仏教芸術に惹かれた「じじくさい」小学生
本郷和人先生が歴史学者になったきっかけは、小学4年生になる春休みの家族旅行にさかのぼります。父親が奮発して、京都と奈良を10日間めぐる旅に連れて行ってくれたそうです。
本郷先生はこの旅行で、京都よりも奈良の仏教建築や仏像に心を動かされました。薬師寺の三重塔や興福寺の阿修羅像を見て「仏教芸術ってすげえな」と感じたといいます。
渋い小学生ですね。
本郷先生自身は、そんな自分を「嫌な小学生」と笑って振り返ります。中学に入ると仏教美術に関わるクラブに入り、夏休みには寺をめぐるようになりました。
中学時代の本郷先生は、理系の勉強は向いていないと気づく一方で、仏教への関心をますます深めていきます。仏教書を読みあさり、やがて空海 ── 平安時代初期の僧で、真言宗の開祖。多くの著作を残し、書や土木事業などでも知られる人物ですの著作にまで手を伸ばしたそうです。
仏教哲学に傾倒した本郷先生は、高校2年生ごろまで本気でお坊さんになろうと考えていました。大学で仏教哲学を学び、どこかの寺で僧侶として暮らすのが人生設計だったといいます。
お寺の値段は5000万円。お坊さんの夢が消えた日
本郷先生のお坊さんへの夢は、高校2年生のときの出来事で揺らぎます。本郷家にお経を唱えに来ていたお坊さんが、寺を買うことになったと告げに来たのです。
そのお坊さんは、寺を買ってその寺の檀家を守るため、もう本郷家には来られなくなると説明しました。すると本郷先生の父親が、寺はどれくらいするのかと尋ねたそうです。
返ってきた答えは5000万円でした。本郷先生によれば、今から45年ほど前の5000万円です。
本郷先生はこの金額に衝撃を受け、「仏の道も金次第」とはこのことかと感じたといいます。お金がないとお坊さんにもなれないのかと思い、僧侶になる道を諦めました。
人生に迷った本郷先生は、選択肢の多い文学部に進み、「日本史でいっか」と日本史を研究対象に選びます。あまり考えないうちに、いつの間にか日本史の研究者になっていたと話します。
あんまり考えてなかったんですね。
本郷先生は「何にも考えてなかった」と答えつつ、歴史そのものはずっと好きだったといいます。同時に、世の中の役に立つ人にはなれそうにないとも感じていたそうです。
小学4年の春休み
京都・奈良を10日間旅行し、仏教建築や仏像に惹かれる
中学〜高校2年
仏教書や空海の著作を読み、お坊さんを志す
高校2年の出来事
寺の値段が5000万円と知り、僧侶の道を諦める
文学部へ
選択肢の多い文学部に進み、日本史を研究対象に選ぶ
テストで入れる史料編纂所と「なるべく手を抜く」日々
本郷先生が東京大学史料編纂所を選んだ理由は、就職試験への自信のなさでした。面接で「君を気に入った」と言ってもらえる未来が見えず、史料編纂所は唯一テストで入れる職場だったといいます。
本郷先生は、テストなら「人間性の悪さ」もなんとかなると考えたそうです。その人間性の悪さとは、とにかくやる気がないことで、夢も気力もなく惰性で生きている感覚だったと話します。
史料編纂所での最初の仕事は、花押 ── 文書の末尾などに書かれた署名の一種で、名前を図案化した独自のサインです。戦国大名など多くの武将も用いましたが誰のものかを突き止めることでした。源頼朝のように有名な花押は調べる必要がありませんが、サインだけで誰か分からない人物もいるといいます。
本郷先生は、その時々に工夫しながら大量の古文書を読み、花押の主を特定していきました。深井さんが、当時誰がどこにいたか、誰と誰が契約していたかを突き止めていくのかと尋ねると、本郷先生はそのとおりだと答えます。
探偵のタイムスリップバージョンみたいになってますね、でもほんと。
本郷先生は当時を振り返り、なるべく仕事をせずに給料だけもらえないかと考えていたと笑います。30代前半のころの1日は、次のような流れだったそうです。
いや、でも大事ですけどね。なるべく手抜く。
大日本史料の修行時代と、恩師・石井進先生の死
30代後半になると、本郷先生は配置換えで大日本史料 ── 東京大学史料編纂所が刊行を続ける日本史の史料集。出来事ごとに関係する史料を年代順に集めて収録していますの編纂を担当します。原稿をどんどん作らなければならず、本郷先生はこの時期を「本当の意味での修行時代」と呼びます。
大日本史料の編纂では、3年に1冊を作ることが絶対の使命だったといいます。遅れるわけにはいかないため、本郷先生は本作りに一生懸命取り組み、40歳ごろまでこの仕事を続けました。
