国家予算8倍の相手と戦う?
前回までに、日本はロシアとの開戦を決めました。楊さんは、開戦を決めたあとも日本の指導層にとってこの戦争は「できれば避けたいもの」だったと説明します。
戦争に積極的だった山県有朋 ── 長州出身の軍人・政治家。陸軍の創設に深く関わり、明治から大正にかけて政界に大きな影響力を持った元老の一人ですでさえ、その積極性は「いずれ戦うなら今のほうがまし」という意味合いだったといいます。
その積極性っていうのは、いずれどうせ戦争しないといけないんだから、どのタイミングで戦うかで今の方がいいみたいな感覚であって、本当はもうマジで戦争したくないんですよ。
日本の指導層がためらった理由は、国力の差を正確に認識していたからです。楊さんが挙げた数字では、年間の国家予算は日本が2億5000万円、ロシアは20億円以上で、およそ8倍の開きがありました。
海軍でも、日本は開戦時に戦艦と装甲巡洋艦を6隻ずつようやく揃えた段階でした。一方のロシアは、極東とヨーロッパを合わせて戦艦12隻、装甲巡洋艦10隻を持っていたといいます。
| 項目 | 日本 | ロシア |
|---|---|---|
| 年間国家予算 | 2億5000万円 | 20億円以上 |
| 戦艦 | 6隻 | 12隻(極東とヨーロッパの合計) |
| 装甲巡洋艦 | 6隻 | 10隻(極東とヨーロッパの合計) |
こうした差があったため、開戦慎重派がいたのは当然で、賛成派も「よっしゃ戦争したろ」という気分ではなかったと楊さんは語ります。指導層は「いつ死ぬか」という感覚の中で開戦を決めていた、というのが楊さんの見方です。
開戦を望まなかった明治天皇は何を語ったか
明治天皇も戦争を避けたかった一人でした。楊さんは、開戦を決めた御前会議の決定文面そのものに、その姿勢がにじんでいると指摘します。
決定文は「帝国政府は自衛のため、ならびに帝国既得の権利を擁護するため、必要と認める独自の行動をとる」というものでした。楊さんはこの文面を「めちゃくちゃふわっとした」表現だと評しています。
必要と認める独自の行動をとるっていう、まあなんかやむなく独自の行動を取るしかないよねっていう、なんかこう、戦争するみたいな、なんかそういう感じじゃないですね。
ここで樋口さんが、明治時代の天皇の立場を補足します。建前上は天皇が最終決定権を持っていましたが、閣議決定を天皇が拒否しないことが暗黙の習わしになっていたといいます。
もし天皇が、このみんなが決めた閣議決定をひっくり返すと、何か首相が辞めたり、官僚が辞めたりとかですね、もうすごく政治的な混乱に至る可能性があるわけなんですよ。
御前会議も、調整がほぼ終わった状態で開かれる形式的な報告の場だったという考察があるそうです。ただし樋口さんは、明治天皇が何もしていなかったわけではなく、意見対立を調停するクッション材のような役割を果たしていたとも述べています。
明治天皇は開戦決定に際して、自らニコライ2世 ── ロシア帝国最後の皇帝。在位は1894〜1917年で、日露戦争時のロシアの君主です。のちのロシア革命で退位し、家族とともに処刑されましたに手紙を書こうと粘ったものの、その余裕はないと説明されたといいます。
開戦が決まった日の夕方、明治天皇は日常生活の場で独り言として本音を漏らしたと伝えられています。その言葉は「今回の戦は朕が志にあらず、然れどもことここに至る。これをいかんともすべからざるなり」というものでした。
さらに明治天皇は、万一敗北すれば祖先に何と詫び、国民にどんな顔をすればよいのかと語り、その夜は一睡もできず食事もとれなかったそうです。
樋口さんは、この時期に明治天皇が詠んだ御製も紹介しました。「四方の海 皆はらからと思ふ世に など波風の立ち騒ぐらん」は、世界は兄弟姉妹のような平和な時代だと思っているのに、なぜ動乱の兆しが立つのかという心情を詠んだ歌です。
一方で楊さんは、「世界はすべて兄弟姉妹」という言葉を朝鮮や清の人が聞いたらどう感じただろうか、とも投げかけます。明治天皇を好きだと言いつつ、同じ出来事にもいろいろな見方ができる、というのが二人の受け止めでした。
