東軍と西軍は開戦前どこにいたのか?
関ヶ原の戦いの直前、両軍の配置は次のようになっていました。徳川家康が率いる東軍では、家康本人が江戸城にとどまり、豊臣家に恩があるはずの武将たちは東海道を進んで清洲城(今の愛知県)に集まっています。
家康の嫡男である徳川秀忠の軍は、中山道を通って西へ向かっていました。東軍は二手に分かれて西進していたことになります。
一方の西軍は、形式上の総大将が毛利輝元です。ただし主導していたのは石田三成で、三成は豊臣秀頼を擁立し、岐阜県のあたりで東軍を待ち構える立場でした。
楊さんは、この戦いの規模を数字で示しています。家康が伏見を出てから大津城に入るまでのおよそ3か月で、兵糧米だけで6万3000石が消費されたといいます。
楊さんによれば、ここには馬の飼料や武具のコストは含まれていません。お金の面から見ても、当時としては日本史上最大の予算規模の戦争だったと考えられる、という説明です。
深井さんは、封建制なので人件費は全部がかかるわけではないと補足しつつ、それでも莫大な費用をかけた大規模な戦いだったと話しています。負けた側は大きなダメージを負う状態でした。
真田家はなぜ親子で東西に分かれたのか?
中山道を進んだ秀忠の軍は、主力の3万8000という大軍でした。その秀忠軍が信濃の小諸(今の長野県)まで来たところで、真田昌幸が挑発的な態度を取り、城外の人家を焼いて開戦の姿勢を示します。
真田昌幸には、真田信幸と真田幸村という2人の息子がいました。深井さんによると、真田家はどちらが勝つかわからないと考え、家族で東西に分かれるという戦略を取ります。
父の真田昌幸と、弟の真田幸村
兄の真田信幸
どっちが負けても、どっちが勝っても、一応真田家は大丈夫っていう姿勢を取ります。リスク分散の投資ポートフォリオです。
真田家のこの判断は、家族同士で戦うことになりかねない選択でもありました。楊さんは、当時の武士にとっては家の存続が何より大事で、家の名誉が続くなら自分の命はどうでもいいというメンタリティーがあった、と説明しています。
真田昌幸がこもる上田城を、秀忠は3万8000の兵でも落とせませんでした。上田城を迂回するときも、真田軍の奇襲を警戒して慎重に少しずつ進んだため、大きく時間を取られます。
一応結論から言うと、ここであまりにも時間取りすぎて、この人(秀忠)関ヶ原の合戦間に合わないんですよ。
深井さんと楊さんは、秀忠の遅れを「大ポカ」と評しています。ただし楊さんは、秀忠はのちに江戸幕府の2代将軍として統治でセンスを発揮する人物で、戦場向きではなかっただけだとフォローしています。
岐阜城の半日陥落は家康に何を決断させたのか?
清洲城に集まった東軍の武将たちは軍議を開き、西軍方の岐阜城を攻めることを決めます。計4万3000の大軍が二手に分かれ、清洲城から岐阜城へ向かいました。
岐阜城の城主は織田秀信 ── 織田信長の嫡孫。本能寺の変の後、幼くして「三法師」として織田家の後継者に立てられた人物ですで、かつて三法師と呼ばれた人物です。この時21歳になっていた織田秀信は奮戦しますが、岐阜城は半日で陥落してしまいます。
岐阜城陥落の知らせを受けた瞬間、家康は自分が出陣すると決めます。深井さんは、暗殺するかどうか迷っていた人たちとは判断の速さがまったく違い、場数の差を感じると話しています。
家康が急いだ理由について、深井さんは徳川家の立場を挙げます。東軍の武将たちはすでに関ヶ原付近にいて、いつ決戦が始まってもおかしくない状況でした。
ここで全く功績を出さずに、この天下の大決戦で自分の部下たちで徳川家ではない人たちだけが、もし功績を出してしまったら、またパワーバランスが一強じゃなくなってしまうじゃん。
楊さんは別の理由も指摘します。時間をかけると西軍の態勢が整ううえ、最悪の場合、毛利輝元が秀頼を担いで出てくれば、豊臣家に恩のある武将たちは攻められなくなります。
家康は秀忠の軍を待たず、およそ300キロを10日間で一気に進軍しました。深井さんは、自分がその場にいることで、味方の武将たちに「やると言ったよな」と圧力をかける意味もあったのではないかと話しています。
岐阜城陥落
東軍の武将たちが4万3000の兵で岐阜城を半日で落とす
決戦が迫る
東軍の諸将が関ヶ原付近に布陣し、いつ戦闘が始まってもおかしくない
家康の判断
徳川家の功績と秀頼出陣のリスクを考え、自ら出陣を決める
急行軍
およそ300キロを10日間で走破する
秀忠を待つか、すぐ戦うか?
