フランスとユダヤ、二つの「外」を背負って生まれた男
前回のエピソードはこちら
マルクスは、今でいうプロイセンのトリーアという町で、1818年に生まれました。エンゲルスとの2人編なので、今回は誕生から丁寧に人生を追っていきます。
トリーアは特殊な土地でした。1795年から1814年までの約20年間フランス領で、マルクスが生まれる4年前までフランスの影響下にありました。その後、ウィーン会議 ── ナポレオン失脚後の1814〜15年に開かれた国際会議。ヨーロッパの国境や統治体制を再編し、その後の秩序(ウィーン体制)を定めましたによってプロイセン王国に編入されます。
フランスとの国境にあるため、もともと考え方がフランス寄りの土地でした。マルクスは、フランス思想の影響を受けやすい場所で生まれ育ったことになります。
そしてもう一つ重要なのが、マルクスがユダヤ人だったという点です。理性国家プロイセンで、何人でもプロイセン人だという前提のもとに生まれた、フランス思想の影響も受けたユダヤ人。楊さんは、この組み合わせが実はとても大きいと話します。
比較的、その差別色の低い土地で生まれているとはいえ、彼は(ユダヤ人という)マイノリティの差別される側として生まれ育った。それも、彼の思想への影響は結構大きいんじゃないかなと思います。
弁護士の父、国籍を三度変えた家系
父はヒルシェル・マルクス(ハインリヒ・マルクスとも書かれます)という人で、ユダヤ人の中産階級でトリーアで弁護士を開業していました。しかも弁護士協会の会長を務める、地位のある人物でした。
さらにマルクス家は、由緒あるラビの子孫でもありました。ラビとはラビ ── ユダヤ教における宗教的指導者・教師。ユダヤ教の律法や教えについての権威を持ち、共同体を導く役割を担いますのことです。
父の世代は、国のアイデンティティが定まらない時代を生きました。もとはトリーア公国の臣民で、フランスに占領されてフランス人になり、ウィーン体制の後にプロイセン人になっています。楊さんは、三つの「何人」を経験した父の感覚を、こう表現します。
国民国家になる前の、何人みたいなアイデンティティがない世代の人で、いろんな国を経験した結果、あまりその国の枠にとらわれないような感覚の人なんじゃないかな。
教養ある両親が育てた、平等と自己表現の価値観
樋口さんは、マルクスの両親が属していた階級を「教養のある中産階級」と補足します。彼らは平等思想を重んじ、自由と理性をとても大事にする新しい時代の価値観を持っていました。
両親は、個人の独自性を重視し、哲学や文学、演劇、音楽、芸術といった多方面の個性を育てることを理想としていました。詩や日記を書いたり絵を描いたりして自己表現することは、良いこととされていたといいます。
マルクスもその影響で、詩やシェイクスピアを好きになりました。教養人の家庭という環境が、マルクスの価値観形成の土台になったという記録が残っています。
ただし、そこにはユダヤ人という出自がつきまといました。先進的な思想を持ちながら、生まれはユダヤ人。樋口さんは、このどっちつかずな感覚が、今後のマルクスのエネルギーの源になったかもしれないという指摘があると話します。
ユダヤ人だからドイツ人じゃない、みたいな批判をされる。ドイツが国民国家を形成していく過程で、すごく除外されている。だから物事を外から見る、批判的精神を持ちやすかったんじゃないかな。
母はヘンリエッテ・マルクスといい、オランダから移住してきたユダヤ人でした。ドイツ語が話せなかったとも伝わっており、楊さんは「結構国際色豊かだよね」と話しています。
なぜカトリックの土地でプロテスタントに改宗したのか
マルクスが6歳の頃、家族に大きな出来事が起こります。ユダヤ教だった一家が、全員でキリスト教に改宗したのです。
不思議なのは改宗先です。トリーアはカトリックの地域なのに、一家はプロテスタントに改宗しました。楊さんは、その理由は正直わからないとしつつ、本での推測を紹介します。
