法人コテンクルは「何も返さない」から始まった?
この回は、新年最初の収録として行われた番外編です。ゲストは、株式会社中川政七商店の代表取締役会長・中川政七さんと、代表取締役社長・千石あやさんの2人です。
樋口さんの紹介によると、中川さんは1974年生まれです。京都大学法学部を卒業して2000年に富士通に入社し、2002年に中川政七商店へ移り、2008年に十三代社長に就任しました。2018年からは会長を務めています。
中川さんは、工芸をベースにしたSPA ── 製造から小売りまでを一社で一貫して手がける業態。アパレル業界で広まり、ユニクロなどが代表例として知られます業態を業界で初めて確立しました。「日本の工芸を元気にする」というビジョンのもと、業界に特化した経営コンサルティング事業や教育事業も始めています。
千石さんは1976年生まれで、香川県高松市の出身です。大手印刷会社でデザイナーや制作ディレクターとして働いたあと、2011年に中川政七商店へ入社しました。社長秘書、商品企画課課長、ブランドマネージャーなどを経て、2018年3月から社長を務めています。
深井さんと中川さんは4〜5年ほど前に知り合い、ボードゲームだけをして帰るような友人関係だといいます。中川さんはコテンラジオを全部聴いているリスナーでもあり、千石さんも「社内にファンが多い」と話しています。
深井さんによると、法人向けのCOTEN CREWを最初に提案したのも中川さんでした。個人向けのCOTEN CREWはすでにありましたが、それを法人向けにも広げてはどうかという提案だったそうです。
法人向けCOTEN CREWは、見返りを何も用意しない形で募集が始まりました。深井さんは「価値提供してなんぼ」と考えていたため、丸2年間なにもしないことには強い勇気が必要だったと振り返ります。その背中を押したのも中川さんでした。
中川さんがこうした助言をした理由は、お金と見返りの関係にありました。お金を受け取って何かを返すと、「払っているのだから何かもらえる」という上下関係が生まれてしまいます。すると、最初は純粋な応援だった関係が、いつの間にか常に上から物を言われる関係に変わってしまうといいます。
中川さんの考えでは、お金を受け取っても何も返さないことで、初めて双方が対等な関係になれます。この説明を聞いた樋口さんは、次のように言い換えています。
だから(支援者が)お客様になっちゃうってことですよね。
300年で初めて、創業家以外が社長に
深井さんが今回2人をゲストに招いたのは、会長の中川さんが退任すると聞いたからです。中川さんは株主としては残りますが、経営には関わらないといいます。
深井さんは、創業家が株主として残りながら経営から離れるこの形を「住友ムーブ」と呼んでいます。以前の番外編でも後継ぎの問題を取り上げてきた深井さんにとって、ぜひ詳しく聞きたいテーマでした。
もう一つの注目点は、社長を継いだ千石さんが中川家の人ではないことです。中川さんによると、中川家以外の人が社長になるのは300年の歴史で初めてだといいます。
なんかあれですよね、その身を引く方も、新しく引き継ぐ方も両方で勇気がいりますよね。
深井さんは、この決断がどんな感覚とプロセスで下されたのか、2人がどんな未来を描いているのかを聞きたいと話します。対話は、まず中川政七商店がどんな会社なのかを確かめるところから始まります。
奈良晒の問屋は、なぜ雑貨の会社になったのか
中川政七商店は、1716年(享保元年)に奈良で創業しました。「暴れん坊将軍」の時代にあたる江戸中期で、最初は奈良晒 ── 奈良周辺で生産された高級な麻織物。江戸時代には武士の裃などに使われ、奈良の代表的な産業として栄えましたと呼ばれる高級麻織物を扱う問屋でした。
当時の奈良晒の商売はとても栄えていたそうです。中川さんは、井原西鶴の作品にも奈良町の旦那衆の羽振りのよさが描かれていると紹介しています。武士の裃に奈良晒が使われ、徳川幕府の指定を受けていたことが繁盛の理由でした。
ところが明治に入って武士がいなくなると、奈良晒の産業は一気に衰えます。中川さんによると、江戸時代から続く奈良晒の会社は、いまでは中川政七商店だけだといいます。
