鉄の肺とともに大学へ。エド・ロバーツは何に挑んだのか?
障害の歴史編の最終回は、前回までに語られたセルフアドボカシー ── 障害当事者が自分の権利やニーズを自ら主張し、意思決定に参加すること。「自己権利擁護」とも訳されますの考え方を受けて、障害当事者自身の運動が始まる場面から入ります。
その代表格として深井さんが紹介するのが、アメリカ人のエド・ロバーツです。エド・ロバーツは自立生活運動を率い、障害の捉え方を医療モデルから社会モデルへと転換させる大きな役割を果たしたと説明されます。
エド・ロバーツの運動は、1964年の公民権法 ── 人種・宗教・性別などによる差別を禁じたアメリカの法律。キング牧師らの公民権運動の成果として成立しましたにつながる黒人の人権運動や、女性運動に強い影響を受けていました。樋口さんは、その公民権法の救済対象に障害者が含まれていなかったことへの危機感が当事者を動かした、という解説を紹介しています。
エド・ロバーツは1939年に生まれ、1995年に亡くなるまで自立生活のシンボル的存在でした。ポリオ ── ポリオウイルスによる感染症。脊髄の神経を傷つけ、手足の麻痺などを引き起こすことがありますを発症して四肢麻痺と呼吸器障害を負い、車椅子にも乗れず、1日18時間、重さ400キロの「鉄の肺」と呼ばれる呼吸補助装置の中で過ごしていたといいます。
それでもエド・ロバーツは1962年、23歳でカリフォルニア大学バークレー校に入学します。しかし入学までの道のりは険しく、カリフォルニア州のリハビリテーション局は「将来働けない人への補助は無駄」という生産性の論理で、障害者への4年間の財政補助を拒んでいました。
バークレー校でも、学生部長の一人が「以前の身体障害の学生はうまくいかなかった」と説明し、実際に教室や図書館、学生食堂は階段ばかりで車椅子で入れない状態でした。寄宿舎には400キロの鉄の肺を置く場所もありません。
そこでエド・ロバーツは、自分の主張に共鳴してくれる職員を探し、キャンパス内のコーエル大学病院に鉄の肺ごと移り住みました。地元紙はこれを「救いようのない身体障害者の青年、大学に通う」という見出しで報じたそうです。
なんかすごい時代だよな。すげえな。言い方もっとあったやろって。
ローリング・クワッズが塗り替えた「自立」の意味
エド・ロバーツがコーエル病院から大学に通っているという噂が広まると、彼の後を追ってバークレー校に入学する障害者が次々と現れました。
入学した障害者たちは自らを「ローリング・クワッズ」と名乗り、コーエル病院の一角で毎晩のように集まるようになります。そこで「完全なる自助(トータル・セルフサフィシエンシー)」という考え方について語り合い始めました。
大学が援助してくれないため、ローリング・クワッズはカリフォルニア州の制度を使い、食事や車椅子移動を手伝う介助者のリストを作るなどして、自分たちが通える環境を自分たちで整えていきました。
これはかっこいいエピソードですね。
深井さんは、この動きの核心は「自立」の定義を根本からひっくり返した点にあると話します。補助なしで何ができるかではなく、援助を得ながら生活の質をどれだけ上げられるか、それが自分の判断に基づいているかが重要だという考え方です。
補助なしで自分ひとりで何ができるか
援助を得ながら、自分の判断で生活の質をどれだけ上げられるか
エド・ロバーツは、この考え方を次のような言葉で表現しています。
深井さんは、これは障害者に限らず当てはまる自立の概念だと評価しています。
こうした自助の精神と組織化によって、ローリング・クワッズは障害者を保護・治療しようとする医療制度を拒むようになります。生活に何が必要かを知っているのは医師や福祉の専門家ではなく当事者自身であり、求めているのは仕事と社会生活を両立させて地域に統合されることだ、という主張でした。
車椅子の学生から、あらゆる障害へ広がった連帯
バークレーのグループは、もともと身体障害者のために設立され、車椅子利用者が運営していました。それまで障害者の団体は障害ごとに分かれており、共通の目的のために一緒に動くことは少なかったといいます。
しかし活動が始まると、視覚障害者など別の障害を持つ人も加わり、自立を達成するための共通の問題を抱えていることがわかってきました。こうしてグループは障害の種類を越えて広がっていきます。
グループはやがてコーエル病院を離れ、障害を持つ学生の充実したキャンパスライフに大きく貢献したとされます。
大学入ると当たり前のようにね、できる権利があるはずのことがやっとここでできるようになったっていう。感動やね、これ。
学生以外にも手を広げた自立生活センター(CIL)の誕生
ところが、ここで問題が起きます。エド・ロバーツたちのグループに、学生ではない地域の障害者がサービスを求めてやってきたのです。グループは断ることができず、最初は学生と学生以外の両方に対応していましたが、やがて手が回らなくなりました。
そこで話し合いを重ねた結果、1972年にバークレーで大学とは関係のない地域の自立生活センター ── Center for Independent Living(CIL)。障害者自身が運営し、地域で自立した生活を送るための支援を行う拠点が開設されます。
自立生活センターでの自立の物差しは、当事者が人生をどうしたいかを自分で決め、介助者から住宅まで、望む生活に必要なものを自分で管理できることでした。
どこまで介助を受けるかも自分で決定するよっていうことです。
センター設立の3年後、エド・ロバーツはかつて補助を拒んだカリフォルニア州リハビリテーション局の局長に就任しています。
なぜ運動は全米に広がり、次の世代へ受け継がれたのか?