その推測とは、先進的な考え方がプロテスタントと相性が良いため、自らの先進性を示すためにプロテスタントを選んだのではないか、というものです。ただし、これは差別のリスクを伴う選択でもありました。
プロテスタントに改宗して、ユダヤ人ですみたいになったら、余計差別されるわけですよ。普通に考えたら。だから、すごい風当たり強いはずなんだけど、なんかやったみたいですね、それを。お父さんが。
ユダヤ教もやめたことで、ユダヤ人の共同体とも縁が切れた状態になりました。樋口さんは、これによってマルクスがどっちつかずの立場に置かれたと語ります。
どっちつかずの立場に置かれてて、彼のアイデンティティが。もう疎外感とか違和感が、もしかして彼の中では形成されていた可能性はある。
楊さんは、マルクスが生涯エンゲルス以外とあまり仲が良くなく、誰とでも喧嘩したことに触れ、この帰属感のなさが関係しているかもしれないと話します。帰属している感覚がないからこそ、新しいことをどんどんやっていきたいという性質につながったのではないか、というわけです。
ギムナジウムの成績と、17歳の理想主義的な作文
12歳のとき、マルクスはトリーアのギムナジウムに入学します。ギムナジウムは、今の日本でいう中学校と高校が一緒になったような学校で、将来大学へ進んで研究者になる人がたどるコースでした。勉強が厳しく、落第する人もたくさんいたといいます。
入学の背景には父の意向がありました。父は弁護士で、啓蒙主義 ── 17〜18世紀のヨーロッパで広まった思想運動。理性を重んじ、伝統や権威よりも合理的な思考によって社会を良くしようとしました的な思想を学び、ルソー ── 18世紀フランスの思想家。人民主権や社会契約の考えを説き、フランス革命や近代の民主主義思想に大きな影響を与えましたも好んで読んでいました。父は、啓蒙主義的な思想を持った弁護士として、息子に自分の後を継がせたかったのです。
ギムナジウム時代の成績評価も、一部残っています。抜群ではないものの、優秀な方だったようです。態度の総評は「良好」でした。
才能と熱意についての評価は、古代語、ドイツ語、歴史で「非常に満足すべき結果」、数学で「満足すべき結果」でした。一方、フランス語については「適度の熱意を示した」という、控えめな表現にとどまっています。
卒業前の17歳頃には、「職業選択に関する一青年の考察」という作文を書いています。ここでマルクスは、職業選択の際に大事なポイントとして「人類の福祉」と「我々自身の完成」という概念を語りました。
楊さんは、この作文から若きマルクスの理想主義的な一面が読み取れると話します。父も校長も啓蒙主義的で、その影響が色濃く出ています。ただし、マルクスはやがて啓蒙主義そのものも批判し、これを超えていこうとするようになります。
法学のはずが詩人志望へ。荒れたボン大学時代
ギムナジウムを卒業したマルクスは、18歳の1835年にボン大学に入学します。父の意向で法学を勉強するつもりでした。父が弁護士だったこと、そして樋口さんが補足するように「法律家は食いっぱぐれがない」ことも影響していたようです。
ところがボン大学で彼が主に勉強したのは、歴史と哲学でした。最初はそれなりに熱心に法学を学んだものの、一番熱中したのは詩を作ること、つまり詩作でした。
マルクスは幼い頃から文学が好きで、父の友人ルートヴィヒ・フォン・ベストファーレンから文学の手ほどきを受けていました。ホメロスやシェイクスピアを暗唱するほど好きで、ギムナジウムでもポエムサークルに所属していたといいます。
大学入学当初には、プロの詩人や小説家になることも考え始めていました。法学を学びながら弁護士になろうとは思いつつ、本当になりたかったのは詩人や小説家だったのです。
