壬午軍乱で、なぜ日本と清が同時に朝鮮へ入ってきたのか
前回のエピソードでは、李氏朝鮮の近代化が扱われました。今回はその続きとして、1882年に朝鮮で起きた壬午軍乱の余波から話が始まります。
壬午軍乱のきっかけは、朝鮮の開化派が近代化の予算を使いすぎたことでした。開化派は兵士を近代化した兵士とそうでない兵士に分け、近代化側に予算を注ぎ込みます。その結果、古い兵士に払う給料であるお米がなくなり、13か月も未払いが続いたといいます。
それ(13か月の未払い)はきついわ。13ヶ月。
我慢の限界に達した古い兵士たちは反乱を起こします。朝鮮の近代化は日本をモデルにしていたため、日本は軍人を送って指導していましたが、その日本の軍人も反乱兵に殺されてしまいました。
日本にとって、軍人が殺された壬午軍乱は放っておけない事件であると同時に、朝鮮への影響力を強めるチャンスでもありました。一方の清も、日本に入り込まれると朝鮮への宗主権を失うため、同じように介入してきます。
日本側では、外務卿の井上馨が朝鮮政府の公式謝罪と賠償金を求め、軍艦3隻とともに仁川へ向かいます。日本軍はソウルに入り、国王の高宗や大院君と会見して、3日以内に回答するよう軍で脅しながら迫りました。
朝鮮政府の側は、兵士が反乱しているため反乱を治める兵士がいません。そこで清に派兵を求め、清からは馬建忠 ── 清末の外交官・官僚。壬午軍乱の際に軍艦を率いて朝鮮へ派遣され、事態の収拾にあたった人物ですが軍艦3隻を率いてやってきます。
壬午軍乱の時点では、日本と清はまだ戦争をしません。双方とも戦争したいわけではないと確認したうえで、日本も清も朝鮮と不平等条約を結ぶという形で決着します。
朝鮮かわいそう。ダブルパンチじゃん。
日本は既存の日朝修好条規 ── 1876年に日本と朝鮮が結んだ条約。朝鮮に開港を認めさせ、日本側の領事裁判権などを定めた不平等条約でしたをさらに拡大し、清は宗主権を強めるための条約を新たに結びました。清は欧米列強と条約を結ぶルートと、朝貢冊封という従来の関係を同時に走らせていた、と説明されます。
壬午軍乱の後始末で決定的だったのは、日本と清の両方が朝鮮に軍隊を置くと決まったことです。日本は外交官を守る名目でソウルに兵士を駐屯させ、清は淮軍 ── 太平天国の乱の際に李鴻章が組織した漢人の軍隊。清の正規軍とは別の私兵的な性格を持っていましたの一部を朝鮮に駐留させました。
だから戦争が回避されたんだけど、一歩先を進んでる状態になっちゃってるわけですね。
番組では、他国に自国の軍隊を駐在させることが、その国への影響力を強める具体的な行動だと整理されています。いつでも制圧できるので、朝鮮は言うことを聞かざるを得なくなっていきます。
開化派が二つに割れる。清を手本にするか、日本を手本にするか
壬午軍乱の2年後、甲申事変という次の大事件が起こります。その前提として、壬午軍乱で清が大軍を送ったことで、清と朝鮮の関係はさらに強まり、清は宗主権を強めていました。
朝鮮国内では、近代化を進める開化派そのものが二つに分かれていきます。清をモデルにしてゆるやかに近代化する路線と、日本をモデルにして急進的に文明開化する路線です。
中心人物は閔妃。もともとの親分である清を手本に、急激ではない改革を進める
中心人物は金玉均。日本との窓口となり、より強い改革を求める
開化派の中心だった閔妃 ── 朝鮮国王・高宗の王妃。一族を政権の要職につけて実権を握り、日本と清のあいだで揺れる朝鮮政治の中心にいましたは、清に傾倒していきます。当時の清は、負けながらも列強から武器を買うなど、少しずつ改革しているとみなされていました。
朝鮮が清寄りになることは、日本にとって困る事態でした。日本は、ロシアに対抗する勢力として自分の制圧下で朝鮮に成り立ってほしかったからです。
そこで日本の公使・竹添進一郎が、清寄りの閔妃政権に対してクーデターを起こすことになります。日本が後ろ盾になって、朝鮮の政治の中枢に介入したわけです。
甲申事変はなぜ失敗したのか。遅すぎた本国の返事
