幸せな結婚生活なのに、なぜ野枝は立ち止まったのか?
伊藤野枝編の最終回は、大杉栄 ── 明治から大正にかけて活動したアナキストの思想家・社会運動家。雑誌の発行や労働運動にかかわり、当局から強く警戒されていましたと夫婦になった野枝の家庭生活から始まります。楊さんによれば、二人は相性がよく、野枝は幸せな結婚生活を送れていました。
実は野枝は家事や育児が好きで、特に料理が一番好きだったそうです。衣食住を自分の趣味に合わせて自由にアレンジできることに、楽しみを感じるタイプでした。
それでも野枝は、自分の姿を客観的に眺めます。夫の世話をしたい、ご飯の時には早く帰ってほしい、夫の仕事を理解する賢い妻になりたいという気持ちが出てきたことに、「昔ながらの家庭の女という役割にはめ込まれていないか」と警戒したのです。
楊さんは、この警戒心の背景に辻潤との結婚生活の破綻があると説明します。最初は幸せだったのに、次第に生きがいが失われ、勉強しようとしてもできなくなった経験が、野枝を社会構造の「ハメ技」に敏感にしていました。
まあね、これ何とも言えんすけどね。結構違うから、辻との生活と。まあまあでも本人はそう思ったんでしょうね。
野枝が出した結論は、楊さんいわく意外に単純で、お互いの生活に必要以上に立ち入らないというものでした。共同生活の中で、お互いがもっと自分本位になるという考え方です。
野枝は具体策として別居も選択肢に入れ、実際に子どもを連れて故郷へ帰ったこともありました。故郷なら親が子どもの面倒を見てくれるので、それでいいという発想だったそうです。別居の期間は長くはありませんでした。
楊さんは、この根底にアナキズム ── 国家や権力による支配を否定し、個人の自由な結びつきによる社会を目指す思想。支配だけでなく依存関係も批判の対象にしますの思考フレームがあると語ります。人間の本当の幸福は他人から与えられるものではなく、自分自身を生かすことで得られると、野枝は考えていたといいます。
だって別に普通に幸せなんでしょ?なんで?ってなりますよね。
樋口さんは、当時の人から見れば野枝の行動は理解されにくかっただろうと述べつつ、実験の中で正しさを実感したい、別居という選択肢も持っておきたい、といった理由もあったのではないかと推測しています。
夫婦の役割分担を「交差」させた家庭
伝統的な夫婦の役割分担は、夫は外で仕事、妻は家で家事育児というものです。楊さんによると、野枝と大杉はおそらく話し合いを重ね、この分担をチューニングしました。
野枝と大杉の家庭では、家事育児は野枝が、社会運動の仕事は大杉がメインを担います。そのうえで、お互いが相手の領域にサブとして入る、交差する分担にしたのです。
夫は外で仕事、妻は家で家事育児。境界線がはっきり決まっている
家事育児は野枝、社会運動は大杉がメイン。大杉は家事の一部を担い、家は社会運動の基地として野枝も執筆などで関わる
大杉と野枝の家は仕事仲間と会ったり泊めたりする社会運動の拠点にもなり、野枝は家にいながら大杉の仕事に関われました。楊さんは、当時としては新しいやり方だったのではないかと見ています。
楊さんによれば、大杉は家事育児が嫌いではなく、むしろセンスがありました。子どもを乳母車に乗せて散歩し、子どもの服を選び、大根の皮むきや、赤ん坊のおしめから野枝の服までの洗濯もしてくれたそうです。
大杉は聞き手としても優れていて、野枝の話す些細なことを全部きちんと聞いてくれました。
ただし野枝と大杉は、自分たちのあり方が極めて特殊だという自覚も持っていました。他人には理解できないだろうと考えつつ、社会の敵になってもエゴイズムを貫き、同時に社会と向き合い続ける先にしか自分たちの幸せはない、と考えていたといいます。
労働者の街で、野枝はなぜ拒絶されたのか?
