教育が「学問」になったのはいつから?
教育の歴史編の前回までは、啓蒙主義の思想家ルソーの教育論が扱われてきました。今回はその実践編として、ルソーの考えを現場で形にしていった人物の話に入ります。
深井さんによると、ルソーは1712年から1778年、フランス革命の直前まで生きた人物です。1700年代後半から1800年代にかけてはフランス革命や産業革命が起こり、それまで啓蒙思想家が考えていたことが、社会の中で実際に実装されていく時代に入っていきます。
教育の分野で次の時代に求められたのは、ルソーが語った「貧富の差に関わりなく、子どもは可能性を持っている」という考えを、より具体的・体系的に説明することでした。子どもがどう正しい知識を身につけ、道徳的な能力を育てるのか、そしてそのためにどんな教え方がベストなのかを考える人たちが現れます。
この人たちの登場によってですね、ついに教育というのが教育学として、一つの学問領域として成立していきます。
それまで教育は、科学としては扱われていなかったといいます。教育学の成立に関わった人物は何人もいますが、今回はその中でもとくに感動的な生涯を送った一人に絞って紹介されます。
52歳で教師に。遅咲き系偉人ペスタロッチ
今回の主役はヨハン・ハインリヒ・ペスタロッチ ── スイスの教育実践家・思想家。孤児や貧民の子どもの教育に生涯を捧げ、直観を重んじる教授法で近代教育学の基礎を築いたとされますです。1746年から1827年を生きた人物で、ルソーとも生きた時代が重なっています。
深井さんは、ペスタロッチが民衆や貧困層にどう教育を広げ、子どもの可能性をどう拡大するかに生涯をかけて取り組んだ人物だと説明します。樋口さんは「しかもめちゃくちゃ愛を持ってやっていく」と付け加えます。
超愛を持ってやって、本人は本当に不遇なまま死んだりしちゃってる人なんですね。
ペスタロッチが生きたのは、フランス革命とその余波で揺れる動乱の時代でした。スイスにもナポレオン軍が侵攻してくるような混乱の中で、ペスタロッチは52歳ごろから教師になり、世界の教育を変えていきます。
遅咲きすぎるでしょ。
また出てきたよね、遅咲き系偉人。
ペスタロッチの教育実践は評判になり、アメリカにまで影響を与えました。それでも本人は政治家として要職に就いたわけでも、大学教授になったわけでもありません。前半生は農場経営や文学者として過ごし、後半生は私立の男子校の経営者をしていました。
文学者としてはある程度成功したものの、どの仕事も大きな成功には至らなかったといいます。ただし、ペスタロッチが愛情を注いだ学校の子どもたちは次々と開花し、貧困層の子どもが立派に育っていきました。
深井さんは、ペスタロッチ自身が学生時代に教師と対立するような模範生ではなかったこと、さらに集まった賛同者もはみ出し者ばかりだったことを挙げ、歴史の面白さを語ります。
そう、はみ出し者が作ったものが、今の僕らの当たり前になってるっていうことがあるっていうのは。
母と使用人バーバラ、祖父の背中から得た原体験
ペスタロッチはチューリヒの市街区に生まれました。父は外科医でしたが、当時の外科医は職人の扱いで、今ほど社会的地位は高くなかったといいます。その父も、ペスタロッチが5歳のときに亡くなってしまいます。
父を亡くした一家は経済的に苦しかったものの、ペスタロッチ本人は母スザンナとお手伝いのバーバラから深い愛情を注がれたと振り返っています。バーバラは父の死に際に「この家を頼む」と託され、それを愚直に守って家計を支え続けました。
晩年、82歳ごろのペスタロッチは、バーバラに対して「この女性のことを一生忘れることはできない」と感謝の言葉を残しています。深井さんはこれを「愛情のバトン渡し」と表現しています。
もう一つの原体験は、牧師だった祖父アンドレアスです。祖父は自分の教区の貧困家庭を訪問して悩みを聞いており、ペスタロッチはしばしばそれに同行していました。都市から離れた農村で、都市住民に搾取されて貧困に苦しむ農民の姿を目にしたことが、生涯の方向性を決めたようだと深井さんは話します。
ペスタロッチ自身は、農民が好ましく思えたこと、その生き生きとした力が顧みられず放置されている農民教育の拙さを残念に感じたことを語っています。そして青年時代のごく早い時期に、農村の教育改善のために力を捧げたいという思いが湧いたといいます。
でも本人は都市部に住んでたんですよね。ペスタロッチは。そこのシンパシーが面白いですね。
ルソーに傾倒して退学、無謀な農場経営へ
生まれの悪くなかったペスタロッチは、当時考えうる最高の教育を受けました。しかし暗記中心の学校教育は面白くなかったらしく、教師からは落ちこぼれと見なされていたといいます。
