秀吉を失った宇喜多家に潜んでいた「時限爆弾」とは?
宇喜多秀家編の最終回は、秀家の出世を後押ししてきた豊臣秀吉が亡くなったところから始まります。秀吉の死によって、宇喜多家と秀家は大きな危機に見舞われることになります。
危機の背景として語られるのが、宇喜多家の領地支配の仕組みです。宇喜多家の支配は、それぞれの土地にいる中小の在地領主 ── その土地に根を張り、自ら農民と土地を支配していた地元の武士。戦国大名は彼らを家臣として組み込むことで勢力を広げましたを介した間接支配が中心で、土地支配には脆さがありました。
間接支配になった理由は、秀家の父・直家の時代にさかのぼります。直家には地方の領主から土地の支配権を奪うほどの力がなく、領主たちに独立性を持たせたまま配下に加えていく方針をとったと説明されています。
深井さんは、宇喜多家と領主たちの関係を、かなり語弊があると断ったうえで身近な仕組みにたとえています。
もうむちゃくちゃざっくり例えると(宇喜多家の支配は)フランチャイズ的な感じですね。
ここでいう独立性とは、独自に土地と農民を支配し、独立した軍団を持っていることです。宇喜多家の家臣は、いわば自分の縄張りと兵隊を持ったまま当主のもとに集まっている状態で、その独立性をどう削って従わせるかが、お家のガバナンスの大きな課題でした。
しかも宇喜多家の家臣には、秀家より経験豊富で年上の人物が多くいました。秀家は豊臣政権の中で高い位にまで上り詰めた一方、領国経営の脆さと、政権内での実力の乏しさを抱えていました。
豊臣政権の中で非常に高い位にあり、秀吉の娘婿で重臣という立場
領国は間接支配で脆く、政権内でも若輩で実力ベースの立場は危うい
この状況は、大企業の社長の娘婿として取締役に入ったものの、他の取締役はみな年齢も経験も上、という状況にたとえられています。深井さんは「いろんな会社でありそう」と反応しています。
秀吉の存命中は、秀吉が直接宇喜多家の家臣に指示を出していました。家臣たちは秀家の後ろに秀吉がいることを意識しており、秀家への謀反は秀吉への謀反にもなるため、謀反は抑えられていました。秀吉を失ったことで、その脆弱性が一気にリスクとして表に出てきます。
豊臣政権も同じ構造だった。家康が政権を骨抜きにしていく
秀吉の死後、豊臣政権そのものも崩れ始め、家臣たちの抗争が始まります。豊臣政権もまた、宇喜多家と同じ脆弱性を抱えていたと解説されています。
豊臣政権は、徳川・毛利・上杉のように独自の領国を持つ大名を、政治的・軍事的な圧力で統合して成立した政権でした。彼らを滅ぼさずに従わせたからこそ短期間で天下統一を実現できましたが、その分、政権の構造は不安定になります。
たとえば徳川家康は表面上は服従していても、軍事力を残したまま屈服させられていました。これは下剋上のリスクを抱えているのと同じで、宇喜多家と同じ構造だという指摘に、深井さんも「一緒ですね」と応じています。
統合
独自の軍事力や土地支配を持つ勢力を、滅ぼさずに配下へ組み込む
短期の拡大
力で従わせるため、短い期間で勢力を広げられる
抑止力への依存
秀吉という強い存在が、反乱を抑えていた
顕在化
秀吉の死で抑えが消え、内部の勢力が動き出す
実際に秀吉の死後、家康は政権を骨抜きにしていきます。大名同士の勝手な婚姻は禁じられていたにもかかわらず、家康は自分の子どもを伊達政宗などの有力大名と結婚させ、勝手に同盟関係を結び始めました。
さらに家康は有力者の家を訪ねて多数派工作 ── 味方になる勢力を増やすために、根回しや説得を重ねること。ここでは家康が大名たちを自陣営に取り込もうとした動きを指しますを行い、家康暗殺の疑いをかけられた人物の失脚や、大名同士の襲撃事件も起きていきます。