「日本が勝つと見込む者は一人もいない」伊藤博文と参謀たちの本音
総理大臣ではなかったものの重要人物だった伊藤博文も、もともと開戦に反対で、見通しはかなり悲観的だったといいます。
御前会議のあと、伊藤は金子堅太郎 ── 明治の官僚・政治家。ハーバード大学に留学した経験があり、日露戦争中はアメリカで日本への支持を得るための広報外交を担いましたを呼び、アメリカを味方につける世論工作を依頼しました。金子はハーバード大学出身で、セオドア・ルーズベルト大統領とも面識があったからです。
伊藤が金子に伝えた言葉は、陸軍・海軍・大蔵省の誰一人として日本が確実に勝つとは見込んでいないが、放っておけばロシアは満州を占領し朝鮮を侵略し、日本を脅かす、というものでした。ロシア軍が迫れば自分も鉄砲を担いで防ぐ決心だ、とまで語ったそうです。
金子は出発前に、陸軍の児玉源太郎と海軍の山本権兵衛にも戦争の見通しを尋ねています。児玉は、ロシア軍1万に対して3倍の3万をあてて最初に敵の士気をくじくつもりだと答えました。
まあ要は戦闘が10回あったら5回は勝つように頑張るけど、5回は負けると思うって言ってるってことですね。
児玉は、今のところ五分五分の見通しを、苦心の末に6対4にしたいと語ったといいます。作戦を立てる参謀の中心人物でさえ、このくらいの見込みしか持っていなかったことになります。
海軍の山本権兵衛は、日本の軍艦を半分沈める覚悟で勝利の策を考えている、それ以上は話せない、と答えたそうです。
楊さんは、軍事的に勝てそうにないからこそ外交の力が重要で、金子のアメリカでの世論工作が大きな意味を持ったと整理します。日本の指導層は全員で崖っぷちに立たされているような感覚だった、というのが楊さんの表現です。
ロシア側は「たやすく粉砕できる」と見ていた?
日本の悲壮感とは対照的に、ロシア側の空気はかなり楽観的でした。楊さんは、ロシアの政治家ウィッテ ── ロシア帝国の政治家。財務大臣などを歴任し、シベリア鉄道建設を推進しました。日露戦争後のポーツマス講和会議ではロシア全権を務めていますの回顧録を紹介します。
回顧録によると、開戦派の内務大臣プレーヴェは慎重派に対し、国民の中にある革命気分を抑えるには、少しでも戦争に勝って為政者の威信を示す必要があると語ったといいます。
ウィッテはこの発言を「実に驚くべき言葉である」と批判的に書き残しました。皇帝や周囲も、日本は多少の努力でたやすく粉砕でき、軍費も賠償させられると考えていたのだろう、とウィッテは記しています。
楊さんによると、ロシアの閣僚たちは、日本を大陸から追い出したあと満州に農民や都市の失業者を移住させ、領土化するという明るい未来まで描いていたそうです。国家予算で8倍の差があれば、実際に戦えばロシアが勝つはずだ、というのが当時の構図でした。
短期決戦か、大軍で押しつぶすか。日露それぞれの基本戦略
日露双方の基本戦略について、楊さんはまず概略を説明します。ロシアの中心は西のモスクワにあり、満州はロシアから見て遠く外れた場所でした。
日本の戦略は、ロシアの援軍が到着する前に極東のロシア軍に大打撃を与え、戦況が有利な段階でイギリスやアメリカに講和の仲介を頼んで早期に終わらせる、というものでした。金子をアメリカに送ったことや日英同盟 ── 1902年に結ばれた日本とイギリスの同盟。ロシアの南下を警戒する両国の利害が一致して成立し、日露戦争で日本の外交を支えましたも、この戦略の一部です。
ロシアの戦略は、旅順とウラジオストクを拠点とする太平洋艦隊で日本海の制海権を握り、日本軍の補給を断ったうえで、シベリアとヨーロッパから送る陸軍の大軍で日本軍を壊滅させる、というものでした。楊さんはこれを「当たり前」の戦略だと評しています。
援軍が来る前に極東ロシア軍へ大打撃を与え、有利なうちに英米の仲介で講和する短期決戦
太平洋艦隊で制海権を握って補給を断ち、シベリアとヨーロッパからの大軍で壊滅させる
