家老にも裏切られた22歳の信長
前回の終わりの時点で、織田信長は周囲を敵に囲まれていました。唯一の後ろ盾だった斎藤道三は息子に殺され、その息子とも対立し、さらに実の弟が信長を無視して家督を継ごうとしていたと、深井さんは状況を整理します。
信長の弟は、最初は一緒に戦っていたものの、恩賞に不満があったようです。深井さんによると、弟の織田信雄は信長の土地を勝手に横領し、あからさまな敵対行為に出ました。
弟の家臣には、のちに信長の幹部となる柴田勝家 ── 戦国時代の武将。のちに織田家の重臣となり、北陸方面の攻略などを担いました。信長の死後は羽柴秀吉と対立しますがいました。この時点の柴田勝家は、実は信長の敵だったのです。
柴田勝家と信長の家老である林秀貞が共謀し、信長を廃嫡して弟を後継者に据えようとします。信長が22歳のときの出来事で、これが戦争に発展しました。
ってことは自分の家老に裏切られてるんだよね。この時点で信長が。
怖い怖い。
弟側は、柴田勝家の軍1000人と、林秀貞の弟が率いる700人ほどで、信長の家臣・佐久間盛重が守る砦を攻めました。信長は救援に向かいますが、劣勢に立たされます。
劣勢の中で信長が怒声を発すると、その顔があまりに怖く、敵がひるんで流れが変わったと伝わっています。深井さんは「本当かよって思うけど」と留保しつつも、孤立した状況でも味方を鼓舞できる胆力に注目します。
したら顔が超怖かったらしくて、相手の敵の人たちがビビったらしいんですよ。
楊さんは、剣道で大きな声を出すように、まず気持ちで相手に勝つことが大事なのかもしれないと応じ、信長を天性のリーダーかもしれないと評しています。
一度は許した弟を、二度目は自ら手にかける
この戦いで柴田勝家は負傷し、柴田勢は総崩れになります。林秀貞の弟が率いた軍については、信長自らがその弟を討ち取り、首実検の場でその首を足蹴にしたと記録に残っていると深井さんは紹介します。
一方で、裏切った家老の林秀貞本人は許されました。深井さんは、これは感情の問題というより、林秀貞が親戚筋を頼って許しを請うてきたため、その関係性を踏まえた判断だったと説明します。
謀反を起こした弟も、一度は許されます。弟は信長と父母を同じくし、母と一緒に暮らしていました。実の母から許してやってくれと頼まれたことが大きかったようです。
ところが2年後、弟は再び謀反を企てます。今度は弟の家臣である柴田勝家が、その動きを信長に密告しました。
仁義なき世界だね。
密告を受けた信長は、自分は病気でもう長くないと嘘をつき、弟を自分の城へ呼び寄せます。脈を測りに来た弟を、信長は自らの手で刺して殺しました。
でもその弟も殺そうとしてたからね、一回許してるからね、一応ね。
深井さんによると、この頃の信長は一度は許すこともしていましたが、後々はそうしなくなっていきます。裏切りが当たり前の時代だとすれば、本能寺の変も彼らにとっては特別な出来事ではなかったのではないか、という話にも広がりました。
自力で家督を勝ち取ったことがワンマン経営を生む
信長は、腹違いの兄の敵対行為も未遂に終わったため許しています。こうした経緯を経て、信長は比較的誰の力も借りずに、自分の実力で家督を相続することになりました。
深井さんは、自力での家督相続は当時かなり珍しいと強調します。他の家では親戚や家臣の力を大きく借りて家を継ぐのが一般的でした。
信長は、家臣が次々に裏切る中で、少数の味方の家臣とともに戦って勝ち抜きました。その結果、家中には信長に頭が上がらない人が増え、自分の権力を武力で勝ち取ったことが、専制的な政治を可能にしていきます。
孤立
弟・家老・兄が相次いで敵対する
実力で勝利
少数の味方と戦い、反乱を制する
自力で家督相続
誰の力もほぼ借りずに家を継ぐ
専制的な政治
家臣が口出しできず、ワンマン社長的に振る舞える
これが彼がそのワンマン社長的なことをするっていうことを許していくわけですね。
楊さんは、これによって信長はある程度の中央集権に成功したと述べ、家をまとめられたことが戦国を勝ち残る条件の一つだったと補足しています。
斎藤道三はなぜ息子に討たれたのか
斎藤道三が殺されたのも、信長が22歳の頃です。道三を討ったのは長男の斎藤義龍でした。
深井さんによると、道三は長男の義龍を愚かだと考え、利発な弟2人を重んじていました。弟たちは図に乗って兄をないがしろにし、道三はついに義龍を廃嫡しようと動き始めます。
追い詰められた義龍は、仮病を使って引きこもるようになります。そして道三が守りの堅い稲葉山城を離れた隙に、義龍は仮病を口実に弟2人を呼び出して暗殺し、稲葉山城を奪いました。
だから信長の手法と一緒だよね、これね。
