「宗教」と「科学」は本当に対義語なのか
世界三大宗教編の6回目は、樋口さんの「科学がこれだけ発展しているのに、人はなぜ神様を信じるのか」という問いから始まります。深井さんはまず、その問いの前提にある「宗教」や「科学」という概念自体が近代のものだと指摘します。
今、対義語として科学を出していたりだとか、宗教という言葉出してますけど、この概念自体が近代ですからね。要は宗教なんていう概念はない。中世もない。
深井さんによれば、キリスト教やイスラム教といった個別の教えはもちろん昔からありました。ただ、それらを「宗教」と総称する発想はなく、その対義語としての科学もなかったといいます。科学と宗教が対比されたのは主に18〜19世紀で、21世紀にはだいぶ薄れてきたと深井さんは見ています。
では、なぜ「宗教」というラベルが生まれたのか。深井さんは、ルネサンス以降の錬金術 ── 卑金属を金に変えることなどを目指した前近代の技術・思想。実験や物質の観察を重ねたことから、近代化学の源流の一つとされますの流れを挙げます。すべてを「神様が作った」で説明すると、原子や進化の仕組みを議論しづらくなるからです。
一回(宗教が)そう言ってるけど、それを置いといて、本当はどうなってるの?っていう思考に突入しないと、その進まない領域があるわけですよ。
樋口さんが「置いといての箱に宗教ってラベルを貼ったんですね」と受けると、深井さんは、その対象は主にキリスト教だったと補足します。イスラム世界では学問がずっと進んでいたため、科学と対比されたのは主にキリスト教だったという整理です。
神による説明
すべてを「神様が作った」で説明する世界観
探究の行き詰まり
原子や進化の仕組みを議論しづらくなる
いったん棚上げ
神の説明を置いて「本当はどうなっているか」を考える
ラベル化
置いておく箱に「宗教」という名前が付き、科学と対比される
深井さん自身は、今や科学と宗教はぶつかっていないと考えています。神様が作ったと言うのか、ビッグバンでできたと言うのかは、誰の文化と誰のロジックで説明するかの違いだという見方です。
ビッグバンが神様って言えば、それはそれで宗教でしょ。誰もビッグバン見てないですからね。
一方で深井さんは、科学の定義もはっきり示しています。科学とは、検証可能なことをロジカルに積み立てていく営みだというものです。
「夜中に口笛を吹くと蛇が出る」は宗教の原型か
樋口さんは、素人なりに宗教とは何かを考えてきたと話します。例に挙げたのは「夜中に口笛を吹くと蛇が出る」「お腹を出して寝ると雷様にへそを取られる」という言い伝えです。
樋口さんの見立てでは、本当の理由は「夜中に騒ぐと迷惑だから」「お腹を出すと寒いから」です。それでも理屈を説明するより、怖がらせたほうが早くてシンプルで、子どもにも伝わりやすいというわけです。
寒いからあんたのためよっていうよりも、ビビらせたが得だから、早いからシンプルだし、分かりやすいし。
樋口さんはさらに、「いいことをすれば返ってくる」という教えも、心理学の返報性の原理 ── 人から何かを受け取ると、お返しをしなければと感じる心理傾向。マーケティングや交渉の文脈でもよく知られていますでロジカルに説明できると話します。ただ、その理屈を理解できる人ばかりではないので、「神様がそうした」と言えばみんなに届く、という考えです。
深井さんも、宗教を「説明の仕方」と捉える感覚は自分も同じだと応じます。ただし、それは自分が特定の宗教に寄っていないから言えることかもしれない、と留保も付けています。
儒教は宗教か、スピリチュアルは宗教か
深井さんは、樋口さんの「そもそも宗教とは何か」という問いに立ち戻ります。例に出したのは儒教 ── 孔子の教えをもとにした思想体系。礼や徳による秩序を重んじ、中国や朝鮮、日本の政治や道徳に大きな影響を与えましたで、これが宗教かどうかは今も議論が分かれているといいます。
だってあれ(儒教)神様いないですからね。
深井さんは、儒教は言ってしまえば『ビジョナリー・カンパニー』のような経営書とそれほど変わらない、とまで言います。儒教の国の人が自分たちの教えを「儒教」と考えることはあっても、「宗教」と考えることはなかった、というのが深井さんの説明です。
樋口さんは最近のスピリチュアルも、宗教なのかどうか微妙だと続けます。楊さんは「言い分けている時点で宗教じゃない」と短く返しています。
深井さんはもう一歩踏み込み、「宗教」という概念は一神教が広まった後にできたため、多くの場合は一神教を指していると話します。私たちが宗教と聞いてキリスト教、イスラム教、ユダヤ教を思い浮かべるのはそのためです。
元々人間の宗教っていうのは多神教の方が多いわけ、元々は。
