宣戦布告の前に戦闘は始まっていた?
日露戦争編の第10回は、1904年の開戦から話が始まります。楊さんによると、日本は1904年2月4日の御前会議で開戦を決め、2日後の2月6日にロシア政府へ国交断絶の公文書を出しました。楊さんは、これを事実上の宣戦布告と説明しています。
一方のロシア側では、旅順にいた極東総督アレクセーエフがこの通知を受け取りながら、ごく一部の者にしか知らせませんでした。2月9日に予定していた幹部会議で伝えるつもりだったとも言われます。楊さんによると、アレクセーエフはいきなり攻撃されるとは思っていなかったそうです。
なるほど。(国交断絶の知らせを)3日寝かせるとかどういう判断なんだろうね。
日本側は、ロシアの対応を待たずに動きました。国交断絶の日に陸軍の先遣隊が佐世保を出て、2月8日に仁川へ上陸します。先遣隊を援護する海軍とロシア艦隊のあいだでも戦闘が始まり、さらに連合艦隊が旅順口外のロシア艦隊を奇襲しました。
日本の宣戦布告は、戦闘が始まった2日後でした。楊さんによると、当時は宣戦布告についてはっきりしたルールがありませんでした。ただ、このやり方はよくないという議論になり、日露戦争のあとにルールが作られたといいます。
仁川の晩餐会と、仲の悪い陸軍・海軍
樋口さんは、仁川への先遣隊派遣をめぐって日本側で起きた2つのドタバタを紹介します。1つ目は現地での工作です。仁川の港にはロシアの巡洋艦が停泊していて、先遣隊はその目の前で気づかれずに上陸しなければなりませんでした。
目くらましとして晩餐会を開くんですよね。で、その晩餐会が終了する否や、暇を与えることなく、すぐさま二次会の会場に案内するみたいなことをやってるんですよね。
京城(今のソウル)の日本大使館は、上陸の夜に各国の大使や駐在武官を招いて宴を開きました。樋口さんによると、お金に糸目をつけずに各国の軍人を徹夜で飲ませ、酔い潰すのが目的だったといいます。深井さんは、国交断絶から派兵、奇襲、外交官の足止めまでが一度に進んだ点を「すごい連携プレイ」と評しています。
2つ目のドタバタは、陸軍と海軍の対立です。樋口さんによると、陸海軍はもともと仲が悪く、開戦の時期や先遣隊の派遣、のちの旅順要塞の攻略でもたびたび揉めました。さらに、海軍の山本権兵衛と陸軍参謀本部次長の田村田村伊与造が、どちらも人の言うことを聞かない性格でした。
陸海軍の橋渡しに動いたのは児玉源太郎 ── 明治期の陸軍軍人。日露戦争では満州軍総参謀長として作戦を支え、陸軍屈指の知将として知られますで、両軍の人を集めて飲み会を開いたりもしました。それでも関係はなかなか良くなりませんでした。
海軍案を優先
制海権を取るため、まずロシア艦隊に一撃を加えることにした
陸軍がしぶしぶ納得
すぐ船を出せるという海軍の説明を受け入れた
海軍の出港が遅れる
石炭の積み込みに時間がかかり、船が出なかった
陸軍が先に動く
しびれを切らした参謀総長の大山巌が、先遣隊の派遣に踏み切った
陸軍はどうやって南北分断に成功したのか
陸軍は日露戦争で第一軍から第三軍までの3つの軍を編成しますが、開戦直後にあったのは第一軍と第二軍だけでした。楊さんによると、第一軍は2月16日から3月10日ごろにかけて朝鮮に上陸し、北上して5月ごろに鴨緑江の渡河作戦を始めました。
鴨緑江の戦いで、第一軍は3個師団分の兵力を集め、対岸に布陣するロシア軍6000人を圧倒しました。楊さんは、局地戦で大兵力を使って圧倒することがもともとの戦略だったと説明します。開戦から3か月ほどで、第一軍は満州への進出を果たしました。
第二軍は、南北分断の主力として遼東半島に向かいました。荒波でなかなか上陸できなかったものの、5月末には大連の北方に上陸します。そこから南下して南山などを占領し、ロシア軍は大連を放棄して旅順要塞へ退きました。
こうして日本軍は、遼東半島と満州南部に総兵力20万人を送り込み、ロシア軍の南北分断に成功します。楊さんは成功の理由として、日本が準備を整えてから開戦したことを挙げます。また、準備不足のロシア軍が日本の上陸や渡河を妨害できなかったことも大きかったといいます。
