挙兵の報に大久保利通はなぜ取り乱したのか
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西郷隆盛の挙兵を知ったときの大久保利通について、深井さんは「めちゃくちゃ取り乱す」と語ります。冷静沈着な大久保にとって、生涯で取り乱した数少ない場面の一つだと言われているそうです。
大久保の内務省には、挙兵の前から鹿児島士族の動きについての情報が次々と寄せられていました。それでも大久保は「西郷は大丈夫だ」「抑え込んでくれてるはずだ」と言い続けていたといいます。
配下の官僚が「西郷は私学校に取り巻かれて自分の意思で動けなくなっている。情において忍びなくても倒すべきだ」と進言したときも、大久保はひどく機嫌を悪くしたそうです。
(大久保さんは西郷さんの挙兵を)信じたくないんやね。
挙兵の電報を受け取った日、大久保は一睡もできないまま出勤しました。のちに息子が「電報が来ても、父は決して信じませんでした」と語っています。
大久保は閣議で、九州へ出張して西郷と直接会いたいと申し出ます。名義のない挙兵を西郷がするはずがなく、政府の実情や国家の将来を語り合えば説得できると考えていたからです。
すれ違いを生んだ「豪邸」の噂とは
深井さんが強調するのは、大久保と西郷のあいだに数年にわたるディスコミュニケーション ── 意思疎通がうまくいかず、互いの意図や事情が正しく伝わらない状態のことがあったことです。大久保が海外に行って以降、西郷のもとには政府や大久保についての正しい情報が入ってこなかったといいます。
たとえば、大久保が洋風の大きな家を建てて豪勢に暮らしているという新聞記事を、鹿児島の士族たちは信じていました。実際に木造洋館を新築したのは事実でしたが、その理由は外交にありました。
大久保が洋風の豪邸を建て、私腹を肥やして豪勢に暮らしている
迎賓館が火災で失われ、外国人を接待する場として新築。政府の費用はあまり使わず本人が借金して建てた
大久保は死後に多額の借金を残していたといいます。自腹で外交のための家を建てたことが「私腹を肥やしている」という噂にすり替わっていたのが真相だと、深井さんは説明します。
なんか涙ぐましいなあ、なんか。(大久保さんの)頑張りが。
大久保は部下に「会えばすぐわかる」「会えぬので困ってんだ」と漏らしていました。西郷を桐野利秋 ── 薩摩出身の軍人で、幕末には「人斬り半次郎」の異名で知られた。西南戦争では西郷軍の中心人物として前線を指揮したたちから取り戻したい、江藤新平のように晩節を汚させたくないという思いがあったといいます。
しかし大久保の九州行きは周囲に止められます。伊藤博文は、大久保が西郷と刺し違えて死ねば自分が内務卿をやらなければならず、それが嫌だという理由でも反対したと書かれていて、深井さんは「伊藤博文っぽい」と面白がっています。
朝敵となった西郷と、大久保の二つの顔
結局、大久保の願いは西郷に届きませんでした。政府は京都の天皇から征討の詔を受け、西郷たちは朝敵となります。
征討総督には、和宮のかつての婚約者だった有栖川宮熾仁が据えられました。実質的な司令官は陸軍の山県有朋と、海軍の川村澄義です。東京・大阪の部隊で編成された第一・第二旅団が神戸から出発しました。
否定しきれない報が次々と入ったとき、大久保は泣いたそうです。深井さんは、西郷に期待していたからこそシンプルに悲しかったのだろうと語ります。
すごくなんか悲しんでたっていう記録が残ってて、なんかもうほんとエモいなって思った。
一方で大久保は、戦争になれば勝てると確信していました。伊藤博文には「不幸中の幸いで、心中では笑みを浮かべるほどだ」と書き送り、鹿児島の不満分子を始末する機会と冷静に見ていたといいます。
楊さんによると、同じ書簡で大久保は、この挙兵には名も義もなく、正々堂々と罪を挙げて討てば誰も文句は言わないと記しています。さらに、西郷が名誉や節操を曲げてまで挙兵に踏み出したのなら、残念千万だが見切りをつけるしかないとも書いていました。
これは(大久保の)後輩とか同郷の仲間っていうよりも、国家官僚としての立場に立った考え方を言ってますよね。
深井さんは、泣くほどの個人的な感情と、国家の立場から下した冷徹な判断のどちらも大久保そのものだと見ています。
