鎖国を続けられなくなった江戸幕府
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ペリー来航編の3回目は、これまでアメリカ側から語ってきた視点を日本側に切り替えるところから始まります。列強の動きに対して、日本がどうリアクションしたのかがテーマです。
楊さんはまず、当時の国際情勢を「オセロゲーム」に例えます。列強各国が世界の覇権をめぐって植民地や補給基地を取り合うゲームが、すでに始まっていたという説明です。
列強たちはオセロゲームを始めたんですよ、もうすでに。そのゲームの対象が日本も含むようになっていったわけです。
19世紀初頭には、日本の近海にもロシア、イギリス、フランスなどの船が頻繁に来るようになりました。その結果、江戸幕府は方針転換を迫られていきます。
自分で家に閉じこもったまんま、いろんな人がさ、コンコンコンとやってきて、おーい、水持ってるか?石炭持ってるか?って。
ここで楊さんは、鎖国政策が全ての対外関係を断っていたわけではない点を補足します。日本に来ることができたのはオランダと中国の船で、長崎の出島が唯一の外交の窓口でした。
出島以外にも、蝦夷(北海道)のアイヌ、対馬を通じた朝鮮、薩摩藩を通じた琉球との関係がありました。外国との関係が完全にゼロだったわけではないのです。
一方で、アメリカやイギリスのように、通商や使節のやりとりをする関係にない国々の船を、幕府は「異国船」と呼び、来日を拒絶していました。この方針の維持が、次第に難しくなっていきます。
「打ち払え」から「非戦」へ、方針転換の舞台裏
幕府が異国船への方針をどう変えていったのか。ペリー来航の20年前、幕府の政策は強硬そのものでした。
当時の異国船打払令は、海岸に接近する異国船は攻撃すべし、外国人が無理に上陸しようとした場合は殺しても構わない、という激しいものでした。
ところが約17年後、幕府はこの方針を緩め、戦いを避ける非戦の方向へ切り替えていきます。楊さんは、この意思決定にいくつかのステップがあったと整理します。
まず前提として、幕府は家に閉じこもりながらも世界情勢を把握していました。その情報源が、長崎に入ってくるオランダと中国からのレポートです。
幕府は駐在所に最新の情報レポートの提出を義務付けており、この二系統の情報を比較検討していました。この点に樋口さんも驚きます。
すごいな、このレポート。すげえ重要やな。
比較検討の結果、幕府が到達した認識はシンプルでした。西洋諸国は強大な軍事力と技術力を持ち、その植民地獲得競争が日本と無関係でなくなってきている、というものです。
そして、方針見直しの決定打となったのがアヘン戦争です。清がイギリスに敗れたこの出来事は、幕府に相当な衝撃を与えました。
幕府はアヘン戦争から、イギリス海軍の圧倒的な強さと、清の物資運搬ルートを封鎖したという事実を把握します。そして、これを日本に置き換えて考えました。
イギリスは絶対江戸湾を封鎖しに来るよねっていう風に、ここまで一応想定したんです。
当時の江戸は人口100万を超える一大消費地で、回船という物資運搬船に支えられていました。楊さんによれば、この回船が江戸の全消費量の6割以上を運んでいたと推計されています。
江戸湾を敵艦一隻でも封鎖されれば、回船が江戸に入れなくなります。幕府はこの江戸湾の地理的な弱さを自覚しており、後にペリーがここに来た理由でもあります。
さらに幕府にはもう一つの弱みがありました。鎖国政策で大型船の建造が禁止されていたため、まともな軍艦がなく、海軍を持っていなかったのです。財政も困窮し、海防に十分な予算を割けませんでした。
鎖国政策するとそうなるんですよね。外での筋肉がないというか、海での筋力が。
こうした現実認識のもと、列強とは戦えないという判断が生まれます。戦争を回避する路線への転換が、必然的な選択となっていきました。
財布の小銭で切り抜ける、天保薪水令の中身
1842年、江戸幕府は天保薪水令という政策を出します。これが今後の対外関係の基本方針となりました。
楊さんは、その内容を具体的に整理します。発砲せず戦闘を避け、薪や水や食料を無償で提供し、速やかに日本を去らせる。ただし鎖国は維持し、貿易や国交は結ばないというものです。
接近する異国船は攻撃し、上陸しようとする外国人は殺しても構わないとする強硬策
発砲せず薪や水、食料を無償提供して退去させる非戦策。ただし鎖国と国交拒否の原則は維持
この柔らかい対応を、樋口さんは自身の経験に重ねてたとえます。
カツアゲにあった時に財布に小銭だけ入れといて、靴下に万札隠しといて、小銭だけ出すんでお願いしますってやつ。
出せるものは出す代わりに、ここで許してほしいという姿勢です。基本方針は守りつつ、対応だけを穏便にする一手だと言えます。
