内政・外交・戦争を同時に抱えたケマルは、まずソビエトと組む
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前回までに、ケマルはアンカラ政府を立ち上げ、議長として実質的な首相の立場に就いていました。その一方で、イスタンブール政府は連合国とのセーブル条約 ── 第一次世界大戦後の1920年に、連合国とオスマン帝国のイスタンブール政府が結んだ講和条約。領土の大幅な分割を定めていましたに署名してしまいます。
深井さんによると、この時期のケマルは、反対勢力をまとめて自分の地位を固めること、各国との外交、セーブル条約を跳ね返すこと、攻めてきたギリシャへの対処を、すべて同時進行で抱えていました。
全員敵だからさ、自分以外。
これはハードモードですね。
ケマルが最初に打った手は、ソビエトとの同盟でした。ケマル個人は共産主義に嫌悪感を持っていましたが、それを抑えてレーニンやスターリンを「同志」と呼び、共産主義に共感しているように見せながら近づいたと話されています。
ソビエトが話に乗った理由について、深井さんは、ソビエトは第一次世界大戦から離脱していたためセーブル条約の利害調整に入っておらず、連合国が強くなるこの条約を喜んでいなかった点を挙げます。
その結果結ばれたモスクワ条約は、アンカラ政府が国際的に承認された初めての条約になりました。連合国がイスタンブール政府と条約を結んでいる中で、ソビエトは「正当な政府はアンカラの側だ」と認めたことになります。
ケマルはソビエトに、渡してもいい範囲のトルコの土地や利権を少しずつ渡し、その代わりに味方になってもらう交渉を進めました。さらに、1000万ルーブルの金貨と2個師団分の武器・弾薬の提供まで引き出しています。
ソビエトとの関係は、他のムスリム諸国との関係づくりにも使われました。ソビエトを仲介役にしてアフガニスタンなどと条約を結び、イスラム世界の一部でもアンカラ政府が認められていきます。
カードを一枚ずつ集めていくみたいな感じでね。
フランスを離脱させた「簡単に言うことを聞く相手じゃない」という脅し
フランスへの対応について、深井さんは、ケマルが民主主義国家を「意見が変わりやすい国」と見ていた点に注目します。ケマルは、独裁的な国よりも、政党や首相が交代すれば外交方針も変わる国のほうが崩しやすいと考えていたようです。
実際にケマルは、フランスの首相が交代したタイミングで交渉に動きます。ただ、当時のアンカラ政府は、オスマン領だったシリアに進駐してきたフランス軍とまだ戦ってもいました。
ケマルがフランスに示したのは、弱腰で何でも受け入れてしまうイスタンブール政府とは違い、アンカラ政府に言うことを聞かせるには相当なコストがかかる、というメッセージでした。
弱腰外交で、言われたことをすべて受け入れてしまう
よほどのコストをかけない限り言うことを聞かせられない。戦闘でも交渉でもそれを見せつける
簡単に利権をケーキみたいに切り分けられるような場所じゃないよ、お前も必ず痛い目見るよっていうのを戦闘の部分で見せつけたりとか、外交の部分で見せつけていくわけ。
で、どっちが折れるかなんだよね、結局。脅し合ってるだけだから、これ。
この脅し合いにケマルが勝ち、フランスとはアンカラ協定が結ばれます。フランスが占領していたキリキアなどトルコ南東部への要求を取り下げさせた一方、トルコ側もシリアのフランス委任統治を承認するという譲歩をしました。
深井さんが重要な点として挙げるのは、フランスをセーブル条約の側に組ませなかったことです。トルコが小さくなることより、シリアの利権を選んだフランスは、敵の側から離脱します。イギリスの外交官は、これを「フランスの裏切り」と受け止めたといいます。
