日本の社会福祉も北欧と同じ軌跡をたどるのか?
前回まではスウェーデンを中心とした北欧諸国の社会福祉が語られ、今回から日本の社会福祉の歴史に入ります。楊さんは、大まかな流れは他国とほぼ同じだと前置きします。
楊さんによれば、日本の近代的な社会福祉は明治時代に入ってきたものです。戦争をきっかけに整備が進み、経済がよい時期には制度が増え、1970年代以降に経済が縮小すると削減を求める声が出てくる点も、他国と共通しているといいます。
やっぱり戦争によって社会福祉がすごく整備されてたりとか、経済がいい時は社会福祉の元手も豊かなので、いろんな制度ができる。
ただ楊さんは、日本の社会福祉の歴史の中にも独自の面白さやインサイトがあるとして、それを伝えたいと話しています。
戦争
戦争をきっかけに社会福祉が整備される
経済成長
元手が豊かになり、さまざまな制度ができる
1970年代以降の縮小
経済が縮小し、社会福祉を削る声が出てくる
古代から江戸まで、救済は「お恵み」だった
病気や貧困、災害、戦争はどの時代にもあり、日本でも古くから克服の努力がなされてきました。楊さんは、村の中での相互扶助や、お寺による貧困救済、日本に伝わったキリスト教徒の慈善救済活動を例に挙げます。
古代には、天皇家の代替わりなどの慶事や、流行り病・飢饉・天災の際に、天皇のお恵みとして貧しい民を救う制度があったそうです。飢饉に備えて穀物を蓄える倉庫のような社会インフラもありましたが、全国規模で整備されたわけではないと楊さんは見ています。
中世では鎌倉幕府による救済の記録が残っています。北条泰時 ── 鎌倉幕府の第3代執権。北条義時の子で、武家の基本法である御成敗式目を定めたことで知られますは、伊豆の飢えた民に「吸い米」として米を利息付きで貸し付けていたといいます。
江戸時代については、5代将軍綱吉の生類憐みの令 ── 江戸幕府5代将軍・徳川綱吉が出した一連の法令の総称。犬の保護が有名ですが、生き物全般の殺生や虐待を戒める内容を含みますが紹介されます。樋口さんが「犬とかのイメージが強い」と反応すると、楊さんは、この法令には捨て子についての定めもあったと説明します。
生類憐みの令では、捨て子があればすぐ届け出るのではなく、地域の者がいたわって養うか、養いたいと望む者の養子にするよう定められていたそうです。
楊さんは、ここまでの為政者による救済を、近代の人権に基づくものではなく、為政者の気持ち次第で救われるかが決まる「お恵み的な救済」だとまとめています。
当たり前ではないんですよね。だから文句は言えない。救われればラッキーみたいな、そういうふうなイメージですね。
余裕のない明治日本は、貧困を誰の責任にしたのか?
