前回の難解な仏教論、覚えておくべきは3つだけ?
最澄と空海編の第4回は、前回までの大乗仏教の話を振り返るところから始まります。樋口さんは冒頭で、前回の内容が「さっぱりわからなかった」と率直に打ち明けました。
前回までは、何の話でした?ちょっと。マジでちょっと聞いていただきたい。僕はさっぱりわからなかったです。
大丈夫です。説明してる僕らもあんまりわかってないです。
深井さんは、仏教の教理はちゃんと理解した人の本を読んでも意味がわからないほど難しいとし、「難しいことが伝わればいい」と開き直ります。そのうえで、前回の内容から押さえておいてほしい点を3つに絞りました。
1つ目は大乗仏教の成り立ちです。仏教が広がるにつれ、誰もが修行できるわけではない状況が生まれ、修行しなくても悟れるという考え方や、菩薩 ── 悟りを求めて修行しつつ、他者の救済も目指す存在。大乗仏教で重視され、自分だけでなく多くの人を救う理想像とされますの概念が出てきました。深井さんは、この修行が緩くなる流れが中国や日本の大乗仏教につながると説明します。
2つ目は唯識 ── 世界は自分の認識(心)が生み出したものだとする大乗仏教の思想。心の深層に複数の層を想定する点が特徴ですから密教への流れです。世界が自分の認識だけでできているなら、認識に働きかける技術を極めればすべてが完結するという発想で、その技術を極めたものが密教 ── 呪文や儀礼、修法を通じて悟りや現世の利益を目指す仏教の一派。日本では空海が真言宗として体系化しましただと深井さんは整理します。
深井さんによれば、密教は心の深層である末那識・阿頼耶識書き起こしでは「魔識、荒野識」を書き換えるための技術です。仏教儀式がコンピューターの挙動に近い理論で説明できるという話も、後の回で扱う予定だと予告されました。
3つ目は法華経 ── 大乗仏教の代表的な経典の一つ。すべての人が仏になれるという考えを説き、日本では天台宗や日蓮宗の根本経典とされますです。法華経は悟り方の平等に強い価値を置く経典であり、この3点さえ覚えておけば、細かい理屈はわからなくても大丈夫だと深井さんは語ります。
仏教伝来をめぐる蘇我氏と物部氏の対立
今回のテーマは、大乗仏教が日本にどう伝わり、どう変化し、最澄と空海につながっていくかです。深井さんは、最澄と空海の話だけを投げても「すごさがわからない」ため、今回は2人の登場が後半になると前置きしました。
深井さんによると、大乗仏教が日本に伝来したのは6世紀半ば、552年頃と言われています。それ以前にも仏教は伝わっていたとされますが、神道の国だった日本ではうまく浸透しなかったようです。
当時の日本にとって、仏教は単なる信仰ではなく、先進文化であり先進的な学問でした。医学や工学なども含む一つの学問体系で、僧侶はそうした知識を身につけた専門家でもあったといいます。
(僧侶は)工学と医学と、宗教学とか、あと国家の運用の政治学とかを全て包括して治めた教授みたいな位置。
仏教の受け入れをめぐっては、蘇我氏と物部氏が対立しました。蘇我氏は開明派で、隣の大国である唐で仏教が流行っている以上、日本にも取り入れるべきだと考えました。物部氏は土着の神道派で、神道で成り立ってきた国にむやみに仏教を持ち込めば混乱すると主張しました。
開明派。文化後進国の日本は、大国・唐で流行る仏教を取り入れるべきだと考えた
土着神道派。神道で成り立ってきた日本に仏教を持ち込むと混乱すると考えた
樋口さんは「言ってることどっちも正しそうですね」と反応します。楊さんは、この対立の背景には皇位継承をめぐる政治闘争があり、仏教と神道の対立はその具体的な表れの一つだったと補足しました。
きっかけの一つは朝鮮半島の百済 ── 朝鮮半島南西部にあった古代国家。日本と関係が深く、仏教や漢字文化など多くの文化を日本に伝えたとされますです。日本は百済を通じて中国文化を取り入れており、百済は欽明天皇に美しい金銅の仏像書き起こしでは「金剛混銅仏」を贈りました。深井さんは、その背景に軍事援助の要請があったと言われていると説明します。
