名前が「劉兄貴」?残っていない出自と怪しい伝説
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項羽と劉邦編の第5回で、いよいよ主役の劉邦が登場します。楊さんは「俺たちの皇帝」と紹介し、深井さんも漢字文化圏に生きる自分たちにとって身近な存在だと受け止めています。
俺たちの皇帝ですよ。
劉邦の生まれは紫水郡沛県豐邑中陽里とされます。沛県はこの後もよく出てくる地名ですが、注意すべきはこの一帯が国境近くの宙ぶらりんな土地だったことです。
沛県周辺は、昔からずっと楚だったわけではありません。魏の領土だった時期もあり、複数の国のあいだで揺れ動いてきた地域でした。
この土地柄が、劉邦のアイデンティティに影響したと考えられています。同じ楚の出身でも、貴族の項羽が楚の復興にこだわるのに対し、平民の劉邦は楚へのこだわりが薄いのです。
(劉邦の生まれた土地は)楚になったり、いろんな他の国になったりするような国境にある結構宙ぶらりんのエリアです。
家族の名前も、ほとんど名前として残っていません。父は劉太公、母は劉媼と伝わりますが、これは「劉のおじさん」「劉のおばちゃん」ほどの意味しかないと楊さんは説明します。
兄の名も同様で、長男は劉伯、次男は劉仲。伯は長男、仲は次男を表す字なので、「劉長男君」「劉次男君」と書いてあるようなものだといいます。
劉おばちゃんですって。史記が書いてるようなもんです。
劉邦自身の名前も心もとないものです。字の「季」は末っ子ほどの意味で、ひねりがありません。名の「邦」も「お兄ちゃん」ほどの意味で、劉兄貴とでも呼ぶような響きです。
だから劉邦の名前そのものが、実はちゃんと残ってないのか、相当適当なのか。
楊さんは、三国志の劉備の「備」が用意周到、字の「玄徳」が奥深い徳を意味するのと比べ、劉邦の名は教養を感じさせないと指摘する本を紹介します。それだけ庶民的で、親族がつけたのかも定かでない水準だというわけです。
龍から生まれた男?皇帝の権威づけに使われた出生譚
沛県は元々、宋という国にゆかりのある土地でした。その後、斉や楚の争奪を経て魏の領土にもなり、帰属がめまぐるしく変わった地域だと楊さんは整理します。
劉邦には出生の伝説も残されています。ただし楊さんは、これははっきり作り話だと前置きします。
伝説では、劉邦の母が沼のほとりでうたた寝していたとき、神に会う夢を見ます。現実の世界では空が曇り、稲妻が走って雷鳴が轟いていました。
妻を心配して探しに来た父の劉太公は、龍が彼女に覆いかぶさっているのを目撃します。その後、母は妊娠して劉邦が生まれた、という筋書きです。
龍ってドラゴンの龍ね。
楊さんによれば、こうした逸話は殷や周の頃の皇帝にもよく見られるもので、明らかな伝説です。史記が漢の時代に書かれたため、こう書かざるを得なかったと考えられます。
劉邦が皇帝になるべくしてなったっていう物語の肉付けだよね。
容姿の描写も権威づけの色が濃いものです。史記では、鼻筋が通って高く、龍のような髭をたくわえ、左の腿に72のほくろがあったと伝わります。
72という数字は、孔子の弟子が72人いたとされるように、神秘的な数とされていました。ほくろの逸話も、劉邦の神秘性を演出するためだろうと語られます。
身長は7尺8寸、約1メートル80センチとされ、項羽の約1メートル90センチよりは低いものの、当時としては長身です。楊さんは、髭の描写は後付けかもしれないが、背が高かったこと自体はありそうだと見ています。
開けっぴろげで女好き、しかも「厚顔無恥なチンピラ」
性格については、開けっぴろげで人を愛する心に富み、困っている者には惜しみなく施しをしたと伝わります。楊さんは真偽はさておき、人から好かれていたのは間違いないと言います。