その後の中川政七商店は、お坊さんの法衣や着物の生地、そして茶道で使う茶巾で商売を続けてきました。千利休が茶巾には奈良晒がよいと言ったと伝えられていることもあり、茶道具部門はいまも残っています。
中川さんが家業に戻った2002年当時、主力は茶道具でした。小さな雑貨事業もありましたが、中川さんの母親が担当していたその部門は赤字でした。
中川さんはすぐに雑貨部門へ移り、立て直しに取り組みます。数年後には、雑貨部門の規模が茶道具部門を上回るまでに成長しました。
64店舗と「工芸の家庭教師」
工芸は、はっきりとした斜陽産業だと中川さんは言います。店を出して小売りまで手がけるようになると、すぐに商品の量が作れなくなりました。
当時はユニクロがフリースで大ヒットし、製造から小売りまで一貫して手がけ、大量に作って安く売るSPAが注目されていました。しかし工芸の世界では、職人に「今の倍作ってほしい」と頼んでも「いや無理やから」と断られてしまいます。
毎年のように作り手が廃業の挨拶に来るようになり、このままでは自社の商売も続けられないと中川さんは危機感を抱きました。そこで2008年ごろから「日本の工芸を元気にする」というビジョンを掲げ、裏側で工芸メーカーの再生コンサルティングを始めます。
中川さんの言う工芸とは、焼き物、久留米絣のような布物、竹細工、ガラス細工など、すべてが機械化されておらず、どこかに必ず手仕事が入ったものづくり全般です。
作り手の減少
職人が足りず、量を作れない。廃業も相次ぐ
再生コンサル
工芸メーカーの経営を立て直す
作り手が元気に
作れる量・売れる量が増える
店舗の展開
増えた商品を店で届けられるようになる
中川政七商店の店舗は、いま64店舗ほどあります。中川さんが入社したときは2〜3店舗だったので、中川さんの代で一気に広げたことになります。
深井さんは、自身もよく買い物をするという店の魅力を紹介します。店には、奈良一刀彫の鹿や猿の置物、モダンな陶芸のお皿、布製品など、現代的なおしゃれさと工芸を組み合わせた品が並んでいます。猫の毛を取るコロコロのケースや箒のように、日用品を工芸で美しくしたものも多いそうです。
中川さんは、自分のコンサルティングを「家庭教師のようなもの」と表現します。最初の支援先は長崎県の波佐見焼 ── 長崎県波佐見町周辺で作られる焼き物。日常使いの器として知られ、近年はモダンなデザインで人気を集めていますの窯元でした。経営をしたことがない跡継ぎの息子さんに経営を教えたところ、潰れかけていた会社があっという間に回復したといいます。
ただ、家庭教師のやり方では支援が追いつきません。そこで途中から、塾にあたる教育事業を始めました。工芸の事業者だけでなく、デザインやプロデュースに関わる人たちも集まって一緒に学んでいます。
中川さんによると、行政の補助金による似た取り組みは多いものの、なかなか結果が出ません。中川さんは現役の経営者として作り手の気持ちがわかり、デザインだけを変えるのではなく決算書をよくするという全体からのアプローチをとってきたため、結果を出せたと話しています。
「継げ」と言われなかった後継ぎ
聞き手は、まだ現役を続けられる年齢の中川さんが、なぜ経営から退くのかを尋ねます。中川さんの答えは、26〜27歳で家業に戻ったときにさかのぼります。
当時の中川政七商店は、中川さんの目には「ちゃんとした会社」ではありませんでした。中川さんは会社をきちんとした組織にしたいと考え、そのわかりやすい形として「中川家ではない人が継げる状態にする」ことを20代のころから目標にしていたといいます。
中川さんは、親から「継げ」と言われたことが一度もなかったそうです。富士通で働いたあと、自分の意思で転職先の一つとして家業を選びました。入社初日の挨拶で「出身は奈良で」と話し始めたところ、社員に「知ってるわ、社長の息子」と笑われたというエピソードも語られています。
中川さんは死ぬ気で打ち込むために、あえて終わりを決めていました。最初は45歳で引退すると決め、その代わり、そこまでは全力でやると考えていたそうです。