その後、ペスタロッチは文献学と哲学を専攻して聖職者を目指します。ちょうどこの頃、ルソーの社会契約論 ── ルソーが1762年に刊行した政治思想の書。人民の一般意志に基づく国家のあり方を論じ、フランス革命にも影響を与えましたとエミール ── ルソーが1762年に刊行した教育論。架空の少年エミールの成長を通じ、子どもの自然な発達を尊重する教育を説きましたが刊行され、すぐに発禁処分となります。
それでもルソーの思想はチューリヒの学生たちに大きな影響を与えました。ペスタロッチも恋人への手紙で「一緒にエミールを読もう」と誘っていたといい、楊さんは発禁本をそんなライトな感じで誘うのかと笑います。
熱心なルソー信奉者となったペスタロッチは、現状の政府に不満を持ち、チューリヒ政府から危険人物としてマークされるようになります。結果として退学し、牧師や官僚になる道も閉ざされて、将来の夢を突然失ってしまいました。
行き場を失ったペスタロッチが傾倒したのが、農業を重視する重農主義 ── 18世紀フランスで生まれた経済思想。富の源泉を農業に求め、農業生産を国の基礎と考えましたです。周囲から反対される中、ペスタロッチは農業経営者になることを決意します。
同じ時期、ペスタロッチは若くして亡くなった親友が想いを寄せていた女性に求婚します。7歳ほど年上の名家の女性で、退学させられた男との結婚は激しく反対され、ごく少数に祝福されるだけの結婚になりました。
自分は生活できる人間だと示そうとしたペスタロッチは、無理をして農場を買います。しかし経営能力がまったくなく、凶作も重なり、買った土地の土がそもそも農業に向いていませんでした。この頃に生まれた息子には、ルソーと同じ名前を付けています。
自分が窮地なのに開いた貧民学校
農場経営の中でペスタロッチの目に入ったのは、農村の貧しい子どもたちでした。深井さんが驚いたのは、ペスタロッチ自身が貧乏だったにもかかわらず、子どもたちを助け始めたことです。
当時のペスタロッチは、反対を押し切った結婚も農場経営も失敗し、名家の妻が持ってきた財産もほとんど失っていました。そんな最も苦しい時期に、わずかに残った農場と家屋を使って貧民学校を開いてしまいます。
ペスタロッチの考えでは、貧民に生まれた子どもは物乞いの手下か、裕福な農家で家畜同然に働かされるしかありませんでした。当時スイスにも広がっていたマニュファクチュアで児童労働をさせられれば、教育も受けられず、なおさら貧困から抜け出せません。
それでも、ルソーが言うように人間はみな可能性を持っているのだから、教育さえ受けられれば子どもたちはこの状況から抜け出せるはずだ、とペスタロッチは考えました。そこで貧しい子どもや浮浪児と寝食を共にし、一緒に農業をする生活を始めます。
当時の救貧施設は、パンを渡すような支援をしていました。しかしペスタロッチの目的は、子どもたちが経済的に自立するための技能を身につけること、そして家庭的な温かさを知らない子どもたちに愛情を渡すことにありました。
ペスタロッチは、貧困は施しでは救済されず、貧民自身が自らを助けて人間らしく生活する力を支援したときに初めて救われる、と語っています。深井さんは、この施しではなく自立を支えるという考え方が、現代の公教育のルーツの一つになっていると話します。
パンを渡すなどの施しで、目の前の困窮をしのがせる
自立に必要な技能と、家庭的な温かさを子どもに渡す
ペスタロッチは、貧しい子どもを安い労働力としてこき使っていた企業家たちにも激しい批判をぶつけ、「この子たちはあなたたちを富ませるために生きているわけではない」と訴えました。この人間観には、キリスト教的な考え方が影響しているらしいといいます。
一番めちゃくちゃキリスト教してると思う。多分イエスが彼に会ったらすごい褒めるんだと思う。
学校の閉鎖と、教育から離れた20年間
ペスタロッチの貧民学校では、言葉の暗唱ではなく、机や椅子を一緒に作るような手工業を通じて稼げる力を育てようとしました。子どもが働いて得たパンをみんなで分かち合う喜びのような、家庭的な体験も重視しています。
学校には20〜40人ほどの子どもがいたらしく、ペスタロッチは一人ひとりの性格や素質を観察してメモに残していました。誰に命じられたわけでもなく、お金もほとんどもらっていない中での取り組みで、深井さんは愛情と使命感のなせる業だと語ります。
ペスタロッチは学校を維持するために支援を呼びかけ、賛同者の助けで寄付を募る広告も出しました。しかし、実際にお金を出す人はほとんどいませんでした。