深井さんも、身分の低い門番や兵卒でも、劉邦と会えば古い友人のように打ち解けたという記述を紹介します。誰とでも交わる人柄だったようです。
ただし、その気前の良さを冷ややかに見る学者もいます。楊さんは、リーダーである自分に満足するための気前の良さで、相手をペットのように下に見ていた、とする指摘を紹介します。
下に見てるみたいな意味で言ってるのに、ペットっていうのは。
これ何とも言えないですね。
もっとも楊さんは、そこまで断言できることではないとも述べます。人と交わりやすい人物だったこと自体は確かだろう、という受け止めです。
一方で、家の些末なことには無関心で、女好きで酒好き。大した教育も受けず、父親からも「無頼」と呼ばれていました。無頼とはアウトローのことです。
参照された本では、まともに商売も農業もせず、生計を立てるスキルもない、ずる賢くて厚顔無恥なチンピラとまで書かれていると紹介されます。
ずる賢く厚顔無恥なチンピラ。
それでもみんなから好かれ、兄貴肌だった。楊さんは、これらの評価は互いに矛盾しないと見ています。
名門貴族の生まれで、祖父は楚の英雄。9歳で楚の滅亡を経験し、楚の復興が宿命のように根付いた
徹底した平民で、名前すら怪しい。楚への貴族意識が薄い土地に育ち、30代で楚の滅亡を迎えた
命懸けの「罵り」を平然とやる謎の愛嬌
劉邦の特徴のひとつが、周囲の人々を罵り、怒鳴りつけることだったと楊さんは説明します。しかもこの時代、人を罵るのは命懸けの行為でした。
当時はメンツが非常に重視され、相手のメンツを潰せば殺されかねません。史記にも、他人を罵った結果殺された例がたくさんあるといいます。
相手のメンツっていうのを潰すっていうのは非日常的な行為なんだが、劉邦はめっちゃそれをやってると。でも彼は殺されてない。
楊さんは、劉邦には特殊なことを特殊なやり方でやり遂げる謎の愛嬌があったのだろうと見ています。もうひとつの見方として、任侠的な文化では罵り合いがむしろ普通だったという指摘も紹介します。
楊さんは、これをヤンキーやラッパー同士がディスり合うような文化に例えます。愛を込めて相手を「しょうもねえ」と言うようなやり取りを、劉邦もしていた可能性があるというわけです。
実際、後に劉邦を支える蕭何、戦の勝敗を左右した韓信、郦食其といった重要人物は、いずれも劉邦に罵られたことがあります。史記には、劉邦が罵る場面が全部で12回登場するそうです。
(ののしられても)しょうがないですよ。
ツケで飲み、龍が見え、売上を上げる名物客
劉邦は酒屋で飲むとき、いつもツケでした。しかも2軒の酒屋で飲み続けていたと史記に残っています。
1軒は「王おばちゃん」、もう1軒は「武おばちゃん」ほどの意味の名の老婦人が営む酒屋でした。ここでも名前がまともに残っていないのが劉邦らしいところです。
不思議なことに、どちらの酒屋でも、劉邦が酔って横になると体の上に龍が見えたと伝わります。楊さんは、これはさすがに作り話だと笑います。
ドラゴンが?
ただし、ツケで飲んでいたこと自体は本当らしいのです。しかも劉邦が来た日は、酒屋の売上が通常の数倍になったといいます。
からくりは、劉邦が大勢の仲間を連れてきて彼らに払わせ、自分はツケで飲み続けることでした。そして大晦日に1年分のツケをチャラにする、というのがルーティンだったようです。
なんだかんだ言ってこいつ一回も金払ったことないけど、確かにこいつのおかげで結構儲かってるからまあいいかみたいになるみたいな。
客を呼んで店を儲けさせるから、自分のツケくらい許される。楊さんも深井さんも、憎みきれず許されてしまうキャラクターだったのだろうと語ります。