明治時代になると、日本の社会福祉事業は少しずつ制度化されていきます。ただ楊さんは、列強による帝国主義の時代に、アジアの辺境の小国が生き延びようとしていた厳しい国際状況を強調します。
日清戦争や日露戦争を控え、富国強兵を進めなければならない中で、救済は最小限度に限られていました。国は救済の責任を負わず、民にも求める権利はなく、貧困の原因は個人にあるとされていたそうです。
1874年には、日本で初めての救済規定である述救規則が成立します。楊さんによれば、この規則は貧困の責任を個人に置いたうえで、家族制度による扶助とお互いの助け合いを強く打ち出したものでした。
国じゃないですよね。
なんか互いを思いやる心で助け合ってね、家族と親戚で頑張ってねっていう、なんかそういうふうなことを謳ったもの(が、この救済規則)なんですね。
明治の救済規則の対象は、労働能力がなく、原則として独身で、ほかに頼る者のない人に絞られていました。総人口に対する救済の割合はとても低く、むしろ地方が独自に行った救済のほうが金額が多いほどだったといいます。
深井さんが、国がやらなくても地方や地域が担っていたのではと尋ねると、楊さんは「それも満足のいくレベルでは程遠い」と答えています。
残飯を洗って売る仕事が成り立った明治の貧困
深井さんは、華やかな近代化として語られがちな明治の裏側を、塩見泉一郎さんの『貧民の帝都』や、喜田潤一郎さんの『東京の下層社会』といった本から紹介します。これらの本を読むと、当時の貧困は想像を絶する壮絶さだったといいます。
例えば軍隊とか病院とかに行って、残飯を集めてきて、その残飯を洗って売るみたいな職業が成立するような社会なんです。
腐っているものをよけて洗った残飯を、買う人がいたという話です。深井さんによれば、こうした人々への公的扶助の法律を作ろうとする動きはあったものの、成立しませんでした。
楊さんも、帝国議会で救貧法を作る試みがあったものの、「貧しい民に税金を使えば怠惰を助長するだけだ」という反発があり、反対多数で不成立に終わったと補足します。
だから福祉国家の黄金時代みたいなのを体験する余裕もなかったんです。だからもうみんな頑張るしかないみたいなマインドが、もしかしてそれで今も残ってるかもしれない。
日清・日露戦争を経て資本主義が確立すると、工場の発展とともに労働環境が悪化しました。楊さんは、イギリスの産業革命でも同じことが起きたとして、再現性のある動きだと指摘します。
労働争議や暴動が多発する中でも、明治政府の大きな方向性は、中央と地方で国家に依存しない国民を作ることでした。1911年には工場法が作られ、日本最初の労働者保護法になったと楊さんは説明します。
金ではなく精神を。日本らしい「教育的アプローチ」
楊さんが「日本っぽい」と感じたのが、官下救済事業と呼ばれる取り組みです。これは、国家に依存しない独立した国民を育てるための、精神的な教育事業でした。
金じゃなくて、やっぱ精神なんだ。そう、精神主義に行くんですよね。
深井さんは嬉しそうに語る楊さんにツッコミつつ、「イメージがつく」と共感します。今でも人手が足りないと訴えると「頑張れ」と激励が返ってくるようだ、というのが深井さんの感覚です。
楊さんによれば、こうした精神面の政策を徹底した目的は、政府が支出する公的救済をできる限り抑えることにありました。弱者として必死に頑張らなければ生き残れない外部環境は、第二次世界大戦まで続いたといいます。
楊さんたちの議論では、日本の社会福祉の制度設計や自己責任マインドは、この長い戦時下のような状況で形成されたのではないか、という見解が出たそうです。
大正から昭和初期、国がようやく責任を負うまで
大正時代に入ると経済は繁栄する一方で、ストライキや労働争議、生活困窮者の問題が増え、米騒動 ── 1918年、米価の急騰をきっかけに富山県から全国へ広がった民衆の暴動。当時の寺内正毅内閣が退陣する一因になりましたのような出来事も起きました。
大正期の政府は、救済対象を絞る姿勢から、より広い国民や貧困層に目を向ける方向へ徐々に変わっていきます。大正9年には、救済行政を専門に担当する社会局が設置されました。
地方では、大阪府で方面委員制度が作られます。楊さんによれば、これは今の民生委員 ── 地域住民から社会福祉に関する相談を受け、支援につなぐ役割を担う人。厚生労働大臣から委嘱される非常勤の地方公務員で、報酬はありませんの前身です。
もう一つ重要だったのが、貧困者の実態を定量的・定性的に把握する「社会測量」という考え方です。貧困者を調査し、カードで一人ひとりの状況を記録する社会科学的な手法が導入されていきました。
そして1929年の救貧法で、国による公的扶助の義務と、救貧の責任が国にあることが明確にされます。楊さんは、日本の救貧史上まさに画期的な出来事だと位置づけます。
ここで国って関係になったね。
深井さんは、1927年の金融恐慌や世界恐慌で社会不安が高まったことを背景に挙げます。政府が社会保障を厚くする動機は治安の安定化にあった、と深井さんは見ています。
ただし1929年の救貧法にも限界がありました。行いが不良な人や著しく怠惰な人は対象外とされ、支援を受けると選挙権や被選挙権を失ったそうです。
だから救われたいなら人権の一部を諦めろっていうものですね。
厚生省は何のために作られたのか?
