「医者か弁護士」しか見えない田舎で、なぜ暗記を憎んだのか
後編の冒頭で、樋口さんは若新雄純さんに「どういう子供だったんですか?」と尋ねます。若新さんは福井県の若狭の出身で、両親はどちらも学校の教員でした。長男として期待されて育ち、中学1年まではテストで1番を取るような子どもだったといいます。
ただ、若新さんは子どもの頃から宿題が大嫌いでした。覚えたことを繰り返す反復練習がまったく面白くなく、本人いわく落ち着きのない子だったそうです。
若新さんの両親は、頭がいいのならその頭脳を生かして良い成績を取れ、という考え方でした。親戚に医者と弁護士がいたこともあり、親が示す進路は「医者か弁護士、ダメなら次はこれぐらい」という狭いものだったと振り返ります。
若新さんによれば、選択肢が狭かったのは親のせいだけではありません。地元には塾もライブハウスも大企業もなく、変わった仕事をする大人もいませんでした。医者が圧倒的に上で、その次に学校の先生、役場の人が続くというヒエラルキーの中で、上を目指して勉強しろと言われていたといいます。
全く一緒です。
中学に入ると順位が出るようになり、若新さんは「1番を取らないと存在価値がない」と感じて暗記に耐えました。ただし全校生徒は79人で、1番といっても大したことはないと笑います。この経験から、若新さんは今でも暗記を憎んでいるそうです。
中1で何度か1番を取ると、周りからは「あいつは1番を取れるやつ」と見られるようになります。若新さんは2年生以降、暗記をやめても「今回はテスト勉強しなかった」という言い訳が成り立つ状態になったと話します。暗記しなければ5番や6番に落ちますが、2か月に1度の暗記が苦痛すぎて、そこで一気に勉強が嫌いになったといいます。
うわぁ、そこも結構僕と一緒っすよ。最初中学のテストで1番取ったんですよ。
樋口さんと若新さんの共通点は勉強だけではありませんでした。二人ともX JAPANやLUNA SEA ── 1989年結成のロックバンド。X JAPANとともに90年代のヴィジュアル系ブームを代表する存在として知られていますに夢中になり、ギターとドラムを弾いていた経歴まで重なっていて、若新さんは「金髪メガネの黒い服になる」と冗談を飛ばします。
若新さんが本気で「学ぶことは面白い」と感じたのは、大学院生になってからだといいます。田舎の公立進学校では、物思いにふけったり経験を増やしたりしても受験は突破できず、学ぶことの面白さがまったくわからなくなっていました。その代わりにひたすら楽器を弾き、X JAPANのYOSHIKIさんのドラムをコピーした動画は、ニコニコ動画のランキング上位に入り、YouTubeでも100万回以上再生されたそうです。
僕、自分を氷室(京介)だと思って生活してた時期があるくらいなんですけど。
YOSHIKIさんの「生き写し」になりたいと思い込んでいた若新さんは、母親に「違うわよ」と突っ込まれていたといいます。若新さんは、学ぶことの視野が狭かった中高時代を「今となってはすごくもったいなかった」と振り返っています。
X JAPANで生まれた「表現」という概念とは?
