楚とはどんな国だったのか
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今回のエピソードは、前回で秦嘉と景駒の勢力が崩れたところから始まります。深井さんは、そうした乱立する勢力のなかから項羽が出てくると説明します。
項羽を理解するために、まず楚という国の文化が語られます。深井さんは、項羽が非常に「楚の人」だと強調します。
彼の中で楚のアイデンティティっていうのは多分すごく強いんだよね。
楚はもともと蛮夷、つまり野蛮な土地と呼ばれ、河北や中原と呼ばれる中華のメインストリームとは異なる風俗を持つ国だったと説明されます。
一方でルーツは中華と共通していて、先祖は周の文王・武王に仕えて功績があった人物とされます。周の成王の時代に楚の土地に封ぜられたと言われています。
春秋時代の初期、楚の武王という人物が「王」を名乗り始めます。深井さんは、これが当時いかに異例だったかを解説します。
王様つったら周の王様なんです、この当時。
深井さんは、周王を名乗ることを、徳川幕府の将軍や天皇に自分がなると宣言するようなものだとたとえます。楚の武王は、野蛮な土地とされながら王号を称し、周の傘下から抜けることを宣言したと語られます。
(樋口)楚は勝手に独立国家だと言ってしまったということですか?
そうです。楚の重要な特徴の一つは、周王朝の文化圏からかなり早い段階で抜けたことだと深井さんは説明します。他国が周王朝文化圏に一応とどまり続けたのとは対照的でした。
ここから楚はどんどん強国として発展し、周辺の小国を吸収していきます。中原諸国から低く見られながらも、秦と同じように結果的に強くなっていった点が指摘されます。
戦国時代中期に楚は全盛期を迎えたとされます。深井さんは、その経済的基盤として銅の鉱山開発があったらしいと語ります。産出した銅で青銅器や武器、農具、貨幣を鋳造して強くなっていったと説明されます。
封建制と郡県制はグラデーションだった
楚の国政については記録が少ないものの、湖北省で比較的最近見つかった278枚の竹簡から、いくつかの制度がわかると深井さんは紹介します。
たとえば宰相にあたる立場は「令尹」と呼ばれ、中央の朝廷とは違う独自の官職名が使われていたと語られます。秦が「丞相」を使っていたのと同様、楚も独自の名称を持っていました。
楚は独自の暦や祭祀、文書行政システムも持っていたとされます。ただの封建国家ではなく、郡県制的なものも一部にあるハイブリッドだったと説明されます。
深井さんは、この時代のすべての国が完全な封建制だったわけではなく、秦以外でも郡県制や官僚制が少しずつ採用されていたと述べます。
そのうえで、システムはゼロ百ではなくグラデーションだと深井さんは整理します。同じ民主主義でも投票率の高い国とそうでない国があるように、制度がどれだけ浸透しているかには濃淡があるという説明です。
樋口さんは、郡県制・氏族制・官僚制といったバロメーターが国ごとに違っていたはずだと補足します。深井さんは、楚は比較的古いタイプで、秦とは逆だとまとめます。
郡県制・官僚制が強く進んだ新しいタイプの国
封建制が強く、郡県制や官僚制は一部にとどまる古いタイプの国
楚が抱えた秦への深い恨み
楚は秦に滅ぼされた後、六国のなかでも特に強い恨みを持っていたと指摘されます。深井さんは、その背景となった事件を紹介します。
楚の懐王が秦の昭王に捕らえられ、幽閉されているうちに病死する事件が、始皇帝の直前ごろに起こっていました。異国で王を殺された楚の人々の恨みは非常に強かったと語られます。
その恨みを象徴する言葉として、「楚は三戸といえども、秦を滅ぼすものは必ず楚ならん」という言葉が残されていると深井さんは紹介します。
これは、たとえ楚が敗れて家が3軒だけになっても、秦を滅ぼすのは楚人であろうという意味だと説明されます。
めっちゃ嫌いやん。
ただし深井さんは、陳勝・呉広も項羽も劉邦も楚人であり実際に秦を滅ぼしたため、この言葉は後付けで作られた可能性が高いとも付け加えます。
楊さんは、楚の人々のメンタリティーとして、もう一つの側面を挙げます。戦国末期に秦が諸国を滅ぼしていくなかで、楚は比較的強大で、まともに抵抗して粘れたのは楚だけだったという指摘です。
諸国の中で秦にまともな抵抗をして粘れたのが楚だけだったっていう風に書かれた本があって。
そのため楚の人々には「勝てたのに負けてしまった」という悔しさがあると語られます。深井さんは、他国とは違うこの悔しさも楚人の心情にあると受けます。
祖父・項燕将軍から受け継いだヒーロー性
