西南戦争、敗色濃厚——それでも鹿児島へ帰る理由とは?
歴史を面白く学ぶコテンラジオ(COTEN RADIO)の西郷隆盛編も佳境に入りました。ついに挙兵した西郷軍は、熊本城攻略に失敗し、装備と補給で勝る政府軍に徐々に押されていきます。田原坂の激戦、会津兵の復讐、木戸孝允の死——維新の英雄たちが散りゆく中、西郷は包囲を突破して鹿児島へ向かいます。その内容をまとめます。
大久保利通、挙兵の知らせに取り乱す
西郷隆盛が挙兵したという知らせを受け、大久保利通は生涯で数えるほどしかないという激しい動揺を見せました。大久保のもとには鹿児島士族の不穏な動きの情報が次々と寄せられていたものの、彼は最後まで「西郷隆盛薩摩藩出身の政治家・軍人。明治維新の三英傑の一人として、倒幕運動を主導し、新政府樹立に大きく貢献しました。はそんなことをしない」と信じ続けていました。
配下の官僚が「西郷は私学校の勢いに巻き込まれている。情において忍びないが倒すべきだ」と進言しても、大久保は機嫌を損ねるほどでした。挙兵を知らせる電報が来ても信じようとせず、一睡もできない夜を過ごして出勤したといいます。息子の証言によれば、大久保は西郷に直接会って説得すれば、国家の真実を語り合えると考えていたそうです。
西郷が出たというのか……そんなはずがない。今でも会えばすぐわかる。会えぬので困っているのだ。
しかし、この数年間、大久保と西郷はほとんどコミュニケーションを取れていませんでした。大久保が海外視察に出て以降、ディスコミュニケーション意思疎通の欠如。互いの考えや意図が正確に伝わらない状態を指します。が続いていたのです。西郷側には政府や大久保に関する正しい情報が入らず、大久保が建てた洋館についても「私腹を肥やしている」という誤解が広まっていました。実際には、外交の迎賓館として大久保自身が借金をして建てたものだったにもかかわらずです。
大久保は九州に行って西郷と刺し違えるつもりでしたが、伊藤博文に止められます。伊藤は「大久保が死んだら自分が内務卿をしないといけない。それは嫌だ」と反対したそうです。結局、大久保は京都に向かい、征討の詔天皇の命令で賊軍を討伐することを宣言する公式文書。西郷軍を朝敵(朝廷の敵)と位置づけることで、政府軍に討伐の正当性を与えました。を出してもらい、西郷軍を朝敵としました。
記録によれば、大久保は否定できないほどの報が入ってきた時、泣いたといいます。「そうか……」とつぶやき、悲しみに沈んだのです。しかし一方で、政治家としての冷徹な判断も働いていました。大久保は伊藤博文への書簡で「今回の挙兵は不幸中の幸い」と記し、鹿児島の不平士族を一掃するチャンスだと見なしていたのです。
熊本城の攻防——技術力と補給で粘る政府軍
西郷軍はまず熊本城の攻略を目指しました。薩摩の武士たちは、維新を成し遂げた日本最強の武力として自負しており、熊本城など余裕で落とせると考えていました。しかし、熊本城を守る熊本鎮台明治初期に設置された陸軍の地方部隊。全国を六つの軍管区に分け、それぞれに鎮台を置いて地域防衛を担当しました。熊本鎮台は九州地方を管轄していました。は、不穏な情勢を察知して籠城戦の準備を整えていました。
熊本城は加藤清正安土桃山時代から江戸時代初期の武将。豊臣秀吉に仕え、朝鮮出兵で活躍しました。熊本城を築城し、「築城の名手」として知られています。が築いた天下の名城で、防御力の高さで知られていました。鎮台兵たちは神風連の乱で武士の恐ろしさを目の当たりにしており、最初は恐怖で犬の物音にも発砲するほどでしたが、最新式のスナイドル銃と大砲を配備し、地雷を埋め、視界の邪魔になる市街地を焼き払って防御陣地を構築しました。
一方、西郷軍には近代戦の準備が不足していました。最大の弱点は、工兵隊軍の中で土木建築・橋の架設・道路の建設・障害物の除去などを専門に行う部隊。フランスの軍事顧問団による指導で、明治陸軍は工兵教育を本格化させていました。がいなかったことです。政府軍は工兵隊を使って砲欄(ほうらん)直径60cm、高さ80cmほどの籠を木の枝や竹で編んで作り、中に土砂を詰めて土塁を築く技術。防御力が高く、部隊の損耗を低減できました。という防御設備を作り、石垣の上に並べて防御力を高めていました。西郷軍も土を詰めた俵を使いましたが、重さで潰れてしまい、攻撃の際に無防備にさらされました。
兵力:14,000人
装備:エンフィールド銃(湿気に弱い)
弱点:工兵隊なし、補給困難