秀家は、秀吉の遺言で有力大名と奉行の利害を調整しながら政権を運営するよう託されていました。しかし秀家は秀吉亡き後の混乱に対して無力で、家康によって「大坂から出ていけ」と政権の中枢から排除されてしまいます。当時の秀家はまだ20代でした。
秀家の地位は、厳しく言えば、少なくとも最初は父・直家の奮闘のおかげで幸運にも得た出世のチャンスでした。一方で周りにいたのは、徳川家康、宇喜多家と親戚関係にある前田利家、毛利輝元、毛利元就の息子の小早川隆景といった、歴戦のベテラン武将ばかりです。
名前が強そうですもんね。もう徳川、前田、毛利。
関ヶ原の前年、宇喜多家の家臣騒動はなぜ起きたのか
政権内での位と実力の間に大きなギャップを抱えたまま、ついに宇喜多家の内部で事件が起こります。関ヶ原合戦の前年に起きた、家臣同士の襲撃事件と、主君である秀家への武装蜂起事件です。
外(の大名)こんだけ強いのに。
この家臣騒動をきっかけに大量の家臣が宇喜多家を去り、家臣団は崩壊しかけます。詳しい史料は残っておらず諸説ありますが、番組では確からしいポイントがいくつか紹介されています。
1つ目の理由は、やはり秀吉の死です。宇喜多家の家臣はある程度自立した中小領主の集まりなので、離脱しようと思えばできる状態にありました。
加えて、秀家の身分が上がるにつれて軍事費などの出費が増え、その負担は家臣たちにも広がりました。秀家は家臣の支持をつなぎとめるため、手持ちの土地を褒美として分け与え続け、家臣は独立性を保ったまま領地を大きく増やしていきます。
なるほど。ここだけ(秀家は)秀吉が取ったやつと違うんですね。
さらに、家康に政権中枢から排除されたことも、宇喜多家の中での秀家の求心力を下げました。当主が中央から外されている様子を見て、勢いがなくなりつつあると家臣が感じても無理はない状況です。
もう1つの大きな理由とされるのが検地 ── 田畑の面積や収穫量を調べて把握すること。領主が土地と年貢を直接管理できるようになるため、当主への権力集中につながりますです。秀家は領国支配の脆さを認識し、家臣独自の土地支配を削り、主従関係を厳しくしようとしました。
そのために秀家は、旧来の在地領主ではなく新しい家臣を側近に取り立てる人事改革を行います。権力を集中させるための正しい手ではありましたが、新旧家臣の対立を抑える力はなく、検地を推し進めた新しい家臣にヘイトが集まって襲撃されてしまいます。
後ろ盾の喪失
秀吉が亡くなり、家臣を抑える力が消える
負担と土地の分配
出費の増加を背景に、秀家は土地を家臣へ与え続け、家臣が力をつける
中枢からの排除
家康に政権中枢から外され、家中での求心力が落ちる
検地と人事改革
新しい家臣を取り立てて検地を進め、古い家臣と対立する
襲撃と蜂起
新しい家臣が襲撃され、主君への武装蜂起へ発展する
騒動を収めたのは家康だった。元家臣が関ヶ原で敵になる
宇喜多家の家臣騒動は、関ヶ原合戦の直前に宇喜多家の本隊を大きく揺るがしました。重臣の一部が処分されて家を去り、騒動を知った他の家臣たちも不信感から秀家を見放して離脱していきます。
家臣の離脱によって、宇喜多家が支配する領地は大きく減ってしまいました。それでも関ヶ原は迫っているため、秀家は浪人衆をかき集めて軍を編成します。人数はそれなりに集まったものの、まとまりのない烏合の衆でした。
家臣騒動を収拾したのは、秀家ではなく家康でした。立場の弱い秀家が自ら家臣を処分すれば、逆に責任を追及されるおそれがあったためです。
最も実力のある大名だった家康の裁決なら、誰もが納得するしかありません。家康は騒動を起こした家臣に厳しい処罰を下さず穏便に収め、さらに秀家の元家臣を自分の配下として吸収して勢力を広げました。
秀家は収拾できない
立場が弱く、自ら家臣を処分できない
