研究者でプロデューサー、肩書きが定まらないゲストとは?
コテンラジオ番外編は、福岡県の田川で収録されています。ゲストは東京から駆けつけた若新雄純さんです。若新さんは、仕事で偶然新しい街に行けるのは最高だと話し、誘われてすぐ予定を空けたといいます。
樋口さんは、若新さんの肩書きがひとつに定まらないとして、ネット上のプロフィールを読み上げます。若新さんは人と組織のコミュニケーションを扱う研究者であり、プロデューサーです。
若新さんの代表的な活動は、全員がニートで取締役のNEET株式会社 ── 2013年11月に若新さんが設立した会社。社員全員がニートで、全員が取締役という形をとった実験的な組織です、女子高生が街づくりに関わる鯖江市役所JK課、週休4日で月収15万円の「ゆるい就職」などです。著書に『創造的脱力』があります。
若新さん自身は、自分の仕事をざっくり「実験が好き」という言葉で説明します。思春期にビジュアル系ロックにハマり、もやもやした感覚をぶつけたり試したりするのが好きな性格だったそうです。
若新さんは、生産性を上げる仕事や問題を解決する仕事より、物事を疑ってみたり新しい可能性を探したりする仕事に惹かれてきたといいます。ただ、そうした仕事をいきなり始めるのは難しかったため、大学でコミュニケーションの研究を続けながら、組織や地域社会、学校の教室などの新しい可能性を試してきました。
若新さんは慶應SFCで、人が集まって新しいものを作り出す仕組みをシステム論的に考える「創造システム理論」を教えています。人がお互いに持つ印象がどう作られるかを扱う「インプレッションマネジメント」の授業も担当しています。
若新さんは企業をスポンサーに迎え、産学連携の「ゆるいコミュニケーションラボ」も運営しています。各地のフィールドワークの経験から、現在はテレビのコメンテーターの仕事も多く手がけています。
若新さんは、20代後半から30歳ごろに大きな社会的成果を上げるのは難しいと考えていました。そのため、成果を出すことよりも、「そんな実験ありなのか」という驚きや戸惑いを生むほうが面白いと考えたそうです。若新さんは、この考え方もロックに影響されたものだと話します。
若新さんと樋口さんは、実家の蔵や車庫をドラムスタジオにした経験も、金髪に眼鏡、黒い服という見た目も共通しています。二人ともLUNA SEA ── 1989年に結成された日本のロックバンド。ヴィジュアル系の代表格のひとつとされますやX JAPANに影響を受けたと知り、深井さんは「めちゃくちゃ近い」と驚いていました。
廃校のドローンスクールが日本一に。お金は「攻略する対象」
若新さんは、樋口さんと同じように廃校の利活用にも取り組んでいます。地元の福井で、山奥の使われなくなった校舎を使い、ドローンの教習所やダイエット用のジムを運営しています。
若新さんのドローンスクールはかなりうまくいき、日本で一番大きな協会から日本一のスクールとして表彰されたそうです。若新さんは自分たちで校舎を建てず、安く借りた廃校と、あまり流行っていない地元のホテルを組み合わせて合宿型にしました。
この合宿型の仕組みでコストを大きく下げられたため、受講料は他のスクールよりかなり安くなりました。その結果、県外からも多くの受講生が集まったといいます。
若新さんは、儲けといっても大した額ではないと前置きしています。そのうえで、都会で企業規模を競ってもきりがないが、ド田舎の廃校で稼いでいれば皆が驚くだろうと考え、力を入れたと話します。自分のことは「がめつい」と笑っていました。
樋口さんから「なぜ結果を出せたのか」と問われると、若新さんはお金への向き合い方を語りました。若新さんの家はそれほど貧しくなく、お金へのハングリー精神はなかったそうです。ただ、人間が作った社会のシステムのひとつとして、お金を攻略したいという気持ちがあったといいます。
なるほど。だから金持ちになりたい、稼ぎたいじゃなくて、お金の世界をハックしたいみたいな。
若新さんは、ハックとまではいかなくても、お金をある程度使いこなせるようにはなりたいと答えます。これまでに数千万円単位で株を買い、数億円単位で投資信託を組み、資産価値のありそうなマンションも買ってきたそうです。
若新さんは、自分を小心者だと話します。固そうな方法を選びながら、いくら稼いだかよりも、お金が「こういう仕組みになっているのか」とわかる発見が嬉しかったといいます。
志村けんまで禁止された福井の少年時代
若新さんは、自分は日本の教育にかなり葛藤してきたと話します。出身の福井県は教育熱心な県として知られています。ただ、その熱心さは超高学歴の人を生み出す方向ではなく、宿題を大量にこなす詰め込みと反復で全体を底上げする方向だったそうです。若新さんによれば、福井県はいつも秋田県と1位、2位を争っているといいます。
若新さんの両親はどちらも学校の先生で、家庭の教育もかなり厳しかったそうです。9時以降は寝なければならず、テレビゲームも漫画も禁止でした。中でも一番厳しかったのは、志村けんの番組を見せてもらえなかったことだといいます。