楊さんは、大久保が感情に振り回されて取り乱せば政府全体が不安になる以上、官僚としての役割を果たさざるをえなかったと付け加えています。
「なぜ俺を疑った」西郷側の言い分とは
西郷側に目を戻すと、西郷は部下から、暗殺計画に大久保が関与していたと聞かされていました。そのため、私学校の人々を率いて「なぜ俺を疑ったのか」を大久保に問いただしに行く、と語っていたといいます。
最後まで西郷を信じていた大久保と、大久保に疑われたと思い込む西郷。深井さんは、この正反対の認識を「凄まじいディスコミュニケーション」と呼びます。
LINEで言えばいいのに。
ないんよ。ないね。手紙でも送ればよかったのにね。
ただ楊さんは、仮に手紙を送っても、西郷の周囲の人々がそれを西郷にきちんと届けたかどうかという問題もあると指摘しています。
熊本城はなぜ落ちなかったのか
すれ違いのなか、西郷軍はまず熊本城を落とそうとします。10年ほど前まで維新を実現した日本最強の武力だった薩摩の武士たちは、熊本城をかなり甘く見ていたといいます。
熊本城の司令官は谷干城、参謀長は樺山資紀で、のちに日露戦争で活躍する児玉源太郎もいました。後世の有力者がこの時点で揃っていたことになります。
作戦会議で熊本鎮台は籠城戦 ── 城にこもって敵の攻撃を防ぎ、援軍の到着や敵の消耗を待つ戦い方を選びます。ただ鎮台兵たちは、以前の神風連の乱で元武士たちの怖さを覚えており、夜の見回りで犬が音を立てただけで発砲するほど怯えていたそうです。
楊さんによれば、山県有朋も、西郷が決起すれば各地の士族が呼応すると危機感を抱いていました。熊本の士族が西郷軍に呼応する恐れもあったのです。
そこで鎮台は、最新式のスナイドル銃を優先的に配備し、野砲・山砲・臼砲を合わせて26門据えました。城門や通路を閉ざし、橋を撤去し、地雷を埋めて守りを固めます。
さらに、大砲の視界を遮り敵兵が身を隠す場所になる城下町を焼き払いました。その通達が出たのは前日だったといいます。
やばすぎませんか?明日お前の家燃やしますって言われるんですよ。
住民が先を争って逃げるなか、稼ぎ時とばかりに家財道具の運搬を請け負う人々も入り込む混乱ぶりだったと、楊さんは紹介しています。
この頃、前回触れた「整列して待っていろ」という趣旨の不遜な書状が届きます。谷司令官は激怒し、樺山参謀長も「非職の身で司令長官を指揮するとは奇怪至極」と反発して、かえって士気が上がりました。
兵力3倍の西郷軍が攻めあぐねた理由
熊本城に到着した西郷軍は、城を包囲して全軍で強襲をかけます。西郷軍の兵力は1万4000、対する鎮台軍は4000でした。
一番大隊長の篠原国幹は「1日で終わる」と言い、六番隊の別府晋介も「進路を遮るなら一蹴すればよい、作戦などない」と語っていたといいます。作戦会議の中身も「一挙に城を粉砕すればよい」という程度でした。
(西郷軍は)会議だといっても、多分その時に会議の場でみんなでえいえいおーって言ってるぐらいの会議の内容ですので。
薩摩出身の樺山参謀長が降伏するだろうという根拠のない期待もあり、何より徴兵で集めた軍隊を侮っていました。西郷軍の兵士は鎮台兵を「クソチン」と呼んでいたそうです。
しかし熊本城は堅固で、大砲も効果的に配置されていました。精強な薩摩兵と互角に戦い抜いたことで、怯えていた鎮台兵も自信をつけていきます。
楊さんが挙げるもう一つの差が工兵隊です。政府軍は工兵隊 ── 軍の中で土木建築、架橋、道路づくり、障害物の除去などを担う専門部隊をフランス顧問団の支援で育てており、熊本にも精鋭の工兵第六小隊がいました。
工兵は、直径60センチ、高さ80センチほどの籠を木の枝や竹で編み、土砂を詰めた防御具を作って石垣の上に並べました。西郷軍も土を詰めた米俵を使いましたが、重さで潰れてしまったといいます。
スナイドル銃と26門の大砲、工兵隊による籠の土塁、電信と汽船による継続的な補給
作戦なしの精神論、参謀不在で統一指揮なし、俵の防壁は潰れる、弾薬は手持ちのみ
「戦略がない」西郷軍と近代軍の差
深井さんは、桐野利秋ら前線指揮官は現場の指揮力に優れ、兵も勇猛で高度な戦術も使ったと認めます。そのうえで、西郷軍には戦略がなく、統一指揮をとる参謀もいなかったと指摘します。