清洲城に着いた家康は、美濃で合流する予定だった秀忠軍がまだ長野県のあたりにいると知ります。家康が連れてきた軍は数こそいるものの、小ぶりの軍隊の寄せ集めで、あまり強くありませんでした。
家康は重臣の井伊直政や本多忠勝を呼んで協議します。本多忠勝は待つべきだと言い、井伊直政は即時決戦を主張しました。
主力の秀忠軍を欠くと、豊臣系武将の功績の比重が高まり後のパワーバランスが崩れる。大軍を欠いて戦えば負ける恐れもある
毛利輝元が秀頼を連れて出てくれば戦えなくなる。加藤や福島が味方と言っているうちに戦うべき
深井さんは、秀頼が出てくる事態はおそらく起こらなかったとしつつも、何が起こるかわからないのが家康の人生だったと話します。家康は即時決戦を選び、清洲城から岐阜方面へ進みました。
西軍は大垣城を前線にしていました。江戸にいると思っていた家康の旗印が大垣城から見える場所に現れ、西軍は大きく動揺したといいます。
石田三成はなぜ野戦に出るしかなかったのか?
西軍が城から出なければ、大垣城や佐和山城をめぐる攻城戦になります。深井さんによると、家康は攻城戦があまり得意ではなく、その代わり野戦が上手だといわれていました。攻城戦が得意だったのは秀吉です。
それでも石田三成は野戦を選びます。目の前まで敵が迫り、大坂城にいる毛利輝元や秀頼を呼んでも間に合わないと判断されたからです。
さらに、三成が誘って決起した大谷吉継が、東に突出した位置にいました。三成が動かなければ大谷吉継を見殺しにすることになります。
これを石田三成はできないんですよ。見殺しにできないです。ここが家康とかは余裕で多分できるんですよね。
深井さんは、家康が伏見城の鳥居元忠をある意味で見殺しにしていたことと対比しています。加えて三成は、自分の基盤である佐和山城を取られることを強く恐れていたといいます。
家康の急行軍
江戸から即断即決で前線に現れる
援軍が間に合わない
毛利輝元や秀頼を呼ぶ時間がない
守るべきものがある
突出した大谷吉継と、三成の基盤の佐和山城
野戦を選ぶ
望まない野戦に出ざるを得なくなる
深井さんは、西軍は完全に家康のペースに巻き込まれていて、その起点は江戸を即断即決で発った家康の判断だとまとめています。
夜の行軍と、58歳の家康
三成は関ヶ原という広い平野で待ち構えることを決めます。そこなら佐和山城に来る前に東軍を倒せ、大谷吉継とも合流できるからです。これで戦場が関ヶ原に確定しました。
西軍は夜、松明を灯さず、馬が鳴かないようにして、ひそかに城を出ます。しかし家康は諜報の体制を整えていて、西軍の動きは筒抜けでした。
深井さんによると、寝ていた家康は三成が動いたという報告を受けた瞬間に起き上がって出陣します。この時の家康は58歳でした。
信長スピリットがインストールされてるやつらなんすよね。
深井さんは、当時の58歳は今の70〜80歳くらいの感覚だろうと話し、戦国の時代を戦い抜いてきた「信長チルドレン」の世代のすごさを語っています。
布陣図では西軍の圧勝だった?