当時の大和王権は朝鮮半島の一部にまで勢力を持っていたとされ、楊さんは今のような国境の感覚はなく「もう繋がってる感じ」だったと補足します。軍事的に強いが文化的に遅れた日本が文化を受け取り、その代わりに百済が軍事援助を求める関係があったといいます。
今でいうと、なんかシリコンバレーから最新のソフトウェア来たぞみたいな。上陸したぞみたいな。すげえ嬉しいみたいなね。
天皇は仏像を喜びましたが、これをきっかけに蘇我氏と物部氏の争いは激しくなります。蘇我稲目と物部尾輿書き起こしでは「物部奥志」らの争いの結果、蘇我氏が勝ち、仏教が日本に取り入れられていきました。
僧侶は公務員。政治利用前提の国家仏教
深井さんは、日本に入ってきた仏教は教えだけでなく、律令制度 ── 刑法にあたる「律」と行政法にあたる「令」に基づく中国式の統治制度。日本では7〜8世紀に整備されましたという法律の仕組みとセットで取り入れられたと説明します。樋口さんは、イスラムの回で出てきた「考え方だけでなくシステムまで含む」感覚に近いと受け止めました。
日本の仏教伝来の特徴は、国家が制度として取り入れた点にあります。民間に広まった宗教という感覚ではまったくなかったと深井さんは強調します。
仏教が日本に来たのは政治利用のためです、最初は。中国に伝来したのもそのため、それなんですけどね。政治利用前提なんですよ。
それまでの日本は氏族社会で、貴族の連合政権としての大和王権があり、天皇が一強ではありませんでした。律令によって法で治める国家にし、仏教という先進的な学問で文化的にも先進国に近づけようとする動きが起きたといいます。
国家が導入した仏教なので、日本の僧侶は全員が公務員で、楊さんによれば許可制でした。深井さんは、玄奘の回で話したのと同じく、僧侶は国立大学の教授のような存在だったと説明し、ブッダが説いたこととの違いの大きさを指摘します。
深井さんによると、国家仏教の源流は隋や唐にあります。隋と唐は鮮卑族という遊牧民の国で、天に認められた有徳者が皇帝になるという易姓革命 ── 天命を受けた有徳の者が王朝を開き、徳を失えば天命が別の家に移るとする中国の王朝交代の思想のロジックをそのまま使えませんでした。
そこで隋と唐は、自分たちが王権を持つ正当性を説明する新しい論理体系として仏教を輸入し、国家仏教として活用したといいます。その時代に出てきたのが玄奘であり、日本もこの流れの中で国家仏教を制度として輸入しました。
日本側には外交上の事情もありました。楊さんによると、当時の朝鮮半島・中国大陸・日本列島の関係は緊張をはらんでおり、日本は先進国と対等な外交関係を築く必要がありました。
はだしだったりとか、入れ墨が入れてたりとか、冠を被ってなかったりとか、帯もなかったんですよね。でもそれは中国とか朝鮮ではそれはおかしいんですよ。蛮族の服装なんですよ。
深井さんは、この状況を現代の首脳がスーツを着て外交の場に臨むことにたとえます。相手の文化を理解し、対等に話せる国であることを示すために、律令の導入や先進文物の輸入が必要だったという見方です。
聖徳太子はなぜ法華経の「平等」を求めたのか
蘇我氏が物部氏に勝つ頃に登場するのが聖徳太子です。深井さんによると、聖徳太子は推古天皇の時代に皇太子として摂政 ── 天皇に代わって、または天皇を補佐して政治を行う役職を務め、仏教思想に基づく政治体制を確立しようとしました。
聖徳太子が特に重視したのは、法華経の平等性でした。血筋によって貴族が良い地位に就く社会から、もう少し実力社会にしたい。そのためには「法のもとに皆がある程度平等である」という考え方に正当性を持たせる必要がありました。
法の下に皆がある程度平等であるっていう概念を正当性を持たせるには超絶ロジックが必要なんですよ。
深井さんは、仏教はその正当性を「スーパーロジック」で説明できたと語ります。どれほど頭のいい人が読んでも理解しきれず、質問すれば必ず答えが返ってくるため、納得せざるをえない体系だったというわけです。
聖徳太子は、この世界はもともと平等だという世界観を示し、そこから社会制度のあるべき姿を導くことで、人々を納得させようとしたといいます。樋口さんは、仏教が目指す社会の「後ろ盾」になったのだと受け止めました。
法華経のロジック、釈迦は死んでいない?
