日米和親条約のあと、日本は何を始めたのか
前回のエピソードはこちら
最終回では、ペリー来航のあとの日本、アメリカ、そしてペリー自身のその後が語られます。まず日本のその後です。
日米和親条約の締結後、幕府は軍事力の強化に動き始めます。ペリー艦隊の衝撃が強く、海軍を持たなければという危機感を抱いたためです。
その代表的な出来事が、長崎海軍練習所の設立でした。これは幕府が長崎に作った海軍の教育機関です。
ここでは軍艦の操縦、航海術、造船学、蒸気機関、大砲を撃つ砲術など、海軍の軍事技術が教えられました。実際に船を造る実習もあったといいます。
さらに物理、数学、化学、地理、医学、測量といった基礎学科も教育され、本物の蒸気船を入手して航海の練習も行われました。
ここで学んだ200名を超える学生が全国に散っていったんですね。ちなみに勝海舟もここで学びました。
この海軍教育に、オランダががっつり関わった点も見逃せません。数十人もの教師陣が送り込まれ、授業はオランダ語で、通訳を介してすべてのノウハウがオランダ式で伝授されました。
オランダが仕掛けた「顧客を育てる」ビジネス
楊さんは、この海軍教育がオランダにとって巧みなビジネスだったと指摘します。日本の開国で蒸気船の需要が増えると見越していたためです。
オランダの狙いは連鎖的でした。まず教官を派遣し、育った学生が幕府や藩に戻る。すると各地で蒸気船の購入が検討され、最初に相談が持ち込まれるのがオランダの商館になる、という流れです。
そしてオランダは蒸気船を日本に売る。需要を見越して顧客を育ててっていうね、営業戦略をオランダは展開したっていうことです。
樋口さんは、どこまで意図していたかはわからないとしつつ、こうした構図はよくあると受け止めます。オランダはオランダで本当に良いと思ってやっていた可能性もある、と話されています。
条約締結後、日本は雪崩を打つように各国へ港を開いていきます。イギリス、ロシア、フランスと相次いで和親条約を結んだのです。
もう一回許したらガバガバや。
楊さんは、列強が間隔を置かずに来航した背景に、日本が地政学的に重要な場所だった事情もあるだろうと述べています。
通商条約と、幕末動乱への分岐
日米和親条約には、アメリカの領事が下田に駐在すると定められていました。これに基づいて来日したのがハリスです。
ハリスのミッションは、日米関係の次のステップとして通商条約を結ぶことでした。そうして結ばれたのが日米修好通商条約です。
この条約でアメリカは日本と自由貿易ができるようになり、開港地も増えます。下田・函館に加え、神奈川、長崎、新潟、兵庫が開かれました。
一方で、不平等条約として語られる要素も含まれます。外国人が居留できる地域が設定され、領事裁判権が承認されました。
あ、治外法権。
さらに関税自主権も否定されました。楊さんは、この条約だけでシリーズが作れるほどのドラマがあるとしつつ、今回は本筋ではないためさらっと触れるにとどめています。
この日米修好通商条約が、幕末動乱への分岐点になります。締結の責任者だった大老の井伊直弼が、天皇の勅許を得ないまま条約を調印せざるを得なかったからです。
朝廷は積極的に意思を表に出して条約に反対しましたが、井伊直弼ら幕府首脳は締結に踏み切りました。楊さんは、見方によってはやむを得ない部分もあったと述べています。
これに尊王攘夷派が激怒し、批判の急先鋒に立ったのが水戸藩でした。楊さんは、攘夷論を先導したのが水戸藩だったという事実にも触れています。
井伊直弼は派閥抗争を鎮めるため、尊王攘夷派を大量に処罰します。これが安政の大獄で、100人以上が処罰され、吉田松陰もこの中で処刑されました。
この安政の大獄の報復として、攘夷派の水戸浪士らによって井伊直弼は桜田門外で殺されると。そしてカオス突入っていう。
蒸気船で太平洋を渡れなかったアメリカ
次はアメリカのその後です。アメリカはもともと蒸気船で太平洋航路を開拓したかったはずですが、実はしばらく蒸気船で太平洋を横断できていませんでした。