驚いた道三は義龍と敵対し、同盟相手の信長とともに義龍を攻めます。しかしこの戦いで道三は戦死してしまいます。
長男を軽視
道三が長男・義龍より弟2人を重んじる
廃嫡の動き
道三が義龍に家督を継がせない方向へ動く
弟たちの暗殺
義龍が仮病で弟2人を誘い出して殺し、稲葉山城を奪う
道三の戦死
信長と組んで義龍を攻めるも、道三が討たれる
道三の最期は、太刀を振り下ろそうとしたところを組みつかれ、別の武者に脛を打たれて倒され、首を取られたと書かれています。深井さんはその記述に、戦いの生々しさを感じたと話します。
なんか、あ、戦いって撃たれたとかじゃねえんだと思って。なんかそんな感じなんだ、リアルって。
殿を務めた信長と、狂気の時代を生き残る者たち
道三が討たれたため、信長も退却します。このとき信長は、退却戦で最も後ろを受け持つ殿 ── しんがり。退却する軍の最後尾で追撃を食い止める役目で、最も危険な持ち場とされますを自ら務めました。
敵がかなり近くまで迫り鉄砲も撃たれましたが、信長はうまく逃げ切ります。深井さんは、この話からも信長に勇気と精神力があったことがわかると述べます。
ただし深井さんは、すごい精神力を持っていたのは信長だけではないと付け加えます。斎藤道三も、上杉謙信、武田信玄、毛利元就も、みな並外れていたといいます。
なんか狂気だよね、狂気。でも普通の人たちは全員殺されちゃってるから。
道三の死で、美濃は同盟相手から敵対勢力に変わりました。食料生産量も多い大国だった美濃の平定には、ここから8年かかります。
義龍は手強く、信長は何度攻めても大きな戦果を得られませんでした。ところが義龍が病で急死し、14歳の斎藤龍興が跡を継いだことで斎藤家は弱体化します。深井さんは信長を「すごいラッキーな人」と表現しつつ、それでも攻略にさらに6年かかったと説明します。
国境の町・鳴海で始まった今川との衝突
美濃攻略と並行して起きたのが、桶狭間の戦いです。信長が26歳のときの戦いで、家臣たちも信長の凄さを思い知るほど有名になった一戦だと深井さんは話します。
衝突が始まったのは、今川氏の領地と境を接する尾張国鳴海でした。戦国時代の大名は自分を守るために戦っており、守るべきは境界線なので、戦争は境界で起こるというのが深井さんの説明です。
今川家と織田家は、信長の父・信秀の代から戦ったり和睦したりを繰り返してきました。信秀は死ぬ前に今川との和睦を結びたかったものの、その前に亡くなり、話は立ち消えになります。
国境で軍事的緊張が高まる中、今川義元はついに尾張への侵攻を始めます。
公家風のイメージとは違う「東海一の弓取り」今川義元
今川義元は、ゲームやドラマでは公家の格好で描かれることが多い人物です。引き眉やお歯黒の姿で、蹴鞠をしているイメージを持つ人もいるかもしれません。
しかし深井さんによると、実際の今川義元はそのイメージとは程遠い、武将らしい人物でした。「東海一の弓取り」と呼ばれ、強さで知られていたといいます。
公家の格好で、引き眉やお歯黒、蹴鞠をする姿で描かれる
「東海一の弓取り」と呼ばれた、強さで知られる武骨な武将
今川義元は自分の代で三河、尾張の一部、遠江、駿河を合わせ、100万石近くまで勢力を広げていました。今川家は将軍を輩出するほどの名家でもあります。
名家でもあるし、武力も強い。お金も持ってる。
今川家は松平家を従属させており、松平家の竹千代、のちの徳川家康 ── 江戸幕府を開いた武将。幼少期は今川家の人質として過ごし、桶狭間の戦いの後に信長と同盟を結びますは今川家の人質になっていました。公家とのつながりが深かったことが公家風に描かれる理由で、本当は武骨な人物だったと深井さんは述べます。
今川軍の兵力は文献によって異なりますが、およそ2万前後です。信長はようやく領内をまとめ上げたばかりの時期に、この大軍と向き合うことになりました。
「人間五十年」と敦盛を舞って出陣
1560年、信長が26歳のとき、今川軍が尾張に襲来します。攻撃を受けているという報告を受けた信長は、敦盛を舞ったと伝えられています。
楊さんの説明によると、敦盛は源平合戦で源氏側の武将に一騎打ちで討たれた、15歳ほどの若武者・平敦盛を題材にしたものです。深井さんは、将来有望だったのに若くして死んだ人の舞だと補足します。
信長は舞いながら「人間五十年、下天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり。ひとたび生を得て滅せぬもののあるべきか」と詠ったとされます。深井さんは、人生は夢のようなもので、生まれて死なない者はいないのだから、いつ死んでもいいという意味だと解説します。
その後、信長は「法螺貝を吹け、武具をよこせ」と命じ、立ったまま湯漬けを食べて兜をかぶり、出陣したといわれます。