楊さんは、法華経が平等の理念を含むに至った理屈を補足します。法華経以前にも菩薩の概念によって「みんな救われる」とされていましたが、実際には救われない人がいたといいます。
楊さんによると、救われないとされたのは2種類の人でした。菩薩という概念を示していない釈迦の教えに従った人と、菩薩の修行をせずに一人だけで悟った人です。法華経は、この人たちも救う対象に広げました。
法華経がそれを可能にしたのは、釈迦は説法のときに本当のことを言っていなかったという主張です。弟子にわかりやすく方便 ── 真理へ導くために、相手に合わせて用いる仮の手段や教え。「嘘も方便」の語源になった仏教用語ですを示しただけで、釈迦が本当に言いたかったことは法華経に書いてある、という構造になっているといいます。
釈迦が言ったことにしていいシステム。
まさにそうなんですよ。その中で何を言ったかというと、その釈迦は実は死んでない。
楊さんの説明では、釈迦が死んだのであれば、今を生きる人は釈迦を直接供養できず、悟りとの距離が遠くなります。そこで法華経は、釈迦は過去から未来までずっと生きている、時空を超えた永遠の存在だとしました。
釈迦が今も生きているなら、供養や読経、良い行いや修行によって釈迦と直接つながることができ、悟りのスピードが上がります。輪廻の中で何度も生まれ変わらずに済むよう、悟りを早める論理のアップデートがその後も続いていくと楊さんは語ります。
ニーズに合わせてですよね。結構俺からしたら無理やり作ってきたなという。
ロジックとしては通ってたりするから怖いんだよね。
楊さんは、後の回ではさらに「やばい」経典である華厳経 ── 大乗仏教の経典の一つ。あらゆる存在が互いに関係し合うという世界観を説き、東大寺の大仏の思想的な基盤になっていますが出てくると予告しました。
呪術は古代の福祉であり防衛費だった
話は聖徳太子による国家仏教の導入に戻ります。深井さんによると、古代日本が仏教に期待した機能は大きく2つありました。
1つは人心教化で、人々に平等思想や学問を理解してもらうことです。もう1つが呪術的機能で、国家は僧侶を公務員として訓練し、道具や寺、衣服まで用意してスペシャリストとして育てる体制を整えました。
呪術への投資の中身は、病を癒す力や怨霊をはね返す力に向けられていました。深井さんは、呪術は国家にとって社会福祉であり防衛費でもあったと説明します。
国家からすると社会福祉でもあり、防衛費でもあるわけ。意味わかるかな、これ。
深井さんは、これを現代のミサイル防衛にたとえます。ミサイルが本当に撃ち落とせるかはわからなくても、こういう理屈で機能するはずだと配備し、配備されたことで少し安心する。古代の呪術もそれと同じ構造だったという見方です。
病や怨霊に対し、唯識などの理論で機能するはずの呪術と、東大寺の大仏のような巨大な建造物に投資した
核攻撃や病に対し、機能するはずのミサイル防衛やワクチンに巨額を投資し、対策したことで安心を得る
呪力が何によってどう働くかという理屈は、もとは哲学に由来していました。民衆はそこまで理解していなくても、最先端の僧侶や仏教を学んだ聖徳太子らは理屈を理解したうえで、本気で投資していたと深井さんは語ります。
深井さんは、莫大な費用をかけて東大寺の大仏を造った当時の人々の気持ちは、現代の自衛隊やミサイル防衛費への投資にかなり近いのではないかと話します。コロナのワクチンも、効くかどうかの全貌はわからないまま世界中が投資してきたと例に挙げました。
頑張る対策を頑張ることによって安心するじゃないですか。何もしないことよりも。そういう人間心理が僕は働いてると思います。
樋口さんは「見えない不安や見えないリスクに対する投資なんだ」と受け止めます。深井さんは、時代によって変わるのは投資対象とロジックだけで、偉い人たちが考えて守ってくれる国家はありがたい存在だという考え方は今も同じだと語りました。
なお深井さんによると、東大寺の大仏は華厳経の盧舎那仏 ── 華厳経の中心となる仏で、宇宙そのもの、宇宙の真理を象徴する存在とされます。東大寺の大仏はこの盧舎那仏です書き起こしでは「宇沙那仏」で、宇宙の真理のシンボルだといいます。
道鏡事件と平安遷都、仏教の権力化と反動
国家と密接に結びつき、社会から比較的隔絶して学術的に営まれた仏教は、飛鳥時代から奈良仏教へとつながっていきます。国家に保護されて発達した結果、一つの大事件が起こりました。
