楊さんと樋口さんの二人で始まる新年の収録
今回の収録は、深井龍之介さんが不在で、楊睿之さんと樋口聖典さんの二人で進みます。楊さんは冒頭で「一人ですけどね」と断りを入れ、樋口さんが「約お二人」と返す軽いやり取りから始まります。
樋口さんは、深井さんが元気であることを伝えるため、前日に深井さんと京都で生配信をした話を披露します。昼間は1回3時間ほどかかる「ファーナス」というロシアのボードゲームで遊び、夜は仏教を踏まえて今後のビジネスや社会の変化を3時間ほど語り合ったそうです。
まあまあだからその、何ですかね、まあ負けるというパフォーマンスは一応しましたね。なんか求められたから。
ゲームの勝敗については、樋口さんは強がりを交えつつ、結局は龍玄さんと、龍玄さんのお寺のお弟子さんが1勝ずつし、樋口さんと小原さんは勝てなかったと明かしています。
収録日は12月3日で、配信時には2025年が始まっている想定です。楊さんが「1年経っても成長できていない気がする」とこぼすと、樋口さんは成長は実感しにくいものだと応じます。
でも全部忘れてるけど、ふとした時に忘れてる奥底から何かが引っ張り出して多分判断してるはずなんですよ。
樋口さんは「学校の授業は役に立たない」という言い方にも異を唱え、学んだことが一度自分の血肉になっていること自体に意味がある、と考えを話しています。楊さんも、知識が蓄積し沈殿していて、ふとした時に実感できるのだろうと同意します。
なぜ「最も知名度の低い人物」を取り上げるのか
タイトルが読み上げられると、楊さんは開口一番「誰?って思いません?」と問いかけます。樋口さんも伊藤野枝を知らず、楊さん自身も「かなりマニアックな人物」だと認めています。
楊さんによれば、伊藤野枝は大正時代、今から約100年前を生きた日本人女性です。歴史を変えた偉人でも国家のエリートでもなく、結婚し、子育てをし、仕事をした一人の妻・主婦・母でした。家事や育児をしながら自分の考えを文章にし、雑誌や小説で世に発信した人物だと紹介されます。
伊藤野枝は28歳で亡くなっているため、作家として地位が確立しているわけでもなく、残された文章もそれほど多くありません。楊さんは、これまでコテンラジオで取り上げた人物の中で最も知名度が低く、同時に「一般庶民に最も近い人物」だろうと話します。ただし映画化もされており、瀬戸内寂聴 ── 小説家・天台宗の僧侶。女性の生き方を描いた伝記小説を多く残し、伊藤野枝を描いた作品もありますさんも伊藤野枝についての小説を書いているそうです。
楊さんは、これまで取り上げてきたブッダやガンディー、ヘレン・ケラーとサリバン先生、ヒトラー、吉田松陰、ケマル・アタテュルクらを「普通から離れた、雲の上の人」だと整理します。普通の人との差分が大きいから目立ち、人類代表として歴史に残ってきた人たちだという見立てです。
一方で、楊さんは歴史は人の歴史であり、学べるものは有名人に限らないと語ります。その例として挙がるのが、中島みゆきさんの「地上の星」です。人は空の目立つ星ばかり見て、地上にいる星のような人々に目を向けない、という歌の内容に重ねて、名もない人々の生き方からも学べるものがあると話しています。
そんな歌やったやん。何も気にせずに聞いてた。
伊藤野枝が人生をかけて取り組んだのは、恋愛・結婚・家庭・子育てでした。楊さんは、誰にとっても身近で普遍的なテーマだからこそ、伊藤野枝がどう悩み、考え、決断したのかをたどりたいと説明します。
だって全部やったことあるから、僕。だから恋愛、結婚。
樋口さんが言うように、この4つのテーマはコテンラジオの本編で正面から扱われたことがありません。身近なのにまだ手を伸ばせていなかった領域を、一人の女性の人生を通して見つめ直すのが今回のシリーズの狙いです。
ブッダ、ガンディー、ヒトラーなど、普通との差分が大きく「雲の上の人」として歴史に残った
歴史を変えた偉人ではなく、恋愛・結婚・家庭・子育てに向き合った一庶民に近い女性
女性が人間として尊重されにくかった大正という「ハードモード」
楊さんは、伊藤野枝が向き合った問題は、同じテーマでも現代とは「ヘビーさが違う」と強調します。伊藤野枝が生きた大正時代は、女性が人間として尊重されることが難しい時代であり、その社会構造がこのシリーズの前提になります。