兵力:4,000人
装備:スナイドル銃、大砲26門
強み:砲欄技術、電信による補給
さらに、補給の差が決定的でした。政府軍は電信を最前線まで張り巡らせ、博多や長崎から続々と補充兵・武器・弾薬を送り込みました。一方、西郷軍は補給の手段がほとんどなく、唯一の輸送船も海軍に捕獲され、弾薬製造工場も破壊されていました。政府軍の海軍は海岸に軍艦を留め、西郷軍が外国と連絡を取る可能性も封じていました。
何度も熊本城を攻めましたが、西郷軍は陥落させることができませんでした。統率も取れておらず、参謀もおらず、作戦会議でも「一挙に敵の城を粉砕すればよい」といった精神論ばかりが語られました。結局、熊本城をスルーして北上することを決めますが、この時点で西郷の末弟・西郷虎平が戦死し、息子の菊次郎(満16歳)も足に銃弾を受けて切断することになります。鹿児島を発ってわずか10日で、弟を失い、息子は体の一部を失うという厳しい現実にさらされました。
田原坂の激戦と会津兵の復讐
熊本城を落とせなかった西郷軍は、北上して福岡・長崎方面から来る増援を待ち伏せすることにしました。選んだのは田原坂(たばるざか)熊本市にある標高差80メートルほどの丘。曲がりくねった急勾配の赤土の道が特徴で、守る側に有利、攻める側に不利な地形でした。という地形です。ここは加藤清正が兵士を敵の視界から隠すために大型に掘った道で、攻撃側に不利な地形でした。西郷軍は土塁を構築し、横穴を掘って待避壕にして待ち伏せました。
しかし、交戦期間の半分以上で雨か霧が出ており、西郷軍のエンフィールド銃は火薬が湿って使い物にならなくなりました。一方、政府軍の元込め式スナイドル銃はあまり影響を受けず、最新式のアームストロング砲も活用して攻撃を続けました。政府軍は連日30万発以上を撃ち込みましたが、西郷軍はわずか3万発しか撃てず、寺の鐘を溶かしたり、木や石を弾薬にするほど物資が欠乏していきました。
「クソチン」(政府軍の鎮台兵への蔑称)なんぞに負けるものか!
政府軍は銃だけでは埒が明かないと判断し、抜刀隊刀を抜いて突撃する斬り込み隊。銃撃戦では進めない状況で編成され、近接戦闘で敵陣を制圧する役割を担いました。を編成しました。健達者な警察官を集めて実戦投入したのですが、彼らの多くは鹿児島県士族でした。つまり、薩摩人が官軍と西郷軍に分かれて戦っていたのです。お互いが近づいた時、声を聞いて友人や親族であることに気づき、「お前らは国賊だ」「お前らこそ奸賊(政府の裏切り者)だ」と罵り合ったといいます。
この抜刀隊の中に、かつて薩摩に敗れた旧会津藩士戊辰戦争で薩長軍に敗れた会津藩の元武士たち。敗戦後、厳しい処遇を受けていましたが、明治政府の軍人や警察官として再び活躍の場を得た人もいました。たちがいました。わずか10年前、会津は薩摩にひどい仕打ちを受けたと恨んでおり、今度は立場が完全に逆転していたのです。会津兵たちは「戊辰の復讐!」と叫びながら果敢に切り込み、全体の10%しかいなかったにもかかわらず、戦死者の24%を占めるほど勇敢に戦いました。
戦場は阿鼻叫喚の地獄と化しました。記録によれば、両軍の死体が山をなし、道路は血で満ち溢れ、砲弾に当たった遺体は飛び散り、頭蓋骨が砕けて脳みそが流れ出る様子は「熟したスイカのよう」だったといいます。遺体は戦場に放置されるか穴に捨てられ、腐敗臭が辺り一面に漂い、口や鼻を布で覆わなければ一歩も進めない状態でした。捕虜になった者は殺されてバラバラにされ、遺体を侮辱する行為も見られました。
戦況悪化と木戸孝允の死
抜刀隊が砲台を奪取し、戦況は政府軍に有利に傾いていきました。西郷軍は物資不足が深刻化し、地面に落ちた弾丸を拾って撃つほどになりました。兵士の数も減り続け、当初は20歳から40歳までだった従軍資格を、15歳から45歳、さらに13歳から50歳まで拡大しました。私学校以外の士族も半ば強制的に出兵させられましたが、彼らは戦意が低く、装備も良くありませんでした。
政府軍も西郷軍も現地住民から略奪を行い、一方で商魂たくましい民衆が食べ物を戦場で売りさばく光景も見られました。熊本城では籠城戦が続き、食料と弾薬が尽きて雑草のおひたしや軍馬の肉を食べていましたが、海から背面軍が上陸して熊本城に入るのに成功しました。籠城開始から2ヶ月で死傷者は773名でしたが、熊本城の防衛成功により、事実上、西南戦争の大局は決しました。