なぜ旅順は「要の土地」になったのか
南北分断には成功したものの、ロシア軍は旅順要塞にこもりました。楊さんによると、旅順は海軍にとっては制海権を得るために押さえるべき港です。陸軍にとっても、北へ攻め上がるときに背後から挟み撃ちされないよう、潰しておくべき場所でした。
開戦時の海軍は、旅順を奇襲すると同時に、仁川にいたロシアの派遣隊も攻撃しました。巡洋艦2隻ほどの派遣隊に対し、日本は巡洋艦5隻と水雷艇 ── 魚雷などの水雷兵器で敵艦を攻撃する小型で高速の艦艇を合わせた14隻で火力を集中させ、すぐに壊滅させています。
ただ、ロシア太平洋艦隊の主力は旅順港にいました。日本海軍の狙いは、奇襲で旅順艦隊を港から誘い出し、丁字戦法で撃滅することでした。
戦って勝つとかいうレベルじゃなくて、撃滅しないといけない。一掃しないといけないわけです。ロシアの海軍力っていうのを。
楊さんは、海軍の任務が重い理由を補給路で説明します。ロシアの艦隊を無力化しないかぎり、陸軍へ兵力を送るたびに海上で攻撃される危険が残るからです。しかし、旅順艦隊は港から全然出てきませんでした。
楊さんによると、旅順艦隊にとっては港にいるだけで日本の制海権を脅かせるので、わざわざ出て戦う理由がありません。いつ出てくるかわからないだけで十分に機能するという状態が、日本海軍を追い詰めていきます。
旅順港閉塞作戦はなぜ失敗したのか
焦った連合艦隊は、旅順港の入り口に船を自沈させ、旅順艦隊を港内に閉じ込める作戦に出ます。船が港に残っていても出てこられなければ、制海権を脅かす存在ではなくなる、という考えです。これが3回にわたって実行された旅順港閉塞作戦です。
| 回 | 内容 | 結果 |
|---|---|---|
| 第1次 | 商船5隻を闇夜に突入させた | サーチライトと砲台に妨害され、2隻しか予定位置で沈められず失敗 |
| 第2次 | 約1か月後、商船4隻を突入させた | 効果的な場所に沈められず失敗。広瀬武夫少佐が戦死 |
| 第3次 | 老朽商船12隻と護衛艦隊で出撃した | 悪天候で中止命令が出たが徹底されず、8隻が突入して失敗 |
自分の乗る船を沈める作戦には死の危険がつきまといますが、救助の仕組みはあり、帰還できた人も多かったそうです。それでも第3次作戦では悪天候のため救助がうまくいきませんでした。隊員158名のうち無事に収容されたのは43名で、24名が収容後に死傷し、91名が行方不明になりました。
第2次作戦で戦死した広瀬武夫少佐について、楊さんは、作戦に失敗した人であり救国の英雄ではないと説明します。それでも当時の日本はマスメディアで戦意を高めていて、広瀬少佐は新聞で大きく報じられました。東京での葬儀には大勢の人が集まり、「軍神」として崇められたといいます。
連合艦隊司令長官の東郷平八郎 ── 日露戦争で連合艦隊を率いた海軍軍人。のちの日本海海戦の勝利で世界的に知られるようになりますは、開戦前に閉塞案が出たときには消極的で、実行しませんでした。途中から実施して失敗したため、東郷はこのとき更迭されかけていたそうです。
深井さんは、閉塞作戦には米西戦争の前例があると補足します。キューバでアメリカ軍がスペイン軍に対して行ったときも、閉塞そのものには失敗しました。ただ、出口を狭めたことで、一列で出てきた敵艦を沈めることができました。旅順では、それもうまくいかなかったといいます。
マカロフの出撃と機雷の恐怖
ロシア政府は、積極的に動かない旅順艦隊に業を煮やしていました。楊さんは、決死の覚悟の日本側に対して、ロシアの兵士はニコライ2世のために死にたいとは思っておらず、士気が違ったと話します。
ロシア政府は、戦力温存主義のスタルク中将を解任し、積極派のマカロフ中将を後任に据えました。マカロフは着任するとすぐに方針を180度転換し、4月に旗艦ペトロパブロフスクに乗って出撃します。