1978年、エド・ロバーツは連邦議会に参考人として呼ばれて証言します。これを機に、連邦リハビリテーション局が各州を通じて自立生活センターに運営補助金を出すことが制度化されました。
一度火がつくと、自立生活センターは急速に増えていきました。深井さんが紹介した数字は次のとおりです。
社会の中ですでに改善していこうというニーズとかエネルギーがあったんでしょうね。それに対して落とし込む先の形を一つ、エドロバーツが提供したっていうことでも言えますよね。
各地のセンターはバークレーをモデルに、政治参加や抗議運動などのアクティビズム ── 社会や政治を変えるために、デモや抗議、ロビー活動などで積極的に行動することと、権利主張のアドボカシーに力を入れました。当事者のほうが自分たちのニーズを知っているという考えが、都市部から村落の障害者家族にまで広がっていきます。
身体障害者から始まった自立生活運動は、知的障害者にも横展開されました。さらに深井さんが注目するのは、改善された状況で育った次の世代が、より強く権利を主張するようになった点です。
1975年に制定された法律によって、1977年から障害児が普通学校に通えるようになりました。学校では健常者と同じ場で過ごした若者たちが、社会に出て差別に直面し、「なんだこれ」とセルフアドボカシーを始めたといいます。
次世代にバトンが渡されていくんですね。いい話。
思想
バンク・ミケルセンらが障害者の権利の考え方を打ち出す
前人未到の挑戦
エド・ロバーツらが自立生活運動を始め、状況を変える
新しい常識で育った世代
普通学校で育った障害者が社会の差別に声を上げる
1990年
障害を持つアメリカ人法(ADA)が成立
深井さんは、ナチスの収容所を経験したデンマークのバンク・ミケルセン ── デンマークの社会運動家。知的障害者の処遇改善に取り組み、「ノーマライゼーション」の理念を提唱した人物として知られますから、ここまで系譜がすべてつながっていると話します。それでも40年ほどかかっており、自分が担う側だと考えれば長い時間だと振り返ります。
一生の半分ですから。
ADAは何を変えたのか。法律に刻まれた社会モデル
1990年に成立したADA(障害を持つアメリカ人法)は、それまでの障害者のための法律の中で最も総合的な公民権法だったとされます。対象となるのは、主要な生活活動を実質的に制限する身体的・精神的な損傷(インペアメント)を持つ人、その経歴がある人、そう見なされる人です。
ADAは、雇用上の差別、公共サービスや公共交通での差別に加え、レストランやホテル、映画館、医療施設、オフィスビル、工場など民間の施設での差別も禁止しました。障害者が社会に参加できるよう、社会の側が責任を持つという考え方です。
社会モデルだよ、これ。だからね、そう、医療モデルから社会モデルっていうのに促したんですね。
ADAによって、法律の上で医療モデルから社会モデルへの転換が起きたと深井さんは説明します。障害は医療ではなく社会の問題として捉えるべきだという考えが、各国の障害政策にも影響を与えました。
1990年代の10年間に、国連加盟国189カ国のうち40以上の国で、ADAに似た障害差別禁止法が成立しました。日本でも2011年の障害者基本法改正や、2013年の障害者差別解消法の成立にADAの影響が見られると言われています。
障害者の福祉の増進
障害がない者との平等と共生
樋口さんは、2008年の障害者権利条約がインクルーシブな社会を目標に掲げ、その作成に障害者団体が大きな役割を果たしたことを紹介します。当時のスローガンは「私たちを抜きにして、私たちのことを決めないで」でした。
ADAの後も続く一進一退の揺り戻し