40歳のとき、本郷先生の恩師である石井進先生が亡くなります。本郷先生にとってこれは相当大きな出来事でした。
本郷先生は、石井先生がいることにどこか甘えていた部分があったと振り返ります。恩師を失って独り立ちしなければと思い、研究にも一生懸命取り組むようになったそうです。
深井さんが「その頃には脱ニートしていたのか」と尋ねると、本郷先生は「心はニートだった」と答えます。
社会への発信と「笑いを取りに行く」スタイル
40代に入った本郷先生は、歴史研究者は食べていけない、給料も良くないという現実に向き合い始めます。もっと真面目な理由として、社会に対して働きかけていないと感じるようにもなりました。
本郷先生が気にしていたのは、大日本史料の仕事などで見つけた成果を、社会に何も発信していないことでした。少しでも分かりやすいことを社会に向けてやらなければと考えるようになったといいます。
40代後半ごろから、テレビ出演や解説、本の執筆といった依頼が舞い込むようになりました。本郷先生はそれを引き受けるうちに、今のような活動をするようになったと話します。
メディアに出たきっかけは覚えていないものの、本郷先生は自分を「おっちょこちょい」で、もともと笑いを取りに行きたいタイプだと語ります。みんなが笑ってくれれば、変なことを言ってもプライドはあまりないそうです。
本郷先生は自分の売りを、歴史研究の話もできるし、研究とは少し違う面白い話もできる点だと分析します。その両方ができるから重宝されているのかもしれない、と話しています。
良心的な研究者がテレビに出ない理由とエゴサーチ
確かになんかこんな話しやすい先生って、まああんまりいらっしゃらないですよね。人文系だと。
樋口さんは、自分が知る大学の先生たちはすごい方々だったものの、テレビには出なさそうだったと振り返ります。本郷先生は、良心的な研究者ほどそうなるのだと答えました。
本郷先生によれば、テレビは編集されるため、誤解されないよう細かく話すとその部分が切られてしまいます。だからテレビに出たくない先生は多く、誤解されてもいいと割り切れる人は滅多にいないといいます。
そんな本郷先生も、最初のころはエゴサーチをしていたそうです。良いことも、ひどいことも書かれているのを見ていましたが、どうでもいいと思ってやめたといいます。
本郷先生が必ず言われるのは「この程度で東大の先生か」という言葉だそうです。ただ本郷先生は、自分はテストで入っただけで汚い手は何も使っていないので、怒られても仕方ないと受け流しています。
また本郷先生によれば、今は年功序列のため、よほどへまをしなければ遅い早いの差はあっても教授にはなれるといいます。一方で、日本史の研究者はどんどん少なくなっていて、そこが厳しいと話します。
二足のわらじはいらない。研究と発信は分業でいい
本郷先生は、深井さんと話すなかで逆に教わったことがあると切り出します。それまでの本郷先生は、史料を読み込んで史料集を作る仕事と、それを面白く伝える仕事の「二足のわらじ」を履いていました。
本郷先生は、特に若い研究仲間に「一緒にやろうぜ」と発信を呼びかけてきました。しかし誰も乗ってこず、学会からは絶対に出てこないといいます。
本郷先生は、研究者が発信を避けるのは批判が怖いからだと説明します。研究者同士の批判はお互いさまで付き合いもあるため怖くないものの、社会に出ると思いもかけないところから、しかも匿名でひどいことを言われるからです。
お互いさまで付き合いもあり、ひどいことは言われにくい
思わぬところから、匿名でひどいことを言われることがある
ある種の絶望を感じていた本郷先生は、深井さんとの出会いで考えを変えます。研究者が史料集をきちんと作れば、それを使って面白い歴史解釈をしてくれる人がいると気づいたのです。
本郷先生は、だから二足のわらじを無理に履く必要はないと話し、今は希望をものすごく持っていると語ります。歴史研究者ではない深井さんのほうが、ひねりのない解釈を垂れ流す研究者よりよほど見通しがはっきりしていて面白い、とまで言います。
深井さんは恐縮しつつ、研究者がいなければ自分の活動は成り立たないと応じます。本郷先生の「そこは分業なんですよ」という言葉に、深井さんも分業体制が築けることを改めて意識するようになったと話しました。
研究者が史料集作りと面白く伝えることの両方を担うべきだと考え、仲間が乗ってこないことに絶望していた