一方で、大学生活はかなりやんちゃでした。トリーアから来た同郷の学生30人ほどからなる「トリーア同郷会」で幹事を務め、酒を飲んでは喧嘩をし、バカ騒ぎを繰り返します。大学から1日の禁錮処分を受けたり、借金して身動きが取れなくなるほど酒を飲んだりしていました。
一回決闘事件とかも起こしてて。(相手は)保守派の貴族の人たちが大学に通ってて、その人たちと決闘騒ぎを起こして、実際に負傷とかしてる。
この決闘は議論での戦いではなく、実際に武器で身体をぶつけ合う、負傷を伴う本物の決闘でした。当時の大学は国家が臣民を育てるために作ったものでしたが、実際には左派の温床になっており、保守的な貴族の子弟と衝突する場面もあったのです。
息子を心配する父と、その期待を裏切っていく道
荒れた生活のため、父ヒルシェルとの関係は悪化していきます。法律家になることを期待する父は、暴行事件を起こし、借金して大酒を飲む息子に「一体何をしているのか」という手紙を送りました。
父は詩作そのものは認めつつも、釘を刺します。楊さんは、その内容をこう紹介します。
詩作はまあいいよと。いいんだけど、ヘボい詩人になって家族の者を楽しませるだけで終わるなよって言ってるんですよね。
父は繰り返し「経済的に自立しろ」と諭しましたが、マルクスは素っ気ない返事で応じ、父はさらに苛立ちました。そして皮肉なことに、マルクスは生涯を通じて経済的に自立しなかったのです。
楊さんは、父の視点に立つと、この結末は想像を絶するものだと話します。父はただ、時代に通用する普通の弁護士になって普通に生きてほしかっただけでした。
全然彼の思い通りにならずに、経済的には自立しなかったけれども、死ぬほど世界を変えてるからね。全然想像しないと思うよ、お父さん。「は?」ってなるよね。中国とロシアで生きてる、みたいな。
啓蒙思想を持った弁護士になり、経済的に自立して普通に生きる
経済的には自立しなかったが、世界を根底から変える思想家になった
ベルリン転学と、身分違いの初恋イェニー
マルクスは1年間だけボン大学で過ごした後、父の意思でベルリン大学の法学部に転学させられます。酒を飲んで遊んでいたため、ちゃんとするようにという理由でした。
当時のベルリンは、ウィーンに次ぐ大都市でした。父は、ベルリンのほうが厳しく、遊びにくいだろうと考えたようです。そしてベルリンは、後にマルクスがのめり込むヘーゲル哲学の中心地でもありました。
父を愛していたマルクスは、その期待に応えようとします。ベルリンでは遊ばず、勉強に打ち込もうとしました。
同じ時期、文学好きでロマンチックなマルクスは、故郷トリーアのイェニーという女性に恋をします。イェニーは姉の同級生で年上、しかも父の友人ルートヴィヒ・フォン・ベストファーレンの娘でした。
問題は身分差でした。イェニーは貴族の娘で、教養ある中産階級のマルクスとは、正直に言えば釣り合わない相手でした。それでもマルクスは本気で恋をし、ロマンチックなラブレターを送ります。トリーアでも評判の美人で引く手あまただったイェニーは、そんなマルクスを選びました。
ベルリン大学へ向かう途中に帰郷した際、2人は密かに婚約します。イェニーは4歳年上でした。ただし身分が違うため、イェニーの父にはまだ秘密で、マルクスの父ヒルシェルには打ち明けていたものの、公言は控えていました。
その1年後、ベストファーレン家からも正式に婚約が認められます。とはいえ、婚約したばかりの2人は、トリーアとベルリンという遠く離れた場所で暮らすことになりました。
文学の才能への諦めと、指針を失う日々
遠距離となったマルクスは、恋の情熱を思索につぎ込んでいきます。同時に法学もちゃんと勉強し始め、今度は友達をほぼ作らずにひたすら勉強しました。楊さんは、彼を「過集中」型だと評します。
過集中だよね、この人。振り切ったらずっとそこに突っかかっていってしまうって感じ。
美人のイェニーには求婚者も多く、大学にいない間になびいてしまうかもしれません。しかも秘密の婚約のため、正式に認められるまでの1年間は直接の文通もできず、姉を経由してやり取りしていたといいます。