甲申事変の背景として、当時の清がフランスと戦っていたことが紹介されます。フランスが朝貢国のベトナムを奪おうとしていたため、清はベトナムを守るために戦っていました。
清から見ると、ベトナムをフランスに、朝鮮を日本に取られそうになっていて、二つの敵を抱えていたことになります。日本側は、清がフランスと戦っているので朝鮮を守れないかもしれないと考え、クーデターの好機だと思いつきます。
日本政府に一応確認するんですよ。クーデターを起こしてひっくり返すっていう作戦と、このまま外交的圧力を高める作戦ありますけど、どっちがいいですか?で、返事が来る前にクーデター起きちゃうんですよ。
クーデターの首謀者は朝鮮人の金玉均でした。金玉均と竹添公使は約束していたので、竹添公使は約束どおり日本軍を動かし、王宮を占拠します。
ところが王宮を占拠している最中に、日本本国から「クーデターは良くないのではないか」という返事が届きます。竹添公使は軍隊を引き上げ、その後に清軍が王宮を制圧しました。
本国に確認
竹添公使がクーデターか外交圧力かを日本政府に問い合わせる
クーデター決行
返事を待たずに金玉均が決行し、日本軍が王宮を占拠する
反対の返事
占拠中に本国から「クーデターは良くない」との返事が届く
撤兵と失敗
日本軍が引き上げ、清軍が王宮を制圧する
金玉均と主要メンバーは日本へ逃げ、朝鮮の政治では清の影響力がさらに高まりました。番組では、日本がまだ官僚国家をうまく運営できておらず、誰の指示でどう動くかをコントロールできていなかった、とみられています。
クーデターの失敗が、日本国内の長州派と薩摩派の力関係を変えた
甲申事変の結果、朝鮮では親日派の勢力が壊滅し、清軍が漢城を制圧します。漢城は現在のソウルの王宮があった辺りで、当時は今のソウルよりずっと小さな地域でした。つまり清が朝鮮の首都を武力で押さえた状態です。
甲申事変は、日本国内の政局にも影響しました。明治維新を起こしたのが長州と薩摩だったため、当時の政府内には長州派閥と薩摩派閥がありました。
清との開戦は極力避け、平和的に解決しながら清による朝鮮の実質支配を阻止する
清と戦争になることを恐れず、強硬方針を維持する
当時政局を主導していたのは長州派でした。しかし竹添公使のミスで日本が朝鮮で大きく不利になったことで、長州派の意見が通りにくくなり、戦争に前向きな薩摩派の声が通りやすくなっていったと説明されます。
天津条約とグレートゲーム。イギリスが仲裁に入った理由
甲申事変の後、伊藤博文と清の李鴻章が天津で天津条約を結びます。天津条約によって、この時点でも日清の戦争は回避されました。
天津条約では、日清の両方が朝鮮から軍を撤退すること、将来朝鮮に出兵する場合はお互いに事前通告することが決められました。清が有利だった状態をフラットに戻す内容で、日本側も意外だったといいます。
天津条約の成立には、イギリスの説得が大きく関わっていました。イギリスはロシアの南下に強い危機感を持っており、ほぼ同じ時期にイギリス海軍が朝鮮半島南部の巨文島を占拠する事件も起きています。
巨文島の占拠は、ウラジオストクのロシア艦隊と対決になってもいいように、上海にいたイギリス艦隊が朝鮮半島南部に出てきたものでした。
番組では、イギリスとロシアが西ではヨーロッパ、西南ではトルコ、南ではパキスタンとアフガニスタン、東では朝鮮半島をめぐって争っていたと説明されます。その主戦場が東側に移ってきていたため、イギリスは朝鮮半島を不安定にしたくなかったと考えられています。
甲午農民戦争はなぜ起きたのか。貿易と貧困と東学
天津条約でいったん落ち着いたあと、今度は朝鮮内部で民衆の不満が爆発します。楊さんは、起きていることはシンプルで「それは起こるやろってこと」だと話しています。
不平等条約で開国させられた朝鮮は、日本や清との貿易を始めていました。外国産の綿を輸入し、金や米や大豆を輸出し続けた結果、食べ物が国外へ出ていき、民衆が貧困化していったとみられています。
開国
不平等条約で開国させられ、日本・清との貿易が始まる
輸出入の偏り
綿を輸入し、金・米・大豆を大量に輸出する
民衆の貧困化
食べ物が出ていき、民衆が困窮する