ただ、ロシア陸軍の指揮官クロパトキンが満州に向かう前夜にウィッテへ語った内容は、少し違う面を見せています。準備が整っていないため、兵力が補強されるまではハルビンを目標に後退し、援軍と合流してから日本軍を粉砕するというものでした。
楊さんは、この構想は基本戦略と矛盾はしないものの、すでに退却を前提にしている点に注目します。日露戦争でロシア軍は実際によく退却しますが、その思想はこの時点からあった、というのが楊さんの指摘です。
分断して各個撃破。日本陸軍が電柱を建てながら進んだ理由
日本陸軍の基本戦略は、極東ロシア軍を南の旅順方面と北の奉天方面に分断し、それぞれを各個撃破することでした。そのために、旅順・大連より北に主力を上陸させ、朝鮮半島から鴨緑江を越えて満州へ部隊を進め、東西の連携も断つ計画でした。
分断
旅順方面と奉天方面、満州とウラジオストク方面のロシア軍を南北・東西で切り離す
各個撃破
孤立したロシア軍を一つずつ叩く
遼陽で決戦
合流して北上し、準備が整う前の主力を遼陽付近で撃破する
増援を叩く
その後は援軍が到着するたびに優勢な戦力で打ち破る
楊さんは、日本陸軍の狙いが土地の占領ではなく、敵の戦力をそぐことにあったと説明します。一度に集まられると量で負けるため、集まる前に孤立させて叩く、という考え方です。
この作戦の前提として、楊さんは3つの条件を挙げています。黄海の制海権を確保して輸送路を守ること、開戦直後に朝鮮半島を制圧すること、遼東半島への奇襲上陸を成功させることです。
戦術面では、日本陸軍はドイツ軍を模範にしていました。弱い軍が強い軍に勝つため、動き回って退路を断ち包囲する機動戦を重視し、先制と集中による即戦即決を原則にしていたといいます。
その実現に欠かせなかったのが部隊間の連絡で、日本軍は野戦で有線電信や電話を最大限に活用しました。部隊が進むのと同じ速さで電柱を立てて電線を引いたそうです。
これはすごくやっぱ効いたみたいだね。はい。ロシアはそうしなかったんで(部隊同士が)連携できないんですよ。
樋口さんは、以前の回で朝鮮の農民が日本軍の電線を壊し、川上操六が厳しい措置を命じた話を思い出させます。それほど電信線は作戦上の重要なインフラだった、というわけです。
旅順艦隊を潰せるかがなぜ勝敗を分けるのか
日本海軍の基本戦略は、陸軍が必要とする黄海の制海権を確保することでした。そのためには、旅順艦隊、仁川派遣隊、ウラジオストク艦隊からなるロシア太平洋艦隊を撃滅するか、出てこられない状態にする必要がありました。
とくに主力は旅順港を拠点とする旅順艦隊でした。楊さんは、この艦隊を早く潰せなければ補給が脅かされ続け、ただでさえ五分五分の陸軍が負け確定になる、と説明します。
海軍は、旅順艦隊に戦力を集中して撃滅し、出てこなければ旅順港を完全に封鎖する計画でした。さらにヨーロッパ側のバルチック艦隊 ── ロシアがバルト海に置いていた艦隊。日露戦争中に極東へ派遣され、1905年の日本海海戦で日本の連合艦隊と戦いましたが太平洋艦隊に合流すれば、日本に勝ち目はなくなります。
そのため、バルチック艦隊が来る前に旅順艦隊を潰すことが日本海軍のミッションになった、と楊さんは整理しています。
国家予算の20%超を投じた六六艦隊計画
日本は日清戦争の直後から、清から得た賠償金をもとに海軍の拡張に取り組んでいました。三国干渉でロシアの武力に屈した経験もあり、当時はロシア1国にも太刀打ちできないという感覚だったといいます。
そこで始まったのが六六艦隊計画です。鋼鉄戦艦を1隻も持たなかった日本が、世界最先端の戦艦6隻と巡洋艦6隻を揃えようという計画でした。
巡洋艦と戦艦の違いについて、樋口さんがわかりやすく説明しています。
中くらいの大砲がついてて速いみたいなのが巡洋艦で、でっかい大砲がついてて遅いのが戦艦ですね。
戦艦は、イギリスで建造中の富士と八島に加えて4隻を、当時のイギリスの一級戦艦より強力な1万5000トン級にすることが決まりました。巡洋艦もすべてに装甲を施した一級品を6隻揃える計画でした。