野枝は大杉とともに労働者問題にもかかわり、文章の発表や会合での講演を行っていました。大杉は労働者を救うにはまず彼らの感覚を理解すべきだと考え、労働者たちが住む街へ引っ越します。
野枝も一緒に移り住み、特に女性労働者と親しくなろうとしました。ところが、野枝は女性労働者たちからひどく嫌われ、拒絶されてしまいます。
楊さんの説明では、当時厳しい階層に置かれていた女性労働者から見ると、野枝はどう見ても育ちのいいインテリ風情の女性でした。野枝自身はお金に困っていたものの、やはり知識階級の人だったのです。
楊さんは、このエピソードが好きだと話します。野枝をあざ笑う気持ちではなく、自分とまったく違う世界に入って関係を築こうとしたこと、そして理想を持って近づいた相手から拒まれる体験を得たことに価値を見ているのです。
楊さんは、今の自分たちも、同じ学歴や同じ立場のように似た世界を生きてきた人とばかり話し、頷き合っているだけではないかと問いかけます。
めちゃくちゃそう思います、僕。
学歴とSNSがつくる見えない分断
樋口さんは、似た人とばかり接する現象を、高校入試の時点から始まる学力による分断として語ります。
高校入った時からもう学力による分断が起きて、一生気づかない可能性あるみたいなのがあって。
だってもうね、入学試験がある時点でもうフィルタリングされるじゃないですか。
樋口さんによれば、進む業界も学力で決まることが多く、「みんな言ってる」の「みんな」の分母は実はかなり偏っています。SNSでも似た人の投稿ばかりが流れてきます。
楊さんはこれをエコーチェンバー ── 似た意見の人同士が集まる閉じた空間で、同じ意見が反響し合って強化される現象。SNSのおすすめ機能で起きやすいとされますと表現しました。
エコーチェンバーがガンガン起きて、今日本がとか言ってるその日本ってめっちゃ狭い認識での中での日本っていう。
楊さんは、自分とかけ離れた世界ほど、人は上から目線で相手の人格を捨象しがちだと述べます。そして、五感や身体を使って感じないと到達できない「世界の解像度」があるのではないかと語りました。
野枝自身も、拒絶の体験から自分の中の階級意識を自覚し、女性労働者を救いたい一方で軽蔑を抱いてしまうジレンマを、素直に言葉に残しています。楊さんは、自分を綺麗に見せようとしていない点がいいと評価しました。
樋口さんは、青鞜社 ── 平塚らいてうらが1911年に結成した女性文芸団体。雑誌『青鞜』を刊行し、野枝も参加して編集にかかわりましたに入った頃の野枝はむしろ下の立場だったと指摘します。楊さんも、両方の立場を身をもって体験したことが野枝を特別な人間にしていると応じました。
生きがいを得た矢先の、関東大震災後の殺害
社会運動に深くかかわり、講演や寄稿、夫婦での出版もこなすようになった野枝は、楊さんの目には、まさに望んでいた生きがいのある生活を手に入れたように映ります。その矢先、野枝は殺されてしまいます。
野枝は生前、周囲に「どうせ私たちは畳の上でまともな死に方なんてしやしない」と繰り返し語っていました。その言葉どおりの最期でした。
きっかけは1923年9月1日の関東大震災 ── 1923年9月1日に関東地方を襲った大地震。東京や横浜で大火災が起き、混乱の中で流言が広がりましたです。震災後の混乱の中で、社会主義者やアナキスト、朝鮮人が不法行為を企てているというデマが広がり、軍や警察、民間人による虐殺が起きました。楊さんは、関連レポートが内閣府のホームページで公表されていると紹介しています。
楊さんは、言語や習慣、思想の違いで異質とされる集団は、社会不安が起きたときに標的になりやすいと述べます。野枝と大杉もこの流れの中で殺されました。
連行したのは、憲兵隊の甘粕正彦大尉が率いる一団でした。3人は体中の骨が折れるほど殴られ、裸にされた遺体は井戸に捨てられ、瓦や馬のフンやゴミで埋められたといいます。
楊さんによれば、真相はよくわかっていません。当時の皇太子、後の昭和天皇の被災地視察に備えた治安維持の一環として、マークされていた野枝と大杉が排除されたという学説があるそうです。
