日本の3分の1を差配した論功行賞
関ヶ原の戦いで東軍が勝ち、大坂城も受け渡されたことで、徳川家康は淀殿からも認められた存在になりました。深井さんが大事なポイントとして挙げるのは、合戦に負けた諸将の領地がすべて没収されたことです。
没収された領地は、毛利家だけで120万石、全体では632万石にのぼるといいます。当時の日本の総石高 ── 土地の生産力を米の量で表した数値。大名の領地の規模や経済力、動員できる兵力の目安にもなりましたは1800万石ぐらいとされるので、3分の1以上が一度に空白地になった計算です。
しかも、ほかの五大老 ── 豊臣秀吉が晩年に定めた、有力大名5人による合議の仕組み。家康や毛利輝元、前田利家(のち利長)らが名を連ねましたは全員、家康に逆らったか謝ったかのどちらかの状態でした。そのため、この巨大な領地を家康が単独の判断で、自分についてきた武将に配れるようになったのです。
この六百万石、日本の3分の1の巨大なる金額っていうのを、この自分についてきたやつらに渡すことができるわけです。これがでかかったんすよね。
楊さんが読んだ本では、関ヶ原の一戦で全国の石高ベースで36.3%が空白地になったとされています。現代のお金に換算すると約2685億円で、それが丸ごと家康の差配で敗者側から勝者側に移ったといいます。
楊さんはこの数字から、関ヶ原が「天下分け目の合戦」と呼ばれるのはまさにその通りだと話します。勝った側がこれだけのものを得られ、負ければ逆もありえた戦いだったということです。
配分でとくに重要だったのは、加藤清正、黒田長政、福島正則といった秀吉子飼いの大名たちです。家康は、以前の回で「課長クラス」にたとえられた彼らの石高を2倍以上に増やして、恩を売りました。
これをやったことによって、豊臣に恩があると思ってた人たちが、家康にも恩があるっていう風になるんだよね、これで。
楊さんは、このロジックは武士の世界で非常に大事だと補足します。武士にとって土地の権利を保証してくれる人が主人であり、それは鎌倉時代から変わりません。家康に決められた領地を受け入れた瞬間に、主従関係が結ばれるという考え方です。
なぜ家康は領地の書面を出さなかったのか
空白になった土地を差配する権利は、形の上では豊臣家にあります。その豊臣家の中で一番権力を持つのが家康なので、事実上は家康が配分を決めている、というのが深井さんの整理です。
本来なら「あなたに領地をあげます」という書面が出て、そこには羽柴秀頼や豊臣秀頼の名前が書かれるはずでした。ところが家康は書面を出させず、口頭で伝えたといいます。
けど、これ(書面)を出すと秀頼からもらったって感じになっちゃうから、家康はこれを出させずに口頭で伝えるんです。
楊さんはこれを「契約書を巻かずに電話で伝えるみたいな感じ」とたとえます。本来は五大老が認めて五奉行が文書を発行するのが正しい手続きですが、五奉行の多くは亡くなり、五大老も崩壊していたため、そうなったと深井さんは説明します。
ありがとうございますって言う先が自分になるように仕向けたよね。
没収した632万石のうち約200万石は、徳川一門に回されました。たとえば家康の次男で結城家に養子に出た結城秀康は、10万石から68万石になります。長男は切腹し、嫡男は三男の秀忠という状況でした。
松平忠吉も10万石から52万石へ加増されました。一方、井伊直政は12万石から、石田三成の旧領である近江佐和山18万石に移され、深井さんは「なぜか微増」と話しています。
ほかにも40家以上あった1万石以上の家臣の半数ほどが加増され、譜代大名 ── 関ヶ原以前から徳川家に仕えてきた家臣が大名になったもの。江戸時代には幕府の要職を担いましたとして独立していきます。深井さんによれば、これが江戸時代の譜代大名の原型になりました。
配置にも特徴がありました。外様大名は西日本に動かし、江戸から京都までの東海道は親戚などで固めています。裏切るポテンシャルが低い人たちを中枢の近くに、高い人たちを遠くに置くやり方です。
さらに家康の直轄領は400万石に達したとされ、佐渡金山、石見銀山、生野銀山といった金山・銀山も直轄にしました。
主君より家臣が豊かになった豊臣家と徳川家
関ヶ原の後、豊臣家と徳川家の力関係は石高ベースで逆転したと楊さんは話します。学者の一人による概算では、秀頼の年収は合戦前の1286億円から185億円に、家康は604億円から1890億円になったといいます。
| 人物 | 合戦前 | 合戦後 |
|---|---|---|
| 豊臣秀頼 | 1286億円 | 185億円 |
| 徳川家康 | 604億円 | 1890億円 |
楊さんは、これはあくまで一つの概算で絶対に正しいとは言えないと断ったうえで、大体これぐらいの差ができたと説明しています。