従ったのは主従6騎ほどで、12キロを駆け抜けて戦場に着いた時点では騎馬6騎と雑兵200名だけだったと伝わります。楊さんが数字は盛っているかもしれないと言うと、深井さんも本によって違い、エピソード自体も本当かわからないと認めたうえで、これ以上に史実に近い資料もないと話しています。
油断した今川本陣へ、奇襲か正面攻撃か
信長は桶狭間山で情報を集めます。今川軍は境界の砦を攻め落として馬と兵を休めており、歌を歌って遊んでいたとされます。
この合戦で徳川家康は今川軍の先陣として戦っていました。しかし信長は、先陣の家康よりさらに今川義元の本陣に近い場所まで、気づかれずに少数で迫っていました。
楊さんは、信長が尾張領内の地形を熟知しており、丘陵を利用してバレないように移動したこと、桶狭間山の近くに3つほどあった織田方の砦を活用したことを挙げています。
今川義元からすれば、信長の居城の清洲城は遠く、途中には鳴海城や大高城など自軍の城もありました。安全地帯にいると思い込み、戦勝の宴のようなことをしていたところへ、徐々に2000人ほどに増えた信長の軍勢が攻めかかり、義元は首を取られます。
この戦いがどう行われたかには諸説あります。かつては奇襲だったとされていましたが、その後、正面攻撃だったのではないかという説が出てきました。
従来の説。油断した今川本陣に、気づかれずに近づいて攻めかかった
後に出てきた説。ただしこの兵力差でどう勝てたのかが説明できず、今も謎とされる
楊さんは、正面攻撃だったとしても実際の兵力差はそれほどなかったのではないかという説もあると紹介しつつ、勝ったこと自体は確かだと話します。将棋でいきなり相手の王将を取ってしまったような勝利だと例えています。
「敵の武器などぶんどるな」雨上がりの突撃
信長が兵に語ったとされる言葉も残っています。今川の兵は夜通し行軍し、大高へ兵糧を運び入れ、鷲巣や丸根の砦攻めで疲れているが、こちらは疲れていない新手の兵だという内容です。
信長は、少数だからといって多数の敵を恐れるな、勝敗の運は天にあると説きます。そして敵の武器を奪わず捨てておけと命じました。深井さんは、略奪をせず敵の大将を一気に取りに行けという指示だったと読み解きます。
合戦に勝ちさえすれば、この場に参加した者は家の名誉末代まで光明であるぞ。ひたすら励めと言って攻めていって勝つ。
当日は豪雨だったといわれます。雨に紛れて見つからずに近づき、雨が上がった瞬間に「それかかれかかれ」と攻めかかりました。
今川軍は突然の声に動揺して崩れ、散り散りに逃げます。義元の周りには300騎ほどしか残っておらず、信長軍はそれを削っていき、最後に首を取ったとされます。
今川義元撃破の衝撃と、徳川家康との20年の同盟
深井さんは信長の勝ち方を、どこかアレクサンドロスっぽいと表現します。圧倒的に格上の今川義元を一夜で討ち取ったことで、織田家における信長の地位は揺るぎないものになりました。
業界激震ですよ。
信長は今川義元の首を槍の先に刺したまま、馬に乗って帰ってきたといいます。織田家中では、本当に勝ったのだと大きな話題になりました。
この勝利を見て、当時は松平元康と名乗っていた徳川家康は、今川方より織田方についたほうがよいと考えます。深井さんは、勢いのある人につきたいという心理が大事だったと説明します。
勢いにある人につくと自分の生存率も上がるから。生存率も上がるし、キャリアアップにもつながる。
深井さんは、勢いのある会社に人が集まるスタートアップの例も挙げます。家康は総大将の義元を倒した織田家と同盟を結び、2人の同盟はその後20年ほど続きました。
不和が当たり前の戦国時代に、20年も同盟が続くのはかなり珍しいことだと深井さんは強調します。次回は、隣国の名高い大名を討った信長が、中央政界である室町幕府へ進出していく話になると予告されています。
いや、ちょっと気持ちよかったですね。やっと信長に会えた感じがしました。
まとめ
孤立無援の状態から、弟や家老の裏切りを自らの力で制した信長は、家臣に頭の上がらない体制を築きました。その勢いのまま桶狭間の戦いで今川義元を討ち、家康との同盟も得て、中央へ進出する足場を固めていきます。
- 信長は弟や家老の謀反を実力で制し、ほぼ自力で家督を継いだことで専制的な政治が可能になった
- 斎藤道三は廃嫡を恐れた長男・義龍に討たれ、美濃は敵対勢力となって平定に8年かかった
- 今川義元は公家風のイメージと違い、「東海一の弓取り」と呼ばれた強豪だった
- 桶狭間の戦いは約2万の今川軍に対し約2000の信長軍が勝利したが、奇襲か正面攻撃かは今も諸説ある
- 勝利の勢いを見た徳川家康が織田方につき、両者の同盟は20年ほど続いた





