応仁の乱を「覚える」のではなく「解釈する」には?
この回のテーマは、コテンラジオが本編で「複雑すぎる」として扱わなかった応仁の乱です。深井さんは、せっかく本郷和人さんが来ているのだから、応仁の乱とは何なのかを聞いてみたいと切り出します。
今日は、僕たちは本編で複雑すぎると言って飛ばしました、応仁の乱。もうせっかく先生来てくださってますんで。
本郷さんは、応仁の乱の見方は最近になってわかったことだと前置きします。本郷さんには、死ぬ前に自分なりの『日本中世史』という本を書きたいという思いがあり、テレビで「歴史芸人」と言われても、中身は真面目な歴史研究者だと話します。
本郷さんが大事にしているのは、何年に何が起きたと歴史事実を並べるだけでは意味がない、という考えです。覚えなさいと言われれば子供たちも嫌になる。だから歴史研究者は「どう解釈するか」で戦わなければいけない、と本郷さんは語ります。
樋口さんに教科書の記述を聞かれた本郷さんは、解釈抜きの説明を紹介します。1467年から10年にわたり、室町幕府の守護大名が京都を舞台に東軍と西軍に分かれて戦った、というものです。
教科書では、陣営が分かれた理由として、足利将軍家の跡取り問題と、有力大名である畠山家・斯波家の跡取り問題が複雑に絡み合ったと説明されています。深井さんは、戦国時代がここから始まるとされる一方で、複雑すぎてよくわからないとよく言われる出来事だと補足します。
本郷さんが挙げる複雑さの例は、8代将軍の足利義政の跡継ぎです。弟に継がせるはずが子供が生まれ、弟を推すのが東軍、子供を推すのが西軍だったのに、いつの間にか弟が西軍側に移っている。こうした入れ替わりが、応仁の乱をわかりにくくしているといいます。
頼朝の「お墨付き」か、北条の「ストロングスタイル」か
本郷さんは、日本中世史の本を書くには射程の長い考え方が必要で、その戦争にしか当てはまらない解釈はつまらないと話します。そこで武士社会の争いを考えると、鎌倉時代の初めからすでに対立があったように思う、というのが本郷さんの見立てです。
本郷さんが示すキーワードは「正統性」です。源頼朝が関東で幕府を開いたとき、新しい集団が「自分たちはまっとうだ」と社会に認められるには何をするのか。本郷さんは100人ほどのグループや暴走族を例に、聴き手に問いかけます。
お墨付きが欲しいですよね。社会的な権威からの。
本郷さんによれば、そう考えたのが頼朝で、お墨付きを与えるのは朝廷でした。一方で、武力で這い上がってきたのだからお墨付きなどいらない、自分たちの強さこそが正統性を担保する、という考え方の人もいたといいます。
ストロングスタイル。
北斗の拳スタイルですね。
源頼朝の路線。朝廷に認められることで正統性を得ようとし、京都との交渉を続けた
関東の武士たちの路線。自分たちの武力こそが正統性だと考え、北条義時・北条氏がその代表になった
頼朝が京都との交渉に力を入れるほど、関東の武士たちには「頼朝様は何をやっているのか」と映りました。本郷さんは、そこに対立が生まれ、源氏は3代で滅び、自前でやろうという路線のチャンピオンとして北条氏が台頭したと説明します。
ただし北条氏は賢く、武力をむき出しにはしませんでした。必ず朝廷から形だけの将軍を迎えたことを、本郷さんは「コートを着ているが、脱ぐととんでもないパリピスタイル」と例えます。ドレスコードのあるレストランに行くときだけ羽織るジャケットが、朝廷から来た将軍だというわけです。
尊氏と直義、義満と細川頼之は朝廷とどう向き合ったのか
本郷さんは、鎌倉と京都の距離感が、室町幕府の成立時に再び問題になったと続けます。足利尊氏は京都で幕府を開こうとし、弟の直義は鎌倉で幕府をやろうとしました。直義側は、自分たちは実力主義なのだから京都まで行かないほうがいい、という考えだったといいます。
この兄弟の対立が日本列島を二分する観応の擾乱 ── 1350年前後に起きた室町幕府の内紛。足利尊氏と弟の直義、さらに執事の高師直らの対立から全国的な争乱に広がりましたになった、と本郷さんは説明します。勝ったのは京都へ進む尊氏側で、本郷さんは、遅れた地域だった鎌倉が150年かけて実力を蓄え、京都に殴り込みをかけたという見方でよいと話します。