僧侶の道鏡 ── 奈良時代の僧。女性天皇の信任を得て権力を握り、皇位をうかがったとされる人物が天皇になりかけたのです。深井さんは、神道のトップである天皇に仏教から出てきた人がなることは、仏教と神道が並び立つか置き換わるかという話になる大事件だったと説明します。
史実では、女性天皇の称徳天皇書き起こしでは「聖徳天皇」が道鏡にたぶらかされて皇位に就けようとしたと言われています。ただ、深井さんはそれがどこまで史実かはかなり微妙だとしています。
深井さんがインタビューした僧侶は、当時の日本は神道と仏教の「ダブル」の国家にしようとしたのではないかという自説を語っていたといいます。道鏡が天皇になっていれば、日本はチベットのように、ダライ・ラマのような人物がトップの国になっていたかもしれないという話で、深井さんは「めちゃくちゃ面白い」と紹介しました。
いずれの説にせよ、仏教の地位はそれほど上がっていました。東大寺の大仏に象徴されるように仏教は莫大なお金を使い、財政は逼迫し、天皇の権力も脅かされるようになります。
そこで光仁天皇の時代あたりから仏教を抑え込む流れが生まれ、続く桓武天皇 ── 平安京へ遷都した天皇(在位781〜806年)。仏教勢力の抑制や律令政治の立て直しを進めましたが都を平城京から平安京へ移します。深井さんは、平城京の寺院勢力による政治介入から逃れることが遷都の理由の一つだったと説明します。
国家仏教の導入
仏教が国家の制度として日本に入ってくる
仏教の権力化
国家の保護のもとで発達し、道鏡事件が起こるほど地位が上がる
抑え込み
財政逼迫と政治介入を受け、光仁天皇・桓武天皇の時代に抑制され、遷都が行われる
新しい仏教の模索
抑え込みたい権力者が新しい仏教のスタイルを探し、最澄と空海が登場する
深井さんは、権力者が探した新しい仏教のスタイルにハマったのが最澄と空海だったとまとめます。楊さんは、最澄・空海の前と後とで日本の仏教の形が違うと指摘し、深井さんは、最澄が旧来の権力仏教と激しい論争を繰り広げていくと付け加えました。
社会のニーズと、あと天皇とか、いわば藤原氏とか、そういった朝廷内の政治闘争ともリンクしてるんですね、政策は。
長岡京を襲った早良親王の怨霊
最後に深井さんは、奈良時代から平安時代へ移る時期をもう少し詳しく語ります。桓武天皇は平安京の前に、まず長岡京へ遷都していました。旧勢力から切り離して天皇の地位を上げたい狙いと、仏教勢力から切り離したい狙いの2つがあったといいます。
長岡京では権力闘争の中で、桓武天皇に近い臣下が暗殺される事件が起こります。激怒した桓武天皇が犯人を探すと、黒幕は桓武天皇の実の弟である早良親王でした。
幽閉された早良親王はハンガーストライキをしてそのまま亡くなり、許されずに遺体は淡路島に流されたといいます。その後、長岡京では桓武天皇の周りの女性が次々と亡くなり、洪水も起こりました。
原因を占った結果、出てきた答えが早良親王の呪いでした。深井さんは、この怨霊をどうするかという課題の中で出てきたのが最澄と空海だと語ります。
この怨霊をどうするか。これで出てきたのが、あの最澄と空海です。
楊さんは、当時は病気や災害、暗殺などの事件と、目に見えない怨霊や鬼神とが、ごく当たり前に因果関係で結ばれていた時代だったと補足します。それを鎮めるツールとして仏教が受け入れられる社会的なニーズがありました。
楊さんによると、平安時代は衛生状態もあまり良くありませんでした。死体は穢れとされて触られず、都の横の川などに捨てられていたと言われており、疫病が流行りやすい環境だったといいます。
祟られた長岡京は、わずか10年ほどで捨てられ、都は平安京へ移されました。深井さんは、平安京が江戸時代の終わりまで日本の首都であり続けたと述べ、最澄と空海が求められるニーズがあったことを伝えたかったと締めくくります。次回はいよいよ空海の話に入る予定です。
まとめ
この回では、大乗仏教が信仰ではなく国家のシステムとして日本に輸入され、権力化し、やがて抑え込まれる中で、怨霊対策をはじめとする新しいニーズが生まれていく流れが語られました。その受け皿として登場するのが最澄と空海です。
- 仏教は蘇我氏と物部氏の対立を経て、律令制度とセットの国家仏教として日本に入り、僧侶は公務員だった
- 聖徳太子は法華経の平等思想を、実力社会に近づける制度の正当化に使おうとしたとされる
- 呪術は古代国家にとって福祉であり防衛費でもあり、深井さんは現代のミサイル防衛やワクチンへの投資と同じ心理だと説明した
- 道鏡事件に象徴される仏教の権力化が抑制を招き、長岡京・平安京への遷都と怨霊対策の中で最澄と空海が求められた