大正時代は、身分制度が廃止され「四民平等」がうたわれた後の時代です。しかし楊さんによれば、女性には政治に参加する権利も、財産権や相続権もありませんでした。家庭では家父長制 ── 一家の長である父親や男性の家長が、家族の構成員に対して強い支配権を持つ家族制度。戦前の日本では民法の家制度として法的にも支えられていましたが当たり前で、父親が家族に支配権をふるう価値観が残っていたといいます。
その中で女性は、娘・妻・母として家という集団に埋没して生きることが美徳であり、最高の使命だとされていました。伊藤野枝はこうした時代に、恋愛・結婚・家庭・子育て・仕事と向き合い、リスクを背負いながら決断していきます。
楊さんは、伊藤野枝の主張には現代の価値観からは受け入れがたいものや共感しにくいものも多いだろうと前置きします。そのうえで、今回伝えたいのは思想そのものより、どれだけ一生懸命生きてきたかという生き様だと話しています。
樋口さんは、現代の人が当時を知る手段は映画や小説、漫画くらいで、男女の差もひどくは描かれず、どこか美化されて見えると指摘します。当時のリアルに触れる機会は、実は現代でもあまりないのかもしれないという受け止めです。
この物語から何が学べるのか。地元の「先輩」としての伊藤野枝
楊さんによると、伊藤野枝の考え方がわかる文章は多く残っており、家庭で理想をどう実践したか、夫と何を話し合ったかまで、言葉からある程度再現できるそうです。それをたどるだけでも感じるものがあると話しています。
楊さんが先出しで挙げる学びの一つは、人が変えられない特性を持ったまま社会とどう関わるか、という点です。ここでの特性は、女性であることに加え、根底にある価値観や理想も含みます。伊藤野枝は自分の特性を深く理解し、それを離さずに社会と向き合い続けた人物だといいます。
その過程で、伊藤野枝は世間と激しくぶつかり、「ボコボコにされる」ことになります。楊さんは、どんな行動に対して世間が距離を取り、寄ってきて、怒り、誤解するのかという反応の流れが、個人が社会構造に抵抗したときに起きる現象のケーススタディになると語っています。
楊さんには個人的な動機もありました。伊藤野枝は福岡県糸島の今宿出身で、楊さんや樋口さんにとって「地元の先輩」にあたるのです。
日本の方?中国の方?
ただし楊さんによれば、伊藤野枝は少し前まで地元の恥とされ、祟りのように忌み嫌われていたといいます。世間と衝突し続けた末、28歳で殺されており、自然死ではありません。その死にも社会構造が絡んでいることが、今後語られる予定です。
楊さんは、何としてでも生き延び、幸せになってやろうという伊藤野枝の真剣さにこそ、今回の話の価値があるのかもしれないと導入を締めくくります。
没落した家と、図太く本好きな少女
伊藤野枝は1895年(明治28年)、福岡県糸島郡今宿村に生まれました。日清戦争が終わった年にあたります。父は亀吉、母はむめという名前です。
伊藤家はかつて手広く商売をしていましたが、伊藤野枝の祖父の代から傾き、父の代で完全に没落しました。父の亀吉は瓦職人になったものの、稼ぎの大半を酒や遊びにつぎ込み、気に入らない仕事は引き受けなかったといいます。
そのため家は非常に貧しく、卵1つを家族2人で分けて食べるほどでした。母のむめが家事と子育てをこなしながら、日雇いや農家の手伝いで日銭を稼いでいたそうです。
今宿という土地も、江戸時代は街道の宿場として栄えたものの、明治維新以降に衰退していきました。伊藤野枝は後に故郷を「貧乏な人間ばかりで死んだような村」と書いています。
むちゃくちゃ言うやん。やっぱ嫌やったんやな。
楊さんによれば、そんな環境で育った伊藤野枝は非常に図太い子でした。母が夕方まで帰らない日、空腹の伊藤野枝は、妹に止められても家族の夕食用に残されたご飯を一人で全部食べてしまったといいます。
体力も並外れていて、泳ぎが得意だった伊藤野枝は、海岸から能古島 ── 福岡市の博多湾に浮かぶ島。市街地から近く、花畑や果樹園などで知られる行楽地ですまで約3キロを泳いだそうです。気の弱い兄が近所のわんぱく坊主にいじめられていると、取っ組み合いの喧嘩をしに行ったという話も紹介されます。
伊藤野枝は知的好奇心も強い活字中毒でした。罰として押し入れに閉じ込められたときは、ロウソクを持ち込み、壁の補修用に貼られた古新聞を読みふけっていたといいます。掃除中もいつの間にか手を止めて本を読んでいたそうです。
