釈迦しか悟れないなら、凡人はどうすればいいのか
大乗仏教の「菩薩」という概念について、楊さんは「すげえめっちゃ精密なロジック」だと切り出し、深井さんも「本当にすごかった」と応じます。この回は、その菩薩のロジックを2人で説明してみるところから始まります。
前提として、悟った人のことをブッダと呼びます。楊さんによれば、ブッダになれるのは当時、釈迦という天才一人だけで、次のブッダが現れるのは56億7000万年後とされていました。
弥勒っていう人がまだ出てきて、それがまた次のブッダになっていくっていう。
次のブッダとされる弥勒 ── 弥勒菩薩。釈迦の次にブッダとなることが約束された存在とされ、遠い未来にこの世に現れて人々を救うと信じられてきましたが現れるまで、今を生きる人々は輪廻を重ね、苦しみを味わい続けることになります。深井さんは「地球あるかどうか」と、その時間の途方もなさを茶化します。
それでも一般の人は、釈迦のように悟りたい、ブッダになりたいと思います。深井さんも「苦しみがなくなるからね」と同意します。しかし釈迦自身は、悟るための特別な方法を語っていませんでした。
釈迦の前世をさかのぼる「菩薩」のロジック
凡人が悟る道を探すため、仏教者たちが目をつけたのは釈迦の前世でした。楊さんは、釈迦がブッダになる前は「菩薩」というステータスだった、というロジックが組み立てられたと説明します。
釈迦は悟ったんだけど、彼のその人生単体で見てても、どうやら自分たちはそれ(悟り)を再現できないんだっていうことが分かってくる。彼は天才だからね。
でもそんなこと言われたら救いがないじゃん。じゃあ天才じゃない自分ってどうすればいいんだってなるわけですよ。
深井さんによれば、そこで出てきたのが「釈迦が悟った最後の人生は氷山の一角にすぎない」という考え方です。輪廻転生を繰り返しているなら、それまでの前世で徳を積み重ねてきたからこそ、釈迦は最後の人生で若くして悟れたはずだ、と考えたわけです。
楊さんは、釈迦ももともとは自分たちと同じ凡人で、地獄に落ちたりしながら輪廻を繰り返すなかでブッダと出会い、菩薩になって解脱できた、という物語が後付けで編み出されたと話します。
釈迦が凡人から悟ったのなら、自分たちにもできるはずです。楊さんは、こうして人々は「自分は今、悟りの途中にある」と自己解釈できるようになったと述べ、深井さんは「希望が生まれるよね」と応じます。
問題
悟れたのは天才の釈迦だけで、次のブッダは56億7000万年後
分析
釈迦の最後の人生は氷山の一角で、前世の積み重ねがあったはずだと考える
釈迦の再解釈
釈迦も元は凡人で、輪廻のなかでブッダと出会い菩薩になったとされる
凡人への希望
自分も前世でブッダに出会っており、悟りの途中にいると解釈できる
お経に心が動いたら、前世でブッダに会っている
では、何をもって前世でブッダと出会ったと言えるのか。楊さんは、お経を読んでありがたい言葉に触れ、心を動かされたなら、それは前世でブッダに出会っている証拠だとされる、と説明します。ここでのブッダは釈迦個人ではなく、悟った人一般を指します。
果てしない輪廻の中で、転生の中でブッダに出会ってない可能性の方が低く、あなたがお経を読んで何か感じることがあるということであれば、おそらくあなた(ブッダに)出会ってますと。
深井さんは、このロジックによって「全員が悟る種を持っている」という考え方が生まれたと整理します。だから現世で功徳を積み、悟りに近づいてください、という教えになるわけです。
ただし楊さんは、功徳を積むという方法も釈迦は言っていないと指摘します。深井さんによれば、釈迦の教えは「出家して修行しろ」というシンプルなものでした。
釈迦の教え: 出家して徹底的に修行する
お経を唱える、お経を供養する、日常で良い行いをすることで悟れる
楊さんは「こうやったらこう、こうやったらこう」と一つずつ積み上がっていくのが仏教らしいと感心し、深井さんも、宗教っぽく聞こえるが全部ロジックなのだと強調します。
すべては関係性から生まれる「縁起」とは?