つまり、今「宗教」としてまず想像されるものは、本来はマイノリティだった一派が中世以降に大きく広まったものだ、というのが深井さんの感覚です。もちろん多神教も宗教だと付け加えています。
キリスト教・イスラム教・ユダヤ教など、神が世界を作った一神教
多神教のほうが多く、一神教は中世以降に広まった一派
宗教は「必要」なのか、それとも「生活」なのか
樋口さんが「なぜ宗教が必要なのか」を改めて問うと、深井さんは、その問い自体に無理があると答えます。宗教という概念を持たなかった人たちにとって、信仰は「宗教」ではなく生活そのものだったからです。
今の僕たちの生活の一部になってるものをいきなり無理やり取り出して、なんでそれが必要なんですかって言ってるのと一緒ってことです。
深井さんは、椅子に座る所作について「なぜそうしているのか」と聞かれても困るのと同じだと例えます。楊さんも「当たり前の文化だったんだよね」と相づちを打っています。
それでも樋口さんは、迷ったときの「よりどころ」をはっきり持っていることには必要性があると感じています。何が正しいかが曖昧な自分は、熱心な信者に比べて、信じて突き進む力が弱いのではないかという実感です。
特定の宗教に入って信奉してる状態の方がエネルギーが出しやすいし、持続させやすいと。
樋口さんは、30何年しか生きていない自分の判断を100%は信頼できないと話します。それに比べ、ブッダやイエス、ムハンマドの言葉は長い年月の評価を経て残ってきたものです。
(お墨付きのパワーは)樋口聖典よりもブッダの方が強いんですよ。
樋口さんは、こうした信じられるものがないことが、自殺が増える原因などにも結構直結している気がする、とも語っています。ただし、信じきることは難しい、という悩みも同時に口にしています。
信仰に「ハマれない」タイプはどう生きるか
深井さんは、信仰に入れるかどうかには社会環境だけでなく人のタイプもあると考えています。150年ほど前に生まれていたら熱心な仏教徒だったかもしれないが、多くの人を見てきた結果、自分はとてもハマりづらいタイプだとわかったといいます。
なんならその特定の宗教を信奉しないっていう宗教に入ってるぐらいの感じ。
樋口さんも同じタイプですが、そういう人はブレやすいと感じています。樋口さんは、今の世の中はカオスで、何が正しいかはやってみないとわからないからこそ、一度決めて突き進むことが大事だと考えています。
迷ってる暇があったら信じて突き進む。で、それが正しいかどうかって後からついてくるっていう考え方が今の世の中にマッチすると思ってるんですね。
深井さんが「熱心な人を見てリスクは感じないか」と尋ねると、樋口さんの答えは「半々」でした。樋口さんは、宗教の代わりにメンターのような身近な人物を拠りどころにし、「あの人だったら何と言うだろう」と考えることで、なんとかバランスを保っているといいます。
深井さんは、各宗教の信者の話を聞くと、最終的には核心的な信仰がコアにあると感じています。そして、その核が自分にはなく、ない状態から持とうとしても気持ちはいきなり変わらない、と率直に語っています。
教えを「モジュール」として取り入れるという選び方
樋口さんが一番バランスがいいと考えるのは、宗教の教えを「モジュール」として扱うやり方です。たとえば仏教のなかでも、共感できる言葉だけを取り入れ、教科書のように読むという姿勢です。
深井さんも同じ感覚だとしながら、それはイスラム教やキリスト教の立場からすると「違うだろ」と言われるものかもしれない、と指摘します。樋口さんはこの違いを、ハードからソフトまで一貫したルールを持つAppleにたとえています。
Appleのようにハードからソフトまで一貫したルールに従う。一神教的な信仰
教えのなかから共感できる部分だけを取り入れる。樋口さんや深井さんの感覚
楊さんは、モジュール化はそもそも宗教の歴史のなかでずっと起きてきたことだと補います。ユダヤ教の一部を引き継いで発展したキリスト教やイスラム教、「この言葉だけ唱えれば救われる」と一部を取り出した日本の日蓮宗 ── 鎌倉時代の僧・日蓮を宗祖とする仏教の宗派。法華経を重んじ、「南無妙法蓮華経」の題目を唱えることを中心としますなどがその例です。
樋口さんは「カスタマイズ自由」「いいとこ取りでやるのがいい」と話し、深井さんも「結果そうしちゃいますよね」と同意しています。
宗教王に、俺はなる! 樋口さんの「半歩踏み出せ教」
真剣な議論を終えたところで、樋口さんは最後の企画を持ち出します。少年ジャンプ漫画のようなノリで、「もし自分たちが宗教を作るとしたら、どんな宗教にするか」を好き勝手に話そうというものです。