父親が何の仕事をしているのか、中川さんはよく知らなかったといいます。家で仕事の話が出ることはありませんでした。後から聞くと、これは父親の作戦でした。「継げ」と言えば反発されるので言わず、代わりに「会社を経営していると美味しいご飯が食べられる」と刷り込もうとしていたそうです。
富士通時代、夏休みに帰省した中川さんが「戻ろうと思う」と伝えると、父親は内心とても喜びました。それでも表向きは「1年ちょっとで何がわかる」「富士通の看板で仕事ができているだけだ」と突き放します。中川さんは頭を下げて入社を頼み、給料も富士通より下げられました。
後日、中川さんは父親がNHKか何かの取材で「あの時はしてやったりやった」と嬉しそうに話すのを聞いたそうです。樋口さんは、その様子を「恋の駆け引きみたい」と表現しています。
中川さんは、代々続くオーナー経営者でありながら、会社を自分のものだという感覚はあまりなかったと話します。仕事として社長業を務め、職業選択の自由もあるので、嫌になれば辞めるという選択肢も社内で伝えていました。最終的に、43〜44歳のころに社長を交代しています。
社長就任と、父の遺した「とらわれるな」
樋口さんは、2002年の入社から6年後の2008年に社長となった経緯を尋ねます。中川さんによると、老舗によくある揉め事はなかったそうです。
中川さんは入社から数か月で雑貨事業の責任者として動いていました。建物も離れていたため、1つの会社を経営しているような感覚だったといいます。数字が順調に伸びていたので、父親から文句を言われることはありませんでした。
一度だけ売上が前年を下回ったとき、父親がふらりと来て「どないなっとんねん」と尋ねたそうです。中川さんが説明すると父親はそのまま帰り、中川さんは「数字が悪いと何か言われる」と気を引き締めました。
父親は早くから社長交代を持ちかけていましたが、中川さんは雑貨事業に専念したいと考え、しばらく断っていました。茶道具と雑貨の両方を見る必要を感じ始めたことに加えて、ばらばらだった拠点をまとめる社屋を建てる計画もありました。大きな投資をするには資金繰りも自分で見る必要があったため、このタイミングで社長を引き継ぎました。
代替わりのとき、中川さんは父親と2人で東京の取引先へ挨拶回りに出かけました。そこでも仕事の話は出ず、「新宿中村屋でいつも昼飯を食べている」と教えられたくらいだったそうです。
その後、父親と2人で食事をしたとき、中川さんは父親から2つのことを伝えられます。1つ目は、バブル期の株で大損し、中川家の財産を3分の1にしてしまったという謝罪でした。
2つ目は、「麻にとらわれるな」という言葉でした。周りからは型にとらわれない経営者だと見られていた中川さんに対して、父親は代々扱ってきた麻という素材にすら縛られなくていいと伝えたのです。
中川家には、社是や家訓のような明文化された言葉は残っていませんでした。中川さんは、父親の「とらわれるな」という一言こそ、口伝で受け継がれてきた唯一のものだったのかもしれないと振り返っています。
千石あやさんは、なぜ中川政七商店に入ったのか
千石さんが入社したのは2011年です。中川さんが社長に就任したときには、まだ社内にいませんでした。
千石さんは大学を卒業したあと、印刷会社で12年ほどカタログや雑誌などの商業印刷に関わってきました。クリエイティブの仕事は楽しかったものの、複数の案件を同時に進める速いサイクルのまま年齢を重ねるのは難しいと感じ、ゆるやかに転職活動を始めたそうです。
千石さんが中川政七商店を知ったきっかけは、入稿を待つ夜中にふと見たホームページでした。当時の店舗は、まだ10店舗を少し超える程度だったといいます。
千石さんの心に響いたのは、生産管理の求人記事でした。記事には、社内で「つくりべ」さんと呼ぶ奈良のおばあちゃんたちが、赤ちゃん用のお手玉などを1つずつ手作りしている様子が書かれていました。作り手からの改善案をものづくりに生かしている話も紹介されていました。
千石さんは、丁寧に作ったものを長く使ってもらう仕事に携わりたいと考えていました。学生時代から寺社仏閣をめぐって奈良に通っていたこともあり、条件がすべてかみ合ったと感じて、その場で応募のメールを書いたそうです。
工芸の「生態系」をまるごと守る経営とは?