ここからキングダムに関わる歴史上のネタバレを含むと断ったうえで、深井さんは項燕将軍の話に入ります。
項燕将軍は、楚が滅ぼされるとき最後まで抵抗し、秦の李信や蒙恬を一度は破ることに成功したと語られます。しかし最後は王翦将軍に敗れて殺されてしまいます。
深井さんは、楚の人々にとって項燕は、最後まで命をかけて秦に抵抗し、一杯食わせるところまでやり遂げたヒーローだったと説明します。
そして、その項燕将軍の孫が項羽だと明かされます。深井さんは、項燕が死ぬほど頑張ったからこそ、孫の項羽がリーダーとして立てたという点を強調します。
この光延将軍の孫である項羽が、光延将軍の人気も使って兵を立てていくんですけど、この項羽が秦をボッコボコにするんです。
もし項燕が醜く逃げ惑って終わっていたら、孫の項羽は兵を集められなかったかもしれないと深井さんは述べます。陳勝・呉広が嘘をついて項燕の名を名乗ったほど、そのネームバリューは大きかったと語られます。
そして項羽は、もう自分は祖父にできなかったことをやろうっていう風な志も持ってたかもしれないですね。
なんか死してなお皇族に影響を与え続ける。
父代わりの項梁と、逃亡中でも人をまとめる才覚
項燕将軍の息子が項梁で、項梁の甥が項羽です。深井さんは、項羽は項燕の孫にあたり、項梁が父親のような役割を果たしていたと整理します。
ここで深井さんは、項羽も劉邦も生まれた後に楚が滅びている点を重ねて強調します。その体験が彼らの人格形成や行動原則に大きく影響したはずだと語ります。
この時代の彼らのメンタリティーっていうのはものすごく影響受けてるはず。
項梁は殺人事件を犯し、仇討ちを避けて昔の呉のあたり、すでに楚の北領になっていた海側の地域に逃げていたとされます。これは楚が滅び、秦の世になった後の話だと説明されます。
逃亡先でも項梁はすぐに才能を発揮します。国家からの用役を請け負ったり、葬儀があれば在地の人間を取りまとめて差配を行っていたと語られます。
楊さんは、項という名字が名門であることも背景にあると補足します。秦に滅ぼされる前は貴族の一族だったことが、人が集まる一因でした。
深井さんは、項梁が逮捕されても人脈を使って釈放されるなど、根回しができるフィクサーのような立場にいたと説明します。法律を理解して裁判文書を書ける知識人でもあったとされます。
人格者で人を見る目があり、カリスマ性を持つ——逃亡中でありながら、周囲の人々を氏族的にまとめられる立場にあったのが項梁だと深井さんはまとめます。
勉強嫌いで怪力、我流で強い項羽の人物像
何らかの理由で親から離れ、この項梁に育てられたのが項羽です。深井さんは、今回の主人公の一人として項羽を詳しく紹介していきます。
項羽は数え24歳で世に出て、7、8年ほどだけ荒れ狂った大型台風のような人生だったと語られます。楊さんは、秦の中華統一時点で項羽一族は没落貴族という立場だったと補足します。
楊さんは、秦の視点で見れば楚を滅ぼしても項梁・項羽という潜在的な脅威を残してしまったことになると指摘します。深井さんは、そこまで手が届かなかったのだと応じます。
項羽は若い頃、文字を習ったが続かず、剣術を習っても続きませんでした。それを見て怒った項梁に、項羽はこう言ったと伝えられます。
文字などは生命がかければ十分だ。剣術も一対一ではつまらん。万人を相手にできるものを俺は習いたい。
そこで項梁は兵法を教えますが、大略を飲み込むと項羽は興味を失ってしまいます。楊さんは、志は大きいが座学に向いていないと評します。
深井さんは、逃亡生活のなかで万の兵を率いると口にしながら、やるべき勉強はしないという姿を指摘します。
身体的特徴として、項羽の身長は八尺あまり、約190cmの大男だったと語られます。深井さんは、この時代の中国の将軍は劉邦も含めて基本的に体が大きいと述べます。
楊さんは、この時代が今では考えられないほどの外見至上主義で、外見が社会的立場や能力に直結すると捉えられていたと補足します。
項羽は鼎を持ち上げる怪力の持ち主とされます。深井さんは、故宮博物館で見た鼎が胸の高さほどの鉄の塊だったと紹介し、数十キロから数百キロのものを軽々持ち上げる力持ちだったと説明します。
剣術は正式に学んでいないのに、項羽は非常に強かったと語られます。深井さんは、でかくて我流で強いという項羽像を怖いと表現します。
学者の書物では、項羽は儒学による教養の厚さを感じさせるタイプではなく、一種のオーラで人を魅了するタイプだったと指摘されているそうです。深井さんは、元貴族で祖父が楚の英雄という前提から来る自信や誇りの高さがその源だと語ります。