娯楽を制限されていた若新さんは、中学生でバンドにハマりました。両親は教師として、思春期の子どもを押さえつけすぎると逆効果になると知っていたようです。そのため、楽器を買うことや遊ぶことは許してくれたといいます。若新さんは、窮屈な教育の反動で一気にそちらへ向かったと振り返っています。
「大人が教育するのは禁止」から始まったJK課
樋口さんは、窮屈な教育を受けた経験が鯖江市役所JK課につながっているのではないかと指摘します。若新さんも「鋭い指摘」と認め、JK課の根本には、人が成長することのあり方を新しくしたいという思いがあったと話します。
若新さんによると、これまでの多くの街づくりプロジェクトでは、高校生が大人のもとに学びに行く形が一般的でした。市役所のインターンや商店街の活性化を目指す企画でも、大人が先生役になっていたといいます。
JK課では、最初の説明資料の段階から「大人が教育すること」を禁止しました。この方針には賛否両論がありました。福井では、場だけを作ってマスコミを呼び、行き当たりばったりで進めるのかという、責任放棄だとみなす批判も受けたそうです。
JK課は結果として国から大臣表彰を受け、市長が国連でプレゼンテーションをするほど注目された成功事例になりました。参加したのは、街づくりに興味がなさそうで、校則も守っていなさそうな、地元のごく普通の女子高生たちです。
若新さんは、JK課で何をやるかをあらかじめ決めませんでした。作られる成果よりも、皆で試行錯誤して発見するプロセスのほうが大事だと考えていたからです。
目的やイベントを先に決めて高校生を集め、大人が先生役になって教える
何をやるかを決めず、大人が教育することを禁止し、高校生が面白いと思える場を一緒に探る
若新さんは、学校の先生に推薦してもらうと普通の女子高生は集まらないと考えました。そこで、福井で出会った大学生の彼女に声をかけます。この女子高生は美容師志望で、街づくりに関心がなく、「私なんかそういうの無理」と返信してきたそうです。若新さんはその返事を聞いて「こいつだ」と思ったといいます。
若新さんはまずこの女子高生と友達になりました。そのうえで、どう告知すれば高校生に届くのかを教えてもらったそうです。Twitterでの書き方も、「そんなこと書いてもわかんないです」と指摘されながら一緒に直していきました。
若新さんは各地の市役所から若者の集め方をよく相談されるそうです。そのときは、まず1人仲間を作り、その人に聞くよう勧めているといいます。若新さんは、大人の目線で若者がどうすれば動くかなどわかるはずがなく、若い世代のほうが繊細で進んでいると考えています。
なんかもうむしろこれ(JK課の立ち上げ)教育受けてる側ですよね、それ。もうむしろ大人が。
若新さんは、大人自身が変われるかどうかがJK課のキーワードだと、市長と一緒に発信したそうです。JK課は、街づくりだけでなく学びのあり方も模索する場として位置づけられていました。
「校則は破ってよし、法律と条例は守る」というルール
JK課には最初15人ほどが集まりました。しかしプロジェクトが話題になりすぎ、計画がないことや連日の報道を理由に、参加を禁止する県立高校まで出てきたそうです。若新さんは「ロック少年としてはやる気しか出ない」と振り返っています。
高校が参加を認めなかった一番の理由は、説明会で示したルールにあったといいます。JK課のルールは、法律と条例を守ることだけでした。学校ではないので校則は守らなくてよく、髪を染めても、スカートが短くても、カラコンでも、スマホをいじりながらでもかまわないという内容です。
このルールにはもう1項目あり、エロは禁止と書かれていました。市のプロジェクトなので、本人たちにそのつもりがなくても、そう見られるコンテンツは避けてほしいという意図だったそうです。
若新さんがこのルールで伝えたかったのは、法律と条例さえ守れば、あとは高校生を対等な大人として尊重するという姿勢でした。管理する世界から解き放つことで、やる気が生まれ、活動が本当の意味で広がると考えていたといいます。
JK課は多い時期で50人ほどが参加しました。若新さんは立ち上げから約6年間プロデュースし、現在は役割を終えて引退しています。それでもJK課は市の名物プロジェクトとして続いており、一時は全国から議会視察が絶えなかったそうです。
「女子高生課」ではなく「JK課」と名付けたことにも意味がありました。若新さんは、目線をどこに置くかが大事で、彼女たちにとってフレンドリーな名前にする必要があったと話します。実際に、女子高生課だったら行かなかったという参加者もいたそうです。若新さんは、LUNA SEAの曲名がほとんど英語であることも引き合いに出し、名前は大事だと語っていました。
水鉄砲とはしご車、職員が「下の名前」で呼ばれた日
JK課の活動内容について、若新さんは極端に言えば大したことはしていないと話します。広い公園を貸し切って子どもたちと本格的な水鉄砲で撃ち合ったり、はしご車の上から火の用心を叫んだりと、ほとんどは街を使った遊びでした。
若新さんは、素人の女子高生が20人、30人集まって街の実利的な課題を解決できるなら、そもそも市役所がサボっていたことになると言います。若新さんの狙いは、女子高生たちの姿を見た周囲が、新しい場の作り方や世代間交流の可能性に気づく文化を作ることでした。