この計画には国家予算の20%以上が投じられ、国民に増税と厳しい生活を強いることになりました。スローガンは臥薪嘗胆 ── 薪の上に寝て苦い肝をなめる、という中国の故事に由来する言葉。三国干渉後の日本で、復讐のために苦労に耐える合言葉として広まりましたです。楊さんは、これがなければ日露戦争には勝てなかったと評価しています。
計画を考えたのは薩摩出身の山本権兵衛で、新たにイギリスで造られたのが敷島、初瀬、朝日、そして旗艦の三笠でした。三笠は大きすぎてスエズ運河を通れず、アフリカ南端を回って日本に運ばれたそうです。
三笠はイギリスの一級戦艦より副砲が2門多い14門を積んでいました。イギリス議会では自国より強い艦を渡すのかと問題になったものの、日英同盟もあって容認されたといいます。
漆で生まれた下瀬火薬と、無線・射撃統制という切り札
日本は艦だけでなく火薬も改良しました。砲弾を飛ばす発射火薬はイギリス製でしたが、着弾時に爆発する炸薬に独自の工夫を加えたのが下瀬火薬です。
当時ヨーロッパで使われ始めていたピクリン酸 ── 黄色い結晶の化合物で、強力な爆薬として使われました。金属と反応しやすく、砲弾に詰めると危険な化合物をつくる性質がありましたは、鉄に触れただけで発火する性質があり、砲弾に詰めにくいものでした。海軍技師の下瀬雅親が漆を使ってピクリン酸と鉄を分離する技術を開発し、実用化に成功したといいます。
楊さんによると、下瀬火薬は一般的な黒色火薬よりはるかに強力で、着弾すると周囲を焼き尽くすような発火を起こしたそうです。着弾で起爆させる信管も、伊集院悟郎海軍少佐が伊集院信管を開発しましたが、実際には不発もあったといいます。
さらに日本は無線の国産化に成功し、約80海里、150キロほど離れた地点まで確実に届く三六式無線機を海軍で実用化しました。楊さんによれば、ロシアはこの無線を持っていなかったそうです。
もう一つが射撃統制です。距離を測る測距儀を整備し、一斉射撃を体系的に訓練して命中率の向上に力を注いだといいます。
T字戦法とは何か?牙を磨いて迎える開戦
日本海軍の主要戦略には、T字戦法もありました。自軍の艦隊を敵の進行方向に対して横につけ、敵がTの縦線、味方が横線になる形をつくる戦法です。
楊さんは、船の砲台は側面にたくさん並んでいるため、この形になれば全砲台を敵の先頭艦に集中できる、と説明します。敵は縦に並んでいるので、後ろの艦はほとんど撃てません。
敵と並走するなど通常の位置関係では、敵の多くの艦も砲撃に参加できる
敵の進路を横からふさぐと、味方の砲をすべて敵の先頭艦に集中でき、後続艦は撃ちにくくなる
ただし、T字の形をつくるには高度な操艦技術が必要です。船は車のようにすぐ曲がれないうえ、形ができた瞬間に全砲台を一斉に向ける射撃統制も欠かせず、日本海軍はその両方を訓練していました。
最後に楊さんは、次回ついに両軍が衝突すると予告します。各将校のその後の判断の多くはこの回で紹介した戦略に基づいている、というのが戦略を詳しく紹介した理由でした。
勝てるはずのないロシアっていう大国にどうやって勝つかっていうのは、やっぱ本当にみんなで死ぬほど考えてね、戦うっていうのをやったっていうのが、こういうところ一つ一つに出てる。
楊さんは、清や朝鮮が日本のような体制に持っていけなかったことが大きな違いだったとも語り、外交・陸軍・海軍・技術を総動員する日本の準備を振り返って、この回を締めくくっています。
まとめ
日露開戦前夜の日本は、国家予算で8倍の差があるロシアを前に、指導層の誰もが勝利を確信できない状態でした。そのなかで、短期決戦と外交による講和を柱に、陸海軍の戦略と技術開発を一つずつ積み上げていった様子が、この回で整理されています。
- 明治天皇や伊藤博文、児玉源太郎らは、開戦を決めながらも敗北の可能性を強く意識していた
- ロシアは国内の革命気分を抑える狙いもあり、日本をたやすく粉砕できると楽観していた
- 日本陸軍は分断と各個撃破を狙い、電柱を建てながら進む有線通信で連携を支えた
- 日本海軍は旅順艦隊の早期撃滅を最重要とし、六六艦隊計画、下瀬火薬、無線、射撃統制、T字戦法を備えた