先に関ヶ原に着いた西軍は、好きな場所を選んで鶴翼の陣 ── 鶴が翼を広げたように、くの字に曲がって相手を包み込むように待ち受ける陣形。真ん中に敵をおびき寄せて包囲しますを敷きます。
| 位置 | 軍勢 | 補足 |
|---|---|---|
| くの字の角(中央) | 宇喜多秀家 | 西軍で最大の軍勢 |
| くの字の下の先端 | 小早川秀秋 | 松尾山の上に大軍を置く |
| くの字の上側 | 島津、石田三成など | 西軍の主要な将 |
| 東軍の背後 | 毛利軍 | 東軍を後ろから挟む位置 |
| 東軍の先頭 | 福島正則など | 藤堂高虎、京極高知、蜂須賀至鎮らも前方にいる |
| 東軍の最後尾 | 徳川家康 | 井伊直政、松平忠吉らの徳川勢も参加 |
小早川秀秋は、一時は秀吉の後継者になるかもしれないといわれた親戚でした。しかし秀頼が生まれたことで、後継者から外された人物です。
東軍は鶴翼の陣に一直線に突っ込むような形で、しかも背後に毛利軍がいます。深井さんは、戦術家に見せれば絶対に西軍が勝つといわれる布陣だと説明しています。
東軍には、信長の弟の織田長益(有楽斎)や、漫画『へうげもの』の主人公である古田織部(古田重然)なども参加していました。深井さんによれば、東京の有楽町の語源は有楽斎だといいます。
東軍の弱点は、秀忠が主力を連れていったため、徳川家の中に大きな所領を持つ武将が少なかったことです。先鋒の松平忠吉、井伊直政、本多忠勝ぐらいしかおらず、戦力的には寄せ集めで脆弱でした。
開戦のきっかけは井伊直政の抜け駆けだった
夜中に対峙した両軍は、前の晩からの雨と深い朝霧で見通しが利かず、明るくなってもしばらく動きませんでした。口火を切ったのは、東軍の井伊直政です。
井伊直政は偵察に出ると言って出ていき、そのまま宇喜多隊に向けて一斉射撃を始めます。東軍では先鋒は福島正則と決まっていて、それは武士にとって大きな名誉でした。
徳川家が功績残したいっていうのもあったんだろうね。自分が先駆けしちゃうんですよ。これを抜け駆けと呼びます。
福島正則も急いで戦いに加わり、戦闘はなし崩し的に始まります。東軍には三成を嫌う武将が集まっていて、三成の首が最大の功績になる戦場でした。
深井さんが強調するのは、石田三成が思ったより頑張ったことです。当時の武将たちは、文官の三成など簡単に倒せると考えていたといいます。
石田三成の軍は石火矢などで東軍を牽制し、部隊から逃亡者や裏切り者も出ませんでした。三成は自分が武勇に優れていないことを自覚して、高給で超武辺者の島左近を右腕に雇っていて、島左近も徹底抗戦を続けます。
深井さんはあわせて、秀吉に取り立てられた武将は行政能力がなければ出世できなかったため、加藤清正なども決して脳筋ではなかったと補足しています。
小早川秀秋はなぜ動かなかったのか?
松尾山の上にいる小早川秀秋の軍が攻撃すれば、戦況は大きく変わるはずでした。しかし小早川秀秋はまったく動かず、三成が何度狼煙を上げても出撃要請に応じません。
通説では、小早川秀秋は最後に裏切って大谷吉継の軍に突入します。一方で、番組が話を聞いた学者の見方では、小早川秀秋は最初から三成たちに信頼されておらず、大谷吉継も裏切るだろうと考えていたようだといいます。
深井さんは、小早川秀秋は勝つ方に加担するつもりだったのだろうと話します。そして、野戦上手の家康が鶴翼の陣に霧の中を突っ込んだのは、裏切りが確定している武将がいて、勝てると判断したからだと説明しています。
そう、そしてその上でこの戦場をデザインしてるんですよね。
実際に戦っていたのは、宇喜多秀家、大谷吉継、石田三成の軍くらいで、西軍の半分ほどしか戦っていませんでした。それでも宇喜多秀家らが強く奮戦したため、小早川秀秋から見るとどちらが勝つかわからず、動かない選択をしたと考えられます。
「弁当食ってまーす」毛利軍が動かなかった理由
東軍の背後にいた毛利軍も動きませんでした。三成が何度使者を送っても応じず、その言い訳が「今、飯を食っている」というものだったといいます。
ここにいたのは総大将の毛利輝元ではなく、親戚の毛利秀元です。深井さんによると、毛利秀元自身は裏切っていませんでした。
毛利秀元の前の平地には、毛利家の家臣である吉川広家がいました。裏切っていたのは吉川広家で、しかも吉川広家が先駆けだったため、毛利秀元が先に動くと抜け駆けになってしまいます。
早く動いて、早く動いてって思ってんだけど、この吉川広家がいろんな理由つけて動かないんですよ。弁当食ってまーすとか。
いやいやいや腹立つわこいつマジで。はよ食えや。
吉川広家は何度使者が来ても「まだ食べている」と言って出ず、毛利軍は勝敗が決まるまで最後まで戦いに参加しませんでした。
島津はなぜ三成のために戦わなかったのか?
