なぜ野枝を語るのに「青鞜」が欠かせないのか
伊藤野枝編の第3回は、ショート編の長さをめぐる軽い掛け合いから始まります。ガンジー編が8回分に及んだことを受けて、楊さんは今回も長くなりそうだと笑います。
あ、なるほど。ショートの概念を変えていく。
前回までで、野枝は祖父と父を説得して上京し、平塚らいてうが作った青鞜社で働き始めていました。今回はその青鞜社と、らいてうという人物に焦点を当てます。
楊さんによれば、雑誌「青鞜」は野枝の人生の一部と言えるほどの存在です。野枝の価値観と世間との対立を捉えるには、青鞜と平塚らいてうの理解が欠かせないと説明します。
楊さんは松下村塾 ── 幕末に吉田松陰が教えた私塾。高杉晋作や久坂玄瑞など、明治維新で活躍する多くの人材を輩出しましたにたとえます。松陰だけでなく、松陰と交わった弟子たちの苦悩や尖りも知ってこそ塾の意義がわかるように、青鞜に集った女性たちの人生の交差を見ることで、野枝の環境が立体的に見えてくるという考えです。
実家が太い上澄みのエリート、平塚らいてう
平塚らいてうの本名は平塚明(はる)で、1886年(明治19年)に東京の千代田区で生まれました。野枝より9歳年上です。
楊さんが挙げる、らいてうと野枝の一番大きな違いは、らいてうの実家が太いことです。父親は会計検査院で働く官僚で、帝国憲法の草案にも携わった有能なエリートだったと紹介されます。
らいてうが学んだのは、現在のお茶の水女子大学につながる女学校で、当時の女子教育の最高峰でした。優秀さと家柄の両方がないと入れず、女子教育の指導者や教員を育てることを目的とした学校です。
もうエリート。
楊さんは、らいてうを「上澄み中の上澄み」と表現します。スタート地点が野枝とまるで違うことが、後に二人の対比の中で意味を持っていくといいます。
らいてうがレールから外れていく最初のきっかけは、父への抵抗でした。女学校時代、富士山に登りたいと父に伝えたところ、「そんなところは女や子供の行くところじゃない」と拒絶されます。
父の表情には嘲りと憐れみが含まれていたとされ、らいてうは深く傷つきました。楊さんは、父のこの態度は個人の問題というより当時の規範だったのだろうと話し、ここから父への無意識の抵抗が始まったと説明します。
らいてうの性格は、やや内向的で成績は抜群、学問を身につけたいという強い希望を持ち、物事の奥まで見通そうとする鋭い観察眼があったと記録されています。
悟りを認められた仏教徒は、なぜ心中未遂で炎上したのか
17歳で日本女子大学に進んだらいてうは、大学の講義に物足りなさを感じます。そこで「人は何で生きるのか」という問いに突っ込み、思想・哲学・文学・キリスト教などを独学で学んでいきます。
もう永遠のテーマよ。
らいてうが最終的にたどり着いたのは仏教で、寺で座禅に打ち込みます。大学卒業の年には、師匠から見性 ── 禅の言葉で、自分の本来の性質を見抜くこと。悟りの境地に達したと師から認められることを指しますを許され、悟ったと認められました。
すげえガチやん。
卒業後のらいてうは禅の修行を続けながら漢文や英語を学び、洋書も読むようになります。そこで決定的な事件が起きます。好きになった男性と心中しようとして未遂に終わったのです。
らいてうと男性は雪山の中を手を携えて歩いていたところを警察に保護されました。マスコミはこのスキャンダルを面白おかしく書き立て、らいてうは一夜にして有名人になります。
炎上しちゃうんや。
心中未遂の結果、らいてうの名前は日本女子大学の卒業生名簿から削られ、父も激怒しました。その後のらいてうは人目を避けて寺などで暮らし、読書と座禅で自分の内側へ向かい続けます。楊さんは、矢印が自分の内側に向いた人だったと表現します。
ここまでのらいてうの歩みを、時系列で整理すると次のようになります。
女性による日本初の文芸誌「青鞜」の誕生