「あいつに取って代わってやる」——始皇帝への言葉
項羽には、一つの目に二つの瞳があったという記述もあると紹介されます。深井さんは、伝説の王・舜になぞらえた凄さの強調エピソードで、実際には嘘だろうと述べます。
さらに、始皇帝が巡行した際、項羽はその実物を見ていたとされます。楚を滅ぼした始皇帝を、項羽は激しく嫌っていました。
始皇帝が目の前を通ったとき、項羽が発した言葉が逸話として残っています。
あいつに取って代わってやる。
項梁は慌てて項羽の口を押さえ、「うっかりしたことを言うものではない。一族皆殺しにされるぞ」と制止したと伝えられます。
楊さんは、中華統一という前人未到の偉業を達成した始皇帝を「あいつ」呼ばわりする尖った態度に驚きます。深井さんは、逃亡生活をして勉強もしていないのに取って代わると言っている点を重ねて指摘します。
郡守を斬り殺し、8000人が集う
陳勝・呉広の乱の情報は、すぐに項梁の耳にも入ります。ここから深井さんは、戦国時代の徳川家康を彷彿とさせるという展開を紹介します。
蜂起の後、項梁は会稽郡の郡守である殷通から相談を受けます。役職を持たないながら、その土地のリーダー格になっていた証だと語られます。
殷通は「天が秦を滅ぼそうとする時だ」として、項梁と、同じ会稽郡内で豪傑として有名な武人・桓楚を将軍にして自分が立ちたいと持ちかけます。つまり反乱を起こそうという相談でした。
ところがこのとき桓楚は行方をくらませていました。項梁はすかさず、桓楚の逃げた先を項羽だけが知っていると嘘をつき、殷通と密談している場に項羽を呼び寄せます。
深井さんは、これが自国を裏切って挙兵しようという密談であり、殷通にとっても大きなリスクを冒した場だったと強調します。そこへ重要人物の項羽を呼び込んだのです。
剣を持って入ってきた項羽は、いきなり殷通を斬り殺します。深井さんは、間髪入れずに殺したと描写します。
いきなりバーンって言って本当に殺すんです。
項梁は郡守の首を取り、印綬を奪います。この印綬があれば文書を発行する権限を握れると説明されます。
深井さんは、このハンコを持っている者が郡守になれるというシステムのすさまじさを解説します。誰であれ印綬を持つ者の命令に秦の人間は従わねばならず、それによって秦の兵を動員できるのです。
深井さんが恐ろしいと語るのは、二人の覚悟の速さです。反乱を持ちかけられた瞬間に項梁は殷通を殺して乗っ取ると決め、項羽は間髪入れずに実行しました。
さらに項羽は、言うことを聞かなさそうだった郡府内の多くの者を斬り殺したとされます。戦争経験のない身で、警備の者より強いと信じ切っていなければできないことだと深井さんは述べます。
樋口さんは、項羽にもこの前に人を殺した経験があったのではないかと推測します。深井さんも、そうでなければこんなことはできないだろうと応じます。
こうして項梁が郡守に、項羽が副将となり、この場に8000人の兵が集います。項燕将軍の血を引く二人が立ったことで、楚の人々が従いたいと考えたためです。このとき項羽は24歳、項梁は50代でした。
集まった8000人は、項梁のもとで楚を再興させたい思いや、秦の支配に屈したくない思いを共有していたと語られます。長江を北上するうちに、兵力は瞬く間に6、7万人に膨れ上がりました。
樋口さんは、これを源氏という血統に人が集まる日本の歴史になぞらえます。深井さんは、日本の戦国時代が2、3万で戦っていたことと比べても、この兵力は桁違いだと述べます。
反乱の波が生んだ多彩なメンバーたち
項梁と項羽の勢力が拡大するなか、のちに重要な地位を占める人物たちが次々に加わっていきます。深井さんは、合流予定だった秦嘉が死んでしまったことにも触れつつ、主要なメンバーを紹介していきます。
一人は陳嬰です。もともと東陽県の県職員で、県の人々から慕われていました。若者たちが県令を殺した後、陳嬰に数千人を率いる長になってほしいと頼んだと語られます。
県知事を殺して、その県知事の下に勤めてた県職員の課長ぐらいの人に、あなたがリーダーになってくださいってテロリストが言ってるみたいな構図
承諾した陳嬰のもとには2万人が集結し、さらに彼を王に立てようという声まで上がります。しかし陳嬰は母に相談します。
母は、先祖に鬼神(尊い身分)となった者がいたと聞いたことがなく、にわかに大きな名を得るのは不吉だから、誰かに帰属したほうがよいと諭します。それで陳嬰は王になるのをやめました。
深井さんは、ここに項羽との対比を見出します。項羽なら母に反対されても聞かなかっただろうし、反対を聞いてやめるような人だからこそリーダーにならなかったという見方です。
