ロシアはなぜ東へ伸びていったのか?
日露戦争編の第7回は、日清戦争に続いて、日本・清・朝鮮に次ぐ4つ目のプレイヤーであるロシア帝国の事情を整理する回です。楊さんによれば、この時期のロシアは帝国主義の中で拡大路線をとっていました。
楊さんの説明では、ロシアはヨーロッパで最も遅れて近代化した国です。最初がイギリスとフランス、次がドイツ、その次がロシアという順番でした。ただし国が大きいため軍事力があり、それを背景に主に陸上から国土を広げていきました。
ロシアの拡大は各方面で壁にぶつかります。西ではクリミア半島でトルコやイギリス、フランスと戦って敗れ、南ではアフガニスタンをめぐってイギリスに敗れ、残ったのが東でした。
西
クリミア半島でトルコ・イギリス・フランスと戦い、敗れる
南
アフガニスタンをめぐってイギリスとの争いに敗れる
東
残された方面で、満州と大連・旅順の港を押さえたい
ロシアが東で求めたのは不凍港 ── 冬でも海面が凍らず、一年中使える港のこと。北に広がるロシアにとって、年間を通じて使える港の確保は長年の課題でしたです。そのために、今の中国東北地方にあたる満州を押さえ、大連や旅順といった港町を手に入れたいというのがロシアの主な思惑でした。
日本とロシアの接触は、江戸時代から始まっていたと楊さんは話します。ロシアの宮廷を見て帰国し見聞録を残した大黒屋光太夫 ── 江戸時代後期の船頭。漂流してロシアに渡り、女帝エカチェリーナ2世に謁見したのち帰国し、その体験が記録として残されていますの例や、ロシアが樺太や北海道のアイヌの人たちを懐柔しようとした動きも紹介されました。
明治以降、ロシアのこうした大きな戦略は、朝鮮半島やその先の満州で日本の利害と衝突していくことになります。
農奴を解放すれば帝政が揺らぐというジレンマ
一方でロシア国内では、皇帝を頂点とする専制君主制が敷かれていました。皇帝はツァーリ ── ロシア皇帝の称号。東方正教会と結びつき、地上における神の権威の代行者という位置づけを持っていましたと呼ばれます。
楊さんによれば、ロシアの専制は、自由に土地を移動できない農民である農奴 ── 土地に縛られ、移動や職業選択の自由を持たない農民。ロシアでは1861年に農奴解放令が出されましたが、社会構造への影響は長く残りましたに支えられたシステムでした。
ところが工業化には労働者が必要です。普通の国では農民が労働者へ転じていきますが、ロシアでは農奴に移動の自由がないため、彼らを解放しなければ労働者にできませんでした。
けど、この人たち(農奴)を解放してしまうと、その貴族制的な専制主義の皇帝制っていうのが揺らいでしまうっていう、二律背反の状況に置かれていて、どうすりゃいいんだみたいなことになってたわけですよね。
それでも近代化は進み、農奴はいなくなっていきます。その結果、ロマノフ王朝の基盤そのものが揺らいでいたのが当時のロシアでした。楊さんは、帝国主義政策を維持しようとすると自分のシステムがダメージを受ける「恐ろしい状況」だと表現します。
ウォッカ好きの父と、繊細な皇帝ニコライ2世
日露戦争時のロシア皇帝はニコライ2世です。1894年、ちょうど日清戦争開戦のころに、26歳で即位しました。
若くして即位したのは、父アレクサンドル3世が49歳で亡くなったためです。深井さんが紹介するアレクサンドル3世は、容貌魁偉で身体頑健、怪力の持ち主という人物でした。
アレクサンドル3世は無類のウォッカ好きで、医者に禁止されても密かに飲み続け、それが元で亡くなったといいます。列車の転覆事故では、車内に閉じ込められた家族を自力で全員救出したという逸話もあり、樋口さんは何度も「漫画やん」と反応していました。
ニコライ2世の皇后アレクサンドラ(通称アリクス)は、ドイツ生まれで英国のヴィクトリア女王の孫です。当時のヨーロッパ貴族はほとんど親戚同士で、ニコライ2世とドイツ皇帝、イングランド国王はいとこ同士のような関係だったと深井さんは話します。
結婚11年目にようやく生まれた男児アレクセイは血友病 ── 血液が固まりにくくなる遺伝性の病気。ヨーロッパ王室ではヴィクトリア女王の血筋を通じて広がったことが知られていますを患っていました。落ち込む皇后に取り入ったのがラスプーチン ── 帝政末期のロシア宮廷で影響力を持った祈祷僧。皇太子の病を癒やすとして皇后の信頼を得、政治を混乱させた人物としてよく語られますで、ロシア政治をぐちゃぐちゃにしたとよく言われる人物です。