日本で補給港を確保でき、理論上は横断できる状態になっていました。しかし、その機会がなかなか訪れなかったのです。
理由は南北戦争でした。日米修好通商条約締結の2年後に南北戦争が勃発し、海外に構っていられる状況ではなくなったのです。
余裕がないね。
それでも南北戦争のさなかの1862年、サンフランシスコから横浜へ蒸気船が寄港します。これが太平洋を横断した初めての蒸気船だと記されています。
疲れ果てたペリーの帰国と称賛
続いてペリー自身のその後です。琉球王国と条約を結んだあと、ペリーはいったん香港へ向かいます。
そこでペリーは司令長官の解任を願い出ました。持病のリウマチが悪化していたためです。願いは認められ、任務から外れることを許されました。
ペリーはヨーロッパ経由で帰国し、その途中で娘夫婦にも会いに行っています。帰国後は各方面から称賛を浴びました。
議会はペリーへの感謝を決議し、表彰金2万ドルを贈りました。楊さんによれば、これは現在の日本円で5000万円ほどにあたります。
地元では盛大な歓迎会が催され、大統領選挙の候補者の一人に名を挙げられることもあったといいます。
ただし、アメリカ国内での評価が国民的なものになったかというと、そうではなかったようです。ここでも南北戦争の影響が大きかったと語られます。
ペリーの派遣とか日米和親条約に関してそこまで関心が払われる社会状況じゃなかった。
本によっては、アメリカ国内でペリーの評価は不当に低いと書かれているものもあるといいます。樋口さんは「マジかわいそう」と繰り返し、タイミングの悪さを惜しみました。
人生最後の仕事、遠征記の完成と死
帰国後、ペリーは人生最後の仕事に取り組みます。日本遠征に関するレポートを議会に提出し、2年にわたる活動の膨大な記録や資料をまとめることでした。
そうしてまとめたのが「ペリー艦隊日本遠征記」です。琉球や日本での交渉の経緯、航海の記録、政府との書簡、各地の文化・社会・自然環境の調査データまで収められました。
全3巻が発刊され、爆発的なベストセラーになりました。出版には議会のバックアップがあり、現在価値で日本円10億円という巨額の予算がつけられたといいます。
表彰金五千万なのにこの本十億なんや。
遠征記の出版前後に、ペリーは各地で講演も行い、国際情勢について2つの重要な指摘をしたと言われています。
アメリカの今後のライバルはロシアになるだろう
日本人は将来、機械の分野で強力なライバルとして登場するだろう
楊さんは、この2つの予測がどちらも現実になったと振り返ります。日本が機械の分野で台頭したのは20世紀に入ってからのことです。
遠征記を完成させ、日本遠征の任務すべてが完了したのは帰国から3年後でした。ペリーは、最後の仕事に全精力を使い果たしたかのように亡くなります。
心臓疾患の発作といった記述があり、自宅の寝室から起き出してリビングのソファにもたれたまま息を引き取ったそうです。楊さんは「仕事に生きた人ですね」と評しています。
なお、交渉を指揮した阿部正弘は、ペリーの前年に39歳の若さで亡くなっていました。ほぼ同じ頃に、この交渉の主役たちが世を去ったことになります。
戦争を伴わなかった条約、その特徴
楊さんは、ペリー来航と条約締結を改めてまとめます。この条約の最大の特徴は、戦争を伴わなかったことです。血を流さず、交渉によって結ばれました。
それを可能にした前提として、二つの国がたまたま武力攻撃をしないという方針で重なっていた点が挙げられます。楊さんは、このタイミングは大きいと述べています。
その前提のもとで、日米双方の当事者が外交努力を重ねてソフトランディングできた、というのがこの条約でした。
どっちとも精一杯ハッタリを利かせたい者同士なんですよね。アメリカは新興国、で、日本は国際社会の初心者みたいな、そういう立ち位置ですよね。