西軍の島津軍もなかなか動きませんでした。通説では、開戦前夜に島津義弘が夜襲を提案したところ、三成が「それは田舎者の戦略だ」と退けたとされます。
深井さんは、本当のところはわからないとしつつ、通説では島津家がこの言葉に強く腹を立て、三成のためには動かないと決めたと紹介しています。布陣図だけではわからない、武将それぞれの温度差があったことになります。
深井さんは、毛利が動かなかったことを「下手をこいた」と評します。総大将を出している毛利家は勝つしかない立場なのに、前線に出ず中途半端な行動を取ったからです。
吉川広家の裏切りも、毛利家のためでした。家康には勝てないと判断し、裏切る代わりに毛利家の所領を安堵してもらう約束を家康と交わしていたのです。
もう自分の人生決まるところなんだからさ、ここは行けばよかったのに、やっぱ決断力がなんかないなっていう感じ。
筆頭大老の家康が自ら前線に出ているのに、毛利輝元は大坂城にとどまっていました。深井さんは結果論と断ったうえで、このムーブの違いがのちの領地削減につながったと話しています。
問い鉄砲と裏切りの連鎖
石田三成が思いのほか持ちこたえ、小早川秀秋も動かないため、家康はいら立ちます。深井さんによれば、周りに刀で切りつけるほどで、小早川秀秋にも「あのクソガキが」と怒っていたといいます。
通説では、家康は小早川隊に向けて問い鉄砲 ── 当てる目的ではなく、相手に行動を促す合図として撃ちかける鉄砲。関ヶ原では小早川秀秋に参戦を迫ったとされますが、史実かどうかには議論がありますを撃ちかけます。迷い続けていた小早川秀秋は耐えきれず、大谷吉継の軍に攻めかかりました。
小早川秀秋の裏切りを予想していた大谷吉継は、あらかじめ用意していた600の精兵で側面を守り、一度は撃退します。しかし小早川隊が本気でぶつかってきたうえ、近くにいた脇坂・朽木・小川・赤座の4隊も裏切ります。
小早川秀秋の裏切り
問い鉄砲を受け、大谷吉継の軍に攻めかかる
4隊の離反
脇坂・朽木・小川・赤座の隊も大谷隊に向かう
大谷隊の崩壊
大谷吉継が自刃する
総攻撃
家康が手を叩いて喜び、東軍が総攻撃をかける
西軍の総崩れ
小西行長の隊、宇喜多秀家の隊が次々と崩れる
深井さんは、4隊が藤堂高虎の合図に従って離反したと書かれていることから、藤堂高虎に調略されていたのかもしれないと話しています。
島津の退き口は何だったのか?
西軍が総崩れになるなか、1000〜1500ほどの島津軍は孤立します。島津軍は退却を始めますが、なぜか東軍の本隊に向かって進み、家康の近くをかすめるようにして戦場を突き抜けていきました。
楊さんは、これは「捨てがまり」と呼ばれる戦法だと説明します。敵陣を正面突破して退却し、味方の一部を犠牲にして追撃を食い止めるというものです。
マジで犠牲になることが確定してて、もう死なないといけないんです、誰かが。囮になって。
この退却では、島津豊久という一族の重要人物も命を落とします。深井さんは、方向もそちらではないのに正面突破するのは不思議で、状況そのものに怒ってやっていたのではないかと想像を語っています。
楊さんは、島津家は戦後も粘り強く踏ん張り、家康からそれほど罪を問われずに終わったと話します。のちに宇喜多秀家をかくまったこともあり、深井さんは島津家は一貫して独立性を保っていたと評しています。
敗将たちはどうなったのか?