この頃、中央政府では木戸孝允長州藩出身の政治家。坂本龍馬の仲介で薩長同盟を締結し、明治維新の三英傑の一人として新政府樹立に貢献しました。が病に倒れました。木戸は西郷とともに薩長同盟を結び、明治維新を実現した立役者でしたが、晩年は大久保と仲が悪く、複雑な感情を抱いていました。西郷の決起を残念に思いつつも、大久保に全面的に賛同する気持ちもなく、「西郷は憎むべきなのだろうが、哀れに思ってしまう」と語っていました。
病に苦しむ中でも、木戸は「最後の奉公として、自ら薩摩に攻めに行かせてほしい」と熱望しましたが、明治天皇に止められました。熊本城が助かったと知って大いに安心したと日記に記した後、病死します。維新三英傑のうち、木戸が最初に亡くなったのです。
包囲突破、西郷鹿児島へ
西郷軍は西側からの北上に失敗し、今度は東側から宮崎方面に北上しようとしましたが、人吉もわずか1ヶ月で陥落しました。「2年は立てこもる」と言っていましたが、楽観的な見通しは完全に外れ、食料・弾薬が逼迫し、逃亡者も相次ぎました。従軍しない者は「敵」「スパイ」と呼ばれ、殺害されるという脅しが飛び交いました。鹿児島県下では薩摩軍が勝った知らせのみが伝えられ、募兵に応じない者は臆病者や村八分にされました。第二次世界大戦にそっくりな状況です。
政府軍は海軍を鹿児島に突入させ、県庁を制圧しました。これで西郷軍の補給基地は完全に失われました。宮崎も陥落し、北に向かっていた西郷軍3,500人は決戦に出ましたが、大敗を喫します。西郷は和田峠で戦いを見守り、弾丸が雨のように降り注ぐ中で仁王立ちしていました。
これで日本も大丈夫だ。
西郷は、自分が始めた徴兵制でできた軍隊が、電信を駆使して薩摩軍よりも強かったことを見て、日本の軍隊が近代化に成功したと感じたのです。自分の軍がバンバン倒されているのを見ながら、国家の未来を考えていたのです。
政府軍はついに西郷軍を宮崎県の北の永井村で包囲しました。もはや殲滅戦です。西郷はここで初めて天皇の征討の詔を見て、自分たちが朝敵に指定されたことを知ります。会津と同じ立場になったのです。かつて会津に対してやったこと、会津の人たちが感じたことを、ここで追体験することになったのです。
西郷軍は約2,000人まで減っており、食料も弾薬も銃もほとんどありませんでした。西郷は陸軍大将の軍服を焼いて処分し、全軍に向けてこう言いました。
我が軍の窮迫ここに至る。今日のこと、唯一死を振るって決戦にあるのみである。諸隊にして下らんとするものは下り、死せんとするものは死し、ただその欲するところに任ぜよ。
「降伏したかったらしなさい。死にたいやつは死ね。みんな好きなようにしなさい」——こう言って、西郷は全軍を解散させました。
しかし、500人だけが残り、西郷はこの「突隊」を率いて包囲を突破し、鹿児島へ向かいました。脱出作戦の直前、西郷は満面の笑みを浮かべ、悠々と歩みを進めていたといいます。兵士の目には「のどかに狩りでもしているかのように映った」そうです。
飢えた兵士が民家の庭の柿を勝手に取って食べると、西郷は笑みを浮かべて「そうしたはしたないことをしてはいけない」とたしなめました。息子の菊次郎が「最後にお父さんと別れを言いたい」と面会を求めましたが、西郷はこれを拒否しました。部下として特別扱いすることを拒んだのか、それとも自分はもう死んだと考えていたのか——西郷の真意は定かではありません。しかし、愛犬2匹を解き放った時には泣いたといいます。
西郷は包囲を突破し、なんと鹿児島に帰り着きます。しかし、鹿児島はすでに政府軍に占領されていました。次回、ついに最終回です。
まとめ
西南戦争は、大久保と西郷のディスコミュニケーションから始まり、技術力と補給力で勝る政府軍が西郷軍を圧倒していきました。田原坂の激戦では、かつて敵だった会津兵が「戊辰の復讐」を果たし、維新の英雄・木戸孝允も複雑な思いを抱えたまま病死します。西郷は包囲を突破して鹿児島に帰りますが、もはや帰る場所はありませんでした。次回、西郷隆盛の最期を迎えます。
- 大久保利通は西郷の挙兵を最後まで信じず、知らせを受けて泣くほど動揺したが、政治家としての冷徹な判断も働いていた
- 熊本城の攻防では、工兵隊の技術力と電信による補給で政府軍が優位に立ち、西郷軍は物資不足に苦しんだ
- 田原坂の激戦では、旧会津藩士たちが「戊辰の復讐」を叫びながら果敢に戦い、薩摩兵と元会津兵が因果を繰り返した
- 維新三英傑の一人・木戸孝允は複雑な感情を抱えたまま病死し、西郷は包囲を突破して鹿児島へ帰還した