らいてうが青鞜社を創業したきっかけは、文学の師匠から「女性だけで文芸雑誌を作らないか」と勧められたことでした。雑誌には短歌や詩、小説などを自ら書き、募集で集まった原稿も載せていきます。
女性のスタートアップ企業ってことですよね。
楊さんはこれに「走りなんですよ」と応じ、超センセーショナルな出来事としてマスコミにも取り上げられたと話します。
「青鞜」という名前は「ブルーストッキング」の訳語です。18世紀のロンドンで、芸術や科学を議論するサロンに集まった新しい女性たちが青い靴下を履いていたことから、彼女たちをあざ笑う言葉として定着しました。らいてうはこれを知り、あえて自分たちの雑誌の名に使ったといいます。
なんかちょっとそういうね、バカにしたような言葉をあえて自分の看板にすることによって価値を出していくみたいな。
らいてうは学友を勧誘して5人の発起人を集め、男性作家の中で孤立していた女性作家にも原稿を依頼しました。支援者の中には与謝野晶子 ── 明治から昭和にかけて活躍した歌人。歌集『みだれ髪』で知られ、女性の自立や教育についても盛んに発言しましたもいました。
創刊号が出たのは1911年(明治44年)です。女性への既存の価値規範が残る社会で生まれた、日本で最初の女性による文学誌でした。
雑誌の編集はメンバーの自宅で行われ、企画・広告営業・作品募集・印刷・販売・事務作業まで、すべて自分たちで担っていました。印刷部数は多いときでも月3000部ほどで、楊さんは今でいえばサークルの同人誌規模だと説明します。
創刊号にらいてうが寄せた文章は、教科書にも載る有名なものです。「原始、女性は実に太陽であった」と始まり、今の女性は他によって生き、他の光によって輝く、病人のような青白い顔の月であると続きます。
「原始、女性は太陽であった」に込められた理念とは
らいてうの理念は、女性の真の自由解放によって、太陽としての偽りのない本物の姿を取り戻すことでした。そのためには、心の奥底に潜む「天才」、つまり天から与えられた才能を完全に発揮する必要があると考えていました。
楊さんによれば、ここから先は仏教的なロジックになります。無我の境地に至ることで、隠された天才が発揮できるという考え方です。
へー、さすが悟ってますからね。
らいてうが言う「他の光によって輝く月」とは、社会規範や昔ながらの結婚制度にがんじがらめにされた女性の姿を指していると楊さんは解説します。そこからの解放の土台が、自分の奥底の天才を解き放ち、自己を拡張させるという発想でした。
何かしら社会の抑圧だったりとか、フレームによって発揮されてないみたいな。
女性が公の場で語れない時代に、なぜ「青鞜」は許されたのか
楊さんが一番伝えたいと話すのは、雑誌「青鞜」の意義です。当時の女性の人生は、娘・妻・母という男性との関係性で規定されていました。女子教育の制度は整い始めていたものの、良妻賢母 ── 良き妻、賢い母となることを女性の理想とする考え方。明治期以降の日本の女子教育の基本方針とされましたを育てる考え方がまだ支配的でした。
女性の読書率は男性より低く、女性だけの集会や政治結社も禁止されていました。楊さんは、女性はパブリックな空間で発言が基本的に許されなかったと説明し、世論を形成する主体にもなれなかったと話します。
そういうことか。
そうした時代に創刊された「青鞜」は、女性が自分たちの声を発する最初のメディアでした。それでも許されたのは、青鞜が文芸誌だったからだといいます。文学なら教養を大事にする女性の活動としてよいのではないか、という見方が最初はされていました。
アート活動だったり、表現の場だったりするから、そこはある種守られていたというか、表現の自由みたいなものを。
楊さんは、女性が自分たちの媒体で文芸活動を発信することが、ちょうど世間のギリギリの妥協点だったのだろうと話します。