楊さんは、異文化との折衝経験が少ない者同士が、必死に情報収集し、持っているカードを切り合って落としどころを探る過程が、この交渉の特徴だと整理します。
小さな蒸気機関車を走らせたり、力士を出したり、酒を酌み交わしたりといった場面には可愛らしさもある、と楊さんは言います。イギリスなど欧州列強の振る舞いに比べると穏やかだったという見方です。
この条約は、二つの国の不利益がどちらか一方に偏らない、均衡点に近いものでした。楊さんは「ある意味いい勝負だった」とも表現しています。
日米それぞれにとっての「落としどころ」
楊さんは、日本側とアメリカ側それぞれの結果を評価します。日本は当初想定したであろう譲歩のラインを踏み越えずに済みました。
阿部正弘が譲歩したのは、下田と函館の2つの港の開港だけでした。最恵国待遇を日本が得られない不平等性はあったものの、大きな譲歩は避けられたのです。
アメリカ側は、とりあえず日本を開国させ、使える港を増やすという最低限にして最重要なゴールを達成しました。貿易については妥協し、ゴリ押しはしていません。
自由貿易に関してはもう早々に諦めてますから、そこまで重要視してなかったってことやから。
楊さんは、もしペリーが通商を持ちかけたときに幕府がビビって受け入れていたら、この時点で通商条約が結べたかもしれないとも補足しています。
開国が引き起こしたチェーンリアクション
ここまでは短期的な視点です。楊さんは、長期的に見ればこの開国が複雑な現象の起点、チェーンリアクションの起点になったと指摘します。
日米和親条約の13年後ほどで江戸幕府は消滅します。この間に吉田松陰、高杉晋作、久坂玄瑞、坂本龍馬、西郷隆盛らが歴史の舞台に上がっていきました。
この条約をきっかけに、日本が列強たちのゲームの中に投げ込まれていくんですよね。
楊さんは、ルールがよくわからないまま、いきなり陣地取りゲームへの加担を強いられる感じだと表現します。この後、列強と次々に不平等条約を結ばされていくのが日本の展開でした。
日本は近代国家へのアップデートに全力を注ぎます。不平等条約の改正、富国強兵など、ゲームに負けないためにサバイブしていったのです。
ある程度は成功しますが、今度は日本自身がアジア諸国に対して列強のような振る舞いをしていきます。そして、その先に太平洋戦争がありました。
太平洋戦争までに日米関係は和親から悪化へと転じます。日本は敗れ、沖縄に上陸され、広島・長崎に原爆を落とされ、敗戦という結果につながっていきました。
ミズーリ号に掲げられた、ペリーの旗
楊さんは最後に一つのエピソードを紹介します。1945年9月2日、日本政府の代表団が降伏文書に調印しました。第二次世界大戦の敗戦後の話です。
調印式の場所は、アメリカの戦艦ミズーリ号の上でした。日本代表団の前には、連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーが立っていました。
この調印式で、マッカーサーは3つの演出を仕込んでいました。楊さんはこれを「エグい演出」と表現します。
樋口さんは、このエピソードはいろいろな方向で受け取れると感じます。マッカーサーは自意識としてはヒーローで、その文脈でペリーになぞらえたのだろう、という見方が交わされました。
楊さんは「日米関係は今も続く」と結び、ペリー来航の物語をここで締めくくります。
歴史は人だ〜視点を切り替えることの意味
エンディングでは、シリーズを通した感想が語られます。楊さんが改めて感じたのは、歴史は人だということでした。
歴史の中のいろんな記述のこの裏にある人の動きとか気持ちとか、意思に対して解像度を深めていくことで得られる面白さってあるなと改めて僕は気づきましたね。
樋口さんは、教科書ではペリーを一つの人格として見ていなかったと振り返ります。黒船で来て脅してきたアメリカのやつ、日本の敵ぐらいの感覚だった、というのです。