始皇帝を見た劉邦の一言に表れた育ちの差
劉邦も、実は始皇帝を見たことがあります。巡行ではなく、囚人として秦の都・咸陽まで送られたときに、パレードを目にしたようです。
項羽が始皇帝を見て「あいつに取って代わってやる」と言ったのに対し、劉邦の反応はだいぶ違います。深くため息をつき、「ああ、一人前の男ってあんな風じゃないとな」と漏らしたと伝わります。
なんかちょっと違うね。
楊さんは、これは「いいなあ、あいつの身分」「俺もそうなりたい」という物質的な憧れから来た言葉だろうと解釈します。責任感というより、贅沢や女遊びへの羨望に近いという読みです。
この違いには、二人の育ちが表れています。劉邦は項羽に最後は勝つのですが、深井さんもどうやって勝つのか謎だと率直に語ります。
楚の滅亡を経験したときの年齢も対照的です。項羽は9歳で、名門の家と国の崩壊、家族の死を経験し、復讐と楚の復興が情念として根付きました。
一方の劉邦は、楚の滅亡時にすでに30代の成人した平民でした。楚への貴族意識が薄い土地の出身でもあります。
学者の考察によれば、滅亡を前にした劉邦が考えたのは「どうやって食っていこうか」という程度だったといいます。いい暮らしをして偉くなりたい、その程度のことしか考えていなかったという推測です。
もし史記が、この立場の劉邦を「楚を復興してやろう」と描いていたら、かえって説得力が薄い。楊さんも深井さんも、平民の彼が楚復興を志したとは思えないと同意します。
山と町をまたぐネットワークと「任侠」という価値観
成人後の劉邦は、無頼の徒、つまりアウトローたちと接触を持つようになります。楚が秦に滅ぼされた後には、社会からあぶれた人々が増えていきました。
そうした人々の一部は、都市部ではなく「沢」と呼ばれる郊外の森などに住み、秦の支配が及ばない場所で集まって暮らしていたといいます。劉邦は都市に住みながら、こうした山の人々ともつながっていました。
劉邦が沢の人々とつながっていた理由のひとつは、彼自身が役人に追われて逃げ回った時期があったからです。史料に「少年」として現れる沢の住人たちと、逃亡の過程でつながったと考えられています。
この「少年」は、単なる子どもではなく、若い者という意味も含みます。年寄りが森で生き抜くのは難しく、家のない若者たちが沢で自給的なネットワークを築いていたと指摘されます。
こうしたつながりを貫く価値観こそ、番組で繰り返し語られる「任侠」です。爵位や血縁、家格や教養といった通常の評価軸を、あえて無視する態度だと楊さんは説明します。
そういうものが人を評価する軸なんだけど、そういう評価軸で人なんて評価しねえよみたいな態度を取るっていうのが人教なんだよね。
任侠で重んじられるのは、面倒見の良さや、一度交わした約束を守ることです。日本のヤクザの仁義と同じく、社会的弱者どうしが作ったセーフティーネットの原理だと語られます。
この背景には、氏族制の崩壊があります。血縁をベースにした共同体が崩れたあと、そのオルタナティブとして個人どうしの仁義や信義が浮かび上がってきたのです。
その、でも人間ってセーフティーネットが必要だから、そのセーフティーネットっていうのを作るために僕は出てきた価値観というのがやっぱり人教だと思うんだよね。
楊さんは、任侠の評価軸で見れば、劉邦は実はものすごく信頼できる人だったようだと言います。うまく喋れるかではなく、言ったことを必ず守り、面倒を必ず見る。そういう軸での信頼です。
チンピラが警察署長に?表と裏をつなぐ極道役人
アウトローに人気が出た結果、劉邦はなんと警察署長になります。逆ではないかと深井さんが驚くほどの展開です。
逆じゃない?