武装蜂起
東学の全琫準の呼びかけで民衆が蜂起する
武装蜂起を呼びかけたのは、東学 ── 崔済愚が創始した朝鮮の新興宗教。儒教を中心に仏教や道教を取り込み、西洋のキリスト教=西学に対抗して東学と名乗りましたという新興宗教の全琫準でした。
東学党の蜂起集団は、日本と西洋の駆逐、特権階級の打倒、ソウルへの進撃という3つを掲げます。規模は6、7千人ほどまで拡大し、重要な土地だった全州を占領するに至りました。
朝鮮政府は反乱を鎮圧するため、再び清に派兵を依頼します。依頼を受けた袁世凱は、天津条約の取り決めどおり日本側に事前通告をしてから出兵しました。
8000人の派兵と熱狂する世論
清の出兵通告を受けた日本は、清に軍を駐留されると不利になるため、日本も出兵を閣議決定します。名目は朝鮮半島に住んでいた日本人の生命と財産の保護でしたが、送られた軍は8000人を超えました。
清が軍を派遣することがわかっているので、日本は軍を派遣します。8千人送りますってなってくると、戦争が避けられない感覚がありますよね。
この時点で日本国内では、伊藤博文らが唱えていた協調路線がかなり後退していました。甲申事変以降の流れを受けて、開戦するしかないという方向へ日本の内部が向かっていたのです。
朝鮮への出兵が報道されると、新聞も清への強硬論を次々に打ち出し、世論は抑えきれないほど沸き立っていきます。全国で、正規の軍隊ではない人々が戦場に出たいと願う義勇兵運動が起こりました。
番組では具体例として、高知県の武道の道場で800名が義勇兵に志願したこと、旧水戸藩の士族268名が抜刀隊を編成して出兵を願い出たこと、東京ではヤクザのような人が1000人ほどを集めて従軍しようとしたことが紹介されます。あまりの熱狂ぶりに、明治天皇が鎮静化を求める詔勅を出したといいます。
勢いづいた日本は、清が絶対に飲めない提案をします。日本軍を撤兵させずに朝鮮の内政改革を清と協議すること、清が同意しなくても日本単独で内政改革を進めることの2点です。
日本の提案は、農民反乱がすでに鎮圧された後に出されたものでした。楊さんは、どちらにしても日本が思いどおりに改革を進めるという話なので、事実上の宣戦布告のようなものだと説明しています。
清も割れていた。中途半端な派兵が開戦を招く
開戦に向けて動く日本を見て、ロシアとイギリスはどちらも開戦に反対する態度をとります。強い列強の意向には逆らえず、日本も落としどころを探しますが、今度は清側がその落としどころを拒否しました。
清がなぜ拒否したのかについて、楊さんは清の内部も主戦派と開戦回避派に分かれていたことを挙げます。
実際、歴史を勉強してると、実は一番わかるのが内部で分裂してない組織が最も強いんですよね。
分裂してないだけで勝てる。
日本も朝鮮も清も内部は分裂していましたが、日本は段階的に開戦の方向へまとまっていきました。一方の清は、開戦派と回避派が開戦直前まで拮抗していました。
開戦派は一気に大軍を送りたいが反対があってできず、回避派も全く送らないとは言えない
少しずつ軍隊を送るという折衷になり、日本からは「戦争する気やん」と映る
楊さんは、分裂したまま中途半端な選択を重ねたことが、かえって戦争を呼び込んだと整理しています。清が落としどころを断ったため、ロシアとイギリスもしかたないという態度になり、武力干渉はしないことが確認されました。
大院君を担ぎ出したマッチポンプ
列強が口を出してこないとわかったことで、日本は開戦して朝鮮の権益を確定する方向へ舵を切ります。当時の朝鮮は、清と結んだ閔妃が実権を握り、閔妃の依頼で清軍が駐留している状態でした。
もう一つの勢力として、朝鮮を元の方向に戻したかった守旧派の大院君がいましたが、すでに政権から外されて力を失っていました。
朝鮮に派遣された日本軍と外交官は、大院君を担ぎ出して閔妃を排除し、政権につけます。そのうえで大院君に、朝鮮にいる清国兵を追い払ってほしいという依頼を日本へ出させました。
当時、漢城付近には日本軍が、南の牙山には清軍がいました。日本はまず牙山の清軍を追い払ってほしいという要請を出させ、清軍と戦う大義名分を手に入れます。