若新さんがギターを買ったのは中学1年のときで、本人は時期も含めて「中二病」と呼んでいます。きっかけはX JAPANの「Dahlia」という曲で、聴いた瞬間に他のことがどうでもよくなるほどの衝撃を受けたそうです。
若新さんは、この出会いで自分の中に「表現」という概念が発生したと振り返ります。当時はその言葉を使っていなかったものの、今思えばそういうことだったといいます。
若新さんの説明では、親が勧める医者や弁護士は問題を解決する仕事です。社会的なトラブルを解決するのが弁護士で、体や心のトラブルを臨床的に解決するのが医者であり、どちらも表現活動ではありません。勉強して良い仕事に就く道と、表現の世界はまったく別のものだと思っていたそうです。
医者や弁護士のように、起きたトラブルを解決する仕事。親が示した唯一の進路
髪型や服装に始まり、どう生きていくかまで含めて自分を表出させること
若新さんにとっての表現は、髪型や服装といった見た目だけの話ではなく、「どう生きていくか」にまで及ぶものでした。樋口さんが「ある意味暗記とは逆ですよね」と言うと、若新さんは、前回までに話したさまざまな企画も実験であり、「こんなんどうだ」と表出させる表現なのだと応じます。
答えがないものを作り出す。
小学3年生の詩「僕はなぜこの僕を生きてるのか」
樋口さんは続けて、子どもの頃の若新さんが自分自身とどう向き合っていたのかを尋ねます。若新さんは、自分が自分であることに過剰なほど疑問を持っていたと答えます。
若新さんの疑問は、頭の中で話しかけてくる「自分」、つまり自我についてでした。友達の中にも自分と同じプログラムのような自我が入っているのか、それともまったく違うものが入っているのかが、とても気になっていたといいます。
この疑問が生まれたのは小学校の集団登校の頃です。みんな同じランドセルを背負い、同じ教室で同じ勉強をするのに、見た目も声も字も違います。親からは「あの子の家はそうだから」と言われ、家ごとの事情の違いはわかっても、中に入っている自我が同じなのか違うのかで悩んだそうです。
若新さんは、もし中身が同じなら、おもちゃをたくさん買ってもらえる家に生まれた者の勝ちではないか、とも考えていたといいます。
小学3年生の授業参観で、毎日思っていることを詩に書く課題が出ました。友達がおばあちゃんやタンポポを題材にする中、若新さんが書いたのは「僕はなぜこの僕を生きてるのだろうか」という、そのままの短い詩でした。
詩は名前を伏せて黒板に貼られましたが、保護者たちはクスクス笑い、ある母親は「これ、どの子が書いたかわかるわ」と言ったそうです。小3の若新さんは、変なことを言ってしまったのかと思ったといいます。
その後、思春期をこじらせて今の仕事をするようになってから、若新さんは「昔からそんなやつだったな、それはこうなるわな」と納得したそうです。若新さんは、ロックはまさに「お前は何者なんだ」と自我に問いかけてくるものだと話します。
誰も知らない土地で、すべてをゼロリセットした大学生活
話題は、若新さんが「人生の作品」と呼ぶナルシストの活動へ移ります。その前段として若新さんは、高校卒業の頃には音楽で食べていく気がなくなっていたと語ります。YOSHIKIさんにはなれないと本気で思い、挫折したからです。
若新さんは、親の言う通り大学へ行き、ミュージシャン以外の方法で表現する可能性を探そうと考えました。当時から独立して働くだろうという予感はあったものの、高卒でできるとは思っていなかったといいます。
両親の条件は国公立大学に行くことでした。旧帝大に入れという期待は大きく、行けなければ「先生の息子として終わり」という空気だったそうです。若新さん自身も、何度高3に戻っても受験はしたくないと言うほど暗記が嫌でした。
若新さんは、名古屋大に届かず周りから「あの辺に行ったのね」と言われるのが嫌で、新設ラッシュだった公立大学の中から、仙台近郊にある宮城県の県立大学を選びます。東北なら誰も自分を知らないという理由もありました。