一方、共産主義者のふりをして近づいた相手であるソビエトの人々は、アンカラ政府がフランスと協定を結んだことに首をかしげたそうです。樋口さんは、アンカラ政府の立場はまだ弱く、生き延びる隙間を少しずつ確保している状況だとまとめています。
イタリアとアメリカを経て、なぜ敵はギリシャとイギリスだけになったのか
イタリアの切り崩しでは、イギリスへの不信感が利用されました。深井さんによると、イタリアはイギリスの多重外交で騙された国の一つで、裏切られたと感じていました。
ケマルはこの不信感をつつき、セーブル条約を忠実に履行しようとするイギリスとイタリアの足並みを乱します。イタリアとは別個に和平協定を結び、トルコの主権と、アンカラ政府が受け入れ可能な和平への支持を取りつけました。
イタリアはギリシャと取りたい土地の領域が近く、ギリシャと一緒にトルコへ攻め込む可能性も高かったといいます。イタリアをギリシャにもセーブル条約にも組ませなかったことが、この外交の要でした。
アメリカはセーブル条約に入っておらず、この地域に関心もなかったため、特に何も起こりませんでした。こうして一国ずつ手を打った結果、残る敵は攻めてくるギリシャと、それを支援するイギリスだけになります。
| 相手国 | ケマルの手 | 結果 |
|---|---|---|
| ソビエト | 共産主義に共感するふりをし、利権を少しずつ渡す | モスクワ条約で承認と支援を獲得 |
| フランス | 首相交代を機に交渉し、戦闘と交渉で強気を示す | アンカラ協定で要求を取り下げさせる |
| イタリア | イギリスへの不信感を利用する | 別個の和平で主権を承認させ、ギリシャ側への参戦を防ぐ |
| アメリカ | 特になし | 関心がなく、何も起こらない |
戦いを略してるやん。
深井さんは、連合国は一まとまりで戦争していたため、当時この切り崩しができると思っていた人はケマル以外にほとんどいなかったのではないかと話します。
ケマルは、連合国側にも戦争疲れがあることを見ていました。ガリポリの戦い ── 第一次世界大戦中、連合国がダーダネルス海峡の突破を狙ってオスマン帝国に仕掛けた作戦。連合国側の大損害で失敗し、ケマルはこの戦いで名を上げましたの失敗で、作戦を支援したイギリスの政治家が議席を失い、チャーチルも一時閑職に就いています。
敗戦条約を結ばないといけないのが当たり前のように見えるんだが、実はここで反抗すると相手が折れるっていうところのギリギリのところを攻めてるってことだよね。
深井さんは、ケマルには国際情勢を人間関係のように細かく捉える高い解像度があったか、あるいは周囲のブレーンを含めた「ケマルチーム」がよく機能したのではないかと推測しています。加えて、国が失われるかもしれない危機の中で強気に動けたメンタルにも驚きを示しています。
大ギリシャ主義に燃えるギリシャ軍と、ゼイベキのゲリラ戦
一方でギリシャは、イギリスのロイド・ジョージ首相の強い支援を受けて攻めてきていました。ギリシャには、古代の広大なギリシャのような巨大国家を再建するという大ギリシャ主義があり、オスマン帝国が弱った今こそ理念を実現する好機だと熱狂していたといいます。
1919年にギリシャ軍がイズミルに上陸し、この出来事がトルコのナショナリストを沸き立たせ、ケマルがそれをまとめ上げました。ただ、アンカラ政府は正式な政府ではないため、規律の整った正規軍を十分に持っていたわけではありません。
アンカラ政府が頼ったのは民兵や、任侠のような集団でした。番組では、ゼイベキと呼ばれる人たちがエフェと呼ばれる親分を頂点に固い絆で結ばれ、アナトリア各地で抵抗運動を組織してゲリラ戦を展開したと紹介されています。
大戦末期に出た脱走兵もアナトリアに戻り、ゲリラ戦に加わりました。ソビエトから提供された武器は正規軍に回されます。長くアナトリアに暮らし地形に通じた人々のゲリラ戦は、侵攻するギリシャ軍にとってかなりきついものだったようです。