若新さんが一番好きだというのは、担当の市職員のエピソードです。この職員は最初、「敬語を使えない奴は人間じゃない」と怒り、挨拶しない高校生は認められないと主張していました。若新さんは、大人が押し付けると先生と生徒の関係になってしまうと考え、挨拶したくなるまで待ってほしいと頼んだそうです。
押し付けたい
職員は敬語や挨拶を高校生に求めていた
待つ
若新さんの頼みで、職員は渋々ながら押し付けずに待った
仲良くなる
高校生と職員の距離がだんだん縮まった
下の名前で呼ぶ
女子高生が職員をファーストネームで呼び、職員は「仲間とはこういうことか」と実感した
若新さんがファーストネームで呼んだ女子高生に理由を聞くと、本人は「友達になったら名字ではなく下の名前で呼ぶと決めているかもしれない」と答えたそうです。つまり、その職員を友達だと思えたから下の名前で呼んだということです。
対等だ。本当に友達だと思ったんだ、じゃあ。
若新さんは、人口が増えたわけでも生産性が上がったわけでもないこうした数値化できないエピソードを、記事や講演、本で語ることが自分の役割だったと話します。直接研修をしたことは一度もありませんが、残った高校生が新しい団体を立ち上げるといった動きも生まれたそうです。
失敗のない緩さと、1本も売れなかった眼鏡
樋口さんは、若者に政治や社会への関心を持たせようとすると、大人はまず勉強させがちだと指摘します。一方で、小さくても自分の行動が街に効果を出すと、急に自分事になると感じたそうです。若新さんは、体験が必要なことに同意しつつ、そのときには「緩さ」が大事だと話します。
若新さんによれば、失敗したら大変だという空気があると高校生は緊張し、部活のようになってしまいます。そこでJK課では、計画も作らず、法を犯さない限りは失敗ではなく、すべてを学びとして扱う形にしたそうです。
そうだ。成果を目指すと失敗っていう概念が生まれますもんね。
若新さんは、この考え方を歴史にもたとえます。歴史上の出来事は過ぎたことなので、残念なエピソードでも学びのネタとして扱えます。若新さんは、それを現実の出来事でもリアルタイムでやりたかったといいます。
その例として若新さんが挙げたのが、眼鏡の産地である鯖江の眼鏡協会とのコラボレーションです。眼鏡協会が予算を組み、JK課のオリジナルモデルを東京ビッグサイトの国際展示会に出しました。しかし、そのモデルは1本も売れなかったそうです。
JK課ではもともと眼鏡の販売を目標にしていなかったため、「さすがにJKにデザインは無理だったか」で話は終わりました。若新さんは、ヒットしたケーキの共同開発もあったとしつつ、結果はやってみないとわからないと話します。これを年度の目標に掲げていたら、失敗になっていたというわけです。
確かに。これでもよくマジで市役所(は失敗を)許容できてますね。
若新さんは、市役所がこのやり方を受け入れた理由を2つ挙げます。1つは、挑戦を許すセンスを持った人気市長がいたことです。もう1つは、若新さん自身が活動の中身にはほとんど関わらず、待つ姿勢や高校生の小さな変化を見逃さないことなど、周りの大人の関わり方を職員に丁寧に伝え続けたことです。若新さんは、他の街にも「最初の3か月から半年は何も生まれないかもしれない」と覚悟するよう伝えているそうです。
お菓子が美味しかったで終わる会議、おしゃべり論とは
若新さんがいま提唱しているのは「おしゃべり論」です。目的を持って話そうとすると、職員は何か引き出さなければ、アイデアを出さなければと構えてしまいます。そこで若新さんは、とにかくおしゃべりすることを勧めています。
具体的には、お菓子を用意して60分の会議をし、何も決まらなければ「お菓子が美味しかった」を結論にしてよいとするそうです。若新さんによれば、そうすると高校生が安心して来るようになり、そのうち良いアイデアが出る日や意気投合する瞬間も生まれます。
若新さんは、大人でさえ飲み会や泊まりの旅行で打ち解けるのに、女子高生と市役所職員が15分のアイスブレイクで仲良くなれるわけがないと話します。
何かを決めて前に進めるための道具として話し、無駄なく要領よく生産性を求める
目的がないように見えても一緒に過ごす時間を重ね、人としての関わりを育てる
樋口さんは、猿の毛づくろいが集団の結束を固めており、人間は毛づくろいの代わりに会話をしているという研究を紹介します。深井さんは「そんなに毛ないですけど」と返して笑いを誘いました。
深井さんは、資本主義になってから生産性の価値が大きく上がったと指摘します。若新さんも、会話を目的志向でとらえすぎていると応じ、現在はおしゃべり論の本を執筆中だと話していました。
若新さんは、自分は研究者なので、プロジェクトをその年度で成功させることより、立場や世代を超えて人が集まるとはどういうことかを見たかったといいます。目に見える成果は何も生まれないかもしれないと言いながらコンサルをする人は、おそらくいなかったはずだと振り返っていました。
歴史を学ぶ意味は「自分がよくわかること」?