楊さんは、そういう側面にフォーカスする見方を否定はしないとしつつ、見方の角度を増やしたほうが純粋に楽しく、豊かな学びを引き出せると語ります。
樋口さんは、コテンラジオ全体に言えることとして、どっち側の視点に立っても主人公になれる点を挙げます。今回はペリーを主人公にしたことで、ペリー側から見た日本が見えてきました。
この両方に視点を切り替えることができるっていうのが、やっぱり今からの時代めっちゃ大事と思ってるので。
楊さんは、この視点の置き換えが日常生活や仕事の場でも問われるとしつつ、嫌いな相手ほどその実践は難しいと率直に認めます。自分にとっては一番苦手なことで、器の小ささだ、と話しています。
威力外交でも、フェアな土俵はあったのか
楊さんは、今回の話を外交のドラマとして振り返ります。ペリーの手法は武力をちらつかせる威力外交でしたが、力ずくで全要求を飲ませるものではなかったという印象です。
その背景には、アメリカが新興国であり、日本の力量を客観的に見ようとする姿勢があったと楊さんは見ます。列強ムーブによる心理的圧力は確かにあり、その点で日本にとってフェアな交渉ではなかったとも認めています。
一方で、幕府側がパニックに陥って無理やり条約を結ばされたわけでもありませんでした。幕府は腰を据えて外交に臨み、ペリーもまた補給や健康の問題でギリギリの状態でした。
この双方の内部事情まで含めて考えると、この日米交渉って比較的フェアな土俵で戦えたんじゃないかなと思うんですよね。
ただし楊さんは、日本すごい・アメリカすごいというノリで褒めたいわけではないと釘を刺します。起こったことをそのまま伝え、聴き手に感じてもらいたいという姿勢です。
そのうえで楊さんは、日本にとって最初の交渉相手がアメリカだったのは、結果論としてラッキーだったかもしれないと述べます。この条約の内容をベースに、日本は他の列強とも条約を結んでいったからです。
もし最初の条約が最悪の条件でボタンの掛け違いを起こしていたら、その後の展開はもっと日本に不利になっていたかもしれない、というのが楊さんの想像です。
もしここの日米交渉でさ、どっちかが下手を打ってさ、もう戦争状態になった時に、日本はおそらく負けるでしょう。
もし開国できなかったら〜抗えない時代の波
樋口さんからは、もし開国できなかったらどうなっていたか、という問いが投げかけられます。港を渡さずペリーを追い返すことに成功していたら、という仮定です。
樋口さんは、開国したからこそ知識が入り、勝海舟や吉田松陰、高杉晋作が刺激を受けたという流れを踏まえ、開国は止められなかったのではないかと考えます。世の中のグローバル化という大きな流れに抗うのは難しい、という感覚です。
楊さんも同意し、日本という場所柄が、その抗いを不可能にさせたと述べます。地政学的に場所が良すぎたことが、開国を避けられなくしたという見立てです。
樋口さんは、これは国だけでなく事業領域や会社にも置き換えられると話します。開かれる方向に潮流が向かえばすべて開いていくし、技術の進化が進めば世界がそれに合わさっていく、というイメージです。
楊さんは、AIの普及のように抗えない社会構造の変化はあるとしつつ、その変化への反応は人それぞれだと指摘します。徹底抵抗する人、妥協する人、波に乗ろうとする人に分岐するのは現代でも観測される、というのです。
評価はどのタイミングでするかで裏返る
楊さんは、変化そのものだけでなく、変化が起きた状態への評価も立場によって違うと語ります。ある変化からメリットを得られる人と得られない人がいるからです。
楊さんは具体例を挙げます。明治維新で全員が幸せになったわけではなく、武士たちはリストラされてシビアな状況に置かれました。結果的に列強入りできてよかった、という見方は一つにすぎません。
じゃあ仮にさ、日本が開国して、その瞬間に列強がバッて日本に攻め込んできて、日本を植民地化したっていう結果になったのであれば、高杉晋作とかは英雄になってないですよ。