秀頼のために戦ったという大義名分なのに、なぜ秀頼の年収が下がるのか。深井さんによれば、行政に長けた五奉行たちが亡くなり、秀頼の側は自分で領地をマネジメントできておらず、家康が手伝っていたらしいといいます。
豊臣家が実際にマネジメントできるサイズみたいなのを渡すねっつって家康は渡してる。
深井さんは、主君のほうが石高が高くなければいけないわけではないと話します。かつて秀吉と家康の間でも、家康の石高のほうが高い時期がありました。とはいえ、家康の10分の1というのは差がありすぎで、実の部分では徳川家が完全に圧倒していた状態です。
一方で深井さんは、この段階の家康はまだ豊臣家の中で力をつけようと思っていた可能性もあるとみます。家康は60歳ぐらいで、いつ死ぬかわからない時代でした。
ここからまた十何年間経って大坂の陣とかやるんですけど、そのそこで十何年間時間を立てるっていうのはどういうことなんだろうと思うんだよね。
本当に取って代わるつもりなら、もっと早く動いたはずだと深井さんは考えます。主導権を握るところまでが一つのゴールだったのではないか、というのが深井さんの見立てです。
関白ではなく征夷大将軍を選んだ理由
実権を握った家康は、関ヶ原の合戦の3年後に征夷大将軍 ── もとは東北の蝦夷征討の指揮官の称号。鎌倉以降は武家政権の長が就く地位として定着しましたになります。深井さんは、なぜ関白ではなく征夷大将軍だったのかを説明します。
豊臣家では秀吉とその次の秀次が関白を務めましたが、秀次は謀反の疑いで自刃しました。秀頼は関ヶ原の頃に8〜9歳で、豊臣家はいずれ秀頼を関白にしたいと考えていたはずだと深井さんはみます。
ところが関ヶ原の年に、家康は摂関家の九条兼隆を関白に就かせました。秀吉は豊臣という姓を作り出して関白を独占する姿勢を示していましたが、それがうやむやのうちに摂関家へ戻されたことになります。
楊さんはこれを、豊臣家から関白が出る可能性を潰す一手だと説明します。世間では秀頼が関白になるという噂も立っていたようで、自分より権威の上で秀頼に凌駕されるのは家康にとってリスクだったと考えられます。
自分が関白になるわけにもいかない家康は、征夷大将軍を選びました。鎌倉や室町の将軍も征夷大将軍で、武家の頭領という感覚がある地位です。実力で武士を従わせている人が就くのは自然だったと深井さんは話します。
別に幕府開こう、じゃあ征夷大将軍だなとか言って選んでるわけじゃないんだよね。
楊さんも、「幕府」は後世の人々が与えたフレームにすぎないと続けます。関白の政権が長く続いていたら、また違う呼び方になっていたかもしれないと深井さんは付け加えます。
焼きそばパンと同じ?普請でつくる上下関係
征夷大将軍になると、周囲からの認知が大きく変わります。深井さんは、実質は変わらないと言っていたマネージャーが取締役になると見られ方が変わる、という身近な例にたとえます。
名前って大事なんだよね。役職って超大事なんだよ。
それまで正月の年賀の挨拶では、合戦後でさえ、みんな先に秀頼へ、その後に家康へ行っていました。征夷大将軍になった後は、まず家康に礼を述べるようになったといいます。ただし家康自身は、この段階でも秀頼に先に行きなさいと言っていたそうです。
もう一つ重要なのが、将軍就任後に命じた土木工事、普請 ── 城や堀、道路、市街地などを造る土木工事。江戸時代には幕府が大名に負担させることが多くありましたです。江戸の市街の造成や拡張工事で、神田、日本橋、京橋などがこの時に作られたと深井さんは紹介します。
家康はこの普請を、加藤清正、細川忠興、前田利長、伊達政宗といった外様の大大名にまで命じました。深井さんは、普請に参加させること自体が「俺がボスだよ」という意味になると話します。
当時は今のような法治国家ではなく、株式の過半数のようにルールで主導権が決まるわけではありません。実績がそのまんまルールになる時代だったので、普請をさせたという事実が、この人がボスだという認識をつくっていきました。
楊さんはこれを、明文化ではなく振る舞いによってヒエラルキーが見える化されると表現し、「ヤンキーが手下に焼きそばパン買ってこいよ、と言うのと一緒」とたとえます。
家康は自分の終の住処となる駿府城も造営させ、その後も2代将軍秀忠、3代将軍家光の代まで、江戸城などの普請を続けさせました。
それ(家康への服従)をシステム化するために、後々の代の人たちにまでそれを慣習的に行わせることによって、なし崩し的に徳川家にみんな従う立場だよねっていうことを理解させる
楊さんは、家康が孫娘を秀頼に嫁がせて親戚関係を結んでいたことも挙げます。学者によっては、家康はもともと秀頼を殺すつもりはなく、親戚として吸収しようとしていたのではないかという見方もあるそうです。
深井さんは鎌倉幕府の例も引きます。北条氏が執権として実権を握り、将軍はお飾りでもよかった時代がありました。家康もそれでいいと思っていた可能性は普通にある、と深井さんは話します。