だから武力で制圧しといて、開戦理由をひねり出させてっていう、完全に列強化してるわけよね、日本が。イギリスっぽい挙動を始めるわけだよね、ここで。
日本は日朝修好条規で朝鮮を独立国として扱うとうたっていました。楊さんは、建前はそうでも実際は武力でどうにでもできる世界だという、ビスマルクの演説のアドバイスをそのまま受け取った振る舞いだとみています。
電信が切れた東京、現場で進む戦争
日本軍が朝鮮の王宮を占領していたころ、東京の日本政府はその状況を把握できていなかったといいます。東京と朝鮮を結ぶ電信線が、落雷や事故でしばしば不通になっていたためです。
ちょうど日本軍が朝鮮で動いていた時期に電信が不通で、伊藤博文らは開戦回避の道をなお模索していました。しかし現地では、すでに日清両軍の武力衝突が始まっていました。
電信切れたらもうアウトなんですね。すごい状況下で国同士のでかいことやってんすね。そんな危ういインフラの中で。
樋口さんは、復旧を待っていたら対応が遅れるので、現地は現地で判断するしかなかったのだろうと受け止めています。
こうして日本と清は戦争に突入します。伊藤博文も李鴻章も本当は戦争をしたくなかったのに、現場で「やるぞ」となってぶつかってしまった、と語られます。楊さんは、同じことが世界大戦のときにも起きていたと指摘しています。
構造的に戦争しないといけないっていうのもありますし。あとはさらっとしか触れなかったけど、やっぱりそのマスメディアによる、その国民国家だから、みんな国民が言ってるっていうのはすごく強くなっていくんで。
国民が戦争を求めている状態は、伊藤博文でも抑えきれなかったと考えられています。さらに、そうした世論を吸い上げた人が議員になり、議会でその論調が力を持つことも、民主国家で起こりうる動きとして挙げられました。
歴史は陰謀では動かない。過去の人を「愚か」と言わないために
日清開戦までの経緯を振り返って、楊さんは、一人の人物や一つの組織の陰謀が世界を動かしているという見方は、世界史を勉強しているとないのではないかと話します。
みんなそれぞれの得られる情報が限られてる中で、それぞれの最適解を模索し続けて、できたりできなかったりしていく中の相互連関の中で帰結していってっていう風になってるじゃないですか。
楊さんは、これはあくまで自分の意見であり、ファクトと意見を分けて伝えるよう心がけていると断ったうえで、リスナーにもファクトから自分なりに考えてほしいと呼びかけています。
番組では、出来事が終わった後の現代に生きる私たちは、当時の人にはできない俯瞰的な見方ができるという指摘もありました。だからこそ当時の人を愚かだと言うのは簡単ですが、自分が当時生きていたら彼らより賢い判断ができたのか、という問いが残ります。
後世の人間からすると、そんなこともわかんないの?見たらわかるじゃんみたいなことを多分めっちゃしてるみたいなのをメタ認知するのが多分今すごく大切なんだよね。
楊さんは、自分も同じ愚か者かもしれないと思うことが、今の自分たちの判断を見直す出発点になると考えています。次回はいよいよ日清戦争そのものが語られます。
まとめ
壬午軍乱から日清開戦までの約10年間は、日本と清が朝鮮に軍を置き、クーデターや反乱のたびに介入を深めていく過程でした。指導者の多くが戦争を避けたがっていたにもかかわらず、派閥の力関係、世論、通信の遅れ、中途半端な判断が重なって開戦に至ったことが、この回では丁寧に描かれています。
- 壬午軍乱の結果、日本と清の両方が朝鮮に軍を駐留させ、戦争は回避されたものの衝突に一歩近づいた
- 甲申事変は本国の返事を待たずに決行されて失敗し、日本国内では強硬派の薩摩派の声が強まった
- 甲午農民戦争をきっかけに日清双方が派兵し、日本では新聞と義勇兵運動で開戦論が高まった
- 清は内部の対立から少しずつ派兵する中途半端な選択を取り、日本は大院君を担いで開戦の大義名分を作った
- 楊さんは、歴史は陰謀ではなく限られた情報の中での最適解の積み重ねで動くとし、過去の人を愚かと決めつけない姿勢の大切さを語った