当時から、学歴が必要になれば大学院で更新すればいいとも考えていたといいます。学歴ロンダリング ── 出身大学より評価の高い大学の大学院に進み、最終学歴を「更新」することを指す俗語。やや揶揄的なニュアンスで使われますという言葉がまだない時代の話です。
大学では、若新さんはそれまでの囚われをすべて取り払い、納得のいく形で表現しようと決めました。なんとなくサークルに入る、なんとなく飲み会をする、といった「なんとなく」は一つもやらないと決め、派手な風貌のまま最前列で真剣に授業を受けたそうです。
一方で、軽音楽部には入りませんでした。高校までにやり切った感があったうえ、新歓で先輩が「みんな前来て、盛り上がろうぜ」と呼びかける様子がダサく見えたからです。1年生は日が沈まない時間にしか演奏させてもらえない仕組みも嫌だったといいます。
ダンスサークルも人気でしたが、当時は「I LOVE HIP HOP」の時代で、LUNA SEAファンがそれを隠してDragon Ash ── 1990年代後半から人気を集めたロックバンド。ヒップホップを取り入れた音楽性で、当時の若者文化に大きな影響を与えましたを好きだと言うような空気だったそうです。若新さんは、そうしたキャンパスライフに一石を投じたいと考えていました。
「みんな僕を見て」ナルシスト狂宴はどう生まれたか
若新さんは、実は大学1年の夏にはすでに株式会社を作っていました。ただ、その頃の関心は表現にあり、軽音やダンスサークルの表現を「媚びた表現」だと感じていたといいます。
転機はヤマダ電機の液晶テレビ売り場でした。そこではB'zのライブ映像が流れていて、稲葉浩志さんが客席に水のペットボトルを投げ、観客が歓声を上げていました。
若新さんは、そこから頑張って稲葉さんと同じステージに立つのはとても大変だと考えます。そこでひらめいたのが、デビューしてミリオンヒットを出したわけでもないのに、いきなりその陶酔ぶりで表現したらどうなるのかという問いでした。
若新さんは、YouTubeで100万回再生されるほどのドラムの腕前をあえて封印しました。大学1年の文化祭で、仲良くなった先輩から余っているステージ枠に誘われると、造花のバラをくわえて登場し、陶酔しながらGACKTさんやPENICILLINの「ロマンス」を歌ったのです。
コンセプトは自己陶酔でした。若新さんは、大学生に足りないのは周りの目を気にせず表現しきることであり、客がいなくても武道館やドームのつもりで表現したらどうなるかを試したかったといいます。
ステージ名は先輩が書いた「ナルシストの狂った宴」を縮めた「ナルシスト狂宴」です。2年目からは若新さんが「みんな僕を見て」というキャッチコピーを考え、今でもこれを超えるコピーはまだ生まれていないと話します。
真っ白なスーツに赤い造花のバラをくわえた写真は、宮城県の新聞に載ったこともあるそうです。若新さんは、その後に宮城出身の叶えいこさんが似た格好をしていることから、もしかしたらと「勝手に思っている」と笑っています。
初年度の観客はドン引きでした。それでも若新さんは、引きながらもみんなが足を止めて見ていることを面白いと感じたといいます。仲間を従え、CDが売れた先輩が凱旋コンサートをしているかのような体で現れた結果、反応は年を追って変わっていきました。
現実化したんですね、思考が。
等身大ポスターとPVで「スターの状況」を作り込む
若新さんは「後から追いついてきた」と、樋口さんの言葉を受けます。4年生の頃には起業していてお金もあり、協賛も集めて、大学生には再現できないようなステージを作り込みました。特殊効果の火花、銀テープ、スモークまで使い、「そこまでする必要あるのか」というほどだったそうです。
若新さんの大学は文系と理系の両方を学べる少し特殊な大学で、パソコン室にはAdobeのソフトとプロッターがそろっていました。若新さんはそれを使い倒して、自分の等身大ポスターを作ったといいます。
当時は、大学生がウェブサイトやサークル紹介の動画を作り始め、「誰でもクリエイター」と呼べる状況が生まれつつある時代でした。若新さんはその環境を使い、自分たちが陶酔しているPVをPremiereで編集して、大学のエントランスで延々とリピート再生しました。