この幕府の姿勢には複数の見方ができると楊さんは述べます。何も考えていないという批判もできれば、条件制約の中でできる最もマシな一手だという見方もできる、というものです。
これ以外に何かあるのかって言われると、パッと思いつかないです。
日本人を送り届けたのに砲撃された、モリソン号の悲劇
ここからは、ペリー以前の日本とアメリカの出会いが語られます。楊さんは、日米関係を考える上で重要な2隻の船として、モリソン号とマンハッタン号を挙げます。
モリソン号はアメリカの民間商船で、日本に初めて来たアメリカ船でした。日本との貿易を望み、保護していた日本人の漂流民を送り返す目的で江戸湾に来ました。
ところが当時の日本はまだ異国船打払令の時代で、モリソン号は砲撃を受けます。日本人を連れてきたにもかかわらず攻撃されたことに、樋口さんは驚きます。
やばいよ、日本人連れてきてくれてるのに。ダメやん、そんなことしたら。
命中はしたものの、当時の日本の大砲は破壊力が弱く、船は大したダメージを受けずに退去しました。鹿児島沖でも再び打ち払いにあいます。この事件から、アメリカは日本に対してある認識を持ちました。
この事件によって、まずアメリカが日本に対してもった認識。こいつらいきなり撃ってくるやべえやつって。
さらに、この出来事には情報のすれ違いがありました。日本側は、この船をアメリカ船ではなくイギリス船だと誤認していたのです。
これは、事件後に長崎のオランダ駐在員が「この船は日本人漂流民を送ってきたイギリスの船だ」と幕府に伝えたためでした。オランダの情報が間違っていたのです。
その後、イギリスがアヘン戦争で清を破ります。すると幕府は、イギリスの船にひどいことをしてしまった、報復に来るかもしれないと考え、イギリス脅威論が増幅していきました。
好待遇が生んだ再評価、マンハッタン号の来航
次に来たのがマンハッタン号です。この船も民間船で、保護した日本人漂流民を引き渡すために江戸湾に来ました。
楊さんは、漂流民の返還には人道的な理由だけでなく、日本と接触するきっかけを作るという側面もあったと指摘します。漂流民の返還を口実にビジネスの接点を持とうとしていたのです。
お歳暮持ってきたんですけど、あけませんでしょうか。
マンハッタン号が来たとき、日本はすでに異国船打払令を廃止していました。そのため砲撃されず、日本側は協力的で、漂流民の引き渡しは速やかに終わりました。
このときの船長は、モリソン号とは対照的な好待遇を受けて帰国します。そして、この対応をペリーに伝えました。ここでアメリカの対日観に新たな要素が加わります。
日本は内に閉じこもってるけれども、文明レベルめっちゃ高い人たち。
船長がペリーに報告した内容は具体的でした。浦賀(今の横須賀)は安全で近づきやすい港で、必要な物資は全て補給できたこと。そして日本人への評価です。
日本人は物静かで友好的で知的な人々であり、私たちが考えているよりも多くの世界に関する知識を持っている。
ただし船長は、長崎以外の港への入港は許されておらず、それ以外の港に入るには力による以外は不可能だろうとも報告しました。力で日本に港を開かせる必要があるという認識です。
軍艦で来たのに追い返された、ビッドル艦長の屈辱
ちょうどこの頃、アメリカ議会でも日本への使節派遣を求める動きが出始めます。これまでの2隻は民間船でしたが、今度は国家としてのアプローチが始まりました。
アメリカ政府は、まずジェームズ・ビッドルを東インド艦隊の司令長官に任命し、日本が開国する可能性の調査を命じます。ペリーではなく、彼が最初でした。
ビッドルは大統領の手紙を携え、2隻の軍艦を率いて日本にやってきます。日本にとって最初の正式なアメリカからの使節でした。しかし、この交渉は失敗に終わります。
立ちはだかったのが、老中首座の阿部正弘です。楊さんは、今でいう内閣総理大臣のような立場だと説明します。阿部は足腰の強い外交でビッドル艦隊を退去させました。
日本が外国と貿易することも、国交を開くこともありません。外国との交渉は長崎で取り扱うので、今後二度と浦賀に来るなっつって。
軍艦を率いていたのに、なぜ日本は怯まなかったのか。楊さんはここに疑問を投げかけます。答えは、ビッドルが武力で威嚇する方針を取らなかったことにありました。
前年のマンハッタン号に対して日本が友好的だったため、ビッドル艦隊は日本に不信感を抱かせないよう、柔らかいスタンスで接するよう命じられていたのです。ところが、これが裏目に出ました。
ビッドルの戦艦はおびただしい数の幕府側の警備船に取り囲まれ、圧をかけられます。大統領の手紙を浦賀の役人に渡しても、幕府は受領を拒否しました。