戦場から逃げた西軍の武将たちも、次々と捕らえられます。小西行長は伊吹山で、石田三成は近江の古橋村で、安国寺恵瓊は京都六条の寺で捕まりました。
この3人は大阪・堺・京都を引き回されたうえで、翌月の10月1日に六条河原で処刑され、首もさらされます。五奉行の長束正家は自刃し、宇喜多秀家は八丈島に流されて、その地で長く生き延びました。
毛利輝元は、関ヶ原で負けたとはいえ大坂城で秀頼を抱えていました。島津義弘、毛利秀元、柳川の立花宗茂らは大坂城での徹底抗戦を主張しますが、毛利輝元はあっさりと城を明け渡します。
ところが大坂城に入った家康が調べると、毛利輝元がかなり乗り気で戦争に関わっていたことがわかります。家康は所領安堵の約束を無効とし、毛利家の領国はすべて没収されました。
家康は、毛利軍を動かさなかった功として、毛利家の領国のうち2か国を吉川広家に与えます。吉川広家はその2か国をそのまま毛利家に渡し、こうして長州藩が生まれたといいます。
深井さんは、この話は通説で、嘘だという説もあると断っています。そのうえで、家康は何をしてきてもおかしくないという前提で動くべきだったと、毛利輝元の判断を評しています。
家康の勝利を決めた「秀頼の確保」
楊さんは、関ヶ原で勝っただけでは家康のミッションは終わらず、毛利輝元を大坂城から退去させて秀頼を確保してはじめて勝ちが確定した、と整理しています。
深井さんは話を広げ、万人の闘争の世界では情報を独占する孫子の兵法が有効だと話します。一方で、相手をだまそうとする人が少ない現代の日本のビジネスで孫子を使うのは危ういとも述べています。
家康は大坂城で秀頼に謁見し、淀殿と杯を交わします。淀殿、家康、秀頼の順に杯を飲んだことから、深井さんは、家康が幼い秀頼を補佐する突出したナンバー2の立場だったことがわかると説明しています。
上杉と長宗我部に下された処分
関ヶ原の前に家康と対立していた上杉景勝は、東北の伊達や最上と戦い続けていました。惣無事令で私戦は禁じられていたため、深井さんはこのメンタリティーはよくわからないと話します。
上杉景勝は家康に降伏しますが、120万石から米沢30万石へ減封されます。深井さんは、収入が4分の1になったということで、月収120万円が30万円になったようなものだとたとえています。
120万石
米沢30万石(収入は4分の1)
深井さんが一番かわいそうだと話すのが長宗我部家です。四国を統一した長宗我部元親が関ヶ原の直前に亡くなり、跡を継いだ長宗我部盛親は、よくわからないまま西軍に入れられます。
長宗我部盛親は戦闘に参加しないまま戦が終わり、所領をすべて没収されました。出家して京都に隠棲し、塾の先生のようなことをしたといいます。
これ多分戦国時代で一番振れ幅ある生き方だと思う。
立花宗茂は負けてなぜ元の領地に戻れたのか?
立花宗茂は、大坂城での徹底抗戦を毛利輝元に断られたあと、国元の柳川城に戻って籠城します。深井さんによれば、ここで死ぬつもりだったといいます。
柳川城の攻撃に来たのは、加藤清正や鍋島直茂でした。2人は朝鮮で立花宗茂とともに戦った戦友で、戦わずに降伏してほしいと説得します。
立花宗茂は説得に応じて城を出て、江戸で謝罪し謹慎します。命は許されたものの、1万石だけを与えられ、九州とは正反対の陸奥の棚倉に移されました。
その後、立花宗茂は柳川に戻されます。深井さんは、負けたのに元の領地に戻った唯一の武将で、しかもそれを狙っていたわけではないのが面白いと話しています。
島津と毛利の遺恨は幕末にどうつながるのか?
島津家は国元に戻って謝罪の態度は示しますが、家康からたびたび上洛を求められても応じませんでした。九州は遠く、家康としても攻めるのは大変だったため、3年ほどでうやむやになります。
島津家は所領を減らされながらも、薩摩と大隅、日向の一部を認められます。深井さんは、毛利家と島津家はこの処分にずっと怒っていたのではないかと話します。
ちょっと待って、そこにつながってんすか?この時の遺恨が。
深井さんは、以前の高杉晋作の回の話にも触れています。所領が減って給料が激減しても毛利家の家臣たちは辞めず、毛利家は人を育てることに集中していったといいます。その先に吉田松陰や高杉晋作が現れ、薩摩藩と長州藩が明治政府の中枢を担うことになります。
関ヶ原の戦いはここで終わりますが、豊臣家はまだ主家として残っています。深井さんは、この段階の家康は秀頼を立てながら主導権を握れていれば十分と考えていたとし、どこで考えが切り替わるのかは次回に語るとしています。
まとめ
関ヶ原の戦いは、布陣だけを見れば西軍が有利でしたが、家康の即断による主導権の確保と、戦場に着く前の調略によって決着しました。敗将たちへの処分は、長州藩や薩摩藩の成り立ちを通じて幕末にまでつながっていきます。
- 真田家は親子で東西に分かれて家の存続を図り、上田城で秀忠軍を足止めした
- 家康は岐阜城陥落を受けて即座に出陣し、三成を望まない野戦に追い込んだ
- 小早川秀秋や吉川広家の動きは、家康が事前に行った外交と調略の結果だった
- 毛利輝元は大坂城を明け渡したが所領を没収され、吉川広家の働きで長州藩として残った
- 島津の退き口や立花宗茂の復帰など、敗将たちの運命は大きく分かれた