この頃、マルクスは文学の才能への自信を失っていきます。彼自身の言葉とされる、文学的な表現がそれを物語ります。
真実のポエジーの国が、遥か彼方の妖精たちの館のように煌めいて、私の創作物はことごとく(色あせて)しまったのです。
これは、頑張って書いたものの、自分には文学の才能がないと感じ始めた気持ちを、あえて文学的に表現したものです。一方で、法学の勉強にもあまり興味が持てませんでした。
マルクスは、法学を学んでいても、もっと根本的なことが気になってしまいます。そうして次第に指針を失い、何を勉強すればいいのかわからなくなっていきました。そんなときに出会ったのが、ヘーゲルの哲学でした。
病気になるほどのめり込んだヘーゲル哲学
マルクスは、ヘーゲル哲学にバチバチにのめり込みます。病気になるほど勉強するという、まさに過集中ぶりでした。
法律の勉強をすればするほど、その前に哲学を学ばなければならないと思い始めたのです。楊さんは、この現象がマルクスの生涯を通じて繰り返されたと話します。
資本主義の勉強をしてたら経済学をしないといけないな、共産主義の勉強をしないといけないなって言って、これを勉強するには元々のこれを勉強しなきゃ、みたいな感じで、ずっとそういう感じ。
この性質のため、マルクスは常に最近読んだものについて書きたがり、書くうちにまた別の分野が気になり、そちらを掘り始めます。結果として仕事がやりかけで終わることが多く、メモだけは大量に溜まるものの、まとめるのがなかなかできない人物でした。
ベルリン大学の講義にはほとんど出ず、ヘーゲル哲学ばかり勉強していたマルクスは、実際に体を壊します。離れて暮らすイェニーが病気になったという知らせも届き、心配も重なりました。
心身ともに疲れ切ったマルクスは、療養のためシュトラーラウという場所へ行きます。そこでヘーゲル哲学を勉強するサークルの人たちと出会い、そこから人生がまた展開していくことになります。楊さんは、その続きは次回だとしつつ、ここでヘーゲル哲学とは何かを軽く紹介します。
二元論を超える弁証法。ヘーゲル哲学とは何か
樋口さんは、ヘーゲル哲学を一言で説明するのは難しいと前置きします。激動の時代だったプロイセンで、ヘーゲル ── 19世紀初頭に活躍したドイツの哲学者。弁証法や歴史哲学で知られ、後の哲学やマルクスに大きな影響を与えましたは、この変化の時代に哲学的な答えを見つけようとした人物でした。
近代哲学はデカルトから出発し、デカルト ── 17世紀フランスの哲学者。「我思う、ゆえに我あり」で知られ、近代哲学の祖とされますからカント ── 18世紀ドイツの哲学者。認識のあり方を問い直し、近代哲学に大きな転換をもたらしましたに至る流れがありました。それは簡単に言うと、二元論的な説明を続けるものだったといいます。
主観と客観、普遍と特殊、有限と無限、自由と必然。近代哲学は、こうした二つの両極から現象を説明しようとしていました。しかしヘーゲルは、この二元論では、いつまでたっても世界を説明できないと考えました。
そこでヘーゲルは、二つの二元論的なものを一つにまとめて考える必要があると考え、方法論として弁証法を思いつきます。
(弁証法は)一つの命題、AはBであるみたいなものがあった時に、それとは全く違うAはBではないという命題を持ってきて、それをどうにかして一つの論理で説明しようとするやり方。
一見できなさそうな、相反する二つのものを一つにまとめていく。ヘーゲルはこれによって、歴史というものを考えようとしました。全く違う二つのものが一つに説明され、一段上の段階に進む。そうやって歴史は進んでいくのではないか、と考えたのです。
最終的にヘーゲルは、世界精神と呼ぶ究極の理性があり、人間はそこに到達できるのではないかと考えました。
テーゼ
AはBであるという一つの命題
アンチテーゼ
AはBではないという、正反対の命題