史料集をきちんと作れば、それを組み合わせて面白い解釈をする人がいる。研究と発信は分業でいい
番組側からは、分業のメリットがもう1つ挙がります。深井さんは学会や大学などの組織に所属していないため、すべてを同列に並べて俯瞰できるという点です。
本郷先生も、どこどこ大学に所属している、どこどこ博物館の学芸員であるという縛りは相当きついと同意します。知性のある人が複数の史料集を組み合わせて新しいことを示してくれれば、歴史は決してだめにならないと話しています。
本郷先生が監修した『東大教授がおしえる やばい日本史』は、必ず参考資料や文献を明示している点が大きな特徴だそうです。「嘘ばっかりだ」と言われても、「その文献を全部否定できますか」と戦えるように作ってあるといいます。
人文知は社会のビジネスパーソンに届くか
深井さんは、歴史を筆頭とする人文知は社会にものすごく必要で、経済人たちも潜在的には求めていると考えています。ただ、人文知に一度も触れずに来た人が多く、本人たちもその必要性を認知していないといいます。
深井さんは、政治の側から「文学部なんていらない」といった声が出ていることにも触れます。そのうえで、人文知を経済と掛け合わせれば多くのことが起こり、文学部で学んできた人たちの新しい収入も作れるのではないかと語りました。
本郷先生は、研究者は社会に出ていないため、ビジネスパーソンが何を求めているのか分からないと認めます。だからこそ、それが分かる深井さんのような人が人文知とつなげてくれるのはありがたいと話します。
深井さんが例に挙げたのは、本郷先生が別のポッドキャストで語っていた史料の読み方です。限られた史料から、想像してはいけない部分と想像すべき部分のバランスを取りながら、本来あったものを再現していく頭の使い方を指します。
深井さんは、この思考法こそビジネスパーソンが本来やるべきことだと考えています。マーケティングにも、部下や上司との関係にも、組織づくりにも使えるのに、鍛え方が言語化されておらず、センスのある人だけができる状態で終わっているといいます。
さらに深井さんは、別の領域で同じ思考法が使われているのを見ると、素直に受け取りやすいとも話します。仕事の中で上司に言われるとイライラするような話でも、興味のある分野で「これと一緒だ」と気づけば導入しやすいという考えです。
本郷先生は、歴史は人間をどう理解するかという話だと応じます。象牙の塔にこもってきた元ニートの自分より、ビジネスの荒波にもまれてきた深井さんのほうが人間のいろいろな面を見ているので、同じ史料でも納得されやすい解釈ができるといいます。
本郷先生は、作家の関川夏央 ── 日本の作家・評論家。漫画原作やノンフィクション、評論など幅広い分野で作品を発表していますの作品に、暴力団の幹部が「人を脅すときもキケロやセネカを混ぜると効く」と語るセリフがあると紹介します。営業トークに歴史の知識を混ぜるような使い方もあっていいし、人間存在の深いところに根ざす話でもいいと話しました。
歴史を知ると、自分の居場所が見える
本郷先生は、歴史の大きな流れを提供することが必要だと考えています。社会人が最も孤独を感じるのは、自分は歯車の1つにすぎないのかと疎外感を覚えたときだからです。
本郷先生によれば、自分のしていることが大きな歴史の流れのどこに位置するか分かれば、やりがいにつながっていきます。深井さんも、歴史の中に自分の必然性を見出したときに安心感を覚えると共感しました。
本郷先生はこの感覚を、「我々はどこから来たのか、どこへ行くのか」という言葉で表します。前日に東京駅で見た「先例なんか知らない」というポスターに触れ、過去を知らずにやみくもに前へ進めば転ぶのではないかと話しました。
深井さんは、歴史を知ることをXY軸の座標にたくさんの点が打たれた状態にたとえます。点が多ければ自分の位置が分かりやすく、過去を知らない状態は自分がどこにいるか分からないまま方向を決めろと言われるようなものだといいます。
昔は身分や行き先が人から決められていましたが、今は自分で方向を問われる時代です。本郷先生も、終身雇用や年功序列で会社が面倒を見てくれた時代は終わりつつあると応じます。
だからこそ本郷先生は、ビジネスパーソンにとって武器は多いほうがいいと話します。そのうえで、日本史という武器は手軽に学べて手軽に使える点でおすすめだと語りました。