今まで結構真剣に話してきましたけど、なんかもう疲れたんで。
最初の樋口さんが掲げたのは、普段から言い続けている「半歩踏み出せ教」です。樋口さんの会社の理念は「自由」で、「何でもできる、どこでもできる、誰でもできる」の3つをテーマにしています。
樋口さんの説明では、これは執着から自由になる考え方です。東京に住まなくても福岡県田川で何でもできる、今までやったことがないという過去から切り離せば今からでもできる、といった例を挙げています。
楊さんが「ノマド ── 遊牧民を意味する言葉。転じて、場所や組織に縛られず移動しながら働く生き方を指して使われますを宗教化してますね」と返すと、樋口さんは、これからの時代に一番大事なのは「移動」だと語ります。場所の移動、会社の移動、そして考え方もモジュールとして移動していいという考えです。
俺だから結局ブッダっすね。
深井さんの「生きてればいい教」
深井さんが作りたいのは「生きてればいい教」です。世の中には「〜すべき」と考える人が多く、深井さん自身もかつてはそうだったといいます。
三十三年生きて今の時点の結論は、人間って生きてるだけで僕もう99パーセント価値出し切ってると思ってるんですよ。
ラスト1パーセント好きなことすりゃいいなと思ってて。生きてりゃいい教。超楽、心が。
樋口さんは、深井さんが以前話していた「何もせずに死んでいった人がいても、何もしなかったこと自体が価値を生む」という考えが印象的だったと振り返ります。深井さんは、人の価値は人間には測れないと考えていると話します。
樋口さんが「行為じゃなくて存在だもんね」とまとめると、深井さんも同意します。樋口さんは、生きてればいい教は勇気を与えると思う、と後押ししています。
楊さんは、働かないアリが一定数出てくるという「働きアリの法則」を引き、働かないアリにも全体として意味があると話します。さらに、人類を生存させようとすること自体、もっとメタな視点からは意味が問われるかもしれないと続けます。
深井さんは「人間いずれ滅びますよ。恐竜だって死にましたから」と応じます。そのうえで、最後の1%は自分のエネルギーが湧くことに集中し、それを発散できれば、その人は十分に生きた価値があると語ります。
エネルギー湧くことに再集中して発散さえさせれば、僕はその人はすごく生きてた価値があるし、価値測れないんだけど、結果的に測れない中でもそれ以上のことできないんじゃないかなと思ってる(んです)。
楊さんの「髪の毛みんな剃ったらいい教」と、ゼロベースで考える姿勢
最後の楊さんが挙げたのは「髪の毛みんな剃ったらいい教」です。樋口さんは、Podcastで聴いている人もYouTubeで楊さんの髪型を見てほしいと笑い、「後光が見えてきた」と茶化します。
いやマジでただの出家じゃないですか。頭剃って。
ただし楊さんにとって、髪の毛は一つの例にすぎません。言いたいのは、見た目や既存の目に見える価値観への執着を手放してもいいのではないか、ということです。
楊さんは、今回改めて宗教者について勉強し、自分が信じているわけではないにしても、彼らの姿勢に強く共感したと話します。それは、既存の価値観に対してゼロベースで何が本質かを考えるという姿勢です。
いや、それはあまり人を幸せにしないんじゃないの?とか、本質じゃないじゃない、もうちょっとゼロベースで何なのかを考えようっていう姿勢には、やっぱかなり共感を覚えますよね。
樋口さんは、美しさの基準も平安美人と今の美人が違うように、時代によって作られたものにすぎないと応じます。楊さんは、過去から続く価値観も納得できれば取り込めばいいとしつつ、それを取り払って考える視点も持つべきだと話します。
楊さんにとって剃髪は、新たなアップデートの一歩だといいます。樋口さんは「じゃあハゲ教ということで」と締め、「法華経みたい」と笑いを添えて、世界三大宗教編は幕を閉じます。
まとめ
世界三大宗教編の最終回では、「宗教」という概念そのものが近代に生まれたこと、信仰がエネルギーを生む一方でハマれない人もいること、そして3人がそれぞれ思い描く「自分の宗教」が語られました。真面目な議論と遊びの企画を通じて、何を信じ、どう生きるかを自分で選ぶというテーマが浮かび上がる回です。
- 「宗教」という総称や、科学との対比は近代になってからのもので、主にキリスト教が対象だった
- 特定の宗教を信じるとエネルギーを出しやすいが、核となる信仰を持てないタイプの人もいる
- 教えをモジュールとして取り入れる「いいとこ取り」は、宗教の歴史のなかでも繰り返されてきた
- 3人の自作宗教は「半歩踏み出せ教」「生きてればいい教」「髪の毛みんな剃ったらいい教」で、いずれも執着や「〜すべき」からの自由に通じている