戦争に突入すると、日本の社会福祉も他国と同じく富国強兵のためのものになっていきます。兵力を増強するには国民の健康状態を上げる必要があり、そのために設置されたのが、今の厚生労働省の前身である厚生省でした。
へー。国を強くするためだ。
深井さんは、イギリスでも医療保険などへの関心が高まったのは戦争のためだったと指摘し、日本だけの現象ではないと補います。樋口さんは「何とも言えないポイント」と受け止めています。
同じ時期の1938年には社会事業法が公布され、民間の社会事業への交付金が制度化されました。楊さんは「民間もいろいろ頑張ってねということ」と表現しています。
GHQがもたらした、アメリカ本国にもない強い社会保障
敗戦によって、日本の社会福祉のシステムはガラッと変わります。楊さんは、今の日本の社会福祉のシステムは基本的に、敗戦後にGHQによって「インストール」されたものだと話します。
深井さんの補足によれば、GHQはポツダム宣言 ── 1945年7月、連合国が日本に降伏を勧告した宣言。日本はこれを受諾して降伏し、連合国による占領が始まりましたの内容を執行するために設置された組織です。主体はアメリカ軍で、日本の行政機関はほぼ全てGHQにお伺いを立てなければ何もできない状態だったといいます。
楊さんによれば、GHQの当初の目的は、日本の軍国主義を解体し、非軍事化と民主化で社会を改造して、アメリカなどにとって脅威にならないようにすることでした。福祉もその改造の対象になります。
このとき作られた日本国憲法の25条第2項に、社会福祉という言葉が登場します。続いて生活保護法、児童福祉法、身体障害者福祉法の「福祉三法」が矢継ぎ早に制定されました。
楊さんは、生活保護法について、日本政府はもともと元軍人を中心に救おうとしたものの、GHQに「みんな救う」よう求められたらしいと紹介します。
深井さんは、生活保護法に示された公的扶助の原則として、無差別平等、国家責任、公私の分離、必要十分な支給を挙げ、これはものすごく強い社会保障だと評価します。
だってアメリカ、自分の本国は自助の国なわけですよね。
深井さんによれば、アメリカ本国では強力な社会保障を国主導で行っていません。それを日本で実装したのは、一種の社会実験であり、先進的な試みだったといいます。戦争放棄を定めた憲法9条も含め、GHQは日本社会にかなりラディカルな変革を起こしました。
なぜGHQはラディカルな改革を実現できたのか?