ところが、ペトロパブロフスクは港を出た直後に日本海軍の機雷 ── 水中に仕掛け、艦船が触れたり近づいたりすると爆発する兵器に触れて沈没しました。マカロフと乗組員700人が戦死し、旅順艦隊は再び港にこもります。
(ロシアの)出鼻をくじくのに成功してんだけど、撃滅しないといけないから。
日本側も機雷の被害を受けます。5月中旬、毎日同じ航路で哨戒していた戦艦の初瀬と八島が、ロシアの機雷に触れて沈みました。「六六艦隊」として国の大きな予算を注いで揃えた主力艦のうち、攻撃力の高い戦艦が一度に2隻失われたことになります。
ただでさえ戦力が少なくて、ギリギリ勝てるかもみたいな戦力しか持ってないのに、軍艦2隻潰れるんですよね、これで。
ロシアはなぜウラジオストクをめざしたのか
マカロフの戦死後、戦力温存主義をとっていたアレクセーエフは、自分が旅順を離れると積極的に戦えと方針を変えます。楊さんは、自分の身が可愛いということだと解釈しています。
アレクセーエフは、マカロフの後任ウィトゲフトに、ウラジオストクへ向かうよう命じます。ウラジオストクには別の艦隊があり、日本軍も上陸できない安全な場所です。また、旅順要塞が陸から落とされれば、港の艦隊も破壊されるおそれがありました。
アレクセーエフの戦略の先には、バルト海にいるバルチック艦隊の到着がありました。旅順艦隊と同じくらいの規模の艦隊で、合流すれば戦力は倍近くになります。ただ、アフリカ南端を回る遠い航路をとる必要がありました。
ロシアの太平洋艦隊と日本の艦隊、連合艦隊はほぼ互角なんですよね。でも日本の戦艦、2隻沈んでるから、太平洋艦隊だけで日本はちょっと劣勢だったんですよ。
一方、ウィトゲフト本人は、残された道は援軍が来るまで旅順を死守するか、出航して壊滅するかの2つしかないと考えていました。楊さんによると、ウィトゲフトは「ウラジオストクへの道は死でしか実現できない」とまで言っていたといいます。
丁字戦法はなぜ難しいのか
命令を受けた旅順艦隊は、ウラジオストクへ向けて港を出ます。連合艦隊も迎え撃つために出撃し、劣勢にもかかわらず「やっと出てきた」と喜ぶような雰囲気だったそうです。
しかし、両艦隊が夕方に接触すると、ロシア艦隊はすぐに旅順港へ逃げ帰りました。楊さんは、相手がまっすぐ進まなければ、動き続けながら進路をふさぎ続けなければならず、丁字戦法 ── 敵艦隊の進路をふさぐ形で横に並び、先頭の艦に砲火を集中させる艦隊戦術に持ち込むのは難しいと説明します。
黄海海戦でウィトゲフトはなぜ戦死したのか
旅順港に逃げ帰ったロシア艦隊は、世界の新聞で戦意喪失だと厳しく批判されます。そこで皇帝ニコライ2世が、自ら旅順艦隊にウラジオストクへ向かうよう命じました。
旅順艦隊は、戦艦6隻、巡洋艦4隻、駆逐艦8隻で出撃しました。楊さんは、日本の艦隊といい勝負だったと話します。連合艦隊は昼の12時半に旅順艦隊を見つけ、前回の失敗を踏まえて旅順側に回り込みながら丁字戦法をねらいました。
ところが、ロシア艦隊は全速力でウラジオストクへ向かいます。連合艦隊は引き離されて後ろから追う形になり、夕方17時半ごろにようやく追いつきました。1時間ほどの砲撃戦で、旗艦三笠の30センチ砲弾が敵の旗艦ツェサレーヴィチの艦橋に命中し、ウィトゲフトが戦死します。
(ロシアの指揮官は)先頭にいるからね。日本軍はほら、大砲を撃つ練習をめちゃめちゃしてるから。
指揮官を失った旅順艦隊はバラバラに散りました。18隻のうち旅順に戻ったのは10隻で、そのうち8隻は実際には戦力を失っていたそうです。残りの8隻も他国の港で武装解除されたり、座礁したりしました。
ロシア艦隊はウラジオストクへたどり着けませんでした。それでも日本側からは、多くの艦が港に戻ったように見えました。そのため、日本にとってこの戦いは作戦失敗と受け止められ、丁字戦法は大丈夫なのかという問いも残りました。
海軍の失敗が陸軍の作戦を変えた?
