桶狭間の敗報、19歳の家康はどこへ向かったか
1560年の桶狭間の戦いは、今川義元が織田信長に首を取られた、いわばジャイアントキリングの戦いです。楊さんは今回、この戦いを19歳だった家康の視点から見直します。
家康は今川方の武将として約1000の軍勢を率い、先鋒を任されていました。任務は丸根砦を攻めることと、今川方の大高城に兵糧を運び込むことでした。
めちゃくちゃやね。今の価値観で考えたら。
信長は丸根砦を含む5つほどの砦で今川方をおびき出そうとしていて、今川はその策にはまって兵力を分散させたとも言われています。今川方は丸根砦と鷲津砦を陥落させ、家康も兵糧の搬入を終えて大高城で休んでいました。
そこへ届いたのが、今川義元が討ち死にしたという伝令です。家康は、今川領の駿府に戻るか、今川から解放されたと捉えて岡崎に戻るか、その場で判断を迫られました。
楊さんによれば、戦国武将は瞬間瞬間で裏切るもので、織田方につくことすら選択肢にありえたといいます。そのなかで家康が選んだのは、尾張に近い岡崎城に入り、織田と戦う道でした。
マッチョ。マッチョっすね。
楊さんは、三英傑に共通するのはこういう場面で引っ込まないアグレッシブさだと話しています。
「忠義の三河武士」は本当か
深井さんは、戦国の主従関係はドラマで描かれるようなウェットなものだけではないと説明します。
その人のカリスマ性に惹かれるっていう気持ち的な部分も主従関係の中に含まれてるし、ギブアンドテイクっていう非常にドライな要素も実はこの中に含まれてるんですよ。
もし主君が自分のために何もしてくれないんだったら、もう全然それを見限って他の主君のところにつくっていう判断が普通にあり得た話なんです。
楊さんはこれを、給料だけで決めているわけでもなく、会社へのロイヤリティがゼロでも百でもない、今の会社勤めに近い感覚だとたとえます。違うのは、当時の武士が命をかけてその判断をしていたことです。
家康にとってもう一つのリスクは、負けそうになると家臣が裏切ることでした。楊さんは、忠義に厚い三河武士という通説は「ほぼ嘘」だと言い切ります。家康の父が岡崎城を追い出されたのも家臣の仕業だったといいます。
番組が話を聞いた学者によると、桶狭間後に家康が岡崎へ引いていく際にも三河の武士が攻めてきた場面があり、先祖の墓の前で自害しかけたという逸話も残っています。潰れそうなスタートアップから人が去るのと同じ現象だ、と楊さんは話します。
楊さんは、主君と家臣の間の同じ構造が武士団の単位で入れ子になっていると整理します。だからこそ、裏切りにくい親戚の存在が比較的大事だったといいます。
秀吉は武辺者ではなくバックオフィスで出世した?
一方の秀吉にとって、桶狭間は主君の信長が大勝した「いいこと」でした。翌年、秀吉は信長の家臣・浅井長勝の養女ねね(のちの北政所 ── 豊臣秀吉の正室ねねの呼び名。関白の妻を指す称号に由来し、秀吉の死後も豊臣家で重きをなしました)と結婚します。ねねは14歳、秀吉は25歳でした。
当時としては珍しい恋愛結婚で、家柄が釣り合わないと言われながらも周囲の後押しで結ばれたといいます。この頃の名は木下藤吉郎で、背が低く顔は浅黒く、ハゲネズミや猿と呼ばれていたと伝えられています。
秀吉が桶狭間で何をしていたかは、実はわかっていません。楊さんは、記録に残るほどではないが出世できる程度の働きはしていた、と推測しています。
ポンと大出世するようなイメージじゃないんですよね。ちゃんとやっぱり秀吉も時間をかけて一歩ずつじっくりとキャリアアップしてる。
秀吉が出世していくのは、斎藤道三の息子と戦う美濃攻めの時期です。楊さんは、秀吉はもともと武官より文官に近い、バックオフィス側で評価された人物だったという見方を紹介します。
深井さんによれば、当時の武士の最高の栄誉は、合戦で勇敢に戦う武辺 ── 武士が合戦で勇ましく戦うこと。数々の戦いで名を上げた武士は武辺者と呼ばれ、武功が評価の中心でした者と評価されることでした。そのため秀吉も、バックオフィスで評価されつつ戦場に出て仕事をしていたはずだといいます。
楊さんが注目するのは、秀吉のロジスティクスのうまさです。のちに日本史上初の超大軍を動かせたのは兵糧をうまく運べたからで、その背景には、美濃攻めのころ兵站の現場を自ら経験したことがあるのではないか、と楊さんは考えています。