深井さんは、GHQがラディカルな改革を実現できた理由として、権力が極端に集中していたことを挙げます。イギリスやスウェーデンの歴史で見てきたように、社会保障の導入には本来、社会的合意という高いハードルがあります。
けど、GHQ占領してるから合意いらないんですよね。やろうぜって言ったら導入できるみたいな。
樋口さんはこれを、一度破棄して理想のものを書き、「みんなこれで執行よろしく」とできた状態だと言い換えています。
楊さんは、日本を安定させたいという目的も強かったと付け加えます。1950年に朝鮮戦争が起きたことで、GHQの占領政策の目的が切り替わったといわれています。
深井さんの補足によれば、当時の西側諸国には、ソビエト連邦を中心に共産主義が広がり、旧植民地のアジアやアフリカの国々が共産化していくのではという恐怖がありました。コテンパンにされて無力になった日本も共産化しかねない、と考えられたのです。
そこでGHQは、日本を立ち直らせて共産主義への防波堤にする方向へ転じます。楊さんは、社会福祉の充実による社会の安定化とあわせて、今の自衛隊の前身である警察予備隊が作られたことを挙げます。
樋口さんがGHQに作らされたのかと尋ねると、楊さんは、警察予備隊は一応日本政府が作ったもので、GHQからの申し入れなどもあって成立したと説明しています。
軍国主義を解体し、非軍事化と民主化で脅威にならない国にする
共産主義の防波堤として立ち直らせ、社会福祉で安定させ、警察予備隊も作る
高度経済成長で広がった福祉と、1970年代の揺り戻し
次の時代は高度経済成長期です。国民の所得が増える一方で生活格差も生まれましたが、社会福祉と経済成長は切っても切れない関係にあり、日本は福祉を拡充するきっかけを得ました。
1955年から1973年の高度経済成長期、日本経済は平均10%の成長を遂げ、1968年にはGNPがアメリカに次いで世界2位になります。
この時期には、1960年の精神薄弱者福祉法(現在の知的障害者福祉法)、1963年の老人福祉法、母子福祉法、身体障害者雇用促進法、心身障害者対策基本法などが次々に制定されます。老人医療費の支給制度もでき、70歳以上の医療が無料化されました。
楊さんは、こうした法律はマイノリティにも社会保障の枠を広げたものだとまとめます。厚生年金保険法や国民年金などによる皆年金・皆保険も整っていきました。
しかし1970年代に経済がガクンと下がると、福祉は見直しを迫られます。樋口さんは、ここまでの国々と全部同じだと既視感を口にします。
結局なんかね、余裕があったら福祉が拡充して、余裕なくなったら見直せ、やめろってなるっていう。
楊さんも、20世紀以降の先進国はだいたい同じ軌跡をたどったと応じます。二度の大戦で福祉が整い、経済成長の間は充実し、1970年代の世界的不況で後退して新自由主義が出てくる、というグローバルな現象です。
「日本型福祉社会」は古代への逆戻りなのか?
1970年代の日本では、政財界を中心に社会保障や社会福祉への批判が高まり、見直しを求める報告書も出されるようになります。そこで提唱されたのが「日本型福祉社会」の構想でした。
楊さんによれば、日本型福祉社会論は、公共部門を拡充した福祉国家を目指すのではなく、個人の自助努力と、家族や地域社会の連帯を重視するものです。単純に言えば「家族と地域で頑張ろう」という主張でした。
なんか逆戻りしてますよね。
古代に。古代に逆戻り。
ただ、この時代にはすでに地域社会が崩れていたため、地域コミュニティの再建から始める必要があったと楊さんは指摘します。
楊さんが面白いと感じたのは、分けるパイがなくなった瞬間に、責任が国から地方へ、地方から個人へと降りていく点です。さらに財源の話だけでなく、利他主義や自己責任、絆といった規範や道徳が論点になっていきます。
樋口さんは「ない袖は振れない」と受け止め、楊さんも、数字がないなら思想や規範、道徳に分配の根拠を求めるしかないのだろうと話しています。
生活保護の「水際作戦」は何を壊したのか?