本郷先生は、使い勝手のよい形で史料という素材を提供することが、これからの研究者の役目になるだろうと話します。番組側からは、研究者が現代人の読める形にまとめたものを、深井さんがさらにデータベースとして使いやすくする、というバトンリレーのような関係が見えたという感想も出ました。
史料
現代人には直接読めない古文書など
史料集
歴史学者が現代人に読める形にまとめる
データベース・解釈
深井さんたちが使いやすく取り出しやすい形にし、面白い解釈につなげる
一方で、研究者の数が減っている問題について、本郷先生は歴史研究はお金にならないため、官僚から無駄に見られているのではないかと話します。番組側は、自分たちをメタ認知する最大のルートである歴史のデータ収集をやめることになると危機感を示し、経済合理性は1〜2年の縮尺では合理的でも、5〜10年で見ると違って見えると議論しました。
世界に出るために、日本人としての立場を知る
本郷先生は、日本とヨーロッパの歴史への向き合い方を比べます。日本は国境が比較的分かりやすく、長い歴史の中で日本人だけでやってきた一方、ヨーロッパは国境が大きく動き、切磋琢磨しながら生きてきました。
本郷先生によれば、ヨーロッパではテレビで世界の事件を伝えるとき、必ず歴史哲学の先生が出てきて解説するそうです。外国に軍隊を出すときの正当性や正義がどこにあるかは、歴史なしには分からないからです。
本郷先生は、これからのビジネスパーソンは世界を舞台に戦わなければならないと話します。ビートたけしさんが名無しの権兵衛ではだめで、日本人であることを固めたうえで世界に出なければ世界市民にもなれない、と語っていることに強く共感しているといいます。
本郷先生は、科学的な認識は世界共通で、1足す2はどこの国でも3になると説明します。しかし人間はそれだけではうまくいかないので、その国の人文知を把握し、自分の立場を踏まえて世界に出たほうが戦いやすいと考えています。
なんか今思ったのは、僕ら今までそこに対して重要だと思ってなかったと思うんですよ。なぜかというと、危機感がなかったからというか、別にそれでも普通に生きていけてたからだと思うんですね。
深井さんは、系譜や人間とは何かを知らないと次の一歩をどの方向へ踏み出せばいいか分からなくなっているのに、多くの人が何が問題か分からず混乱していると話します。まずは、そこを知ることの重要性から伝えていく必要があると、コテンラジオでの学びを通じて感じているそうです。
戦うより調和を。笑いながら学ぶ「楽しい日本史」
本郷先生は、楽しみながら学ぶことの大切さに話を戻します。鉢巻きを締めて勉強するのではなく、笑いながらいつの間にか学べている状態を目指したツールが、背景に置かれた『やばい日本史』だと紹介しました。
本郷先生が「これからの若い人は世界相手に戦わなければいけない」と話すと、番組側からは、戦うよりも調和するほうが大事だという声が上がります。本郷先生も、本当にファイトする必要はないと応じました。
本郷先生は、調和とはダイバーシティのことであり、互いの価値観や伝統、歴史の違いを分かってこその共同作業だと話します。番組側も、欧米に無駄に合わせても意味はなく、彼らが正解なわけでもないと続けました。
本郷先生は、グローバリズムはどちらかといえばアメリカンスタンダードの押し付けだと指摘します。それに対して「これは違う」ときちんと説明できれば、違った局面が開けるといいます。
最後に本郷先生は、肩の力を抜いて笑いながら読める『やばい日本史』を改めて紹介しました。知らず知らずのうちに日本史の仕組みが分かる、そんな楽しい日本史を目指して仕事をしていると締めくくっています。
まとめ
お坊さんを諦めて日本史の道に進んだ本郷先生は、史料編纂の修行を経て社会への発信を始め、深井さんとの出会いから研究と発信の分業に希望を見出しました。歴史は自分の居場所を知り、世界と調和するための武器になる、というのがこの回の大きな着地点です。
- 本郷先生は、寺の値段が5000万円と知ってお坊さんの夢を諦め、文学部から日本史研究者になった
- 史料編纂所では花押の主の特定や、3年に1冊を作る大日本史料の編纂に取り組んできた
- 研究者は史料集作りに専念し、面白く伝えるのは深井さんのような人に任せる分業でいいと考えるようになった
- 歴史の大きな流れを知ることは、自分の位置を知り、やりがいや進む方向を見つける助けになる
- 世界に出るには日本人としての立場を知る人文知が必要で、その入口として楽しく学べる日本史が勧められている