(西郷軍の人たちは)兵士たちも勇猛果敢だし、高度な戦術も使ってくるんだけど、戦略がないんだよね。
加えて補給が続きませんでした。西郷軍は鹿児島から出てきた人数と物資が最大で、弾薬は元々30万発あったものの、それ以上は補充できなかったといいます。
一方の政府軍は電信を最前線まで張り巡らし、博多や長崎に着いた汽船から補充兵や武器、弾薬を次々と送り込みました。西郷軍の弾薬輸送船は海軍に捕獲され、火薬の製造工場も破壊されます。軍艦は、西郷軍が外国と連絡を取る可能性まで封じていました。
(政府軍は)下準備でもそうだし、近代軍ですよね。立体的に戦争をやってるってことだよね。
熊本城を落とせないと悟った西郷軍は、城を素通りして北上する方針に切り替えます。その過程で、西郷の末弟・西郷小兵衛が戦死し、翌日には息子の菊次郎が足に銃弾を受けて切断することになりました。菊次郎はのちに京都市長を務めています。
鹿児島を発ってわずか10日で、西郷は弟を失い、子は体の一部を失うという厳しい現実に直面します。
田原坂はなぜ激戦地になったのか
北上した西郷軍は、福岡・長崎方面から来る政府軍の増援が熊本鎮台と合流するのを防ぐため、田原坂で待ち伏せます。田原坂は標高差80メートルほどの丘で、曲がりくねった道が続く地形でした。
深井さんによれば、この道は加藤清正が兵を敵の視界から隠せるようくぼませて築き、滑りやすい赤土の道を屈曲しながら進むよう作ったもので、守りやすく攻めにくい構造でした。西郷軍は50歩ごとに土塁を築き、横穴を掘って待避壕にしていました。
しかし交戦期間の半分以上は雨か霧でした。西郷軍のエンフィールド銃 ── 前から弾と火薬を込める旧式の小銃。湿気で火薬が使えなくなりやすい弱点があったは火薬が湿って使い物にならず、元込め式のスナイドル銃とアームストロング砲を使う政府軍はあまり影響を受けなかったといいます。
最大の差はやはり補給で、政府軍は連日30万発を撃っていたそうです。西郷軍は陣地と射撃の精度、刀による突撃で耐えましたが、政府軍も次第に突撃に慣れていきました。
抜刀隊の会津藩士は何を叫んだのか
坂を抜けない政府軍は、剣の腕が立つ警察官を集めて抜刀隊 ── 刀で斬り込む部隊。西南戦争で警視庁の警察官を中心に編成され、銃撃戦で決着がつかない局面に投入されたを編成します。彼らは全員鹿児島県士族だったといいます。
薩摩人同士が官軍と薩軍に分かれ、声を聞けば友人や親族ということもありました。官軍側が「国賊」と罵ると、西郷軍側は「官賊ではないか」と返し、互いを賊と呼び合ったそうです。
さらに抜刀隊には旧会津藩士が多く参加していました。戊辰戦争で薩摩にひどい目に遭わされたと恨んでいた彼らは、「戊辰の復讐」と叫んで果敢に斬り込んだといいます。
戊辰戦争で薩摩は官軍、会津は朝敵として攻められる側
西南戦争で旧会津藩士は官軍の抜刀隊、薩摩の西郷軍は朝敵
因果だし、たった10年でまた立場が逆転してんだよね。
深井さんによれば、福島県出身者は全体の10パーセントほどだったのに、戦死者では24パーセントに上りました。率先して突っ込んでいったことの表れだといいます。
楊さんは、両軍の遺体が山をなし、腐敗臭で口や鼻を布で覆わなければ進めなかったという記録も紹介します。捕虜の遺体が損壊されるなど、互いの憎しみの激しさがうかがえる記録です。
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まとめ
コテンラジオ西郷隆盛編第15回は、挙兵の報に取り乱しながらも国家官僚として冷徹に判断した大久保利通と、暗殺を疑われたと思い込む西郷隆盛のディスコミュニケーションを軸に、西南戦争の経過を追いました。落ちない熊本城、補給と工兵で差をつける近代軍、田原坂の激戦と抜刀隊の斬り込みを通じて、戦略なき西郷軍と近代軍の力の差が浮き彫りになります。
- 大久保利通は挙兵の報に取り乱しつつ、国家官僚として勝算を冷静に見ていた
- 熊本城は工兵隊・大砲・補給で守り抜き、作戦なき西郷軍は攻めあぐねた
- 田原坂の激戦と抜刀隊の斬り込みを経て、近代軍と西郷軍の力の差が決定的になった