楊さんは、この状況を現代のビジネスにたとえます。決裁権のある社長に提案するか、決裁権のない平社員に提案するかの違いだ、という説明です。ビッドルは決裁権のある人に手紙を渡せませんでした。
さらに屈辱的な出来事が起きます。ビッドル艦長は、幕府側の下っ端役人に何かの手違いで殴られてしまうのです。
そんなことする?リアルにガンって。すげえな。
一国の外交官であり艦隊司令官であるビッドルは、それでもキレずに事を収めました。幕府側からは遺憾の意が表明されただけで、彼は何の成果もなく日本を去ります。
そして、この出来事は日本側で「アメリカの艦隊を力づくで追い返した」という噂に変わって広まりました。この認知がアメリカにも伝わり、アメリカを激怒させます。
殴って帰ったっていうのが力づくで帰したってなってるんや。
楊さんは、こうした出来事がペリーの戦略に直結したと指摘します。ペリーが日本への戦術で最も重視したのは、ちゃんと武力で脅すことでした。ビッドルの失敗と屈辱が、その背景にあったのです。
保護されていた漂流民、すれ違い続ける認識
一方で、日本は対外政策を穏便な方針に切り替えた後、アメリカ人の漂流民をきちんと保護した実績もありました。ラゴダ号とプリマス号という捕鯨船の漂流民です。
北海道に漂着した漂流民を日本が保護したという知らせを受け、アメリカは即座に東インド艦隊を派遣します。ビッドルの一件があったため、今度こそ目にものを見せてやるという勢いでした。
ところが、漂流民はすでに手厚く保護されていました。楊さんによれば、保護以上にいい条件で扱われていたといいます。漂流民の証言も残っています。
食べ物は十分にあり、服も冬物と夏物の両方をもらい、牢屋の中にいたんだけれども、かなり自由で運動も十分にできた。
勢いで自国民の救出に来たものの、肩透かしを食う結果になりました。この出来事は、艦隊が来てから9日ほどで解決します。このときの艦長がグリーンです。
グリーン艦長がこの経験から得た認識は、日本は話せばわかる国だが、やはり力で押す必要がある、というものでした。ここにも情報のすれ違いがありました。
楊さんによれば、グリーン艦長は幕府の方針変更を知らなかったようです。そのため、自分の強気な態度で問題がサクッと解決したと認識してしまったのです。
この構造を、樋口さんが分かりやすく整理します。アメリカは日本が武力に弱いと思い込んだが、日本は単にルールを変えただけだった、というすれ違いです。
日本からすると単純にルール変えただけなんですよ。撃ってでも追っ払えってルールから、いやもうちょっと受け入れようってルールに変えたタイミングで戦艦で行っちゃったから、効果があったって思った。
グリーン艦長は帰国後、大統領や経済界に、毎回軍艦を派遣するより日本と条約を結んだ方がよいと提案します。同時に、日本人を文化的に劣っていると考えない方がいいとも述べました。
ただ、日本人を我々より文化的に劣っているとは考えない方がいいというふうに彼は言ってるんですね。
世論を動かした一つの記事、遠征決定の裏側
アメリカで日本を開国させる方針が固まっていく中、その方法をめぐって世論が二分されました。力を見せつけて開国させるか、柔らかい姿勢で開国させるかという対立です。
日本遠征が政府中枢で決定されると、メディアが激しくぶつかり合います。平和的な方法を主張する側は、艦隊の派遣は日本への宣戦布告に等しく、日本の民衆をアメリカ嫌いにするだけだと訴えました。
この主張には、アヘン戦争との対比もありました。艦隊派遣はイギリスの阿片戦争を日本に想起させる。アメリカ自身がイギリスの行いを非難しているのに、同じことをするのはよくない、という論理です。
軍人じゃなくて外交能力に長けた文官を派遣して日本との交渉に当たるべきである。
ところが、この状況を一変させる出来事が起きます。あるセンセーショナルな記事がメディアで拡散されたのです。
記事の内容は、日本の沿岸で遭難し、長崎から送還されたアメリカ捕鯨船員が、ひどい扱いを受けたというものでした。所持品を没収され、見せ物小屋のような場所に押し込められ、脱走を試みた者が傷で死んだ、といった描写です。
この感情を煽る記事に、アメリカ世論は激怒します。しかし楊さんは、後世の研究によればこの記事の内容は事実でなかった可能性が高いと指摘します。
疑わしい理由は複数あります。この出来事自体は数年前のもので、政府中枢はすでに把握していたのに、なぜこのタイミングで出したのか、という点です。
さらに、当時の日本はすでに天保薪水令の穏便な方針に切り替えており、漂流民に食料を与えていました。日本側の記録だけでなく、オランダ側の記録にも虐待の事実はありませんでした。楊さんは、世論工作のためにあえて発信された記事ではないかという説を紹介します。