番組では、ケマルが青年トルコ革命の頃にもさまざまな部族と連携して治安を安定させていたことに触れ、素性の知れない人々をまとめる才能が昔からあったと読み取れる、と話されています。
イノニュの戦いと、パニックの中で一人だけ前向きだったフェヴズィ
ギリシャ軍はオスマン帝国の旧首都ブルサなどを奪っていきます。外交や内部の抵抗勢力のとりまとめに目処がついた時点で、トルコ側は反撃を始めました。
この反撃で活躍したのが、後にケマルの次の大統領になるイスメトです。イスメトはイノニュの戦いでギリシャの一部隊を撃退しました。深井さんによると、実際には小競り合いにすぎなかったものの、ケマルがこれを大々的に宣伝し、イスメトをパシャにしたといいます。
イスメトはこの戦いの地名から「イノニュ」を名乗るようになります。深井さんは、それほどのプロパガンダだったと表現しています。
しかしギリシャ軍は、大ギリシャ主義を実現するため乾坤一擲の大攻勢を仕掛けてきます。アンカラ政府の拠点は次々と落ち、イスメトもついに敗北しました。
ギリシャ軍の大攻勢
アンカラ政府の拠点が次々と陥落し、イスメトも敗北する
難民の流入
落ちた拠点から逃げてきた人々でアンカラがパニックに陥る
議会の糾弾
大国民議会がケマルを激しく責め、ケマルも相当追い詰められる
この苦しい時期に、フェヴズィだけはずっと前向きで、ギリシャに勝てる可能性を口にしていたといいます。ケマルはそのフェヴズィに大きな勇気をもらったそうです。
恐怖って伝播するからね。伝播する時に一人だけ伝播しないやつってめちゃくちゃ特殊だからね。
会社もそうだよね。傾いた時ってめちゃくちゃ恐怖が伝播するけど、伝播しない人間一人いるだけで、そこで流れ止まったりするから。
肋骨を折っても前線へ。サカリア川で「窒息させる」戦略
追い込まれたケマルは、大国民議会に法案を出させ、自分をトルコ軍の最高司令官に任命させます。議会の権限をすべて自分個人に与えさせ、3ヶ月の期限付きで独裁体制を作りました。
ケマルは軍を離れてアンカラに向かって以来、2年ぶりに軍服を着て前線に向かいます。深井さんはこれを古代ローマのディクタトール ── 古代ローマで非常時に任命された独裁官。任期を区切って大きな権限を一人に集め、危機に対処させましたにたとえています。
ケマルの戦略は、ギリシャ軍をわざと内陸深くまで引き込み、補給線を伸ばして負担をかけ続けるものでした。民衆にも武器や車両、衣服、食料の提供を求め、農民の女性が牛車で物資を前線に運んだ逸話が美談になるほどの総力戦になります。
決戦の地は、アンカラからわずか西に50キロのサカリア川でした。ケマルは前線視察中に落馬して肋骨を折りながらも、前線に司令部を置いて指揮を続けます。
要地のチャル山を奪われると、議会は再びケマルを激しく批判し、ケマルも撤退を視野に入れたといいます。部下のハリデは、このときのケマルの目を「ダンテが語る地獄で責め苦を受ける者のよう」だったと証言しています。
しかし、実はギリシャ軍も限界でした。進めば進むほど補給ができなくなり、撤退せざるを得なくなっていたのです。アンカラ軍に追撃する余力はありませんでしたが、ギリシャ軍はアンカラから遠くへ下がっていきました。
補給ができなくさせていって、まさに窒息勝ちって感じだよね。戦闘に負けてるけど窒息で勝つみたいな、なんかそんな感じですよね。
将校の8割が死傷しても軍が崩れなかった点について、深井さんはケマルのカリスマ性を挙げています。勝利後、大国民議会はケマルにガーズィー ── イスラム世界で信仰のために戦う戦士を意味する称号。オスマン帝国でも武勲を立てた者に与えられましたの称号を贈りました。樋口さんは、少し前まで非難していた議会の変わり身に思わずツッコミを入れています。
「待つことができる人」。世論に流されなかったケマル