さらに貧困層の親たちからも批判されます。学校の運営費には子どもが作った椅子などの売上を充てていましたが、親からは「給料を払え」と迫られたのです。子どもは家の労働力だったため、親の言い分も理解できると深井さんは話します。
ペスタロッチ側は、学びながら施設を維持しなければ子どもたちは貧困から抜け出せないと考えていました。それでも学校はついに閉じられ、精神的にも金銭的にも追い詰められたペスタロッチは、友人に精神病院行きを心配されるほどの状態になります。
ここから20年間、ペスタロッチは本来やりたかった貧困救済のための教育にまったく取り組めませんでした。わずかな農地で自給自足をしながら著作活動に入り、農場での教育実践をまとめたり、未婚の母の支援をしたりしています。
支えてくれる人にも恵まれ、ペスタロッチは思想家・著作家として有名になっていきます。深井さんは「今から20年間不遇の時代を過ごしなさいと言われたらしんどい」と、その長さを強調します。
「アルプスの頂上でも」孤児院から再出発
転機は52歳のときに訪れます。ナポレオン軍の侵攻で多くの戦争孤児が生まれ、政府がペスタロッチに孤児院の院長を依頼したのです。妻を含む周囲は、また失敗するうえ治安も悪く命の危険もあると、全員が反対しました。
たとえアルプスの頂上で火がなくて水もないような状況でも、自分が貧民救済のために教育できるんだったらやるって言ってるんです。
しかし、戦況の変化や反対派の存在によって、この孤児院は半年ほどで閉鎖されてしまいます。深井さんによれば、貧困層と富裕層を混ぜて教育することや、貧困層を教育する必然性を、当時は誰も感じていなかったといいます。
ペスタロッチが孤児院で教育を実践できたのは、たった5か月間でした。それでも、この時期の実践を含む取り組みが、のちにヨーロッパ中の教育を変えていくことになります。樋口さんは松下村塾 ── 幕末に吉田松陰が長州(現在の山口県)で教えた私塾。短期間ながら、明治維新を担う多くの人材を輩出しましたのようだと例えています。
その後ペスタロッチは、教育実践を続けるために一般の教員として働き始めます。自分より若い人たちに頭を下げながら学校に携わり、数年後には自分の教育方法を実践してよいという機会を得て、再び学校を開きました。
政府の後ろ盾もあったこの学校には、はみ出し者の若者たちが集まりました。初等教育も受けていない貧民の子が才能を開花させ、数学がよくできるようになるなど、実績が目に見えて表れます。
学校の評判はヨーロッパ中に広がり、各地から研修生が集まりました。ペスタロッチ主義の学校はコペンハーゲンなどにも作られます。さらに第1号の生徒はそのまま先生になったといい、樋口さんは「まさに自立してる」と感嘆しています。
富裕層が集まる皮肉と、孤立した晩年
ところが、学校が発展すると新たな問題が起こります。評判を聞きつけて集まってきたのは、貧困家庭ではなく富裕層の子どもたちでした。
財政のために富裕層の教育もやるべきだという教師と、理念を優先すべきだという教師の間で対立が起こります。ペスタロッチには両者を取り持つ能力がなかったらしく、支えてくれた妻も亡くなり、仲間も去って孤立していきました。
それでもペスタロッチは貧民学校をあきらめず、金持ち向けになった学校とは別に、もう一度貧民学校を作ります。しかしそれもうまくいかず7年後ほどで解散し、その2年後ほどにペスタロッチは亡くなりました。
深井さんは、ペスタロッチが教育対象にしたかったのは、貧困の子ども、戦争孤児、障害を持つ子どもなど、親子ともに心が荒んだ境遇にある子どもたちだったと繰り返します。そこから人間性を開花させ、貧困の連鎖を断ち切ることが目的でした。
人間に対する信頼が深くないと。
すごいね。信じてないとダメやな、これ。
名前より先にモノを。数・形・語の教授法
ペスタロッチは学習指導の方法も体系化しました。とくに意識していたのは母親で、どの家庭の親でもよい教育ができるようにするには何をすべきかを考えていったといいます。
ペスタロッチの教授法は、物事の名称を覚えさせることから始める教え方を否定し、物事そのものを直接知覚させることから始めます。自然と事物についての直観を人間の唯一の基盤とする点は、ルソーとも共通しています。
樋口さんは、ヘレン・ケラーの回で扱ったサリバン先生 ── ヘレン・ケラーの家庭教師アン・サリバン。視覚と聴覚を失ったヘレンに、手に水を触れさせながら指文字で「water」と綴るなど、実物を通じて言葉を教えましたにも通じると反応しています。
ペスタロッチによれば、人間は曖昧な直観を明晰な概念へと組み立てることができます。そして直観を構成する要素は「数」「形」「語」の3つで、目の前のものをこの3つの観点から正確に把握することが大事だと説きました。