起業反対されてやめるような奴は起業家に向いてない説と一緒だよね。
一方、樋口さんは別の見方も示します。陳嬰は自分の身の丈をわかっていたのかもしれない、というものです。陳嬰はその後、挙兵した項梁に合流していきます。
次に紹介されるのが黥布です。本来の姓は英で、英布というのが本名だと説明されます。「黥」は顔面への入れ墨を意味し、彼は30歳のころ刑罰で顔に入れ墨を入れられたためこう呼ばれます。
黥布は労役の途中で犯罪者仲間と脱走し、盗賊として長江沿岸を荒らし回っていたとされます。深井さんは、刑罰が厳しすぎて大量の犯罪者が生まれ、頼りがいのある者のもとに集まっていた時代状況を指摘します。
その黥布も、秦嘉・景駒の乱が起きたときに数千人を率いて挙兵し、後に項梁・項羽に合流します。深井さんは、彼をシンプルな犯罪者だと表現します。
もう一人、この時点で登場しているのが韓信です。楚の人で、後に劉邦とともに目覚ましい活躍をしますが、最初は項羽と項梁の軍にいて評価されなかったと語られます。
樋口さんは、韓信が麻雀の役「国士無双」の由来になった人物だと紹介します。深井さんは、それほど強い人物だと受け、黥布と韓信は覚えておいてほしいと述べます。
楚の懐王を立て、正式に楚が復興する
勢力がさらに拡大し、項梁の兵力が14万人にまで膨れ上がったころ、彼らが展開する領域は過去の楚の領域をほぼ掌握する規模になっていました。
陳勝・呉広に合流するつもりが相手が死んでしまったため、項梁と項羽は自分たちの楚の地で挙兵し、勢力を伸ばしていった結果、かつての楚とほぼ変わらぬ大きさに達していたのです。
この規模になると、自らが王になるのか、誰かを王として奉戴するのかを決めねばならない段階に入ります。楊さんは、新しいフェーズに突入して経営判断が必要になったと表現します。
ここで登場するのが70歳の范増です。奇計を好むアイデアマンとされ、次のように項梁に説いたと語られます。
今あなたは江東から兵を起こし、楚の放棄した城が争って帰属しているのは、あなたが代々楚の将軍の家系であり、また楚の光栄を立ててくれるだろうと思えばこそです。
范増は、陳勝が楚の王家を立てずに自分が王となったから長く続かなかったと指摘します。人々は、項梁が楚の王家の末裔を連れてくると期待しているからこそ集まっているのだ、という論でした。
これに納得した項梁は、当時民間の羊飼いにまで落ちていた楚の懐王の孫、名を心という人物を探し出し、再び「懐王」として立てます。祖父と同じ号を継がせたのです。
楊さんは、羊飼いにまで落ちていた孫を探し出して王に立てたのは、シンボルがそれだけ大事だったからだと解説します。血筋という最後のピースによって、彼らは官軍・正規軍という立ち位置を得るのです。
これにより、正式に楚の国が復興したことになると深井さんは整理します。楚の名門将軍が挙兵し、旧領をほぼ押さえ、王家の人間を即位させたことで、楚の再興が形になったのです。
項梁は武信君と名乗ります。深井さんは、かつて秦に抵抗した昌平君と項燕のセットが再現されたような感覚があると語ります。
そして、この懐王を立てた時点で、すでに劉邦は項梁集団に参画していたと明かされます。ただし、まだ目立った軍功を立てていない「ワンオブゼム」の一人でした。
樋口さんは、爆発して各地に散らばったものが再びくっついて一つの国に戻ったような展開だと感想を述べます。次回はいよいよ劉邦の話へと移ります。
最後に三人は、こうした時代のリアルはエンタメでは描けないほど野蛮だったと語り合います。楊さんは、この物語を楽しめる時代に生まれてよかったと締めくくります。
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まとめ
第4回は、祖父・項燕将軍の無念を背負って登場した項羽の人物像と、崩壊した秦のなかで人々が反乱勢力へ吸い寄せられていく力学が語られました。血筋というシンボルを核に、実質支配が「楚の復興」という大義名分を得ていく過程が印象的です。
- 楚は早くから周王朝文化圏を抜けた古いタイプの国で、秦とは対照的に封建制が強かった
- 懐王の異国での病死などから、楚は六国のなかでも特に強い秦への恨みを抱えていた
- 祖父・項燕将軍の英雄としての人気が、孫である項羽の挙兵とネームバリューを支えた
- 項羽は勉強嫌いで怪力、我流で強く、元貴族の誇りとオーラで人を魅了するタイプとして描かれる
- 范増の進言で楚の懐王の孫を王に立て、血筋という大義名分によって楚が正式に復興した