たらい回しの養子生活と、長崎で知った大都会
家があまりに貧しかったため、伊藤野枝は養子に出されます。最初の養子先の叔母の夫は博打打ちで、家庭環境が悪く、結局実家に戻されました。
伊藤野枝は後に、幼い頃から家を転々とさせられ、家ごとに違う教えや習慣を押し付けられたのが嫌だったと振り返っています。自我の強かった伊藤野枝の中で、ルールや習わしへの反抗心が育ち、12〜13歳頃から強まったといいます。楊さんは、この反抗心が原体験の一つだと整理しています。
次の養子先は別の叔母・キチの家で、その夫が叔父の代準介です。叔父は糸島の太郎丸出身で、伊藤野枝の父・亀吉の幼なじみでした。長崎の三菱造船所に木材を納めたり、鉄くずを売りさばいたりして大きな利益を上げていたそうです。
叔父は政治の世界ともつながりがあり、玄洋社 ── 明治期に福岡で結成された政治結社。アジア主義を掲げ、のちの日本の右翼運動の源流の一つとされますを作った頭山満とも関係がありました。楊さんは頭山満を「福岡が生んだ右翼のドン」と紹介し、西日本新聞の前身となる福陵新報を作った人物でもあると話しています。
長崎での暮らしは、伊藤野枝にとって別世界でした。叔父の家には軍人や言論人、文化人、ビジネスパーソンが集まり、サロンのように天下国家や世界情勢が語られていたといいます。伊藤野枝はその光景に強い刺激を受けます。
ばくち打ちで酒飲んでみたいな世界から。
叔父の家には新聞や雑誌がいくらでもあり、年上のいとこ・千代子も女性向け文芸雑誌を多く持っていました。長崎の小学校の担任も自由にさせてくれる人で、伊藤野枝は放課後にオルガンやテニスを楽しんでいたそうです。
ただし疎外感もありました。叔父夫婦は伊藤野枝を呼び捨てにし、使用人も実の娘である千代子と明らかに序列をつけて扱いました。伊藤野枝はこの悔しさをバネに「千代子に負けない」と勉強に打ち込み、ほぼ全教科でトップ評価を取ります。
この辺もだから特性ですよね。なんかグレるパターンも全然あったけど、野枝はそっちの方向に行かなかったんですね。
しかし長崎での生活は8ヶ月で終わります。叔父が新しい事業のために東京へ移ることになり、伊藤野枝は再び今宿の実家へ帰されました。
周船寺の学校で起きた、大人への不信を決定づけた事件
今宿に戻った伊藤野枝は、周船寺周船寺高等小学校に通います。今でいう中学1〜2年にあたる学校です。伊藤野枝は長崎時代と同じように、机に文学書を隠して読んだり、校長室や職員室に平気で入ったりと自由に振る舞いました。
その結果、伊藤野枝は先生、特に女性の先生から「慎みのないおてんば娘」とにらまれます。楊さんは、本人は誰にも迷惑をかけていないのに信用だけが失われていく構造だったと説明しています。
事件のきっかけは、別の学校に移った元担任の男性教師のもとへ、伊藤野枝が現担任の女性教師と一緒に遊びに行った日のことです。大雨で帰れなくなり、二人は元担任の家に一泊させてもらいました。
翌日は図工の授業がありましたが、道具は実家にあり、取りに戻ると遅刻するため、伊藤野枝は道具を持たずに登校します。もともと伊藤野枝を嫌っていた図工の先生は激怒し、事情を説明しても謝らない伊藤野枝を「嘘をついている」と校長に告げ口しました。
校長は「女というのはもう少し女らしくするものです」と怒鳴りつけます。伊藤野枝は「私は何も悪いことはしてません」と叫ぶように言い返しましたが、顔は真っ青で足は震えていたそうです。校長は同行した担任の女性教師のしつけまで責めました。
これ時代っすね。今これドラマとかでこんなセリフとか言わせたらめちゃめちゃ問題になりますね、これ。
その後、伊藤野枝が嘘をついていなかったことがわかります。元担任の男性教師がわざわざ学校に来て説明すると、図工の先生は「担任の女性教師が二人の仲を勘ぐって言いふらしたから勘違いした」と、別の嘘で責任を逃れようとしました。
一泊
大雨で担任と共に元担任の家に泊まる
忘れ物
道具を取りに戻れず、図工の先生が激怒
告げ口
「嘘をついた」と校長に伝わり、怒鳴られる
責任転嫁
嘘でないとわかると、図工の先生は担任のせいにした
