ナポレオンが引っかき回した欧州に、なぜマルクスは生まれたのか
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この回は、まずマルクスが生きた時代の欧州を押さえるところから始まります。楊さんは、時代背景がわからないとマルクスの行動も理解できないと切り出します。
一言で言えば、ナポレオンの侵攻が欧州全体に大きな影響を与えている時代でした。マルクスが生まれたのは1818年です。
フランス革命が起きたのは1789年でした。そこから数十年後、いまだにナポレオンの影響が強く残る欧州にマルクスは生まれています。
フランスで起きた革命思想を体現する形で、ナポレオンが欧州へ侵攻していきます。突然現れた最新鋭の国家フランスに、欧州全体が脅かされ、リアクションする時代だったと楊さんは整理します。
ナポレオンの軍が強かった理由は、戦い方の変化にあります。それまでの欧州の戦争は、貴族のために貴族同士が傭兵 ── 報酬を受け取って戦争に参加する兵士。国家や民族への忠誠ではなく、契約と報酬で雇われる。近代以前のヨーロッパでは戦争の主力だったを雇って戦うものでした。
ところがナポレオン以降は、みんなが国家のために戦うようになります。士気が高く、だからフランス軍はとても強かったのだと楊さんは説明します。
貴族のために貴族同士が傭兵を雇って戦う。国のために戦うわけではない
みんなが国家のために戦う。士気が高く、フランス軍はとても強かった
そんなフランス軍に脅かされ、他の欧州諸国も自分たちの国を変えなければならないという強い危機感を持ちました。ただし、プロイセンは成り立ちがフランスと全く違い、同じやり方では新しくなれなかったのです。
新しくなりたいのに、どうすればいいかわからない。フランスと同じ方法は取れない。この深い苦しみの中で、プロイセンは悩み続けたと楊さんは話します。
なぜフランスの政変がそのままプロイセンに波及したのか
フランス自体が、革命派と、元に戻したい反革命派との間で、政権を何度も行き来していました。ナポレオンが出て、追放され、また皇帝が現れる。そんな振り子構造を繰り返していたと楊さんは言います。
この振り子の影響を、プロイセンは逐一受けます。フランスで革命派が優勢になればプロイセンでも革命が起こり、反革命派が盛り返せばプロイセンでもそれが力を取り戻す、という具合です。
プロイセンの青年たちは、自分たちを遅れた国だと思っていました。ここで言うドイツ社会には、オーストリアなどドイツ語を話す同じ民族と見なされた国々も含まれます。
この人たちをどう次のステージに持っていくか。プロイセンの青年たちはずっと議論を続けていました。このような議論の中からマルクスが生まれてくると楊さんは位置づけます。
バラバラな人々をまとめた、プロイセンの理性的な国家づくり
プロイセンが生まれる前には、その元になる小さな国がたくさんありました。今のポーランドやロシア、バルト三国のあたり、欧州の北東の端です。
この小国が少しずつまとまって大きくなり、国を作らなければなりませんでした。まとまる過程で、ロシア人やオランダ人などのスラブ系、ドイツ系のゲルマン系、宗教改革後のさまざまな宗派の人々が入ってきます。
バラバラで多様な人々をまとめ上げるために、プロイセンは当時流行していた啓蒙主義 ── 17〜18世紀のヨーロッパで広まった思想。理性の力で社会や政治を合理的に組み立て、迷信や旧来の権威から人を解放しようとする考え方にのっとり、国家理性をモットーにした理性的な国家をつくっていきました。
理性的な国家として、プロイセンはまず強力な軍隊を持たなければなりませんでした。北の端の辺境の小国で、しかも領地は飛び地でバラバラだったためです。
一つにまとまりたいという欲望から、他国を侵略してまとまる必要があり、そのために国民へ一般兵役義務を課していきました。
このときプロイセンが約束したのは、人種も宗派も関係ない、税金を納め軍役を担う者は全員プロイセン人だ、というものでした。楊さんはこれをコスモポリタン的な精神と呼びます。
なんか優しい。
楊さんは、このコスモポリタン的な精神が、後のマルクスにも影響を与えているのではないかと話します。
隣国フランスの革命が突きつけた、プロイセンのジレンマ
こうして起きたプロイセンは、フランス革命によって大きな脅威にさらされます。自分が一番進んでいるつもりでやっていたところに、隣のフランスでもっと先進的な理性国家が突然現れたのです。
プロイセンも本当はフランスのように改革したかったのですが、やり方が違いました。プロイセンでは啓蒙主義者である王様が、上から少しずつ人々に権利を与えていく上からの改革でした。
一方フランスでは、すでに力を持ったブルジョアたちが共和制を打ち立て、一気に国の力を上げていきました。王様まで処刑しています。