サカリア川の勝利は、ギリシャ軍が補給の限界で下がっただけで、戦争はまだ終わっていませんでした。周囲は早く最終決戦で決着をつけたいと望みましたが、ケマルは急がず、総攻撃に向けて体制を整えます。
この判断について、チャーチルは後年、ケマルは待つことができ、待つことを受け入れることもでき、周りの人間を自分と共に待つよう納得させられる人だ、と評したといいます。
深井さんは、サッカーのワールドカップで日本代表への評価が試合ごとに批判から称賛へ激しく揺れた例を挙げます。その場の反応で動く人々に対し、ケマルは全体の戦略から「今は待つべきか」を判断し、それを全員に徹底させました。
樋口さんは、ケマル本人も精神的には相当きつかったはずで、余裕でやっていたというより、歯を食いしばって自分のメンタルをコントロールしていたのではないかと話しています。
最終決戦の圧勝と「目的地は地中海だ」
体制を整える間、ケマルは外交による解決も探っていました。しかしギリシャは、エディルネを含むトラキアの一部をギリシャ領だと主張します。これはアンカラ政府がエルズルム会議などで決めた方針に反するため拒否され、最後の大決戦が避けられなくなりました。
負ければトルコそのものが終わる最終決戦には、ケマル自身とイスメトら名だたる将官が加わりました。戦いは4日間ほど続き、アンカラ軍の圧勝に終わります。この日は今もトルコ共和国の戦勝記念日として祝われているそうです。
兵たちよ、目的地は地中海だ。進めって言ったらしいですね。
深井さんによると、この言葉は「地中海までが自分たちの土地だ」という主張が実現したことを意味します。ギリシャ軍が上陸したイズミルは、小アジアの地中海側にある都市でした。
ギリシャ軍はアナトリアから撤退し、ここで現在のトルコとギリシャの国境線が確定していきます。両国は今も関係が悪く、番組ではキプロス問題 ── 地中海のキプロス島をめぐり、ギリシャ系住民とトルコ系住民、そしてギリシャとトルコが対立してきた問題。1974年以降、島は南北に分断されていますにも触れられています。
イズミル奪還の暴力と、ヒーロー像の裏にある禍根
番組では、アンカラ軍のイズミル奪還が一部で凄惨な暴力を引き起こしたことも語られます。最初にイズミルに入ったヌーレッディン将軍は、反革命分子の粛清などケマルのための汚れ仕事を担い、残忍さで知られた人物だったといいます。
ヌーレッディンはあまりに残忍で、大国民議会が査問を求めたほどでしたが、ケマルの介入で不問になりました。イズミルでは、ギリシャ正教会の司教を裏切りの罪で告発し、民衆が暴行するに任せ、司教は亡くなったと話されています。
さらに、アルメニア人地区で火災が起き、4分の3ほどが廃墟になりました。出火原因はわかっていませんが、ヌーレッディンが適切な措置を取らなかったことが被害を広げたと言われ、それでもケマルは彼を免罪しています。
深井さんは、トルコから見れば弱っている時にどさくさに紛れて攻めてきた相手であり、ギリシャから見ればかつての土地を取り戻す正当な行動だったとして、民族の正義と正義の衝突だったと表現します。
国が弱っている時に、どさくさに紛れて攻めてきた侵略
もともと持っていた土地を自分たちで取り戻す正当な行動
海外に行った時とかに、こういうことを知らずにケマル像をヒーローっぽく語るみたいなのは危ねえので。
深井さんは、この時代の出来事は今のトルコの動きにもそのまま影響しており、知っておくと現在のトルコを高い解像度で理解できると話します。一方で、エルトゥールル号 ── 1890年に和歌山沖で遭難したオスマン帝国の軍艦。地元住民の救助活動が、日本とトルコの友好の象徴として今も語り継がれていますの記憶のように、良い記憶も同じように残ると付け加えています。
残るイギリスとのチキンレース
ギリシャの後ろにはイギリスがいました。イスタンブールには、60隻ともいわれた連合国艦隊がまだ駐留していました。