28歳の史料初登場と、墨俣一夜城の真相
秀吉が木下藤吉郎秀吉として初めて史料に現れるのは1565年、28歳のときです。当時としてはだいぶ遅く、楊さんは今の感覚なら40歳前くらいではないかと話します。
稲葉山城攻めのころ、秀吉には竹中半兵衛(竹中重治)と黒田官兵衛(黒田孝高、黒田如水)が仕えたとされます。2人は両兵衛と呼ばれ、軍師として語られがちです。
しかし楊さんは、戦国時代に軍師という立場は存在せず、2人は普通に戦う武将だったと指摘します。諸葛孔明 ── 中国・三国時代の蜀の宰相。天才軍師のイメージで知られ、軍師像の代表として語られる人物ですのような人物を想像すると史実からずれるといいます。
有名な墨俣一夜城も、秀吉が一晩で城を築いたという話は嘘で、実際は修築した程度だったと言われています。深井さんは、それが逸話になるほど武辺以外の部分に長けていたとは言える、と受け止めています。
その後秀吉は、近畿の六角氏との戦いや、朝倉義景との戦いの金ヶ崎の退き口 ── 1570年、浅井長政の離反で挟み撃ちの危機に陥った織田軍が越前から撤退した戦い。秀吉がしんがりを務めた話が有名ですなどで武功を挙げ、信長に認められていきます。
楊さんは、仕事ができる人にさらに仕事を渡すのは現代でも難しいとし、秀吉に仕事を渡せたことこそ信長のすごさだと話しています。
姉川の戦いで託された最前線
秀吉の転換点になったのが、浅井・朝倉勢との戦いです。浅井長政は信長の妹・お市の方を妻にしていて、信長は長政を絶対に裏切らない人物だと考えていました。
ところが長政は朝倉方について織田家に反抗します。最初は信じなかった信長が、長政を討つために戦ったのが姉川の戦いで、激戦の末に織田方が勝ちました。
こういうことが起こるんですね。
戦いのあと、信長は浅井長政から奪った横山城の城代に秀吉を任じます。横山城は長政の居城である小谷城に近い最前線でした。
楊さんは、重要なプロジェクトのプロジェクトマネージャーに抜擢されたようなもので、信長が秀吉の実力を認めていたことがわかると話します。
小谷城の攻略と浅井氏の滅亡
信長は3万の兵で北近江に侵攻し、浅井長政の援軍要請を受けた朝倉義景は2万の大軍で駆けつけます。しかし織田軍が次々と城を落とすと義景は撤退し、信長はそれを追って本拠の一乗谷城(今の福井市あたり)まで攻め込み、朝倉氏を滅ぼしました。
朝倉について裏切った浅井長政は、取って返した信長に小谷城を包囲されます。小谷城には複数の曲輪 ── 尾根や斜面を造成して作った城内の平坦な区画。本丸などの曲輪が連携して守りを固めましたがあり、本丸の長政と小丸の父・久政が連携して守っていました。
秀吉の攻め方は、この浅井親子の連携を断ち切るものでした。
長政はお市の方と3人の娘、茶々・初・江を信長のもとに送り届け、2日ほど抵抗したのちに自害して浅井氏は滅びます。茶々はのちに淀殿と呼ばれ、秀吉の妻になる人物です。
一方、10歳の嫡男・万福丸は落ち延びたものの捕らえられ、信長の命で殺されました。男子は後で決起するため許されなかったと楊さんは説明し、樋口さんは「非情やね」と受け止めています。
長浜城主・羽柴秀吉の誕生と人材発掘
浅井・朝倉の滅亡後、秀吉は初めて領地を持つ城持ちになります。今浜という地を、信長の一字を取って長浜に改めたのが長浜城で、楊さんによれば、滋賀県長浜市では今も秀吉がリスペクトされているそうです。
このころ秀吉は羽柴を名乗ります。重役の丹羽長秀と柴田勝家から1字ずつ取ったとよく言われますが、真偽はわからないそうです。
この時点で秀吉は、丹羽長秀、柴田勝家、佐久間信盛、明智光秀と並ぶ織田家のトップ5ほどの地位にありました。ただし楊さんは、このとき秀吉はすでに38歳ぐらいで、仕え始めて長い年月を経ての城持ちだったと強調します。
出世するための究極っていうのは、やっぱり主君をいかに喜ばせることなんですよね。
深井さんは、鬼のような社長である信長に評価される結果を出し続け、しかも本人が死なずに生き残ったことが大きいと話します。楊さんも、信長は成果に厳しく「怠けているのでは」という手紙を送ってくる人だったと補います。
城主になった秀吉は、子会社の社長として自分の重役を必要としました。楊さんは、この点で秀吉と家康の悩みは正反対だったと対比します。
後継ぎ企業の社長のように家臣を持っているが、自分にロイヤリティのない重役も抱えている