ちょっとどっちかっていうとフリードリヒみたいな感じで、性格が温和で、芸術や学問を好むみたいなタイプなんですよね。映画と自転車が好きですみたいな。
深井さんによれば、ニコライ2世は繊細でインドア寄りの人物でした。なかなか男児が生まれず、生まれた男児は病気で、国内情勢も不穏という大変な時代を生きた皇帝だったといいます。
皇太子を警備の警察官が襲った大津事件
ニコライ2世は皇太子時代に来日し、滋賀県の大津で日本人に襲撃されています。犯人は、皇太子を警備していた警察官でした。この出来事は大津事件 ── 1891年に滋賀県大津で、来日中のロシア皇太子ニコライが警備の巡査に斬りつけられた事件。司法権の独立をめぐる議論でも知られていますと呼ばれます。
楊さんの説明では、当時の日本はロシアを強い脅威と感じていたため、緊張感をもって皇太子を警備していました。その警察官自身が襲ってしまったという事件です。
深井さんは大津事件を日本政府の「大失態」と表現します。日本側は対日感情が悪化して戦争に傾くことを恐れ、徹底的に謝罪しました。
樋口さんは「普通にこれで戦争を起こすぞって言われても文句言えない」と話し、深井さんも皇太子の暗殺未遂なのだから文句は言えないと同意します。
一方で、切りつけられた直後のニコライ皇太子の振る舞いも紹介されました。楊さんによれば、ニコライは現場近くのベンチに座り、周囲の人に次のような趣旨を伝えたといいます。
いや、何でもない。ただ、この事件によって、世の日本人に対する感情と日本人の誠意に対する感謝の心が多少変わるのではないかと日本人が考えないようにしてほしい。
この冷静な言葉に、出演者たちは「立派」「貴族っぽい」「育ち良さそう」と感心していました。
叩き上げの蔵相ウィッテはなぜ嫌われたのか?
ロシア宮廷でもう1人の重要人物が、日露戦争の直前に大蔵大臣を務めたウィッテ ── セルゲイ・ウィッテ。帝政ロシアの政治家で、シベリア鉄道建設や工業化を推進しました。のちに日露戦争の講和交渉でロシア全権を務めていますです。
深井さんによれば、ウィッテは母が貴族、父が地方政府の高官という生まれで、生粋の宮廷貴族ではありませんでした。今のウクライナのオデーサの大学を最優秀の成績で卒業し、鉄道会社に就職します。
ウィッテは切符を切るところからスタートし、40歳前後で交通通信大臣、その後大蔵大臣にまで上り詰めました。大蔵大臣としての実績は、数字にもはっきり表れています。
樋口さんが「2倍以上」と驚くほどの成果でしたが、ウィッテは優雅さとは無縁の人物でした。夜のパーティーや宴会での意味のないおしゃべりをせず、ケチでもあったため、享楽的な宮廷貴族からかなり嫌われていたといいます。
深井さんは、ケチだったからこそ財務大臣として成果を上げられたのかもしれないとも話しています。ウィッテは、生まれではなく実力でのし上がってきた人物でした。
旅順をめぐってロシア国内も割れていた
楊さんによれば、ウィッテはニコライ2世の父アレクサンドル3世の代から、ロシア国内の実務を取り仕切っていました。即位したニコライ2世は、基本的にウィッテの路線に従うしかない状態だったといいます。
特にシベリア鉄道や満州の鉄道の問題は、ニコライには扱いきれないものでした。楊さんは、鉄道問題の難しさは技術面ではなく国際情勢にあったと説明します。
お金をジャブジャブ使って鉄道を敷けばそれでOKみたいな話でもないわけですよね。ぶつかるから、イギリスとの関係もありますし、慎重にやる必要があったと。
ウィッテはロシアを農業国家から工業国家へ転換し、金融システムも変えようとしていました。その時期に日清戦争が起き、勝利した日本が遼東半島 ── 朝鮮半島の付け根にあたる中国東北部の半島。先端に旅順や大連があり、下関条約で一度日本に割譲されましたを得ることになります。
シベリア鉄道を旅順まで伸ばして不凍港を確保するというロシアの長期戦略に、日本の遼東半島獲得はぶつかっていました。ここでロシア国内は、日本と対決するか宥和するかで二分します。日本の中でも、ロシアと協調するか対決するかで意見が分かれていました。
ウィッテは対日穏当路線でした。長期的に旅順を押さえる必要はあるものの、日本や中国と協調しながら実現すべきだと考えていたのです。
三国干渉
ウィッテは基本的に反対だったが実行され、日本の旅順確保を阻止する
租借
ウィッテは中国から旅順を借り切ることにも反対した
主戦派の勝利
「今押さえれば上がり」と考える勢力を抑えきれず、ロシアが旅順を押さえる