子連れ出勤の野枝と、上澄みのお姉様たち
青鞜社は、伊藤野枝にとって息のつける場所でした。仕事ができて給料ももらえ、野枝を買っていたらいてうは少し多めに支払っていたといいます。家では姑の当たりがきつく、夫の辻 ── 伊藤野枝の最初の夫、辻潤。英語教師を辞めた後、翻訳家・思想家として活動しましたは働いていませんでした。
青鞜に集まった女性の多くは、後に文壇や女性解放運動の指導者になっていきます。父が官僚や文学者で、夏目漱石を師匠に持つような高学歴のお嬢様ばかりでした。
すごいっすよね。なんか一人だけ全然毛色が違う。
一方の野枝は、九州の貧しい土地の出身で、父親は働いていませんでした。育った場所には男尊女卑や世間体、障害者や部落への差別など古い価値規範が濃く残っていたといいます。高等女学校までは通ったものの高等教育は受けておらず、独学で本を読み文章を書いてきた人でした。
野枝から見た青鞜のメンバーは、先進的な考えを持つ意識の高いエリートのお姉様方でした。野枝はとてもかわいがられますが、この背景の違いは後にメンバーとの間の違いを生む要因にもなると楊さんは予告します。
野枝はエネルギッシュではつらつとした明るい人で、いるだけで空間が明るくなったと伝えられています。文章を書いて発表するうちに、自分の思いを的確に表現できるようになっていきました。
野枝は赤ちゃんを連れて青鞜社に出社していました。家に子どもを置いておけないため、職場でみんなに面倒を見てもらっていたのです。
うわぁすごい。
ただ、野枝の赤ちゃんの世話はかなり適当だったようです。畳の上の粗相をサッと拭くだけで済ませたり、汚物を庭先に捨てて帰ったりして、他のメンバーが文句を言いながら後始末をしていたといいます。
よく言っても荒いは別によく言ってないです。
五色の酒と吉原登楼。「新しい女」はなぜ叩かれたのか
青鞜は創刊当初、特に女性から大きな共感を集め、熱烈な手紙や購読申し込みが相次ぎました。自分の書いたものが雑誌に載る体験は、知識人の女性たちにとって高揚感のあるものだったと考えられます。
しかし、女性が自分たちの雑誌で言葉を発信すること自体が、初期設定から世間とずれていました。楊さんは、世間とのずれが一定の閾値を超えると容赦ない批判が飛んでくる構造の中に、青鞜があったと説明します。
青鞜への主な批判を、楊さんの紹介に沿って整理すると次のとおりです。
| 出来事 | 実際にあったこと | 叩かれ方 |
|---|---|---|
| 不倫を描いた短編小説 | メンバーが不倫をテーマに小説を書いた | 発禁処分 |
| 五色の酒 | 日本橋のバーで層になった酒を見て、その美しさを雑誌に書いた | 派手な酒を飲みに行っている |
| 吉原への訪問 | 花魁に女性の問題を聞こうと吉原に行った | 遊びに行っている、目立とうとしている |
| 同性愛 | 一部のメンバー同士に同性愛的な関係があった | 乱れている、色欲の餓鬼 |
五色の酒の件で、メンバーは酒を飲んでもいませんでした。楊さんが読んだ論文の分析では、バーは男性が議論し世論を形成する社交の場であり、特に裕福な男性に独占されていました。そこへ女性が入ること自体が許されなかったのだろうと話します。
吉原登楼事件 ── 1912年、青鞜社のメンバーが吉原の遊郭を訪れ、花魁と話したことが新聞で大きく報じられた出来事と呼ばれる件も、同じ構造で叩かれました。男性が欲望を満たすための空間に女性が入ったとして激しく非難され、らいてうの家に石が投げ込まれることもあったといいます。
同性愛をめぐる批判について、楊さんは当時の性科学に同性愛を伝染病のように見る言説があったと説明します。マスコミは、らいてうたちに「新しい女」というあだ名を付けました。
皮肉や。
私生活をすべて晒した覚悟と、文芸誌からの方向転換