この件で伊藤野枝は「大人ってこういうものか」と悟ります。楊さんは、理屈に合わなくても従わせ、聞かなければ怒鳴り、都合が悪くなれば人のせいにするという大人像が、伊藤野枝の価値観を形作ったと話しています。
樋口さんは、登場した4人の先生のうち2人は味方だったと指摘します。実際、一緒に叱られた担任の女性教師は伊藤野枝と一緒に泣いてくれたそうです。それでも一人のひどい振る舞いで「大人が」と一般化してしまうのが10代だ、というのが二人の受け止めです。
楊さんも、子どもは大人の振る舞いを「大人とはこういうもの」と受け取り、それが世界観に影響すると応じています。伊藤野枝自身、大人になってからもこの体験を「一生取り返すことのできない屈辱」と振り返っていたといいます。
手紙攻撃と猛勉強で勝ち取った東京行き
高等小学校を卒業した伊藤野枝は進学を望みましたが、家が貧しく、家計を支えるために郵便局に就職します。そこへ東京に移った叔父と千代子が帰省し、大都会・東京の話を聞かせました。
当時の東京は人口200万人の大都会で、山手線も開通していました。千代子は上野上野高等女学校でクラス委員長のような役もこなす、ハイカラな女学生でした。一方の自分は瓦職人の娘として働かなければならない。伊藤野枝は、このまま今宿で人生が終わるのかと絶望的な気持ちになります。
しかし伊藤野枝は嘆くだけではありませんでした。叔父に「東京に行かせてほしい、学校に通わせてほしい」と、びっしり書き込んだ5枚、10枚の手紙を、3日に1回、4ヶ月間送り続けたのです。手紙には「もっと勉強してみたい」「このご恩は必ずお返しします」といった言葉がつづられていました。
叔父には経済的な余裕があまりなかったといいます。楊さんによれば、叔父は身銭を切って有望な若者を援助する人で、九州から来た男子の苦学生を何人も家で世話していました。加えて、実の子でもない女の子に学問をさせてもという価値観もあったのかもしれないと楊さんは話します。
困った叔父が手紙を見せたのが、隣に住んでいた作家の村上浪六 ── 明治から昭和にかけて活躍した大衆小説家。義侠の人物を描いた作品で人気を集めましたでした。村上浪六は、13〜14歳の娘がこれほど迫力のある文章を書くのはすごいことだと評価し、呼び寄せるよう勧めます。楊さんは、伊藤野枝が文章の力で活路を開いたと強調しています。
上京した伊藤野枝は、叔父が考えていた3年生ではなく、千代子のいる4年生への飛び級編入を望みました。経済的負担を減らしたいことと、ライバルの千代子に負けたくないことが理由です。叔父は激怒し、「試験に落ちたらすぐ田舎に帰れ」と怒鳴ったそうです。
編入試験までは2ヶ月しかありませんでした。伊藤野枝は千代子から1〜3年生の教科書を借り、得意な国語以外の数学と英語を千代子に教わり、英語はアルファベットから覚えます。3日連続で徹夜しては一晩寝る、という生活を2ヶ月繰り返したといいます。
結果、伊藤野枝は1番で合格しました。叔父もさすがに褒めましたが、その言葉は「お前が男だったらな」というものでした。楊さんは、千年以上前に紫式部の父が言ったのと同じ言葉だと指摘しています。
だってもう手紙とかも俺想像してみたんですけど、三日に一回でずっと書いてて(中略)まあ途中で心折れますわな。
楊さんは、ここに導入で語った「自分の特性を決して離さない」姿が表れていると話します。女性という属性ゆえに阻まれた時代、心が折れた女性も多かったはずで、それは責められることではない。そのなかで伊藤野枝は貫き通し、今後は社会とぶつかるほど世間からの攻撃がエスカレートしていくと予告されます。亡くなるまで約14年の怒涛の人生は、次回以降に語られます。
まとめ
伊藤野枝編の第1回は、歴史に名を残さなかった女性をあえて取り上げる理由と、大正という女性にとってのハードモードな時代背景を示したうえで、今宿の貧しい家に生まれた伊藤野枝が、反抗心と文章の力で東京行きを勝ち取るまでを描いています。
- 伊藤野枝は偉人ではなく、恋愛・結婚・家庭・子育てに向き合った一庶民に近い女性として取り上げられている
- たらい回しの養子生活と、学校での理不尽な事件が、ルールや大人への反抗心の原体験になった
- 長崎の叔父の家で得た読書環境と都会の刺激が、伊藤野枝の視野を広げた
- 3日に1回・4ヶ月の手紙と2ヶ月の猛勉強で上京と首席合格を勝ち取ったが、褒め言葉は「お前が男だったらな」だった