すぐに将軍職を譲った家康のねらい
家康は将軍に就任したその年のうちに、職を三男の秀忠に譲ります。深井さんは、秀吉が秀次に関白を渡したのに切腹させて空位を生んだのを見て、家康はそれを危ういと感じていたのだろうと話します。
家康は引退して大御所 ── 引退した将軍や、その居所を指す呼び名。家康は将軍職を譲った後も大御所として実権を持ち続けましたとして振る舞うようになります。秀忠は父の言うことを聞かねばならず、実際の権力は家康が握る状態です。
楊さんは、これは権力承継の既成事実づくりだと説明します。将軍職は徳川家が継いでいくものだ、という事実を先に作ったということです。
楊さんによれば、権力承継のポイントは、実力主義から世襲主義へいかに上手に移るかです。ルール化された序列、それが世襲であり、オートマチックに継いでいく状況を作ることが大事だったといいます。
強い人が出てくれば全部ひっくり返り、予測もコントロールもできない
ルールに沿って自動的に継がれ、序列が安定する
秀忠が将軍宣下を受けるために江戸から伏見へ向かう際には、万単位の軍勢を率いていました。深井さんはこれを、文句を言う者への牽制だったと説明します。
ここから、大御所と将軍による二元統治が始まります。秀忠が江戸城を守り、家康はやがて、今川義元のもとで育った駿府に居城を移して、そこから幕政を実質的に動かしました。
家康のブレーンは多様でした。金地院崇伝 ── 臨済宗の僧。家康の側近として外交文書の作成や寺社・法令の整備に関わりましたや南光坊天海といった僧、林羅山 ── 江戸初期の朱子学者。家康以降の将軍に仕え、幕府の学問の基礎を築きましたという学者、そして漂着したイギリス人ウィリアム・アダムスこと三浦按針もいました。
深井さんによると、真田広之さんが主演するドラマの主人公の一人も、三浦按針がモデルだろうといいます。こうした顧問たちと、外交貿易、重要政策、朝廷・寺社や大名への対応を担っていきました。
秀吉がさ、族人統治からシステム統治への移行に失敗したじゃん、目の前で。
家康にとっての課題は、自分の目の黒いうちに、属人的な統治をシステマチックな統治へ変えていくことでした。樋口さんは、天下を取った後はまったく違うゲームになると受け止めています。
家康に豊臣家を滅ぼす野心が生まれたのはいつか
通説では、家康はかなり早くから豊臣家を滅ぼすつもりだったといわれます。深井さんはそうではないと考えており、同じように言う学者もいるそうです。
深井さんが転機とみるのは、成長した秀頼が「自分に与えられている領地が少なくないか」と言い始めた頃です。支えてきた家康から見れば、何もしたことのない秀頼が調子に乗ったことを言ってきた、という感覚だったのではないかといいます。
怖い怖い怖い怖い怖い。怖すぎる。
深井さんは、スタートアップで何度かクーデターを目の前で見た経験を引き合いに出します。クーデターを起こす人は前々から狙っているわけではなく、不満を抱えながら、ある瞬間に急に動くのだといいます。
深井さんは、成否を分けるのは周りがどれだけ賛同しているかだと考えます。この時期の家康は、自分が入れ替わっても誰も文句を言わず、むしろ望む人も多いと感じていただろうとみています。
のちの大坂冬の陣・夏の陣で助命嘆願された際に家康が一瞬許していることも、感情が動いていた証だと深井さんは話します。最初から狙っていたにしては大坂の陣までが長すぎるというのが、深井さんの見立ての根拠です。
防御反応
主導権を握らないと危ないので握り続ける
主導権の確立
豊臣家を生かして世話しつつ、実権は持たせない
気づき
自分が取っても誰も文句を言わないと気づく
引き金
秀頼側が分をわきまえないことを言い、バランスが崩れる
樋口さんが「周りから家康さんがやってくださいと言われていそう」と想像すると、深井さんは、それは謀反にあたるので危なくて言わないと否定します。楊さんも、戦の直後で家康はまず安定を必要としており、豊臣家を生かして実権は持たせないのが最適解だったと話します。
深井さんは、秀吉が信雄や信孝を潰した時も同じ構図だったと振り返ります。次回からは、家康がその変化した心境を実行に移していく段階に入ります。
まとめ
関ヶ原の後、家康は領地の配分、役職、普請、将軍職の継承を通じて、属人的な勝利を徳川家に従う仕組みへと変えていきました。一方で深井さんは、豊臣家を滅ぼす意思は最初からではなく、秀頼側の言動をきっかけに固まった可能性が高いとみています。
- 没収した632万石を家康が口頭で配分し、恩の向かう先を自分に向けた
- 関白を摂関家に戻し、武家の頭領としての征夷大将軍を選んだ
- 外様大名にも普請を命じ、振る舞いで上下関係を見える化した
- 将軍職をすぐ秀忠に譲り、世襲による権力承継の既成事実を作った
- 豊臣家を滅ぼす判断は、秀頼が成長して不満を口にした頃に傾いたという見方がある