ステージで歌うのは自作の曲ではなく、あくまでPENICILLINでした。若新さんは、売れていないオリジナル曲には誰も興味がなく、みんなが口ずさめる曲でなければダメだと説明します。
そこ、そこ自分の曲やないんや。
こうして大学の中で若新さんを知らない人はいなくなりました。若新さんは楽しかった一方で、「この感じで生き続けるにはどうしたらいいか」と考えるようになり、普通に就職するという選択肢はなかったといいます。
大学1年で会社設立、リタリコの起源に関わった理由
樋口さんが注目したのは、若新さんが大学1年で起業していた点です。若新さんによれば、ちょうど資本金1円でも株式会社を作れる最低資本金規制特例 ── 2003年に始まった、資本金1円でも株式会社を設立できる特例制度。2006年の会社法施行で最低資本金制度そのものが撤廃されましたの試行期間が始まった頃で、「俺のためにある制度だ」と思ってすぐに会社を作ったそうです。
その会社が、現在も若新さんが代表を務めるNewYouth社名の英字表記です。社名は「若新」を英語にしたもので、設立の目的は、会社を作れば独立に必要な人や経験に出会えそうだと思ったことでした。
若新さんは、やる事業も雇う人もいないのに社長になるのは肩書が欲しいだけだとバカにされたそうです。それに対して若新さんは「社長っていう肩書が欲しかったんですよ」とあっさり認め、その後の「一人で株式会社」の時代を考えれば相当早かったと振り返ります。
大学3年の終わり頃、若新さんは先輩と別の会社を始めます。障害者の就職支援を行う会社で、現在は「リタリコ」という名前で、その分野の国内最大手になっているといいます。若新さんは4年生のときには取締役として給料を受け取っていました。
若新さんによれば、この会社のサービスの核はテレワークでした。2005年12月の設立当時から「これからテレワークが来る」と掲げ、テレワークが可能になれば障害者にも仕事のチャンスが回ってくるという考えで、新しい働き方を作ろうとしていたそうです。
ただ、先輩は事業を急拡大させる力を持つ事業家で、若新さんは組織の拡大についていけなくなります。ベンチャーだからこそなめられてはいけないと背伸びし、組織を固めていく流れが、毎日「自分とは何か」を問う若新さんのロック魂とはシンクロしなかったといいます。
会社を離れ、SFCで組織心理学を選んだのはなぜ?
会社を離れた若新さんが感じたのは、独立して知的好奇心を追求する生き方に必要なものが何もない、ということでした。そこで、わかりやすく、自分の身にもなり、経歴にもなり、専門家に見てもらえる方法として、大学院で修士号を取ることを選びます。
若新さんは、アメリカでは一度働いてから大学院で学び直すのが普通になっていると聞いていたそうです。当時の日本では大学院に進むのはほぼ理系だけでしたが、いずれ文系・理系に関係なく仕事と一体で学ぶ時代が来ると考え、勧められた慶應義塾大学のSFC ── 慶應義塾大学湘南藤沢キャンパスの通称。総合政策学部や環境情報学部があり、分野横断的な研究で知られていますに入りました。
研究分野は組織心理学です。前の会社での葛藤も踏まえ、人が組織の中でどう個性を認められ、発揮して働けるのか、納得のいくモチベーションを持てるのかを研究しようと考えたといいます。
若新さんは当時から、独立したフリーの仕掛け人、つまりプロデューサーになりたいと思っていました。ただ、放送作家と同じように、どのルートを進めばなれるのかがわからなかったそうです。
ロールモデルがなかなかない。
そこで若新さんは、修士号を取って専門家を名乗れるようにすることと、さまざまな企画の仕事を受けて道を探すことの2つを並行させました。基準はナルシスト狂宴で、それが自分の中の自己ベストだったため、それくらいのものをやれなければ意味がないと考えていたといいます。
若新さんが目指したのは、多くの人が立ち止まって「なんだこれは?」と思うものです。若新さんは岡本太郎さんの「なんだこれは」という言葉が好きだったと話し、陶酔する若者たちを見た人が自分の中の何かとシンクロするように、そこから発見が生まれるものを作りたかったと語ります。