身分がなく家臣がいないため、重役を一から見つけて育てなければならない
秀吉は石田三成を見出し、親戚筋から加藤清正や福島正則を登用します。当時は何者でもなかった彼らは、のちにそれぞれ城持ちの大大名になっていきました。樋口さんは「育てるのもすごい」と感心しています。
岡崎城主の家康、人質を抱えたままの離反
話は桶狭間直後の家康に戻ります。今川のもとで11年ほど養育された家康は、今川傘下とはいえ岡崎城の城主として戻ってきました。楊さんは、子会社の社長になる予定の人が実際に社長になった状態だとたとえます。
城持ちになった家康には、今川から離反する選択肢もありました。しかし駿府には妻の築山殿、2歳の嫡男・信康、1歳の亀姫がいて、裏切れば家族が殺されるおそれがありました。
マジでさ、ほんと人質を出さないと、かりそめの協力関係を構築できないっていう世界はすごいよね。
家康は周囲の織田方の城を攻めて西三河を一旦制圧します。楊さんは、劣勢が続けば下から突き上げられて殺されるため、死に物狂いでやるしかなかったと見ています。
それでも岡崎城単独では織田に対抗できません。家康は今川家を継いだ今川氏真に何度も救援を求めますが、氏真は北条家と組んで上杉謙信と戦っていて、兵を送る余裕がありませんでした。
1年ほど救援が来ないなかで、家康は今川を裏切る苦渋の決断をし、今の豊川市にあった今川方の牛久保城を攻めます。
だって今川側には自分の家族もいてって状態でやるんです。
理由ははっきりしないものの、築山殿が今川の親戚筋だったためか、家康の妻子は助かりました。一方で、人質になっていた家康の重臣の子どもたちは殺されています。
織田との同盟と「松平家康」の誕生
今川と決裂した家康は、織田信長に接近して休戦を結びます。樋口さんは、今川方を攻撃したことがその表明でもあったと指摘し、楊さんも同意しています。
ただ、今川に人質を取られ、長く織田と戦ってきた家臣団は織田家が嫌いで、その説得も大変でした。楊さんは、誰か一人の説得に失敗すれば死ぬ状況で家康は戦っていたと話します。
北に斎藤氏を抱え、敵の多い信長にとっても休戦は望ましく、利害が一致します。この休戦はやがて軍事同盟となり、家康と信長の同盟はどちらも裏切らないまま信長の死まで続きました。
楊さんは、ここまでの話を聞けば、裏切らないこと自体が異常だとわかると話しています。
今川家を離れたことで、家康は今川義元からもらった「元」の字を捨て、松平元康から松平家康に改名します。のちに徳川に改め、よく知られた徳川家康の名になります。この時点で家康は21歳でした。
かあ。人生体験濃ゆすぎやろ。
家臣まで敵に回った三河一向一揆
21歳の家康を襲ったのが、家康三大危機の最初とされる三河一向一揆 ── 1563年から翌年にかけて三河で起きた、一向宗の門徒による一揆。家康の家臣の多くも一揆側に加わりましたです。当時は寺社勢力が土地と兵力を持ち、戦国武将のように振る舞っていました。
三河には、本證寺(今の安城市)、浄厳寺と勝萬寺(今の岡崎市)の三河三か寺と呼ばれる一向宗の有力寺院がありました。家康の家臣には、これらの寺から金を借りている者も多かったといいます。
発端は、家康の家臣が浄厳寺から兵糧米を強制徴収したことだと言われています。寺社勢力には権力者が介入できない不入権 ── 寺社の領地に守護や領主の役人が立ち入ったり課税したりできないとする特権。暗黙の了解として尊重されていましたがあり、それを破ったことに反発して一揆が起きました。
驚くべきことに、一揆側には家康の家臣も加わりました。大久保家、本多正信、石川康正、酒井忠尚など、徳川幕府ができたあと非常に重要になる家の者たちが、ここで家康を裏切っています。
一難去ってまた一難ってまさにこのことを言う。
鉄砲で狙われて死にかけながらも、家康は小豆坂の戦いで一揆軍を破ります。寺社側からの和睦を受け入れて武装を解除させたあと、家康は寺院を壊し僧侶を追放しました。
その一方で、家康は裏切った家臣の多くを許しています。楊さんは、許さなければ自分の勢力が危うくなるからだろうと見ていて、信長なら殺していたと話します。
だから単純に感情とか器のデカさとかでは選んでないですよね、その選択肢を。