その場合、吉田松陰も悪役として記録されたかもしれない、と楊さんは続けます。歴史を勉強してきて、これはどう転ぶかわからないという感慨に浸ると話しています。
樋口さんは、100年後には正しかったとされても、300年後には別の評価になりうると述べます。評価軸をどこに置くかで変わるため、良し悪しはわからない。ただ、変化の波は抗えないというイメージを持った、と補足しました。
交渉というブラフのゲームと、その裏の愛情
ここから樋口さんはライトな感想を語ります。まず、交渉の駆け引きがとても面白かったといいます。
戦争は絶対にできない事情を隠しながら、持っているカードを出し合う。しかもアメリカ側は疲弊し、ペリーは病気を抱えている。その中でどうハッタリを利かせるかを、樋口さんは一つのブラフのゲームを見るようだったと表現します。
樋口さんは、ペリーが日本を徹底的に研究していた点にも触れます。相手を騙したり打ち負かそうとするときこそ、人はめちゃくちゃ相手のことを考えている、という趣旨の話を引き合いに出しました。
相手を騙そうとしたり、打ち負かそうとしたりするときって、めちゃくちゃコミュニケーションしてるなっていう。
樋口さんは、そこにペリーの日本への愛情のようなものすら感じたと話します。本気で相手を知ろうとしていたからです。
楊さんも、ペリーがアジアの国だからと侮らず、リスペクトと評価を払っていたと補足します。勉強したうえで、この相手は侮らないほうが良いアウトプットが出せると冷静に判断したのだろう、という見立てです。
宇宙人と酒を酌み交わす、教科書に載らない場面
樋口さんが今回のシリーズで一番好きなのは、船の中でのどんちゃん騒ぎの場面でした。日本とアメリカの人々が抱き合い、酒を酌み交わす光景です。
樋口さんは、黒船を宇宙船に例えてきたことを踏まえ、この場面を火星人がやってきて一緒に酒を飲んでいる図だと表現します。その場にいたら最高にワクワクするだろう、というのです。
あっ、幕府の人たちちゃんと羽目外すんだと思った。緊張感のある交渉してる最中じゃないですか。
楊さんは、しかめ面で警戒しながら交渉してもよかったはずなのに、幕府の人々が羽目を外したことに驚いたと語ります。鶏の丸焼きや酒を素直に楽しむ、裸の人間の姿が見えた場面でした。
樋口さんは、ここでいらぬことをして相手を怒らせれば交渉に不利になりかねないのに、抱き合って盛り上がっている点を面白がります。教科書には載らないこの場面の映像を伝えたい、と話しました。
楊さんは、その一行の裏に飲みニケーションがあったことの面白さに同意します。小さな蒸気機関車に幕府の役人が乗って驚く場面なども、来たる未来をワクワクしながら感じていた光景だったのかもしれません。
楊さんは最後に、パーティーの最中に吉田松陰が黒船に登ってきたら面白かった、と付け加えます。樋口さんは、遅れて来るところも松陰らしいと返し、全方向で面白い人間のドラマだったと締めくくりました。
最初から読むにはこちら
まとめ
ペリー来航編の最終回は、条約締結後の日本の激動、アメリカとペリーのその後を追い、この交渉が戦争を伴わない外交ドラマだったことを確認しました。そして視点の切り替えや、評価がタイミングで裏返ることなど、歴史を学ぶ意味そのものにまで話が広がっています。
- 条約締結後、日本は長崎海軍練習所の設立など軍事力強化に動き、オランダはそこに需要を見越したビジネスを展開した
- 日米修好通商条約が幕末動乱の分岐点となり、安政の大獄と桜田門外の変を経てカオスへ突入した
- ペリーは持病を抱えながら帰国し、称賛を浴びつつも南北戦争の影で評価は伸び悩み、遠征記を完成させて力尽きるように亡くなった
- 日米和親条約は戦争を伴わず、双方の内部事情が重なってフェアな土俵で結ばれた均衡点に近い条約だった
- 降伏文書調印式でマッカーサーがペリーの星条旗を掲げるなど、ペリー来航の物語は太平洋戦争後まで地続きにつながっていた