一見難しく聞こえる理論ですが、深井さんは「インプットをちゃんとやろうぜという話」と噛み砕きます。正確なインプットこそが大切だという考え方です。この学習方法はヨーロッパ各地とアメリカに広がり、日本にも明治初期に入ってきました。
ペスタロッチからフレーベル、ヘルバルトへ
ペスタロッチはルソーを批判することもありましたが、影響は強く受けていました。そしてペスタロッチ自身もまた、次の世代に影響を与えていきます。
ペスタロッチ主義の学校で教師をしていたフレーベル ── ドイツの教育者。子どもの自発性と遊びを重んじ、1840年に世界初の幼稚園を創設しましたは、子どもの自発性を尊重し、世界初の幼稚園を作りました。
子供の発見からさ、ここに至るんだよな。
そう。紐で縛って吊るしてた時からここに至ったんだよね。
また、ペスタロッチと会ったことのあるヘルバルト ── ドイツの哲学者・教育学者。倫理学と心理学を土台に教育学を体系化し、科学としての教育学の祖とされますは、ペスタロッチが理論的に整理しきれていなかった部分を理論化し、教育学を科学として認められる水準まで高めました。
こうしてルソー以降、教育は一気に現代の形へと近づいていきます。深井さんは、ペスタロッチの考えには平等な教育や貧困層を助ける教育といった、現代の福祉的な概念も含まれていると話します。
本来はフレーベルやヘルバルトももっと詳しく紹介する予定でしたが、ペスタロッチを読んで「やべえ」と感じた深井さんは、ペスタロッチを詳しく扱う構成に変えたそうです。
ずっとやりてぇって思ってんだよね。貧困教育を。ただただやりてえ。
生徒たちがのちに残した言葉からも、ペスタロッチが深く慕われていたことがわかります。愛情深く頭を撫でてもらったことを覚えている、という証言も残っているといいます。子どもという存在が尊重されていなかった前の時代には、ほとんど考えられなかったことです。
公教育へと続く、渡すつもりのないバトン
ペスタロッチたちの登場で人類の考え方は大きく変わり、やがて教育が無償で全国民に開かれる時代がやってきます。ただし、当時はまだ貧民の教育に反対する人もいて、義務教育には程遠い段階でした。
深井さんは、これまでのシリーズの流れを振り返ります。中世ヨーロッパの権力分散構造が大学を生み、大学がエラスムスらを生み、コメニウスたちを経て、ルソーやペスタロッチが公教育の基礎となる概念を生みました。樋口さんが「アリストテレスから」と言うと、深井さんは「アリストテレスもつながってます」と応じます。
中世ヨーロッパの権力分散
大学が誕生するきっかけになる
大学の誕生
エラスムスらを生み出す
コメニウス、ラブレーなど
教育思想のバトンをつなぐ
ルソー、ペスタロッチ
公教育の概念の基礎を生む
フレーベル、ヘルバルト
幼稚園を作り、教育学を科学として確立する
楊さんは、この流れがアジアにも伝わり、中国では長く続いた儒教ベースの仕組みが崩れて西洋の要素が入ってきたと補足します。深井さんは、それには賛否両論があり、いいことばかりではないとも考えていると話しています。
深井さんが今回一番面白かったのは、構造的・概念的な話が続いた教育の歴史に、突然「エモい」人物が登場したことだといいます。ペスタロッチやルソーは一定の評価を受けながらも、拍手喝采の中で亡くなったわけではなく、苦悩の中で生涯を終えました。
しかも彼らは、後世のためにバトンを渡しているつもりはありませんでした。自分が実現したくて純粋にやっていることに、後の人たちが感化されていく。深井さんは、一人が一個ずつ、今の世の中の要素を作っているのだと語ります。
次回はシリーズ最終回として、ヨーロッパ各国で公教育がどのように誕生したのかが語られる予定です。
まとめ
ペスタロッチは、退学、農場経営の失敗、学校の閉鎖、20年の不遇を経て52歳で教師となり、生涯を貧しい子どもたちの教育に捧げました。本人は報われないまま亡くなりましたが、施しではなく自立を支える教育観や直観を重んじる教授法は、フレーベルやヘルバルトを通じて現代の教育へと受け継がれています。
- ペスタロッチは自らが困窮しているときにも貧民学校を開き、子どもと寝食を共にして愛情を注いだ
- 貧困は施しでは救えず、自立する力を支えて初めて救えるという考えが、公教育のルーツの一つになった
- 名前より先に実物を知覚させ、数・形・語で正確にとらえる教授法は、日本にも明治初期に伝わった
- ペスタロッチの影響を受けたフレーベルは幼稚園を作り、ヘルバルトは教育学を科学として確立した
- 後世のためではなく純粋な思いで行った実践が、次の人へバトンとして渡されていった