プロイセンには、そのような力を持った民衆がいませんでした。だから上から改革するしかなく、その限りではフランスのようにはなれない。ここに深いジレンマが生まれます。
力を持ったブルジョアが共和制へ。王を処刑し、下から一気に国の力を上げた
力を持った民衆がいない。啓蒙的な王が上から少しずつ権利を与える改革しかできない
そうこうするうちにナポレオンが皇帝として現れ、フランス革命の影響がヨーロッパ革命のように広がろうとします。プロイセンやオーストリアを中心とした軍とフランスが戦いますが、ナポレオンの方が強く、負けてしまいます。
フランス国境に近いラインラント地方などが占領されます。占領地ではフランスが先進的な統治をしようとし、封建的な課税や特権身分の廃止を宣言したり、主権は国民にあると唱えたりしました。
もうイケてるやつや。当時の。
フランスの空気を多分に浴びる人がプロイセンにも出てきます。それでもフランスのような革命はできない。上からの改革を続けているために、ジレンマはかえって強くなっていったと楊さんは言います。
神聖ローマ帝国を力技で再編した、ナポレオンの野望
ここからドイツ地方の人々は、ナポレオンの支配と、それへの反発としての国家形成という動きに集約されていきます。そしてこの直後に、後にドイツをまとめるビスマルクが登場します。
楊さんは、まずナポレオンがドイツを有無を言わさず再編しようとしたと説明します。その前提として、この時点でドイツという国はまだ存在していませんでした。
その時ってドイツって国はあるんですか?
あったのは神聖ローマ帝国 ── 962年から1806年まで続いた、中欧のドイツ語圏を中心とする国家連合体。宗教改革のルターが出た国でもあるが、実態は多数の領邦が並立し、皇帝の権力は名目的だったです。ただし名目上の帝国で、実態は伴っていませんでした。皇帝に大した権力はなく、それぞれがバラバラに生きている状態でした。
これをナポレオンが力技で統合しようとします。112の領邦と41の帝国都市を取り潰し、中核の領邦へ吸収合併のように再編させたのです。当時ドイツに住む人々は、戦争に負けた状態で、しかも外の人間であるナポレオンによって、いきなり再編されてしまいました。
この干渉によって、ついに神聖ローマ帝国が滅びます。最後の皇帝フランツ2世が退位を決意し、900年間続いた神聖ローマ帝国が公式に解体されました。
ナポレオン単体の影響力やばすぎっすね。半端ないな、ナポレオン。
楊さんは、ナポレオンが一瞬、始皇帝のような動きをしていたと表現します。ヨーロッパ全体を再編しようとしていたのだと。プロイセンもナポレオンに負けて領土の半分を失うほどでした。
戦争に負けて憲法を作られ、強制的に国民国家へ
ナポレオンの支配によって、それまでの封建支配が根底から揺るがされます。再編に加え、憲法まで押し付けられました。ドイツ人から見れば押し付けですが、フランス人からすれば「お前ら民主化しろ」という感覚だったと楊さんは言います。
そうした中でプロイセンも立憲君主制 ── 君主が存在しつつ、憲法によってその権力が制限される政治体制。君主の意思ではなく法にもとづいて統治が行われるになっていきます。戦争に負け、憲法を作られてのことでした。
フランスはたまたま自力で国民国家になれましたが、他の国は同じルーツを持たないため、なかなかなれません。しかしフランスに近いプロイセンは、半ば強制的に国民国家化を義務づけられます。ナポレオンがその触媒として作用して、爆発するかのように国民国家化していくのです。
この中で、プロイセンに住む人々には深刻な危機意識が芽生えます。ナポレオンに支配されるわけにはいかない、しかしフランスに勝つには近代化しなければならない。このままでもダメ、相手の思い通りにされてもダメで、どうすればいいかわからない状態でした。
ここでプロイセンの開明的な官僚層や知識人のエリートが頑張ります。シュタインやハルデンベルクといった人物が現れ、国全体の近代化を進めていきました。危機感を背景としたエリートたちの奮闘によって、プロイセンは近代国民国家の基礎を作り上げていきます。
ナポレオンの侵攻・占領
戦争に敗れ、領土を失い、封建支配が揺らぐ
再編と憲法の押し付け
神聖ローマ帝国が解体され、立憲君主制が作られる
深刻な危機意識
フランスに勝つには近代化が必要だという焦り
エリートの改革
開明的な官僚・知識人が上からの近代化を進める
近代国民国家の基礎
後のビスマルクによるドイツ帝国、第一次世界大戦へつながる
ウィーン体制の平和が、かえって改革を進めた逆説
1815年にナポレオンが失脚すると、ヨーロッパ全体では「あれは何だったんだ、一旦元に戻そう」という空気になります。楊さんはこれを、番長が卒業していったような、危なかったねという気分だったと表現します。