ロイド・ジョージ首相は、ケマル相手に撤退などあり得ないと主張し、ガリポリで敗れたチャーチルもイスタンブールへの増援を求めていたといいます。イギリスとの折衝は不調に終わり、イギリスは交戦態勢を崩しませんでした。
ずっとボス戦をしてんですよ。
ロイド・ジョージは、駐留するハリントン将軍にトルコ軍への最後通牒を出すよう命じますが、ハリントンはこれを黙殺しました。深井さんによると、イギリスの中には停戦を主張する人もおり、全体としてもイギリスはもう戦いたくなかったのです。
どちらが先に折れるかというチキンレースにケマルが勝ちます。フランスとイタリアの働きかけや、戦争を望まないイギリス世論もあって、連合国とアンカラ政府は和平を結ぶことになりました。
うわぁ、じゃあもう最後のピースを埋めたみたいな感じになった。
イギリスと直接戦わずに勝った「意思の強さ」
休戦の会議にはイスメトがアンカラ政府の代表として臨み、1週間以上話し合いました。結果としてトルコは、ムドロス休戦協定の頃よりも多くの土地を得ます。ロイド・ジョージは首相を辞任し、チャーチルも選挙で議席を失いました。
樋口さんは、イギリスとは直接戦っていないのになぜ勝てたのかと驚きます。深井さんの答えは、世界大戦が終わった後にもう一度若者を死なせたくなかったイギリスとの、どこまでコストを払えるかの競争にトルコが勝った、というものです。
深井さんによると、イスメトはケマルの意思に忠実に従い、アンカラ政府は非常に強気の条件を出して、それを通しました。
イギリスは、どれだけの利益のためにどれだけのコストを払うかという発想で動いていました。それに対してトルコだけはコスト度外視で臨んでいた、と深井さんは見ています。
僕はそれがいいって言ってるわけじゃなくて、こういう現象があるよねっていう指摘をしてるって感じなんですけど。
深井さんは起業家も同じで、良くも悪くもコストを度外視するから勝つのだと話します。ただし、それを勧めているわけではないと念を押しています。
ローザンヌ条約で守られた国土と、まだ終わらない課題
セーブル条約に代わる条約を決めるため、スイスでローザンヌ会議が開かれます。ここで結ばれたローザンヌ条約は、セーブル条約とまったく違う内容となり、今のトルコ共和国の国土が保たれることになりました。
深井さんによると、帝国に反抗的な一将校だったケマルがローザンヌ条約にたどり着くまでは4年間で、最後の2年間ほどで一気にこの仕事を成し遂げたことになります。完全な絶望状態から、現在の国境を列強に認めさせるところまで持っていったのです。
ただ、話はまだ終わりません。イスラムと近代化のコンフリクトなど、オスマン帝国が抱えていた問題は解決されておらず、しかもこの時点ではまだオスマン帝国は存続していました。ここから国を作るフェーズに入ることが示され、この回は締めくくられます。
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まとめ
ケマルは、同時に押し寄せる課題の中で、相手ごとの利害を読み、ソビエト、フランス、イタリアを一国ずつ切り崩して敵をギリシャとイギリスに絞りました。サカリア川では補給線を伸ばす戦略で窮地をしのぎ、世論に流されず待つ判断を貫き、最後はコストを度外視する意思の強さでイギリスとのチキンレースに勝って、ローザンヌ条約にたどり着きます。
- ケマルは列強を一枚岩と見ず、利害の違いを突いて一国ずつ敵から外していった
- サカリア川の戦いでは、ギリシャ軍を内陸に引き込んで補給線を伸ばし、窒息させる形で退けた
- 周囲が決戦を急ぐ中でも、全体の戦略から待つ判断を下し、それを全員に徹底させた
- イギリスと直接戦わずに勝てたのは、どこまでコストを払えるかの競争でトルコが譲らなかったため
- イズミル奪還の暴力など、ケマルの勝利の裏には今も続くギリシャとの禍根がある