火種
旅順の確保が日露対立の火種となる
協定を結んでも現場の衝突は止まらない
三国干渉のあと、日本はロシアへの敵対感情を強めます。ただし国力が及ばないため、日本側もロシアに気を遣い、日露協調の努力をしていたと補足されました。
その協調の努力として結ばれたのが、山県・ロバノフ協定 ── 1896年に山県有朋とロシア外相ロバノフが結んだ協定。朝鮮をめぐる日露の勢力均衡を図る内容でしたと西・ローゼン協定 ── 1898年に西徳二郎外相とロシア公使ローゼンが結んだ協定。朝鮮をめぐる日露の関係を調整する内容でしたの2つです。どちらも朝鮮半島で日露が勢力均衡を保とうという約束でした。
朝鮮の財政問題に日露が共同で当たり、朝鮮国内に同じ数の軍隊を置くことなどを含む
日本がロシアの大連・旅順の租借を認める代わりに、ロシアは朝鮮での日本の経済的優位を認める
しかし現場では対立が続きます。1899年には、朝鮮駐在のロシア公使が勢力拡大を狙って朝鮮の港である馬山浦に軍艦を出動させ、土地の貸借を要求する馬山浦事件 ── 朝鮮南部の港・馬山浦をめぐり、ロシアの租借要求に対して日本が周辺の土地を買収して阻んだ出来事が起きました。
日本側は港周辺の土地を買収し、ロシアの目論見を頓挫させます。こうした現場の対立を通じて、明治政府内ではロシアに軟弱な態度を見せられないという方針が徐々に強まっていきました。
樋口さんは、書面で協定を交わしても現場はコントロールできないのだと受け止めていました。
勝つ見込みの薄い日本と、負ける発想のないロシア
深井さんは、ここまでのロシアの状況をまとめます。若い皇帝が即位したばかりで、皇帝制の土台が揺らぎ続けているため、ガバナンスを効かせにくい状態でした。ウィッテのような開戦慎重派はいたものの、ロシア国内の主流は開戦派だったといいます。
深井さんは、日本の開戦派とロシアの開戦派では感覚がまったく違ったと指摘します。
日本は本当になんかロシアのことめちゃくちゃ脅威だと思ってて、自分たちをめちゃくちゃ強くしながら戦って、勝つ見込みほぼないけど、戦ってなんとかして勝たないといけないっていう感覚なんですけど。
ロシアは(国内問題の方が)ずっと重要で、負けるわけないし、比較的どうでもいいだろ、そんなん。戦って勝ちゃいいだけじゃんみたいな。
樋口さんが「余裕が全然違う」と言うと、深井さんは、余裕は違うものの国内のまとまってなさは日本と比べものにならないほどで、ロシアは内乱の可能性をはらみ続けていたと応じます。
朝鮮問題への関心の度合いも、日本が50%ならロシアは20%ほどだったと補足されました。ロシアにとって極東経営は経済的な旨みが乏しく、優先度が低かったためです。
- 多民族が住み、統治の難易度が高い
- 土が悪く開拓も難しいため、農業が根づかない
- 人口が集まらず、産業基盤を築きにくい
陸続きであらゆる地域と接するロシアには、アフガニスタンでのイギリスとの対立など、極東以外にも考えるべきことが山ほどありました。一方の日本は朝鮮と満州のことを考えていればよかったと深井さんは話します。
ロシアを強い脅威とみなし、勝つ見込みが薄くても強くなって勝たなければならないと考える
負ける発想がなく、国内の不満のはけ口として戦争を捉える面が大きい
深井さんによれば、ロシアが日本との戦争を決める最大の理由はロシア国内を治めるためで、戦争を国内の不満のはけ口にする狙いがありました。
これでロシア、日本、朝鮮、清という4つのプレイヤーが揃いました。清は半植民地化され、日本はギリギリで近代国家に滑り込んで台湾などの植民地を持ち、朝鮮の保護国化を進めています。日露戦争がどう起こっていくかは、第8話以降で語られる予定です。
まとめ
今回のエピソードでは、日露戦争の一方の当事者であるロシア帝国が、近代化と専制の矛盾、若い皇帝、国内の派閥対立を抱えていたことが整理されました。同じ開戦論でも、日本とロシアではその切実さがまったく違っていたことが、この回の核心です。
- ロシアは西と南で敗れ、不凍港を求めて満州と旅順へ向かった
- 農奴を解放すれば帝政が揺らぐという二律背反が、ロマノフ朝の基盤を揺るがせていた
- 繊細な若い皇帝ニコライ2世のもと、叩き上げのウィッテが実務を担ったが、開戦派を抑えきれなかった
- 協定を結んでも、馬山浦事件のような現場の対立は止まらなかった
- 日本は必死の覚悟で、ロシアは国内統治のために戦争を見ており、悲壮感がまったく違った