来た球は全部打つ。バーで出会った「エンジェル」
最初の頃の仕事について、若新さんは「来たタマ全部打つ」状態だったと振り返ります。大学院の頃から、友人の会社のブランディング、インターンシップの企画、がん撲滅キャンペーンの事務局、政党の若者向けマニフェスト発信、新しい採用プロジェクトなど、今につながる仕事を数多く手がけていたそうです。
若新さんは歌舞伎町でお店も経営していました。リア充という言葉が出てきた頃で、自分でリア充を自作自演したらどうなるかと考え、40人ほど入る店で季節ごとに「若新ナイト」を開き、そこでもPENICILLINを歌っていたといいます。
ずっとやってるじゃないですか。
若新さんは集合写真をPhotoshopで加工してmixiに上げていました。加工アプリがまだない時代で「加工しすぎ」と言われても、そもそも虚像なのだからいいと考えていたそうです。若新さんは自分を「盛り」や「映え」の分野のパイオニアだったと冗談めかしつつ、途中で満足して辞めてしまったと話します。
ある日、若新ナイトの後に近くのバーで飲んでいると、隣に座った男性に「何してる人?」と声をかけられました。若新さんは名刺と一緒に、バッファロー ── パソコン周辺機器メーカー。外付けハードディスクなどの製品に、折りたたみ式の簡潔な取扱説明書が付いていることで知られていますのハードディスクの取扱説明書のデザインをまねた「若新マニュアル」を渡したといいます。
「若新マニュアル」には、扱い方を間違えると性能を発揮できない、という注意書きが書かれていました。若新さんは当時から、人間は万能ではないので、扱い方を伝えることが大事だと考えていたそうです。
その男性から会社のブランディングを手伝ってほしいと言われ、若新さんは後日本当に連絡して訪ねました。そこから組織文化づくりなどを任され、同世代の月給ほどのギャラを払い続けてもらったといいます。
その社長は「安売りすんな。いい仕事するんだったら自信持って請求書持ってこい」と言ってくれたそうです。今も付き合いは続いていて、若新さんは、こうした人たちに「若新を先物買いしといてよかった」と思われたいという気持ちで頑張っていたと語ります。
続ける企画とやめる企画は、何が違うのか?
樋口さんは、若新さんがゼロから立ち上げた企画は数十個どころではないと指摘します。そのうえで、飽きやすく見える一方で、JK課やニート株式会社のように続いている企画もあると問いかけます。
若新さんの答えは、そもそもゴールのあるプロジェクトはないというものでした。JK課にもニート株式会社にもゴールはなく、世の中への問いかけであり、ナルシスト狂宴も動員数やCDのような達成目標はなかったといいます。表現にはキリがなく、プロセスの連続だというのです。
若新さんがやめた企画は、失敗したからではなく満足したから終わったものです。続けている企画はまだプロセスの途中にあり、バンド活動のようなものだと説明します。
若新さんは、そこで得た知見を生かしたコンサルティングやコメンテーターの仕事もしています。ただ、価値は達成したときに生まれるのではなく、プロセスを自分で作り、観察し、解釈して伝えること自体にあるとして、「歴史と一緒です」と話します。
さらに若新さんは、どんな人の人生も本来は歴史的なものだと語ります。人生を何かを達成するための機能だと捉えると、今はまだ途中段階だと感じてしまいますが、観察対象の歴史だと捉えれば「途中」はないという考え方です。
目標を達成するまでは途中段階。テスト勉強の暗記のように、残りのページ数がだるく感じる
途中という概念がない。面白い歴史の本のように、読んでいる時間そのものが面白い
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「成し遂げる」は傲慢か?オートポイエーシスと歴史の流れ
今後について聞かれた若新さんは、これからも実験と発見を続けて楽しむと答えます。そのうえで、社会学のオートポイエーシス ── もとは生物学の概念で、システムが自らの構成要素を自ら生み出し続けることを指します。社会学者ルーマンが社会システムの理論に取り入れましたという考え方を紹介しました。