世間がメンバーの私生活を知っていたのは、メンバー自身が恋愛や感情を小説やエッセイにし、手紙まで雑誌で公開していたからでした。
そうかそうか。スキャンダルじゃないんや。だからこうパシャッとやられたわけじゃないんやね。
まあ覚悟やな。でもなんかそれ覚悟感じるけど。
楊さんは、この公開は自分たちの生き方が正しいと確信していたところから出てきた行動だと言われていると話します。「これがありのままの私」と全部晒す姿勢が、世間とかみ合わなかったのでしょう。
らいてうは「新しい女」という流行語を逆手にとり、「私たちは新しい女である」という文章を発表しました。酒を飲む、吉原へ行くといったことは男性なら誰でもしているのに、なぜ女性だと批判されるのかと問い、男性が作った古い道徳を壊そうとしたのです。
バッシングを受けたことで、青鞜は方向を変えていきます。女性ゆえの批判に応えるには、女性が社会で抱える問題を発信せざるを得なかったからです。らいてうたちは、ここで初めて女性の社会問題を学び始めました。
小説や短歌を扱い、自分たちの才能を発揮する文芸誌
女性に関する社会問題を論じ、女性の論客同士が議論を戦わせる場
つまり、青鞜は最初から女性解放を目的とした雑誌ではなかったということです。名だたる女性の論客も寄稿し、誌上で議論がしのぎを削る場になっていきました。
じゃあ機能が変わっていくんじゃない。表現の場っていうところから、本当に活動の母体みたいな感じに徐々にシフトしていっていくって感じか。
楊さんは、青鞜がバッシングや発禁処分に耐えながら出され続けたメディアだったことを強調します。主張するほど批判は勢いを増し、マスメディアや教育界など、さまざまな方向から矢が飛んできました。
「別の世界も可能だ」という感覚は、どこから来たのか
楊さんによれば、青鞜に関わった女性たちは、文章や生き方で社会に抵抗する経験を通じて、人間の可能性に対する感覚を変えたと言われています。今のOSが走る世界の中で発信することで、別の世界も可能なのではないかという感覚を得たのです。
この抵抗の経験が、青鞜の廃刊後も、関わった女性たちが社会や私生活の中で主体として考え行動することを可能にした、という説があると紹介されます。楊さんは、当時の日本の女性全体から見て彼女たちはファーストペンギンだったと表現します。
なんかね、いろんな世界があっていいって感じなのか、我々がこの世界を変えていくんだみたいな感じなのか。
楊さんの答えは、両方をそれぞれ持っていたのだろうというものです。何もしなければ今まで通りの世界で生きるしかないけれど、発信して支持者を集めたことで、別の世界を作り出せる、あるいは気づかなかっただけで存在するという可能性に気づいたと説明します。
こうした動きを取れた背景には、メンバーが高学歴で、洋書を原文で読み翻訳できたことがありました。西洋の価値観を主体的に取り込み、解釈し、自分たちの手で発信できる女性が近代日本に誕生したことが、「新しい女」を生んだ構造だと楊さんは話します。
要は欧米の方がちょっと先にそういう運動とか思想があったっていうことですよね。
野枝のロールモデル、エマ・ゴールドマンとアナーキズム
青鞜の女性たちは、海外の文学や思想を翻訳・発表しながら自分の思想を形成し、ロールモデルをつかみに行きました。野枝の場合、そのロールモデルとなったのが、同時代のアメリカで活躍した思想家エマ・ゴールドマンです。
エマ・ゴールドマンの中では、フェミニズムとアナーキズムという2つの思想が融合していました。この融合はアナキストフェミニズム ── 国家や家父長制など、あらゆる支配の構造を女性抑圧の根源とみなし、その廃絶を目指すフェミニズムの一潮流と呼ばれ、ゴールドマンはその祖とされています。今回は野枝の思想の特徴をより説明できるアナーキズムに絞って解説されます。