こうしてできたのがウィーン体制 ── ナポレオン失脚後の1815年、ウィーン会議で築かれた国際秩序。革命前の王政や勢力均衡を回復・維持しようとする保守的な体制です。マルクスが生まれる3年前のことでした。これをリードしたのがオーストリアのメッテルニヒです。
ウィーン体制では、ナポレオンが作った傀儡国家は解体しつつ、王をトップとした国の維持は続けようと確認し合いました。この後、比較的平和な均衡状態が続きます。
ここが肝だと楊さんは言います。ウィーン体制で決められたのは保守的な話でしたが、エリートたちには「フランスはやばかった、このままではダメだ」という感覚がずっと残っていました。ウィーン体制で戦争をなくしたから、かえって改革が進むのです。
平和だったから、いろいろ内部改革をする暇があったみたいな。
戦ってたらもう戦うしかないですもんね。
まさにこの、思想的改革が進み、エリートたちが次にどうすべきかを考えまくっていた時代に、マルクスは生まれ育ったのです。
王政復古を内側から突き崩した、農業から工業への転換
王政に復古したはずの体制を、改革がまた内側から突き崩していきます。楊さんはこれを面白いと言います。
フランスでフランス革命が成功したのは、ブルジョワジー ── 商工業などで富を蓄えた市民層、いわゆる中間層。近代の市民革命や資本主義の担い手となったと呼ばれる分厚い中間層が育ったからでした。しかしフランス以外は農業主体の国で、中間層が生まれる余地があまりありませんでした。
ところが君主制に戻った国々が、経済政策としては改革を進め、産業を農業から工業へ転換させていきます。プロイセンも例外ではありません。
工業化が進むと、都市で働く労働者と、それによって儲かる資本家、つまりブルジョアが形成されます。こうして分厚い中間層が、フランス以外の国でも育っていきました。
王政に復古
ウィーン体制で王をトップとする国の維持を確認
経済改革を推進
産業を農業から工業へ転換
中間層の形成
都市の労働者と、儲かる資本家(ブルジョア)が生まれる
革命運動へ
分厚い中間層が権利を求め、王政を内側から突き崩す
この結果起きたのが1848年革命です。イタリアのシチリア島で起きたパレルモ暴動を発端とし、ドイツでもドイツ三月革命という民衆運動が起きました。このときマルクスは30歳ほどでした。
三月革命を受け、プロイセン王はオーストリアと連携して大きなドイツを作ろうとします。しかしウィーン体制を築いたメッテルニヒが否定的で、これは失敗します。
そこでプロイセン政府は、オーストリアと合同する大きなドイツを諦め、北側のドイツの国だけを集めた小さいドイツを作る方向へ転換します。この流れの先に登場するのがビスマルクでした。
マルクスが注目した、労働力しか売るものがないプロレタリアート
楊さんは、この革命が何に対するものだったかを問い直します。王政に対して共和的、自由民権運動的なものがやってくる。力をつけた民衆が、より多くの権利を求めたのです。
もともと民衆が力をつける動きは、絶対王政で不満の強かったフランスやイギリスで起きていました。過激な形で爆発したのがフランス革命です。一方ドイツやプロイセンは民衆が育っておらず、革命が起こりようがありませんでした。
それが、ウィーン体制の平和の間に農業から工業へ移行し、中間層が育つことで、フランスのような状態になっていきます。王様と中間層の戦いが、フランス以外でも起こるようになったのです。
そのうえ楊さんは、この流れの中でプロレタリアート ── 生産手段を持たず、自分の労働力を売る以外に生活の手段がない労働者階級。マルクスが資本主義の分析で重視した概念という人々も出てきたと指摘します。マルクスが強く注目した人たちです。
プロレタリアートは資本も土地も安定した職も持たず、暮らしが不安定でした。その増加は社会問題化し、社会秩序を乱す人という意味でも使われた言葉だったといいます。
当時の記録として、マルクスが実際に住んだドイツのケルンが挙げられます。人口の3分の1が貧民救済、今でいう生活保護を受け、4割の人が時々飢餓状態に陥っていたという極限状態でした。
その人数の多さと悲惨さを見て、儲かっている中流階級は「国が壊れるのではないか」と恐怖を感じます。マルクスがこうした状況を見たことも、彼の思想形成の一つの要素だったと語られます。
ビスマルクの登場と重なった、マルクスの壮年期
力をつけた中間層が、フランスでは王を殺し、他国では殺すまでには至らないながらも、新しい国の形を考え続けました。ドイツではエリート層が、結果的に上からの改革として近代化を進めます。
もともとドイツはまとまっていなかったため、まず人々をまとめる必要がありました。「プロイセン人」「バイエルン人」ではなく、みんなドイツ人だと言えるようにしなければ、国民国家として成り立たないからです。