楊さんは、この逆転を秦の統治事情から説明します。官僚制が浸透していない楚の土地で秦が統治を始めても、役人ができる人材はほとんどいません。
そこで実際に使えそうなのは、犯罪者が言うことを聞きそうな人物です。抑えが利く人間を探した結果、それが劉邦だった、というわけです。
こいつに言われたら言うこと聞きそうみたいなやつを連れてきたら、それ劉邦だったんですよ。
楊さんは、抑えが利くスキルは教育で育てるには限界があると指摘します。加えて劉邦は多少文字も読めたことも、役人向きだった要因のひとつです。項羽は文字を読めなかったとされ、この点は対照的です。
劉邦が就いたのは死水郡の亭長という職でした。現代の警察署長のような立派な役職ではなく、この辺のチンピラをまとめる自警団のトップに近いものです。
アメリカ開拓時代の保安官の一つの保安所の保安官事務所の署長みたいなぐらいの感じでしょうね。
深井さんは、これで役人と任侠の境界線がマーブル状態になったと表現します。どちらの属性も併せ持つ人物が生まれたということです。
楊さんが注目するのは、この時点で劉邦が全リソースにアクセス可能になったことです。役人にもアウトローにも普通の平民にも通じ、全員と話せる人物になったと語ります。
下級役人でありながら、劉邦の性格は役所でも際立っていました。役所の大部屋で好んで猥談を始め、みんなを爆笑させてしまうのです。
厳格であるべき県の役所が、村の酒場のような雰囲気になってしまう。これが問題になったからこそ、下ネタ好きという事実まで史書に残ったのだろうと楊さんは語ります。
下ネタが好きっていうのが史実として残ってるの面白い。
似た光景は、後に劉邦が皇帝になり宮殿に住んでからも繰り返されます。仲間と無礼講で飲み、宮殿の中がぐちゃぐちゃになったといいます。
もともと裏社会に片足を突っ込んでいた劉邦が表社会の役人になったことで、この地域の裏と表の社会が結合していきます。彼が繋ぎ役となり、後にこのネットワークが有機的に動き出すのです。
ハッタリ一発で名家に婿入り、最初のパトロンを得る
警察署長になった話に続くのが、結婚のエピソードです。相手は呂后という名士で、この一件も劉邦にとって決定的でした。
呂后は市井の豪族でありながら裏社会ともつながる侠客気質の人物で、何らかの恨みから逃れるため一族で沛県に移住してきました。頼った先が、沛県の県令、いまでいう県知事です。
県令は呂后のために歓迎会を催します。その宴の幹事を務めていたのが、後に劉邦の右腕となる蕭何でした。蕭何は沛県の非常に真面目な役人で、アウトローではありません。
劉邦も警察署長として宴に呼ばれ、勝手に飲み食いを始めます。そこで蕭何が、ご祝儀が1000銭に満たない者は中庭で食べるように、宴会場に入るなと線引きをします。
劉邦はこのとき役人の中でも最下層で、当然、祝い金は一銭も持っていませんでした。それでも彼は大声で「祝い金は1万銭だ」と言い放って入ってきます。すべてハッタリです。
その時大声で言ったのが、「祝い金は1万銭だ」っつって入ってきたんですよ。それで、全部嘘です。
1万銭は、当時の一般家庭の全財産の10分の1ほどにあたる金額だったと紹介されます。相当な大金です。
呂后は劉邦を知らないため、「1万銭」と聞いて大喜びし、門まで出迎えて上座に迎え入れます。劉邦は目録に「おめでとうございます。1万銭」と書いて渡し、ふてぶてしい態度で飲み食いしました。
幹事の蕭何は、劉邦を「口ばかりで実際に成し遂げることは少ないから関わらない方がいい」と忠告します。それでも呂后は、劉邦をすっかり気に入ってしまいました。
楊さんは、金を持っていないのに上座に座らされ、当たり前のようにその待遇を受け取れる胆力はすごいと言います。深井さんは、胆力なのか何も考えていないのか、と笑います。
この場さえ凌げればどうでもいいと思ってんでしょうね。今今日いい飯が食えたら、あとで「お前払ってないじゃん」とか言われてもどうでもいいと思ってたんでしょうね。
呂后は、この一件をきっかけに娘を劉邦に嫁がせます。この娘こそ、後に皇后となる呂后です。
この結婚で、劉邦は最初のパトロンを得ます。実家の太い呂后に支援され、ただのチンピラから警察署長、さらに名家への逆玉婚まで駆け上がったのです。しかも、何も持っていないハッタリ一発でした。
何も持ってないのに。
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まとめ
劉邦は、名前も伝説も怪しい平民でありながら、任侠の価値観と類まれな愛嬌で表と裏の社会をつなぎ、皇帝への一歩を踏み出しました。項羽との出自の対比が、この後の物語を読み解く鍵になります。
- 劉邦は貴族でも英雄でもない平民で、名前すらまともに残っていないほど庶民的な出自だった
- 龍の出生譚や72のほくろ、龍が見えたという逸話は、皇帝としての権威づけのための後付けと考えられている
- 命懸けの「罵り」を平然とやりながら殺されない愛嬌が、劉邦を人に好かれる人物にしていた
- 氏族制の崩壊後に生まれた任侠の価値軸で見ると、約束と面倒見を重んじる劉邦は極めて信頼できる人物だった
- チンピラから警察署長になり、ハッタリで名家に婿入りしたことで、役人・アウトロー・平民すべてに通じる存在となった