嘘やろっていう感じでいきなり終わったな。
残された子どもたちは叔父の代準介が引き取り、葬儀も出しました。故郷の今宿では野枝は長く地元の恥とされ、「非国民」「反逆者」と呼ばれてきましたが、今は変わっているそうです。楊さんは、生きていれば歴史に残る女性活動家になったのではないかと想像しています。
無名の人の生き様を掘り出す意味とは
本編後の振り返りで、楊さんは、歴史を掘り出す営みには価値があると語ります。樋口さんは、伊藤野枝という名前すら聞いたことがなかったと明かしました。
楊さんによれば、野枝は体系的な思想書を残したわけでも、女性や労働者の地位を劇的に変えたわけでもありません。それでも、野枝の言葉には社会と格闘した一人の女性の姿があり、そこに心を動かされることこそ歴史を学ぶ本質の一つだと楊さんは話します。
樋口さんは、家庭の中で生きることを社会活動と捉えた野枝の姿勢に触れます。自分が家庭に入ったら、それをメディアや本で発表しないと社会への影響を実感できないだろう、と率直に語りました。
確かにその時、その瞬間に家庭内で一生懸命生きたっていう野枝さんの行動が、今こうやってやんやさんの口を通して社会に影響を多分何かしら与えてると思うんですけど。
楊さんは、野枝は評価されるためやインフルエンサーになるためではなく、ただ生きるために頑張っただけだと応じました。
価値観は本当に変わったのか?
樋口さんは、最初は「昔はそういう時代だった」と聞いていたものの、途中から「いまだにあるぞ」と感じたと話します。ジェンダーの話は繊細だと前置きしたうえで、今の自分たちもそれほど変わっていないのではないかと述べました。
まだまだ全然こう認識、当たり前と思いすぎていて、認識できてないことがあるような気がするなって思いました。
樋口さんは、野枝を自分の体験や目で見たものを大切にし、影響力のある人の意見を鵜呑みにせず、家庭の中の体験から自分のロジックを組み立てた人だと評価します。
楊さんは、野枝がエマ・ゴールドマン ── アメリカで活動したアナキストの女性思想家。自由恋愛や女性の解放を唱え、野枝に大きな影響を与えましたの思想を軸にしながらも、そのまま実践したわけではない点を強調します。
家庭を破壊しろと主張した
家庭は壊さず幸せをつかみ、その幸せを常に振り返って大杉と調整し続けた
「変な人」を嫌う前に、なぜと問う
最後に樋口さんは、結果だけ見れば野枝は変人だと話します。何度も離婚し、世間から叩かれた人ですが、野枝の目線に入り込むと理解できる人もいるはずだというのです。
樋口さんは、これは芸能人や有名人、身近な「あの人ちょっとやばいよね」と思われている人すべてに当てはまると考えています。楊さんは、自分はそういう人を遠ざける挙動をとると明かしました。
その人の目線、その人の眼鏡で、その人の価値観で世界を見ると、実はその人がやってることって全部合理的かもしれないんですよ。
嫌悪感を持つ
相手に対して「嫌だ」と感じる
なぜと問う
嫌いと決める前にワンクッション置く
相手の目線で理解する
その人の価値観で世界を見る
判断する
理解したうえでなら嫌いでもいい
樋口さんは、いきなり嫌うのは人間に対して誠実さが足りない気がすると語り、楊さんも、好き嫌いの判断はそれからでも遅くないと応じました。
まとめ
伊藤野枝は、幸せな家庭の中でも構造に巻き取られることを警戒し、自分の体験から考え方を組み立てました。関東大震災後に突然命を奪われましたが、その生き様は、似た人とばかり話す現代の読者にも問いを投げかけています。
- 野枝は家庭の幸せを享受しながら、お互いに立ち入りすぎない関係や交差する役割分担を大杉栄と模索した
- 女性労働者からの拒絶は、自分と違う世界に入る難しさと自らの階級意識を野枝に自覚させた
- 1923年、関東大震災後の混乱の中で、野枝は大杉と5歳の甥とともに憲兵隊に殺された
- 体系的な思想を残さなかった人の人生にも、歴史として掘り出す価値があると語られた
- 樋口さんは、人を嫌う前に「なぜ」と問い、相手の目線で見ることを大切にしたいと話した