京都に入ったあと、鎌倉時代初めの2つの流れが再び顔を出しました。朝廷を取り込んで一つになろうという尊氏系と、幕府の武士は朝廷と一線を画すべきだという直義系です。尊氏系の流れを引いたのが、3代将軍足利義満を育てた細川頼之でした。
本郷さんによれば、細川頼之は義満の後見役として、武士だけでなく貴族としても通用する「ハイブリッド」になるよう教育しました。義満はそれを成し遂げて朝廷を吸収し、細川頼之は安心して亡くなったといいます。
一方、武士と朝廷は距離を取るべきだと考える人たちもいました。本郷さんが挙げるのは、筆頭の斯波家と、その仲間の山名・大内・土岐です。教科書にある「義満が有力守護大名を次々に潰した」という話は、朝廷を吸収する方針を取らない大名を潰していったことだと、本郷さんは読み替えます。
応仁の乱の東軍と西軍は、何派と何派だったのか
本郷さんは、義満による大名潰しにも限界があったと指摘します。足利将軍家は強くないので、相手を0にはできず、10の力を2ぐらいにする叩き方でした。その残った勢力が、応仁の乱へとつながっていったといいます。
応仁の乱の東軍の総帥は細川で、細川とその仲間たちです。西軍は本来、斯波とその仲間になるはずでしたが、斯波家が自滅したため、山名とその仲間たちが中心になりました。本郷さんは、山名こそ義満に潰された側の代表で、西軍には大内や土岐もいたと話します。
細川頼之の子孫を中心に、細川と一緒に政権運営をしてきた側
山名・大内・土岐など、足利義満と細川頼之に潰された側
本郷さんの理解では、応仁の乱は鎌倉時代から続く戦いであり、将軍の跡継ぎ問題などは「あまり関係ない」ということになります。楊さんはこの説明を、朝廷との距離感をめぐる二大派閥の戦いとしてまとめます。
なるほど、きっかけにはなってるかもしれないけど、その二大派閥の戦いだったわけですね。朝廷との距離感をどれぐらい取るべきかみたいな。
いや、分かりやすいな。
本郷さんは、そのうえで応仁の乱の結末に触れます。10年続いた戦いはあまり一生懸命なものではなく、京都に集まって何かをするやり方に皆が嫌気が差して、秩序を担うべき大名たちは国元へ帰っていきました。
本郷さんによれば、ここで鎌倉時代から続いた「朝廷とどう向き合うか」という問いに終止符が打たれます。中央である朝廷の時代が終わり、中央の時代から地方の時代へ移っていく。それが戦国時代だ、という説明です。
天下統一に向かう時代の朝廷は「あるんだかないんだかわからない」状態だったとして、本郷さんはその時代の朝廷を過大評価する動きには反対せざるを得ないと話します。
足利義満に抱え込まれた朝廷は、なぜ力を失ったのか
樋口さんは、応仁の乱のあとも朝廷はお墨付きを発行できる権威だったのではないかと尋ねます。本郷さんの答えは、朝廷は足利義満に乗っ取られて以降、ずっと下降線だったというものです。
本郷さんが象徴として挙げるのが日明貿易 ── 室町時代に日本と明の間で行われた貿易。正式な船であることを示す勘合という札を用いたため、勘合貿易とも呼ばれますです。明の皇帝が「日本国王」と呼びかけた相手は天皇ではなく足利義満だった、と本郷さんは指摘します。
樋口さんが、義満と一体化したことで朝廷の権威が落ちたのかと確かめると、本郷さんは理由を補います。義満が最大のスポンサーになったことで、朝廷の貴族たちは自分でやらなくても食べていけるようになり、「義満さんお願いします」となった。それが堕落の第一歩だったといいます。
義満が朝廷を抱え込む
足利義満が朝廷の最大のスポンサーになる
貴族が自力でやらなくなる
義満が食べさせてくれるため、貴族は義満に頼るようになる
独自色を失う
天皇や朝廷が、足利将軍家抜きには何もできない状態になる
本郷さんによれば、義満が欲しかったのは朝廷の実力だけでなく、千年の伝統という目に見えない正統性でした。足利将軍家はそれを手に入れた一方で、朝廷の力はひたすらマイナスになっていったといいます。
なんかそこが皮肉やなというか。
日本に易姓革命がないのは「天」の違いから?