アナーキー。もう僕はもうセックス・ピストルズとかあの辺のパンクスのバンド名がいっぱい出てくるんですけど。
アナーキズムの語源は、支配がないことを意味するギリシャ語です。一般に無政府主義と訳されますが、無支配主義と訳すのが正しいとする学者もいると楊さんは紹介します。
楊さんによれば、アナーキズムはヨーロッパで資本主義や国民国家が広がる中で生まれました。工場労働の過酷さや貧困、格差、国家への権力集中といった矛盾へのアンチテーゼとして、社会主義と同じように登場したと説明されます。
社会構造の急変
資本主義や国民国家が広がる
矛盾の発生
過酷な労働、貧困、格差、国家への権力集中
反発の思想
国家は自由を制限する存在ではないかという問い
アナーキズム
あらゆるヒエラルキー支配に反対する思想として登場
楊さんが示すアナーキズムの特徴は、既存のシステムや制度、しきたりを初期化する発想です。資本主義の矛盾を資本主義の枠内で解決するのではなく、枠組み自体をリセットしようとするアプローチだと説明します。
楊さんはこれを、パソコンのエラーにデフラグ ── パソコンのディスク上で断片化したデータを整理し、動作を改善する処理をかけるのではなく、OSを入れ直すことにたとえました。
むちゃくちゃわかった。
もう1つの特徴は、少しずつ改良して理想に近づくのではなく、今ここで理想を実現しようとする点です。ただし楊さんは、これはあくまで説明の1つで、アナーキズムには多様な潮流があると念を押します。
社会からは、アナーキズムは混乱や無秩序を連想させる危険思想と見られてきました。天皇を中心とする国家体制を築こうとしていた当時の日本では、国家への反逆思想とされ、弾圧の対象でした。実際にストライキやテロなどの手段をとる者もおり、処刑された事件も起きています。
なぜエマ・ゴールドマンの思想は野枝に刺さったのか
エマ・ゴールドマンから見ると、主流派のフェミニストたちは「やり方が足りない」存在でした。家庭と家族を守ることを強調し、女性参政権の獲得を目指す活動も、国家という既存のシステムの中で頑張っているだけだと考えたのです。
今ある社会の枠組みを改善し、参政権など既存のシステム内で権利を獲得する
家父長制や結婚制度などを廃止し、女性の役割や自立をゼロベースで再構築する
ゴールドマンが求めたのは、家父長制、核家族、性別役割分担、結婚制度の改革ではなく廃止でした。一度更地にして、社会における女性の役割をゼロから組み立て直すという思想です。
もうじゃあ初期化や、初期化。
楊さんは、この人の思想と人生が、野枝の生きづらさや課題意識にド直球で刺さったと話します。
まあ、もともと反骨精神強めの幼少時代を過ごしたりしてますからね。
平塚らいてうもエマ・ゴールドマンもシリーズのテーマではありません。それでも、野枝の世界観や苦しみを見えるようにするには多くの前提が必要だとして、次回もゴールドマンの話を続けると予告されました。
まとめ
今回のエピソードでは、エリートで悟った仏教徒だった平塚らいてうが女性だけの文芸誌「青鞜」を創刊し、その場がバッシングを経て女性の社会問題を論じる場へ変わっていく過程が語られました。そこに飛び込んだ伊藤野枝は、洋書を通じてエマ・ゴールドマンのアナキストフェミニズムに出会い、自分の思想の核を得ていきます。
- 平塚らいてうは官僚の娘で女子教育の最高峰に学んだ上澄みのエリートで、野枝とはスタート地点が大きく違った
- 「青鞜」は1911年創刊の女性による日本初の文芸誌で、文芸だからこそ当初は世間に許容された
- バーや吉原、同性愛をめぐる激しいバッシングを受け、青鞜は文芸誌から女性の社会問題を論じる場へ方向転換した
- 抵抗の経験は、女性たちに「別の世界も可能だ」という感覚を与えたとされる
- 野枝がロールモデルにしたエマ・ゴールドマンは、既存の制度の改革ではなく廃止と再構築を求めた