次に深井さんが取り上げるのが、縁起 ── 仏教の基本概念で、あらゆる物事は他との関係や条件によって生じ、それ単独で成り立つものはないという考え方。日常語の「縁起がいい」の語源でもありますという概念です。ブッダも語っていたものを、ナーガールジュナ ── 2〜3世紀ごろのインドの仏教思想家で、漢訳名は龍樹。空の思想を体系化し、大乗仏教の理論的基礎を築いた人物とされますがさらに確立したと深井さんは説明します。
これはあらゆるものの相互作用の中で、その相互作用の関係性として存在するのであって、単体ではない。だから私がいてあなたがいて、あなたがいるから私がいる状態ができていると。
縁起の考え方では、自分という存在は自分単体では存在し得ません。深井さんは、そこから「私というものはない」という考え方になり、以前話した空の思想に近いと述べます。
深井さんによれば、縁起は時系列の因果だけを指すのではありません。布が糸で編まれているように、時間の前後がなくても、糸と布の間には因果関係があるという使い方をします。
縁起の考え方では、すべての存在は関係性によって成り立っており、単体という概念はなく、したがって実体もないことになります。深井さんは以前のエピソードで話したピラミッドの例を持ち出します。石の塊が積み重なっているだけで、何をピラミッドと呼ぶかは人間の定義の問題だ、という話です。
「月とスッポン」も因果関係だという難解さ
深井さんが面白かったと話すのは、「月とスッポン」も因果関係だという説明です。楊さんは「むずい」と即答し、深井さんの「山こもりたくなるでしょ」に「裏山に行きたい」と返します。
月とスッポンという関係性の中で言われる月というのは、スッポンがあって初めて月がある状態だということです。
対比として並べられた月は、スッポンとの関係のなかでしか意味を持ちません。深井さんは、桜と木のようにレイヤーが違うものの関係も同じだとし、対立する現象や概念は互いに依存し限定し合う相対的な成立をしているだけで、幻影なのだと説明します。
そこから導かれるのが、どちらか一方に偏って傾斜してはならないという考え方です。実体がないものに傾くのはおかしい、というわけです。
深井さんは、出家したいと傾斜するのもおかしいし、出家しないと傾斜するのもおかしい、と例を挙げます。ここで思わず深井さん自身が「は?」と声を上げ、楊さんは「俺ずっと言ってますよ」と返します。
でもなんか頭いいなって思うじゃん。適当に言ってるわけじゃなくて、考え尽くした結果これ出てきちゃったんだよね。
深井さんは、以前話した「歩いている人は歩いていない」というロジックにも触れ、「ググってほしい」としながら、読んだときには「本当だ」と納得してしまい怖くなったと振り返ります。楊さんは、ピンとは来ていないが言っていることの雰囲気はわかる、と率直に話します。
「傾斜しない」思想が禁欲的な仏教をゆるめた
深井さんは、どちらにも傾斜してはいけないという概念が仏教に何をもたらしたかを説明します。上座部仏教 ── 釈迦の教えを比較的厳格に守る系統の仏教で、出家者の修行を重視します。現在はスリランカや東南アジアに広まっていますはかなり禁欲的で、山にこもって修行しなさいという教えでした。
傾斜しないという考え方によって、その禁欲性がだいぶ緩和されました。深井さんによれば、これによって衆生、つまりさまざまな人々が仏教に参加できるようになり、前に話した「救い」につながっていきます。
楊さんは、ここに空の思想も絡んでいると補足します。この世はすべてかりそめで、人々が存在だと思っているものは心の動きが作り出した姿だとされます。般若経などの空の思想は、さらにそれを認識している感覚自体もない、とアップデートしました。
空の思想はなぜ輪廻のロジックを崩したのか
楊さんによれば、空の思想は釈迦が唱えた輪廻転生のロジックを崩します。輪廻はカルマがあるから起こり、カルマを作るのは煩悩、つまり自我意識です。ところが空の思想では、その自我意識がないことになります。
前提が崩れたことによって、もう一回リセットされたんですよ。空の思想によって。
輪廻の理屈
輪廻はカルマから、カルマは煩悩(自我意識)から生まれる
空の思想
認識している感覚も自我意識もないとする
前提の崩壊
輪廻転生のロジックの土台が崩れる
新しい道
厳しい修行が必須でなくなり、日常の良い行いがブッダにつながる
楊さんは、この結果として厳しい修行が必ずしも必要ではなくなり、普段の良い行いがそのままブッダにつながる、というロジックのつなげ方が自由にできるようになったと話します。エピソード説明にある「修行、いらなくない?」という問いは、この転換を指しています。
唯識は人間の認知をどこまで分析したのか
深井さんは、こうした「ヤバロジック」の後に、いよいよ唯識 ── あらゆる存在は心の認識が作り出したものだとする大乗仏教の思想。人間の心を何層もの「識」に分けて分析するのが特徴ですが登場すると話します。インドのマイトレーヤとバスバンドゥという人物が唱えたもので、マイトレーヤを漢字にすると弥勒になるそうです。
深井さんによれば、唯識は人間の認知レベルをステップに分けて分析し、煩悩の元を突き止めて消そうとするアプローチです。この唯識が、のちの密教に大きく関わってきます。
深井さんは、意識しなくても心臓が動いていることは古代の人にもわかり、それを表層意識では説明できないためにマナ識やアラヤ識が考えられた、と説明します。
唯識が空の思想と違うのは、自我はあると考えた点です。深井さんも「俺もそう思うわ」と同意します。そのうえで、この世界はすべて認識でできている、と唯識は考えます。
全て僕たちの認知感覚によって、その無意識下でも表層意識下でも、それによって全てが形作られているわけで、それ以上のことはもう証明ができないと。
だから自分たちの意識にさえアプローチできれば、絶対に悟れるはずだ、というのが唯識のロジックです。問題は、無意識をどうやって書き換えるかでした。
深井さんによれば、唯識の流れをくむ人々は、言語やロジックを超えた身体動作や謎のヨガのような修行によって、ある意味で自分を退化させ、潜在意識の奥にアプローチしようとしました。
密教の本質を一言でいうと何か?