あの手この手でまとめようとする中で、ビスマルクという天才が登場し、ドイツ帝国へとまとめ上げていきます。これとほぼ同時期に、マルクスは壮年期を迎えます。
ビスマルクは、誰がドイツをまとめる旗振り役かを決めるためオーストリアと戦って勝ち、長年の宿敵で領土を奪われていたフランスとも戦って勝ちます。その過程でドイツ帝国を作り上げていきました。
楊さんによれば、オーストリアと戦った頃マルクスは45歳ほど、フランスと戦った頃は53歳ほどで、ちょうど晩年に当たります。ドイツ帝国が形成され、第一次世界大戦に突入する直前あたりまでが、マルクスの生きた時代でした。
なんかもう激動の中の激動。
国民国家と資本主義、二つのしぶきを浴びた思想家
国民国家化の過程では、労働者が増えていました。逆に言えば、労働者が増えない限り国民国家化も近代化もされていないということです。封建社会には労働者がいませんでした。
その労働者が溢れ、資本家にいいように扱われ、工場で死ぬまで働かされる。そんな時代と、マルクスが生きた時代は大きく重なります。封建社会の次に国民国家化が進むと同時に、資本主義社会が立ち上がってきたのです。
マルクスは、この資本主義の性質について考えました。昔のプロイセンとは違う、と感じていたのです。次の国のあり方をエリートたちが考えまくっていた時代に、大学生の頃には激論を交わしていました。
それが30歳頃、ドイツが実際にまとまり、労働者が溢れて社会問題化する時代に突入します。もう資本主義の時代です。この資本主義とは一体何なのかを分析したかった、という背景があったと楊さんは説明します。
楊さんは、マルクスの立ち位置を整理します。資本主義でないところから資本主義の勃興にプロイセンで直面し、先を行くフランスのパリにも、資本主義が最も進むイギリスのロンドンにも住み、遅れたプロイセンが戦争を起こす様も見ていました。
アプローチの中心は経済学ですが、それだけではありません。哲学、歴史、自然科学など、いろいろな分野を横断して、今世の中で何が起きているのかを理解しようとしました。
哲学勉強してるようなインテリがこの時危機感を持ってたっていうのが、さっきの時代背景なわけです。
楊さんは、この時代の雰囲気は日本の学生運動の頃に近く、いわばその再来のようなものだったと言い添えます。
搾取という言葉が生まれた背景と、次回への橋渡し
樋口さんは、この時代背景から見えてくることを二つ挙げます。資本主義でない時代と資本主義の時代を比較できたこと、そして不安定だからこそ考えざるを得ない環境だったことです。
楊さんは、出身国が遅れているという感覚から危機感が強く、さらに目の前で変わっていく方向性にマルクス自身が不満を持っていたと補います。その方向はやばい、と考えていたのです。
これだから安定して満足して、今の資本主義しか知らなかったら、考えるモチベーションがないですもんね。
ビスマルクはゴリゴリに資本主義社会を作ろうとし、それで国を富ませ強くしていました。マルクスはそこに「これはやばいのでは」と感じていたと楊さんは言います。
この回の締めくくりとして、印象的な例えが語られます。国民国家と資本主義という二つの石が同時に池に投げ込まれ、そのしぶきをマルクスが見ていたというものです。
最後に樋口さんは、当時の労働者の状況が今の日本とはまったく違う前提で聞くべきだと注意を促します。当時は労働者が本当にゴミのように扱われ、その現状を見た人が書いたのが資本論だからです。
実際今、日本の道歩いてても、そんなに貧困に、飢餓に直面してる人っていないですから。
こうした極限の労働環境を想像しながら聞いてほしい、という前置きとともに、次回からマルクスの生涯そのものへ入っていくことが予告されました。
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まとめ
マルクスが生まれた1818年前後の欧州は、ナポレオンに揺さぶられ、遅れた小国プロイセンが国民国家化と資本主義に同時に直面した激動の時代でした。この二つの波を浴びたことが、彼の思想の土台になっていきます。
- ナポレオンの侵攻と革命思想が欧州全体を揺さぶり、プロイセンは強い危機感の中で「上からの改革」を進めるしかなかった
- 神聖ローマ帝国の解体や憲法の押し付けを経て、プロイセンは半ば強制的に国民国家化していった
- ウィーン体制の平和が続いたことで、かえって思想的な改革と農業から工業への転換が進み、王政を内側から突き崩した
- 工業化で中間層とプロレタリアートが生まれ、ケルンでは人口の3分の1が貧民救済を受けるほどの貧困が社会問題化した
- 国民国家と資本主義という二つのしぶきを浴びた時代に、マルクスは資本主義の性質を分析しようとした