家康が介入
最大の実力者として裁決し、穏便に収める
元家臣を吸収
秀家の元家臣が家康の配下に入る
関ヶ原で対峙
元家臣が、元の主君である秀家と戦うことになる
元家臣が関ヶ原で元主君と戦う展開は、相手の駒を取れば自分の駒として使える将棋のようだ、と出演者の間で語られています。
出世を断るという知恵。中国の故事と戦国武将の違い
家臣騒動のタイミングの悪さをきっかけに、出演者の一人は、関ヶ原は全員にタイミングを強いた出来事で、何が起きても対応できる体制でいることが大事なのだろうと話しています。
同じ出演者は、中国の故事には、実力に見合わない取り立てを受けると数十年後にこうしたことが起きるから辞退せよ、という教訓が出てくると指摘します。思うように出世しないことが1つのスキルであり、どこで止めると社会のバランスが取れるかという知恵が蓄積されているという見方です。
中国の故事で懸念されているのは、社会的なコンセンサスのない出世によって嫉妬で敵が増えることと、実力に見合わずに立場が崩れることの2点だと説明されています。それを防ぐ方法として出世を断る人物が、春秋戦国時代には実際に何人もいたといいます。
宇喜多家は名家ではなく、地方からベンチャーのようにのし上がってきた家なので、とにかく上を目指す意志が働いていたのだろう、という受け止めも出ています。
さらに、宇喜多家の家臣が秀家を飛び越えて秀吉に領地の保証を求める書面を願い出た事例も紹介されます。こうした関係は秀家の梯子を外すことになり、秀吉にとっても本来は損なはずだという指摘があります。
過去の事例を学ぶ期間があり、実力に見合わない出世を辞退する知恵が共有されていた
座学の期間が乏しく、その時々の最適解で出世や政権運営を進めていた
この議論の着地点は、経験だけではわからないことが、座学ならわかるという点です。数百年、千年単位の人間の挙動から「こうするとこうなりがち」と学ぶには体系的な知識が必要で、どちらが偉いという話ではなく、その違いが面白いと語られています。
関ヶ原の本当の「西軍筆頭」は誰だったのか
秀吉の死からわずか2年後、関ヶ原合戦が起こります。毛利輝元を担ぎ上げた反徳川勢が、家康に宣戦布告する形でした。
| 陣営 | 主な武将 |
|---|---|
| 東軍 | 徳川家康、黒田長政、伊達政宗など |
| 西軍 | 毛利輝元、宇喜多秀家、石田三成、島津義弘など |
一般に石田三成が西軍結成の中心とされますが、一次史料ではそのあたりはよくわかっていないと紹介されています。西軍の総大将であるはずの毛利輝元は合戦の前日に東軍へ寝返っており、秀家こそ実質的な指揮官だったという見方もあります。
少なくとも家康は、秀家を西軍の筆頭として認識していたようです。
こんななんか有名な合戦もそんなふわっとしたあれなんですねっていうふうに僕はびっくりした。
関ヶ原で西軍は敗れ、秀家は逃走し、大名としての宇喜多家は没落します。ここから秀家の9ヶ月にわたる逃亡生活が始まります。
戦後、家康は自分の意思で大名に領地の加増や没収、切腹を言い渡していきました。西軍の筆頭と見なされた秀家は、捕まれば確実に死刑で、実際に石田三成は短期間で捕らえられ処刑されています。
秀家の足取りは伝承レベルでしか残っていませんが、家康の捜索や落ち武者狩り ── 戦に敗れて逃げる武士を、農民などが襲って武具を奪ったり差し出したりしたこと。敗者にとって大きな脅威でしたを避けながら、関ヶ原の西の方に潜伏したと考えられています。逃亡を支えたのは、わずかに残った家臣と、妻・豪姫の実家である前田家でした。百姓の牛小屋に匿われてお粥を食べたという記述も残っています。
なぜ島津は「爆弾」のような秀家を匿ったのか