忠義に厚い三河武士というイメージは、秩序を保つためにロイヤリティを美徳とする必要があった江戸時代に作られたものだと楊さんは説明します。学者の多くは、これを事実ではないと見ているそうです。
武田信玄との今川領分割と、前線の浜松城へ
その後、一時的に信長と同盟していた武田信玄から、信長を仲介に「一緒に今川領を攻めて分け合おう」と持ちかけられます。氏真の代になって今川家は弱っていて、家康は密約を結んで今川領に攻め込みました。
取り決めでは家康が遠江(今の浜松市のあたり)、武田が駿河(今の静岡市のあたり)を得るはずでした。ところが信玄は遠江にも侵攻してきます。
武田側に分けたつもりがなかった、約束が曖昧だったという説もあれば、奪えると思って奪いに来たという説もあるそうです。家康は抗議して武田軍を追い返し、以後、武田家とは一度も同盟を組みませんでした。
三河と遠江を手にした家康は、28歳ごろ、武田に近い浜松城に入ります。楊さんは、大将が奥に引っ込む中国の皇帝とは違い、危険な前線に自ら行くプレイングマネージャーだと話します。
この時の家康ってグループとしてやっぱまだ結構力が脆弱だったんですよね。で、ボスである自分が体を張る姿を見せ続けないとまた崩壊するっていう風な構造にはあったかもしれないんですよね。
楊さんは、方面軍を出して自分はあまり戦わない信長とは、マネジメントスタイルがはっきり違うと指摘しています。
死を悟った信玄の進撃と三方ヶ原の大敗
家康30歳ごろの1573年、武田信玄は嘔吐や下血を繰り返し、がんだったのではないかと言われています。死を意識した信玄が選んだのは、最大規模の戦争を仕掛けることでした。
楊さんは、死ぬ前に隣国を取ろうとした可能性と、進めるところまで進んで死のうとした可能性を挙げます。深井さんは、弱った姿を家臣に見せることがリスクだった可能性を加えています。
信玄は異例の重税で兵糧を用意し、総勢3万で侵攻してきます。迎え撃つ徳川軍は8000でした。
家康は浜松城よりさらに前線の二俣城で足止めし、その間に信長の援軍を待つ策を取ります。二俣城は川から水をくみ上げる設備を壊されて落城しますが、それでも3か月持ちこたえました。
信長の援軍は3000でした。信長自身も浅井・朝倉、石山本願寺、比叡山延暦寺などと5対1ほどで戦う苦しい状況にありました。楊さんは、救援ゼロだった氏真との違いに家康は気持ちを感じたのではないかと話します。
1万ほどで浜松城に籠城した家康に対し、信玄は城を素通りします。楊さんはその理由として、番組が学んだ説のうち2つを紹介しています。
籠城戦は攻め手に3倍ほどの兵力が要るため、背を見せて家康を挑発し、有利な野戦に持ち込んだ
三河を攻めて浜松城を孤立させ、兵糧が尽きる前に出ていくしかない状況に追い込んだ
いずれにしても徳川軍は城を出て野戦に持ち込まれ、大敗します。家臣の夏目吉信が「俺が家康だ」と名乗って討ち死にし、家康は命からがら逃げ延びました。恐怖で脱糞したという逸話は嘘だとされています。
滅ぼされかねない状況でしたが、三方ヶ原の数か月後に信玄は病死します。楊さんは、ここまでの家康の人生を「ノンストップでずっとやべえ状態」とまとめています。
ロールプレイングゲームってね、弱い敵倒してもあんまり経験値取れないけど、強い敵倒したら一気にバーンって経験値あるじゃないですか。それでずっと強い敵倒し続けてるみたいなイメージがありますから、相当強くなってるんやろなって。
深井さんも、生き延びさえすれば経験値が自動的に溜まっていく状況だったと話します。次回は本能寺の変が描かれる予定です。
まとめ
今回の回は、桶狭間から三方ヶ原までの家康と秀吉を並べることで、戦国の主従関係が忠義だけでなくギブアンドテイクで成り立っていたことを浮かび上がらせます。裏切りと人質に囲まれて判断を重ねた家康と、地道な働きで抜擢を勝ち取った秀吉は、対照的な道で経験を積んでいきました。
- 戦国の主従関係はウェットさとドライさが混ざり、主君が役に立たなければ家臣が見限るのも普通だった
- 「忠義に厚い三河武士」は江戸時代に作られたイメージで、三河一向一揆では重臣の家も家康を裏切っている
- 秀吉は28歳で史料に初登場する遅咲きで、兵站や人を動かす力を武器に38歳ごろ長浜城主になった
- 家康は救援を送らない今川から離反し、織田との同盟を最後まで守った
- 三方ヶ原では3万対8000の兵力差で大敗したが、信玄の病死で危機を脱した