話題は、楊さんの質問から日本と中国の王権の違いへ移ります。楊さんは、日本では中国の王朝のような革命のロジックが使われていないと認識しており、その理由を本郷さんに尋ねます。
日本って中国の王朝と違って、その(易姓)革命っていうそのロジック使ってないっていう風に認識してるんですけれども、なんで日本は革命っていう概念があんまり使われないんですかね。
本郷さんは「的確にポイントを突いている」と応じ、天という概念が違うのだと答えます。本郷さんによれば、中国の天は一神教に近く、天帝という人格を持ちます。天帝が、その子である皇帝に地上のことを託すという構図は、キリスト教の骨格に似ているといいます。
日本も天を強く意識しますが、それは「お天道様」という言い方になります。お天道様が見ているから盗みをしてはいけない、お天道様に恥ずかしいことをしてはいけない、という道徳律にはなっても、信仰の対象にはならないと本郷さんは説明します。
天帝という人格を持つ天が皇帝に地上を託す。皇帝の家がダメになると別の姓の人に意志が移り、易姓革命が起きる
天は「お天道様」として道徳律になるが、人格を持たない。天の命令が誰かに降りることがなく、王朝がそのまま続いていく
中国では、天が皇帝の家に託すからこそ、家がダメになれば天は意志を別の姓の人に伝え、易姓革命 ── 天命を受けた天子の徳が衰えると、天命が別の姓の者に移り王朝が交代するという中国の政治思想。王朝交代を正当化する理屈として使われましたが起きます。そのため、初代皇帝が受けた天の意志を子孫に伝えるには、他家の血が混じってはいけないことになります。
本郷さんは、そこから中国の後宮制度が厳密に作られたと話します。後宮は女性だけの世界で、入る男性は宦官 ── 去勢された男性の官僚。中国の宮廷で皇帝や後宮に仕え、時に政治にも大きな影響を持ちましたにならなければなりませんでした。
一方、日本では血のつながりがそれほど意識されておらず、本郷さんは万世一系は明治になってから言われたフィクションだと述べます。江戸幕府は大奥を作りましたが、天皇の側はそうした仕組みを作らなかったといいます。
本郷さんによれば、日本の文化の中心には恋愛があります。恋を邪魔する者は野暮であり、それは天皇でも同じで、男女の交わりを管理する発想があまりありませんでした。それが易姓革命のある国とない国の違いになっている、と本郷さんは語ります。
前の王朝の歴史は、後の王朝が書く
話はさらに、中国で天の概念が求められた理由に広がります。前の王朝を滅ぼした以上、その正統性を外部に求めるしかなく、天が正統性を与えるという説明になった、という見方が語られます。
本郷さんは、だからこそ中国では前の王朝の歴史を後の王朝が編纂すると話します。前の王朝はこういうことをして天の意志を失った、だから自分たちは正しい、というのが歴史編纂のあり方だといいます。
その例として本郷さんが挙げるのが、日清戦争の相手だった清の歴史です。清の歴史を中国共産党が編纂していて、最近やっと草稿が上がったという話を紹介し、清には名君が揃っていたので滅びる必要はなかったのでは、とも話します。
本郷さんは逆説として、血のつながりにあまりこだわらなかった日本のほうが、結果として万世一系になったと述べます。会話の中では、天帝の概念があるから滅ぼし合うのか、滅ぼし合ったあとに説明として天帝を持ち出したのか、因果が逆の可能性もあるという指摘も出ます。