逃亡の中で秀家が選んだ行き先は、九州の薩摩の島津家でした。島津家は関ヶ原で西軍に参加して敗れた側ですが、まだ家康からの処分は下されず、戦後交渉が続いている状態でした。
九州の南端にある薩摩は、家康が物理的に手を出しにくい、治外法権のような場所でした。自分の領国や前田家には捜索の手が確実に伸びているため、かえって危険だったと考えられます。島津家は秀家を迎え入れ、秀家は薩摩で潜伏生活を送りました。
島津が秀家を受け入れた理由の1つは、占いで良い結果が出たことです。戦国武将にとって占いはごく普通の意思決定の手段でした。
もう1つは、窮地に陥って駆け込んできた武士を保護すべきだという、中世日本の慣習に従ったという研究者の考察です。頼まれた以上は断れない、武士の名誉にかけて守るという価値観が一般的に存在していたといいます。
これ(秀家を匿った判断)は薩摩がどうとか、島津がどうとかっていうよりは、日本全体の当時の武士の価値観。
楊さんの説明では、日本の古い慣習が薩摩に残っていたという捉え方です。ただし逃げ込んだ人を差し出したり殺したりした例もあり、島津は秀家を守ることが名誉につながると考えたのではないかと言われています。
島津は秀家を匿うだけでなく、家康に助命嘆願を行いました。戦後交渉の最中だったため、秀家を交渉に利用できると考えた可能性もあります。一方で、出演者の一人は「島津のことだから男気だけで決めていそう」とも話しています。
一度保護した秀家が死罪になれば、島津の評判が落ちるおそれもありました。島津の交渉の結果、秀家は処刑を免れ、島流しとなります。
八丈島へ流された罪人第一号、秀家の島での暮らし
秀家が流されたのは、現在の東京都の八丈島です。本当に辺境と言っていい場所で、秀家は八丈島に流された罪人の第一号でした。
このとき秀家は30代で、息子を含む13人が同行しました。かつて2万の軍勢を率い、関白秀吉の娘婿で重臣として権勢を誇った人物としては、あまりにも寂しい結末です。
八丈島の生活は厳しく、特に食料が不足していたため、自分たちで農地を開墾しなければなりませんでした。不作の時には死にかけることもあったといいます。
それでも秀家は本土の土を踏むことなく、八丈島で84歳まで生きました。
え?ちょっと待って。何歳?何歳の時に(八丈島へ)行ったんでしたっけ?
30代で流された秀家は、島で約50年を過ごしました。関ヶ原を戦った大名の中で、誰よりも長く生きたことになります。
270年続いた前田家の支援と、今も続く両家の縁
宇喜多家の血筋は途絶えず、明治維新まで続きました。明治を迎えるころには、八丈島の宇喜多家は約20の家にまで増えていたといいます。
その約270年間、宇喜多家を支え続けたのが、秀家の妻・豪姫の実家である前田家でした。前田家からは毎年、米や薬、布などが送られ、不作や飢饉のたびに求められた食料も届けられました。
前田家は宇喜多家を罪人として扱わず、先祖である前田利家の親族として敬意を払い続けました。
だって(前田家は)自分とは全く関係ないですからね、家と家の話で。それをずっと貫いてたのがやばいな。
明治になって、宇喜多家はようやく赦免されて本土に戻り、前田家の助けを借りて生計を立てました。ただ、都会の暮らしになじめず八丈島に戻った人たちもいて、その子孫が今も島で秀家の墓を守り続けています。
2017年の鎮魂祭で両家の当主がともに手を合わせたように、宇喜多家と前田家の縁は今に至るまで続いているのです。流された当初、ほぼ無人島のような土地を開拓し、織物などで生計を立てて人数を増やしていった宇喜多家の歩みに、深井さんは驚きを見せています。
頂点から地べたへ。自害しなかった秀家の生き様
エンディングで深井さんは、最後の50年は何だったのかというインパクトが大きかったと話し、宇喜多家に生まれたことでこういう人生をたどったのだと振り返ります。楊さんは「ジェットコースターのような人生」と表現しています。