深井さんは、中川政七商店には言葉にしにくい独特の魅力があると話します。店舗には、大量生産・大量消費から距離を置いた雰囲気がにじみ出ているといいます。
深井さんの見立てでは、工芸は仕入れ先が次々と潰れていく領域です。そのため、中川政七商店は作り手が潰れないように、ふつうの会社よりずっと気を配って循環経済 ── 資源や価値を一方向に使い捨てず、関わる人や資源が循環し続けるようにする経済の考え方を回しているといいます。
千石さんは具体例として、仕入れ先への支払いサイトをとても短くしていることを挙げます。上場準備をしていた時期には、資金の回転率を上げるために支払いまでの期間を長くしてはどうかと提案されましたが、それは絶対にしないと決めていました。
発注の仕方にも工夫があります。売れ残りのリスクを考えると、発注の数量は小分けにしたくなります。しかし、それでは作り手が効率よく作れません。そこで中川政七商店は年間の購入量を先に伝え、作り手の都合のよいときに段取りして作ってもらっているそうです。
支払いサイトを長くして資金効率を上げ、在庫リスクを避けるために発注を小分けにする
支払いサイトを短く保ち、年間の購入量を先に伝えて作り手の都合に合わせて作ってもらう
深井さんは、こうした経営を「環世界デザイン」のようだと表現します。職人の思いを残しながら、売れて利益が出る形に変え、本質は変えずに現代に合わせていくという、多くの立場を同時に考える難しさがあると話しています。
中川さんも、自分たちを株式会社中川政七商店としてではなく、日本の工芸そのものとして捉え、全体の最適を考えていると話します。深井さんとの勉強会などを通じて考えた「いい会社」の条件として、中川さんは自己認識の広さと時間軸の長さを挙げました。
中川さんは、300年続く会社に恵まれたからこそ、10年ではなく30年、50年、100年という長さで日本の工芸を元気にすることを考えられると語ります。
上場の取りやめと「自分が辞めれば育つ」という発想
社長交代の前、中川政七商店は上場の準備を進めていました。申請書類を書き上げ、あとは出すだけという段階まで来ていたそうです。
中川さんにとって、上場はあくまで手段でした。当時の中川政七商店は、優秀な女性社員は採用できていたものの、男性がなかなか採れませんでした。顧客の9割が女性で、ビジネスの世界での知名度が低かったことが原因だったといいます。
ところが、一橋大学が主催し、経営学者マイケル・E・ポーター ── 競争戦略論で知られるアメリカの経営学者。一橋大学は彼の名を冠した「ポーター賞」を、独自の戦略で高い収益性を上げる企業に贈っていますの名を冠したポーター賞を受賞し、東京事務所も開いたことで、優秀な男性を採用できるようになりました。上場する意味がなくなったと考えた中川さんは、直前に上場を取りやめます。
その後の最大の課題は、ミドルマネジメント層が育たないことでした。中川さんは社員が7人ほどの時代から細部まで自分で手がけてきたため、自分でやったほうが早く、ずっとトップダウンで経営してきました。
しかし社員が増え、ビジョンの達成を考えると、1人の頭で考え続けるのには限界があります。そこで中川さんはあるとき、「自分が辞めればミドルが育つのではないか」と思いついたそうです。
採用の課題
優秀な男性社員が採れず、その解決策として上場を準備する
課題の解消
ポーター賞の受賞と東京事務所の開設で採用が改善する
上場の取りやめ
上場する意味がなくなり、直前で中止する
残った課題
トップダウンが続き、ミドルマネジメント層が育たない
社長交代
中川さんが退けば、ミドルが育つと考える
「ご乱心」と受け止められた社長指名
中川さんは、一時的には大変でも、自分が退くことは将来のためになると考えました。では次の社長は誰かと考えたとき、すぐに千石さんの名前が浮かんだそうです。
中川さんは、社内に1か所しかない密室の会議室に千石さんを呼び、社長を継いでほしいと伝えました。千石さんは椅子にも座らず、「いやいやいや、ない」と言ってすぐに部屋を出ていったといいます。