深井さんが「一番分かりやすかった」と紹介するのが、密教の定義です。密教とは、無意識に対してアプローチする手法を確立した宗教だという説明です。
深井さんは順を追って説明します。唯識によれば、世界で起こることはすべて自分の認識が作っていて、苦しみも認識が作り出したものの反射として勝手に感じているにすぎません。
自分たちの意識を変えれば、それは苦しみがなくなることになりますよね。苦しみがなくなるところか、世界を変えれますよね。なぜなら、全ての世界は自分が作ってるから。
唯識の前提
世界も苦しみも、すべて自分の認識が作っている
可能性
意識を変えれば苦しみが消え、世界も変えられる
難所
無意識下のマナ識とアラヤ識にはアプローチが難しい
密教
無意識をコントロールする手法を極めた
楊さんは「頭がプスッて言ってる」と話しつつ、密教がどの部分を極めたのかを受け止めます。
空海の儀式が「国を守れる」理由
深井さんは、この密教の理解が空海の活動にどうつながるかを説明します。空海は真言仏教として、怨霊から国を守る儀式を行いました。そのロジックは唯識から出ていると深井さんは言います。
世界は僕たちの認識が作ってるわけです。その認識にアプローチすれば世界が変わるんですよ。
だから認識にアプローチする手法を持ってる空海は世界を変えることができます。
深井さんによれば、怨霊が出ようがどうだろうが、空海は世界を変えられるので、結果として日本を守ることができる、というロジックになります。エピソード説明にある「鎮護仏教=国家安全保障」とは、この構図を指しています。
深井さんは、これに気づいたとき「何にも理解してなかった」と感じたと振り返ります。唯識以降の彼らにとって、単に怨霊がいるから祈るという話ではなかった、と深井さんは強調します。
法華経が示した「いろんな悟り方」と平等思想
唯識の後に登場するのが、「南無妙法蓮華経」で知られる法華経 ── 大乗仏教の代表的な経典の一つで、正式には妙法蓮華経。誰もが仏になれると説き、日本の天台宗や日蓮宗などの根本経典となりましたです。楊さんは、日本の仏教のベースになったお経の一つだと補足します。
深井さんによれば、大乗仏教では人を救えることが大事とされ、自分だけ悟る人はよくないとされていました。ところが法華経は、自分だけ悟る人も含めて全部いいよね、と包み込みました。
いろんな悟り方あっていいよっていう。その中の一つとしてみんなを救うっていうのもあるよみたいな。だから全部平等だよみたいな。
深井さんは、いろんな立場を認める平等思想を聖徳太子が日本に持ち込み、冠位十二階や十七条憲法につながっていく流れがあると予告し、それは次回の話だとします。
一回聞いただけでは分からない、それでも見えたつながり
感想を求められた樋口さんは、正直一回聞いただけではわからないと答えます。それでも、以前に唯識を少し勉強していたおかげで、密教のつながりはギリギリ見えたと話します。
でもなんかギリギリちょっと分かったなと思うのは、やっぱり唯識論っていうのをちょっと一回勉強してたから、それを基に何か密教というのが分かったっていう。
深井さんは、空より唯識のほうがまだ分かりやすく、空は感覚として理解しにくいと話します。そして、自分が本を読みながら本を投げたくなった気持ちが伝わったはずだと笑います。
いや、これは投げたくなるし、今すぐ山にこもりたくなりますね。
樋口さんは、何度も聞いてちゃんと理解したいと締めくくり、話は次回へと続きます。
まとめ
今回のエピソードでは、釈迦一人しか悟れなかった仏教が、菩薩のロジックで凡人にも希望を開き、縁起や空の思想で修行の前提をゆるめ、唯識を経て密教へと至る流れが語られました。深井さんが強調したのは、宗教的に見えるこれらの教えが、考え尽くされたロジックの積み重ねだという点です。
- 釈迦の前世を想定する菩薩のロジックによって、凡人も「悟りの途中にいる」と考えられるようになった
- 縁起と空の思想は、実体も自我もないとし、何にも傾斜しない考え方から禁欲的な修行を緩和した
- 唯識は世界をすべて認識が作るものとし、密教はその無意識へのアプローチ手法を極めたと説明された
- 空海の国家守護の儀式は、認識を変えれば世界が変わるという唯識由来のロジックに支えられていた
- 法華経のいろんな悟り方を認める平等思想が、聖徳太子を通じて日本に入る流れは次回へ続く