楊さんは最後に、経済の下落に連動して起きた具体的な見直しを紹介します。1982年ごろ、アメリカとイギリスで新自由主義を掲げる政権が発足し、その影響もあってか、日本でも「福祉改革」が言われるようになりました。
1980年代の福祉改革では、国の補助の削減と、地方への社会福祉の権限委譲が進められます。老人保健法の制定で自己負担が導入され、70歳以上の医療無料化は廃止されました。
財源確保の動きとしては、1989年に「福祉の充実」を名目に消費税が導入されます。同時に、行政側で生活保護を受給させない動きも出てきました。
楊さんによれば、いわゆる生活保護の「水際作戦」は、申請を窓口レベルで阻止するものです。1980年代以降は法律面でも運用が厳格化され、各地から次のような事例が報告されているといいます。
- 制度の存在を行政側から積極的に告知しない
- 窓口で高圧的な態度をとる
- 申請者の無知や恐怖につけ込み、受給を断念させる
深井さんは、財政問題がある以上一概には言えないとしつつ、個人の私見として厳しく受け止めています。
社会保障の精神みたいなものに著しく反するやり方ですよね。つまり、この人たち(申請者)をコミュニティの仲間だと見なさないっていうことをやってるってことですから。
一方で樋口さんは、少ないケースだと前置きしたうえで、悪意を持った不正受給の例を聞いたことがあるとして、それも問題ではないかと話します。
楊さんは、社会福祉制度が公平に執行されないことが、制度への支持を失わせる要因の一つだと応じます。樋口さんはこれを「対国じゃなくて対横」の問題と表現し、深井さんは「相互不信になってしまう」と言葉を添えています。
民間へ降りてきた福祉と、障害のある子を育てる父の不安
見直しの流れの最後に紹介されるのが、2000年の社会福祉基礎構造改革 ── 2000年前後に進められた社会福祉制度の抜本的な見直し。措置制度から、利用者がサービスを選んで契約する仕組みへの転換などを柱としていますです。楊さんは、社会福祉の責任を国から地方や民間へ降ろしていく流れの中で、サービスの提供主体を増やそうとする改革だったと説明します。
社会福祉基礎構造改革では、社会福祉法人の設立要件を緩和し、民間の参入を促すことが目玉の一つでした。ここまでが、楊さんによる日本の社会福祉のざっくりとした歴史です。
樋口さんは、福祉国家の限界から福祉が民間に降りてきているとして、現代のイデコ ── 個人型確定拠出年金(iDeCo)。自分で掛金を拠出し、運用商品も自分で選んで老後資金を積み立てる私的年金制度ですもその流れではないかと話します。楊さんは、自分でサービスを選べというのは「自己責任の裏返し」だと応じます。
樋口さんは、シリーズの1回目でも話したように、障害のある子を育てている立場から、これから余裕がなくなる未来の中で、負担が個人に降りてくるのではないかと考えながら聞いていたといいます。
いや、その中で自分がどうするかみたいな。俺が強くなるしかないのかみたいな。父ちゃん背負って生きるみたいな。
同時に樋口さんは、インクルージョンのような考え方も広がっていると述べ、日本の話をリアルに聞いて、不安と希望が入り混じった気持ちになったと振り返ります。
楊さんは、最も理想的な解決策は経済の復活だと話します。パイを大きくすれば社会福祉も充実するとわかっているからこそ、各国の政治家は経済が大事だと言うのだろう、というのが楊さんの受け止めです。
最後は、不幸と思わない精神や、今が幸せだと強く思う認識の持ち方も一つのあり方だと話しつつ、「わかんないですね」と締めくくられます。シリーズは次回が最終回です。
まとめ
日本の社会福祉は、お恵みの救済から始まり、厳しい国際環境の中で自己責任と精神主義が根づき、GHQによって一気に強い社会保障へと転換しました。その後は経済の浮き沈みに合わせて拡充と見直しを繰り返し、責任は再び地方や民間、個人へと降りてきています。
- 明治から戦前の日本は余裕がなく、貧困は個人の責任とされ、救済は家族・地域と精神的な教育に委ねられた
- 1929年の救貧法で国の責任が明確になったが、受給者は選挙権を失うなどの制約があった
- 戦後の福祉三法など、現在の社会福祉の基礎はGHQの強い権力によって、社会的合意を経ずに導入された
- 高度経済成長で福祉は広がったが、1970年代以降は日本型福祉社会論や生活保護の厳格化など、自助へ戻る動きが強まった
- パイが縮むと規範や道徳が論点になるという繰り返しの中で、楊さんは経済の復活を最も理想的な解決策と見ている