若新さんは逆にコテンラジオの二人に、子どもが歴史を学ぶ意義は何かと尋ねます。深井さんは、自分のことがよくわかるのが一番の効用だと答えました。
海外に旅行に初めて行った時、初めて、あ、日本の道路ってこんな綺麗だったんだとか、逆に日本の人って気使いすぎなんだとか、そういうのわかるみたいな。
そういうのが、歴史を勉強すると現代がよくわかるんですよね。
相対化
過去を知ることで現代を外から見られるようになる
ルーツを知る
自分が大切にしている価値観の由来と、それ以外の価値観がわかる
選択的に生きる
価値観を選んで生きられるようになり、人生を楽しむリテラシーが上がる
若新さんは、絶対的なものがはびこる時代に物事を相対化することこそ「おしゃれな生き方」だと後輩に話してきたそうで、深井さんの考えに強く共感していました。
樋口さんは、この配信の直前に放送された教育の歴史編に触れます。右へならえの義務教育は否定されがちですが、先人の努力で作られた素晴らしい制度だと感動したそうです。一方で、同じ場所にとどまれば制度は壊れていくこともわかるため、今の状態もアップデートが必要だと話しました。
若新さんは、歴史上で「この時点で完成」ということは一度もなかったと応じます。そのうえで、その時点の完成形を目指すより、常にプロセスの一部として発見していく生き方のほうがいいと語りました。
曖昧だけど価値があるもの、大学とコテンラジオの共通点
深井さんは、曖昧で価値の大きさを証明できないものにはリソースが集まらないと指摘します。大事だとわかっていても資源を投じられない点を、深井さんは資本主義の欠点だと話しました。
若新さんは、それでもコテンラジオが多くの人に聴かれていることに、時代の変化を感じているといいます。ひろゆきさんのように短い時間で言い切る話し方が求められる背景には、Q&AのAを早く欲しがる人の増加があると若新さんは見ています。対してコテンラジオは、じっくり噛まなければならない番組だと話しました。
樋口さんは、深井さんと楊さんが日ごろから、わからないストレスを受け入れることや、すぐにわかった気にならないことの大切さを語っていると補足します。深井さんも、すぐに言語化することが必ずしも良いわけではないと応じていました。
若新さんは、日本社会で曖昧だけれど学ぶ価値のあるものを認めている場所は大学だと話します。今年度に成果が出るかわからない研究にも給料が保証されているのは、長い積み上げに価値があると考えられているからだといいます。若新さんは、実験的な活動を慶應が「面白いからやれ」と支えてくれたおかげで、周りにも受け入れられていったと振り返りました。
若新さんは、すぐに役立たないように見える大学の学問もコテンラジオの話と同じだとリスナーに語りかけます。樋口さんは、成果を出さなくてよい状態こそ大事であり、その実践がNEET株式会社だと話し、前編を締めくくりました。後編ではNEET株式会社について話を聞く予定です。
まとめ
若新雄純さんの実験の根っこには、窮屈な教育への反動とロックの精神がありました。鯖江市役所JK課では、大人が教えず、計画を作らず、待つことで、職員と高校生の関係そのものを変えていきました。その姿勢は、成果よりも発見を重んじる歴史や学問の価値にもつながっています。
- 鯖江市役所JK課は「大人が教育しない」「何をやるか決めない」という方針で始まった
- ルールは法律と条例を守ることだけで、校則は破ってよしとし、高校生を対等に扱った
- 職員が下の名前で呼ばれたように、数値化できない関係の変化を語ることが若新さんの役割だった
- 失敗という概念をなくす緩さと、目的のないおしゃべりが、人の関わりを育てる
- 曖昧だけれど価値があるものを支える場として、大学や歴史の学びの意義が語られた