統合(アウフヘーベン)
二つを一つの論理でまとめ、一段上の段階へ進む
「世界精神が馬上にある」。ナポレオンとアウフヘーベン
ヘーゲルが大学で教えていた時期、プロイセンはナポレオンに侵攻されます。ヘーゲルは、街に入ってくるナポレオンを見て、そこに理性が結実していると感じました。
ヘーゲルは、究極まで突き詰められた歴史の姿がナポレオンに結実しているととらえ、「世界精神が馬上に乗っている」という言葉を残しました。馬の上に乗ったナポレオンに、理性の結集を見たのです。
楊さんは、この感覚をフランス革命に重ねて説明します。フランス革命は皇帝を作ろうとしたわけではないのに、二つのテーゼがぶつかった結果、どちらでもないナポレオンという結論が出てきました。それによって世界が進んでいる、という感覚だといいます。
樋口さんは、ヘーゲルの狙いをドイツの状況から補足します。当時のドイツは、小さな国家がいがみ合う混乱状態にありました。ヘーゲルは、フランスやナポレオンに代表される進んだものに感銘を受けていたのです。
ドイツが進化した先に国家というものができるんだと。もっと一個高いレベルの国家によって、我々のドイツがこの混乱状況を乗り越えられるんだっていうことを、彼はメッセージとして出した。
この二つの異なるテーゼを一つに集約させていく考え方が、有名なアウフヘーベンです。少し前によく耳にした言葉が、まさにこのヘーゲルの弁証法を指しています。
楊さんは、今回の説明はざっくりしたもので、稚拙に思える部分もあるかもしれないと断りつつ、実際に読むと衝撃的だったと話します。今回のシーズンでは室伏さんがヘーゲルを読み込んでおり、それでもこの短時間で説明するのは無理があるとしています。
啓蒙主義からヘーゲルへ。エリートたちが世界を描き直す時代
楊さんは、ここまでの流れを大きくまとめます。啓蒙主義が生まれ、ルソー ── 18世紀フランスの思想家。人民主権や社会契約論で知られるやロック ── 17世紀イギリスの哲学者。人間の自然権や社会契約の考えを説き、近代の政治思想に大きな影響を与えましたらが新しい世界秩序の思想的な根幹を定義していきました。
その後にカントが出て、さらにヘーゲルが出てくる。この一連の流れの中で、西洋社会の人々は、新しい世界にどう向き合うかを苦悶し、葛藤し続けていました。その葛藤を、カントやヘーゲルといった天才が支えていたのです。
つまり当時は、エリートたちがカントやヘーゲルの論に依拠しながら議論を展開していく時代でした。彼らのヘーゲル的な世界の捉え方を元にして、次の世界を描こうとしていたのです。
そして、マルクスも大学時代にこのヘーゲル哲学にのめり込んでいきました。楊さんは、この後マルクスがなぜ多くの人と対立するのかを理解するために、次回もヘーゲルについてもう少し詳しく語る必要があると話します。大学卒業後のマルクスがどうなっていくのかは、次回に続きます。
このシリーズの次のエピソードはこちら
まとめ
トリーアに生まれたマルクスは、ユダヤ人という出自と、国籍を三度変えた家系、そして先進的な教養家庭という背景を背負っていました。文学青年として荒れた大学時代を経て、指針を失った末にヘーゲル哲学と出会い、病気になるほどのめり込んでいきます。
- マルクスは、フランス思想の影響を受けやすい土地で、差別される側のユダヤ人として生まれ育った
- 一家はカトリックの地域で、あえてプロテスタントに改宗し、ユダヤ人共同体とも縁を切った。この帰属感のなさが批判的精神につながった可能性がある
- 父は弁護士への道を望んだが、マルクスは詩人志望のやんちゃな学生として、決闘や借金を繰り返した
- 遠距離の婚約者イェニーへの思いと、文学の才能への諦めを経て、マルクスは根本的な問いを求めてヘーゲル哲学に出会う
- ヘーゲルは二元論を超える弁証法(アウフヘーベン)を唱え、当時のエリートたちはその世界観を土台に次の世界を描こうとしていた