記事の真偽はともかく、これが炎上し、日本を許してはならないという世論が醸成されていきました。結果として、日本の開国には軍艦を派遣するしかないという方向に世論が一本化していきます。
なんというかね。まあそういうことありそうですよね、いつの時代も。メディアと政府ってね、いろいろありそうですわ。
最恵国待遇と一番乗り、条約をめぐる読み合い
ここで楊さんは、幕府側がアメリカに対して持ったイメージを整理します。アメリカとの接触は比較的円満に解決できたため、イギリスより新しいアメリカの方が話が分かるかもしれない、という認知でした。
その背景には、イギリスとアメリカの立場の違いがあります。イギリスは各地に植民地を持つ最強の覇権国で、その一環として日本を視野に入れていました。対してアメリカは、まだ体系的な世界戦略を確立していない新興国でした。
そのため幕府は、仮に関係を結ぶなら比較的組みしやすいアメリカではないか、と考えます。ここで、条約をめぐるもう一つの重要な観点が登場します。最恵国待遇です。
楊さんは、これを具体例で説明します。日本が最初にA国と通商条約を結ぶと、A国が最恵国になります。その後、日本がB国とより有利な条件で条約を結んだ場合、その条件はA国にも自動的に適用されるという仕組みです。
最初に結んだ条約が、今後締結していく条約にとってのベースラインとして機能していく。
つまり最恵国となった国は、他の国が交渉コストをかけて獲得した有利な条件を、追加コストなしで棚ぼた式に手に入れられます。樋口さんはこれを「チートの能力みたい」と表現しました。
この仕組みは、アメリカと日本の双方に重い意味を持ちました。アメリカにとって重要なのは、イギリスなどより先に、一番乗りで日本と条約を結ぶことでした。
一番乗りでアメリカにとって有利な条件で日本と条約を結ぶと、2番目以降の条約締結国よりも最恵国待遇の面ですごくメリットがある。
日本側にとっても、最初にどの国と条約を結ぶかは極めてクリティカルでした。最初の条約がベースラインになるため、悪い条件で結べば、その不利な条件が積み重なっていくからです。
もしイギリスと最初に結べば、圧の強いイギリスに不利な条約を押し付けられ、それがベースラインとして重なっていきます。だからこそ、少しでも有利な状態で結べる相手を選ぶ必要がありました。
イギリスより先に一番乗りで条約を結び、最恵国として他国が得た有利な条件を自動で獲得したい
最初の条約がベースラインになるため、圧の強いイギリスより組みしやすいアメリカと有利に結びたい
楊さんは、この理解が後にアメリカとの条約交渉で顕在化すると述べます。ただしこの時点では、日本はまだ国交を開くつもりはなく、異国船への扱いを柔らかくしただけでした。こうした状況の中で、ようやくペリーが登場します。
情報が断絶した時代の、カードを見せ合わない外交
ペリーは東インド艦隊の第10代司令長官に就任します。久々に名前が出たペリーですが、彼が具体的にどう取り組んだのかは次回に持ち越されました。
今回ペリーほとんど出なかったよ。
最後に樋口さんは、この時代の外交の難しさを振り返ります。お互いの意図が完全には伝わらず、コミュニケーションロスが大きい状態で交渉が進んでいたことに注目しました。
現代のようにSNSもメディアの往来もなく、相手国の情報にほとんどアクセスできない。そんな状況で国の重大事を決めなければならなかったことに、樋口さんは驚きます。
国のめっちゃ大事なことをバンバン決めていかないといけない時代やったなっていうのを改めて思ったな。
樋口さんは、この状況を相手の手札が見えないゲームにたとえます。互いのカードを見せないまま進める読み合いこそ、この時代の国際情勢の本質でした。
カードを持ってて、相手に何のカードを持ってるか見せない状態でゲームしてるみたいな。
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まとめ
今回は、異国船への対応に追われた江戸幕府の方針転換と、ペリー来航以前に始まっていた日米のすれ違いが語られました。情報が断絶した時代に、双方が互いを見誤りながら関係を形づくっていく過程が浮かび上がります。
- 列強の覇権争いと近海への異国船来航により、江戸幕府は鎖国の維持が難しくなった
- アヘン戦争での清の敗北が決定打となり、幕府は打払令から非戦の天保薪水令へ転換した
- モリソン号やマンハッタン号、ビッドル艦隊をめぐる出来事で、日米は互いのイメージを誤って形成した
- ビッドルの屈辱が、後にペリーが武力による威嚇を重視する背景となった
- 最恵国待遇の仕組みにより、最初にどの国と条約を結ぶかが日米双方にとって重要な争点となった