生まれながらに役割を背負い、強大な秀吉に振り回され、家康も入ってくる。出演者の間では、早熟でなければ乗り越えられない、難易度が高いのにコンティニューできないゲームのようだという話になります。
これだから大器晩成型やったらもう速攻エンディングっすよね。
楊さんは、秀家は未熟なりに最善を尽くしたものの、時代と状況が常に自分の手に負えるレベルを超えてきたと話します。そのうえで、家康の捜索を振り切って九州まで逃げ、処刑を免れた背景には、幸運を引き寄せるだけの頭の良さと人の良さがあったのではないかと想像しています。
楊さんが惹かれるのは、自害してもおかしくない状況で秀家が死を選ばなかった点です。自らの生き様を美しく残すために腹を切る武士の姿を尊重しつつ、頂点から地べたまで落ちても生き抜いた秀家に魅力を感じていると語ります。
本人の手紙や手記はほとんど残っておらず、人となりはよくわかっていません。それでも状況から推測すると、とても魅力のある人物だったのではないかと話されています。
十歳でいきなりバーンってその戦国時代に巻き込まれて、ずっと何かを守って戦い続けた人が、いきなりそれを失ってよくなった状況とも言えるですね。
深井さんは、敵に襲われる心配もなく、食べ物さえあれば生きていける状況になったとき、秀家がどう感じたのかに興味を示します。出演者の間では、成功していく人生だけが美しいわけではない、という感想も交わされています。
別の出演者からは、秀家が優秀で責任感があったことがかえって仇になったのではないか、という見方も出ました。一方で、関ヶ原後に断絶した大名も多い中、子孫を約20の家まで増やして絶やさなかった宇喜多家は、生物学的には勝っているとも言えると話され、一同が納得しています。
全然名前とか知らない人がめちゃめちゃ頑張った上で、ものすごいバランスで今あるんやなっていうのを改めて思ったんですね。だって西軍の大将レベルやったわけですよ。
秀家のあとの岡山城と、漆黒の天守「烏城」
最後に楊さんは、岡山とのコラボ企画として、秀家以後の岡山城を紹介しています。秀家の後は小早川秀秋、続いて池田家が岡山藩主となり、岡山城の改修や拡張を行ってきました。
小早川秀秋は関ヶ原の勝敗に大きく関わった人物で、秀家の領国をそのまま褒美として与えられましたが、21歳で急死しました。その後は東軍で戦った池田家から池田忠継が藩主となり、幼かったため兄の池田利隆が実権を握ります。池田家は明治時代まで岡山城の城主を務めました。
現在の岡山城の天守は、第二次世界大戦の空襲で焼失した後に再建されたものです。黒い漆塗りの板をあしらった漆黒の天守で、「烏城」の別名でも親しまれています。番組では、11月のリニューアルオープンにあわせて訪れてほしいと呼びかけています。
まとめ
宇喜多秀家の後半生は、秀吉という後ろ盾を失ったことで、宇喜多家と豊臣政権に共通する構造的な脆さが一気に表に出たところから始まりました。家臣騒動と関ヶ原の敗北で大名の地位を失いながらも、秀家は薩摩へ逃れ、島津の助命嘆願によって八丈島で84歳まで生き抜き、その縁は前田家との関係として今も続いています。
- 宇喜多家は在地領主を介した間接支配で、秀吉の存在が家臣の謀反を抑えていた
- 秀吉の死後、出費の負担や検地をめぐる対立から家臣騒動が起き、家康が収拾して元家臣を吸収した
- 関ヶ原で敗れた秀家は薩摩の島津家に匿われ、島津の嘆願で処刑を免れて八丈島へ流された
- 秀家は八丈島で約50年を生き、前田家は約270年にわたり宇喜多家を支え続けた
- 出世を辞退する中国の知恵との対比から、座学で過去の事例を学ぶ意味も語られた