本郷さんによれば、そもそも当時は「万世一系」という言葉自体がなく、後醍醐天皇のブレーンだった吉田定房 ── 鎌倉時代末期から南北朝時代の公卿。後醍醐天皇に仕え、倒幕計画をめぐる諫言でも知られますは天祚一種 ── 皇位が一つの血統によって継がれていることを表す言葉。本郷さんは言葉としては万世一系と同じ意味でよいと説明していますという言葉を使ったといいます。
本郷さんが強調するのは、同じ言葉でも評価が正反対だったことです。明治時代なら万世一系だから素晴らしいとなりますが、吉田定房は天祚一種だからダメなのだと論じた、と本郷さんは説明します。
日本は血より家?源氏物語と隋・唐の関係
深井さんは、日本では血より家を大事にしてきたという話は、日本人にとっても意外ではないかと投げかけます。本郷さんはそれに同意し、家がとても大切だから養子はOK、むしろ歓迎だったと話します。
本郷さんは、養子が許された理屈として2つの考え方を挙げます。一番の大ボスである天皇家が万世一系だから他の家は養子でもいいという考え方と、天皇家も実は養子歓迎でよかったのではという考え方です。
本郷さんが後者の例として持ち出すのが『源氏物語』です。主人公の光源氏は天皇の息子ですが、皇族を離れて臣下になっています。その意味では源頼朝や平清盛と変わらない立場だ、と本郷さんは指摘します。
その光源氏が藤壺と密通して子供が生まれ、その子が次の天皇になります。本郷さんは、一般人の子が天皇になっている話を読んだ貴族たちが「不敬だ」とは言わず、「まあ、あるよね」と受け止めていた点に注目します。
深井さんは、中国のほうが血に厳しいと感じる例として隋と唐を挙げます。隋の煬帝と唐の李淵は親戚で、深井さんはいとこだったと記憶していると話します。
いとこなのに王朝交代するんかいって日本人からしたら思うんですよね。だってそれって天皇家だったら絶対交代してなくて、同じ天皇家ですよねみたいになるからですね。
深井さんは、万世一系で王朝がずっと続いているというのは言い方の問題ではないか、すべてをそう言えばそうなる、とも話します。樋口さんは、血と家の違いを次のように整理します。
血は本当に生まれたかどうかを重要視するということで、家はそのフレームの中に入ればもうみんな一族だよという考え方で。
本郷さんは「その通りです」と応じ、養子OKだと重ねます。深井さんが、すごくわかりやすい応仁の乱の説明だったと締めくくり、次回も本郷さんへの質問が続くことが告げられて中編は終わります。
まとめ
この回では、教科書では跡取り問題の絡み合いとして語られる応仁の乱を、本郷和人さんが「自分たちの正統性をどこに求めるか」という鎌倉時代からの対立として読み解きました。話はさらに、中国と日本の天の概念、歴史編纂、血と家の考え方の違いへと広がっています。
- 本郷さんは、応仁の乱を朝廷との距離をめぐる2派閥の戦いと捉え、跡取り問題はきっかけにすぎないと見ています
- 頼朝と関東武士、尊氏と直義、細川頼之と山名らの対立が、東軍と西軍の構図につながったと説明されています
- 足利義満に抱え込まれた朝廷は独自色を失い、応仁の乱後は地方の時代である戦国時代へ移ったとされます
- 中国の天は人格を持つため易姓革命や厳密な後宮制度が生まれ、日本の天は道徳律にとどまったと語られています
- 日本は血より家を重んじて養子を歓迎し、『源氏物語』の受け止め方にもその感覚が表れていると話されています





