。
ペリーの来航情報は、琉球王国から共有され薩摩藩も把握していました。薩摩藩は直接の対立を避けつつ情報収集し、表面上は琉球に外交を任せながら実質的には自らの意向を反映させる慎重路線をとりました。
島の測量と調査隊——琉球で見せた列強のムーブ
琉球遠征でペリーがやったことの一つが、調査隊の組成です。琉球のいろいろな島に調査隊を派遣し、地質や地理、動植物を調べさせ、土地の測量も行いました。
目的は、各地の産物や地形を知り、将来アメリカの船が琉球に寄港した時に利用できるものを事前に把握することでした。港の水深や、山や川の位置、拠点を作れる場所といった基礎データを集めていたのです。小笠原諸島にも調査隊を派遣しています。
この調査隊は琉球王国にとって嫌なものでしたが、逆らえずに行かせました。ただし琉球側は密偵を同行させて監視させ、アメリカの調査隊が現地住民と接触しないよう先回りして住民を退去させたりしていました。トラブルを避けるためです。
発砲事件と殺人——琉球で相次いだトラブルの顛末
トラブルを避けようとしても、実際には事件が起こりました。まずペリー側の隊員による発砲事件です。
背景には物資調達の問題がありました。隊員が民家に押し入り、豚や羊、食べ物を持ち去る事件が相次いでいたのです。乗組員には、自分が適当と思う代価を渡せば必要な物資を持ち帰ってよいという指示が出ていました。
人んちをガラッと開けて、お邪魔しますって。誰もおらんなって、食いもんあるつって、千円パンと置いて食って帰っていいみたいな。むちゃくちゃやん。
この無理やりな行動の背景には、琉球側の事情もありました。琉球王国も西洋人と住民との交易を認めておらず、住民がアメリカ兵に物を売ることは禁止されていたのです。物資の入手が難しく、乗組員は不満を募らせていました。
この状況で事件が起きます。酒を見つけられなかった乗組員が、現地住民に向けて銃を撃ち、3人ほどが負傷したのです。犯人は最初から酒に酔っていたといいます。
これに対し薩摩藩から琉球王国を通じて、調査の即時中止を求める声が出ます。しかしペリー艦隊はこれを断り、今後の取り締まりを強化すると回答しただけでした。
さらに深刻な事件も起きました。ペリー艦隊の乗組員が、現地住民に殺されたのです。何人かの乗組員が那覇の街に酒を求めて出かけ、民家で物を物色して泥酔した末の出来事でした。
3人のうち1人が別れた後、翌朝に海中から溺死体で発見されます。検視の結果、人為的な殺人だと判明しました。事の真相は酷いものでした。
酔った乗組員が現地の女性をレイプし、その悲鳴を聞いて駆けつけた住民たちが、その乗組員を殴り殺したのです。この事件をめぐって、双方はかなり揉めました。
ペリー側はアメリカ兵を殺した犯人の処罰を琉球王国側に要求しました。琉球王国はこの犯人を流刑にすると公表します。
一方、殺された乗組員と一緒に酒を飲んでいた2人の乗組員も、アメリカ側の軍法会議にかけられて処罰が決められました。当事者だけを処罰する形での着地でした。
弱み見せられないから、ペリーはペリーである程度強気に出るしかないですよね。武力は見せつつ使わないみたいな。かましつつ、懐柔もしてはいけない。
「明日の昼までに首里城を占領する」というブラフ
琉球との条約交渉は、ペリーとペリー艦隊にとって予行演習になりました。ここでペリーはいくつかの成功体験を得ます。
まず、武力による脅しの成功体験です。ペリーは琉球王国に、石炭の貯蔵庫の設置、アメリカ人が市場で自由に売買できること、密偵によるアメリカ人の尾行の廃止を要求しました。
琉球王国の首脳陣は、これらを拒否します。貯蔵庫の設置も交易も断り、密偵については道案内だと弁明しました。交渉は決裂します。
これに怒ったペリーは、帰り支度をしながら琉球王国側に強烈な言葉を投げつけます。明日の昼までに満足な回答が得られなければ、200名の兵士が首里城を占領する、というものでした。
いきなり来たね。
本来、アメリカは武力行使を禁じられていました。占領するというのは、縛りプレイの条件を隠したうえでのブラフです。これにビビった琉球王国側が同意し、ペリーはここで成功体験を得ました。
ペリーは既成事実の積み上げも行いました。首里城への訪問をあえて繰り返し、条約締結までは現地のお寺をアメリカ軍の宿泊地として、あたかも自分たちの領地のように利用し続けたのです。
琉米修好条約と、いまに続く沖縄とアメリカの関係
こうした結果、琉球王国とアメリカは条約を結ぶことになります。ペリーが琉球に来てから1年後のことでした。
もっとも琉球王国は清と日本の両方に属していたため、国際法上の条約締結の主体となれるかには疑問も残ります。それでもアメリカは、琉球の開国に成功しました。
琉米修好条約には、アメリカ人が必要とするものを適切な価格で販売すること、薪や水を供給すること、難破したアメリカ船の乗組員を救助することなどが定められました。
この琉球での交渉は、ペリーにとって遠方で開国させる初めての経験でした。実際に琉球で経験を積み、それを日本側との交渉に反映させていった流れだといえます。
楊さんは、これによって現在まで続く沖縄とアメリカの交流と摩擦の歴史が始まったとも言えると指摘します。琉球にとって、アメリカと結んだこの条約が初めての近代条約でした。
樋口さんが印象的だと挙げたのが、城に入る際に駕籠を用いた点です。ペリーは日本研究の中で、日本の殿様が駕籠に乗ることを知っていたと考えられ、あえて同じスタイルで威厳を見せつけたのではないかと語られます。
だから、そこでカゴに乗れるぐらいの地位なんだみたいな。お殿様かなみたいなのを、ビジュアルで見せるっていうね。
日本研究に基づく細やかなテクニックが垣間見えるエピソードでした。ただし、まだ舞台は琉球であり、江戸幕府との本番はこれからです。次回、いよいよ江戸への来航が語られます。
このシリーズの次のエピソードはこちら
まとめ
発砲を禁じられたペリーは、圧倒的な武力の威嚇と徹底した事前調査、そしてソフトパワーの併用という周到な戦略で日本開国に臨みました。最初のターゲットとなった琉球では、ブラフや既成事実の積み上げを重ね、本番の江戸交渉に向けた予行演習を積んでいきます。
- ペリーは当時のアメリカ最高クラスの司令官で、経験と人脈を兼ね備えていたが、遠征には当初乗り気でなかった
- 大統領から発砲を厳禁されており、撃てないまま大艦隊で威圧するという縛りの中で交渉する必要があった
- 理想の10隻はそろわず4隻での出発となったが、うち3隻は東アジア最強クラスの最新鋭蒸気軍艦だった
- 書籍代7500万円に及ぶ事前調査から、ペリーは武力だけでなく文化・技術のアピールも必要だと結論づけた
- 最初のターゲットの琉球では、駕籠での上陸や首里城占領のブラフで成功体験を得て、琉米修好条約を締結した