若新さんの理解では、歴史に登場する人物が社会を意図して作ったというより、人間の集合体が生態系としてその都度そうなっていき、そこにたまたま象徴的な人物がいただけなのかもしれません。そう考えると、何かを成し遂げようとすること自体が教育の作ったまやかしではないか、と若新さんは投げかけます。
この問いに深井龍之介さんが強く共鳴します。深井さんは、社会を変えられるという感覚は啓蒙思想以降に出てきたものであり、理性で社会を変革できるという感覚は一面では正しいものの、傲慢でもあると話します。
深井さんも子どもの頃から何が正しいかを考え続けてきたそうです。そして、今のところの結論として次のように語ります。
深井さんの考えでは、自分が正しいと思っていることも3年後には間違いになっている可能性があります。一方で、人類が進む方向は止めることも変えることもできないので、その流れを加速させれば、失敗してもサイクルが早まり、次のステージに早く進めるというのです。
正しさは判断できない
何が正しいかを決めるのは傲慢で、3年後に覆る可能性も高い
流れは変えられない
人は生態系に乗っているだけで、止めることも変えることもできない
加速なら確実
失敗しても循環が早まり、次のステージへ早く進める
なんで今進もうとしてる方向に対してブーストさせるような動きをしたいっていうのが僕の考え方なんですよね。
若新さんは、お金を稼ぎたいならその流れに乗るしかないと応じます。ニート株式会社でも、人間は1人ではなく集合として生き物のように動くと感じたそうです。流れを象徴すればその人が作ったように見え、加速させれば功績者に、先頭にいればパイオニアになるのだろうと話します。
そのうえで若新さんは、生態系という考え方には逆らわず、その中でロックな発信をするかどうかが自分にとっての問題だと語ります。事業というよりアートをやっている感覚だという若新さんに、深井さんも、アートもまた生態系的なあり方の一つの解釈だと応じました。
若新さんは、流れがわからなければ乗りようがなく、その流れを見られるのが歴史だと話します。樋口さんはそれを「点じゃなくて線で見る」と言い換えました。
リスナーへのメッセージとして、若新さんは、ネットでは白黒をつける言い切りに飛びつきがちだが、社会はそんなに簡単に結論が出ないと語ります。答えの出ない曖昧なものをじっくり味わい、起きたことを俯瞰して丁寧に考察する力こそが教養だという考えです。
若新さんは、140文字や短い動画では、こうした話は伝わりにくいと話します。だからこそ、じっくり学ぶメディアとしてコテンラジオが人気を得ていることに希望を感じ、「ちょっと悔しかったんで来てみました」と笑いました。
最後に若新さんは、自身のポッドキャスト『あたらしい経営?』を告知しました。あわせて、テレビ朝日系「ワイド!スクランブル」の木曜コメンテーター、TBS「Nスタ」の金曜への不定期出演、ABEMAの「ABEMA Prime」への出演についても紹介しています。
まとめ
若新雄純さんの半生には、暗記を強いられた田舎の少年時代、X JAPANで出会った「表現」、そして大学でのナルシスト狂宴という自己陶酔の実験が一本の線でつながっています。ゴールを決めずにプロセスを楽しむ姿勢は、人生そのものを歴史として観察するという考え方につながり、深井さんの「流れを加速させる」という歴史観とも重なりました。
- 医者か弁護士しか見えない田舎で暗記を強いられた経験が、若新さんの「学び」への違和感の出発点になっている
- X JAPANとの出会いで生まれた「表現」という概念が、ナルシスト狂宴から現在の企画まで一貫している
- 大学1年での起業やリタリコの起源への参加、SFCでの組織心理学研究など、型にはまらない道を自分で切り開いてきた
- ゴールのあるプロジェクトは持たず、満足したらやめ、プロセスが続くものだけを続けている
- 人間の歴史は生態系として動くという考え方では、流れを読むために歴史が欠かせない