黄海海戦で旅順艦隊を撃滅できなかったため、陸軍が陸から旅順を攻めなければならなくなります。残った艦隊がバルチック艦隊と合流すれば、日本にとって非常に危険だったからです。
少数の部隊で旅順を押さえ込み、主力は局地戦で数的優位をつくって戦う
旅順要塞の攻略に兵力を割くことになり、陸上では常に劣勢の兵力で戦う
本当はごく少数の部隊で旅順を押し込めて放っておくっていう作戦だったのに、この海上戦力っていうのを撃滅できなかったがために、どうしても旅順要塞を落とさなきゃいけないっていう話になっていくんですよ。
同じ黄海海戦の時期に、日本の輸送路を荒らしていたウラジオストク艦隊も出撃してきました。この艦隊は日本軍に敗れています。楊さんは、本当に邪魔だった艦隊を叩けたので、この点は成功だったと話します。
番組では、戦場ではロシアも日本も当初の作戦目的をなかなか実現できない、という話にもなりました。完全な成功が難しいからこそ、より多くのミスを重ねた側が負けていくのではないか、という見方が示されています。
挙国一致の日本と、責任者探しのロシア
開戦直後の日本は、社会を広く巻き込んだ挙国一致の雰囲気でした。鴨緑江の戦いなどで勝利が伝わると提灯行列で祝勝会が開かれ、広瀬少佐の戦死でさらに国民感情が高まりました。
ロシアも開戦直後は皇帝のもとで戦争を支持する空気がありました。しかし、敗戦や旗艦の沈没が続くと、誰のせいかという責任者探しが始まります。アレクセーエフや陸軍のクロパトキンに本当に能力があるのか、と国内でささやかれるようになりました。
責任者見つけても何も解決してないんだけどね。
ロシア国内では、ユダヤ人のせいだという声も上がりました。内相のプレーヴェがテロで殺害され、農民の反乱や労働者の運動、学生や知識人の反政府活動も起きていました。番組では、国民国家になれたかどうかの差が挙国一致の成否に影響した、と整理されています。
挙国一致の体制で、勝利のたびに祝勝会が開かれ、戦意が高まった
敗戦が続くにつれて責任者探しやユダヤ人への非難、テロ、反乱が起こり、国内が揺れた
楊さんは、海軍が旅順口を押さえられなかったことで陸軍に旅順攻略の必要が生まれ、それが今後の戦局を大きく左右すると締めくくります。国内の空気には差がついてきましたが、ロシアとの実力差は依然として大きく、バルチック艦隊もまだ控えていました。
まとめ
開戦直後の日本は、陸海軍の連携と入念な準備で南北分断に成功しました。一方で、旅順艦隊を撃滅するという海軍のメインミッションは果たせず、そのことが陸軍の旅順攻略という新たな重荷につながっていきます。
- 日本は宣戦布告の前に仁川上陸と旅順奇襲を行い、陸軍は満州への進出と南北分断に成功した
- 旅順艦隊は港にいるだけで日本の制海権を脅かし、閉塞作戦は3回とも失敗した
- 機雷で両軍とも主力艦を失い、黄海海戦でも日本は丁字戦法による撃滅を果たせなかった
- 海軍の失敗によって陸軍は旅順要塞を攻略しなければならず、陸上では劣勢の兵力で戦うことになった
- 挙国一致の日本に対し、ロシアでは責任者探しや反乱が広がったが、両国の実力差は依然として大きかった