千石さんは秘書を務めていたので、「次は中川姓でない人に譲りたい」という考えは聞いていました。ただ、「10歳くらい離れていないと意味がない」という話もしていたため、年齢が2〜3歳しか違わない自分が指名されるとは少しも思っていなかったそうです。
千石さんにとって、中川さんは初めて間近で見た経営者でした。老舗でありながら中身はベンチャーで、ロジカルでわかりやすい説明とトップダウンのスピードで、1店舗から数十店舗へと広げていく姿を見てきました。
千石さんは、自分の性質はそうした経営者像と正反対だと感じていました。そのため、社長指名を受けたときは中川さんが「ご乱心」だと思い、「お気を確かに」という気持ちだったと笑いながら振り返っています。
一方の中川さんが千石さんを選んだのには、はっきりした理由がありました。当時は主要な3つのブランドをブランドマネージャー制で独立採算に近い形で運営しており、千石さんはそのブランドマネージャーの一人でした。
中川さんは、千石さんが小さなブランドを上手に運営していた2年ほどの実績を見ていました。そして、自分と同じタイプの人が社長になっても意味がないと考えていたといいます。
ロジカルでわかりやすい説明とトップダウンのスピードで、店舗や新しい事業を広げてきた
本人いわく中川さんとは性質が正反対。中川さんは、多少の隙があるトップを周りが支えることでミドルが育つと考えた
社長交代は、なぜ「無風」だったのか
中川さんは、千石さんと何度も話し合いを重ねて説得しました。最後は千石さんの提案で、他のブランドマネージャーなど経営幹部の意見を聞く食事の場を設けることになります。
千石さんは、幹部の誰かが冷静に止めてくれると期待していたそうです。しかし幹部たちは、最初こそ驚いたものの、5分ほどで「プレスリリースは何と出しましょうか」という話を始めたといいます。中川さんは、事前の根回しは一切していなかったと話しています。
中川さんの父親はすでに亡くなっていました。長く一緒に仕事をしてきた母親に事前に伝えると、「いいわね、楽しそうね。あなたは次に何をするの?」と返されたそうです。
中川さんが最も気にしていたのは社内の反応でした。社員全員を集めて交代の理由を説明し、千石さんも挨拶をしましたが、社内からは驚きや疑問の声がまったく出ませんでした。古参の女性社員が1人だけ「私はちょっと寂しいですよ」と声をかけてくれたほど、静かに受け入れられたそうです。
中川さんは、社内が静かだった理由をビジョンにあると考えています。社員は中川さん個人に仕えているのではなく、「日本の工芸を元気にする」というビジョンに仕えていて、「役職は役割だ」という考えも浸透していました。そのため、ビジョンは変わらず役割だけが交代したという受け止め方になったといいます。
交代にあたって、中川さんは「一番偉いのは社長で、社長が絶対」だと社内に伝えました。社長派・会長派のような対立を避けるため、組織図でも会長の中川さんは社長の下に置かれ、一部門長を務めたそうです。役割も分けられ、千石さんが主力の工芸SPA事業を、中川さんが別動隊としてコンサルティングや新規事業を担当しました。
深井さんが、千石さんのどこが幹部の満場一致を引き出したのかを聞きたいと切り出したところで、この回は時間切れとなります。その話は次回に持ち越されました。
まとめ
この回では、奈良晒の問屋として始まった中川政七商店が工芸の会社へと姿を変え、300年で初めて創業家以外の千石あやさんに社長を託すまでの経緯が語られました。中川政七さんの決断の背景には、20代のころからの「中川家でなくても継げる会社にする」という目標と、ミドルマネジメントを育てるという課題がありました。
- 中川さんは親から継げと言われず、自分の意思で家業に入り、最初から引退の時期を決めて全力で取り組んだ
- 支払いサイトを短く保ち、年間の購入量を先に伝えるなど、工芸の作り手を守る経営を続けてきた
- 上場は採用のための手段であり、採用の課題が解消したことで直前に取りやめた
- 千石さんを選んだのは、ブランドマネージャーとしての実績と、中川さんとは違うタイプであることが理由だった
- 社員がビジョンに仕えていたため、社長の交代は社内で「無風」のまま受け入れられた