ただしADAの成立後も、状況は一進一退でした。アメリカ連邦最高裁判所は4度にわたって障害の定義を大幅に狭める判決を出し、てんかん、筋ジストロフィー、がん、糖尿病、脳性麻痺などがADAの障害に該当しないとされたこともあります。
ADAに基づいて雇用差別を訴えた訴訟の97パーセントが、障害者側の敗訴に終わったとも紹介されます。深井さんは、自由市場経済を重視するアメリカでは、こうした動きが人権以前に「福祉の増大」を求める左派の活動と見られ、左右の対立になってしまうと分析します。
当事者がやはり声を上げ続けないと、いつこの揺り戻しがバンってくるか、やっぱわかんないですよね。
だから現代でもずっとこれやってる最中だから。民主主義のいいとこだよね、これ。だからやっぱ声上げるって意味あるんだよね。
楊さんは、法律の制定までに40年かかったうえ、文化や価値観を変えるにはそこからさらに長い時間がかかるだろうと話しています。
石川准『障害学の主張』が指摘する「分配システム」とは?
シリーズの締めくくりに、深井さんは社会学者の石川准さんが『障害学の主張 ── 石川准・倉本智明編著の書籍。障害を個人の問題ではなく社会との関係から捉える「障害学」の論考を集めたもの』で述べている内容を紹介します。石川さんは、障害者運動の歴史を「財と権利と尊厳の分配システムの変更要求の歴史」だと総括しています。
石川さんによれば、近代社会は財を生産した者のものとする社会です。かつては王侯貴族や教会が農民の生産物を所有していましたが、やがて商人や企業家、資本家、労働者が自分の生産物を所有するようになりました。
そこでは財の所有が個人の労働と勤勉の結果として説明されるようになります。深井さんは、宗教改革以降のカルヴァン ── 16世紀の宗教改革者。勤勉な労働を神の救いの証とみなす考え方が、のちに資本主義の精神と結びつけて論じられましたの影響を受けた資本主義の話だと補足します。
労働
勤勉に働き、価値あるものを生産する
財
生産したものを私有財産とする権利を持つ
意思決定権
財の使い道を決める権利を持つ
存在価値
生産に見合った評価と承認を得る
働ける人を優遇し、できるだけ働いてもらうことで社会全体が豊かになるこの仕組みを、深井さん自身も「いいと思っている」と話します。ただし、この仕組みは身体に障害のある人や病人にとっては過酷なものでした。
自己決定権や財産、存在価値が生産能力に比例するように与えられる社会では、生産能力がないと見なされた人は、自己決定権も存在価値も認められません。そうした人に与えられるのは他者からの恩恵や慈悲だけで、かえって存在価値が失われていくと石川さんは指摘します。
助ける、助けられるみたいな。上下関係ができてるからね。
「障害者」というカテゴリーはどう生まれたのか?
石川さんは、近代社会には労働と市場による分配とは別の原理として、国家を介して財を分配する社会福祉が動いてきたと述べます。労働ベースの仕組みだけでは過酷すぎるため、必要ベースで分配する仕組みが設けられたのです。
労働と市場を通じて、財・意思決定・存在価値を生産者に与える
国家が必要な状態を認定し、働けない人に最低限の財を分配する
しかし2つのシステムは原理的に共存できず、必ずどこかで線引きが必要になります。そこで「働けない者」と「働かない者」を区別することが重要になり、障害者というカテゴリーは必要ベースの分配システムとともに発明されたと石川さんは指摘します。
深井さんは、生活保護を出すか出さないかの判断がまさにこの線引きにあたると説明します。適応障害や発達障害という呼び方も、働けない、学校に行けないというニーズの中から生まれたカテゴリーだと話しています。
国家は福祉コストの節約などを根拠に、障害者と分類した人々の生に介入し管理するようになります。与えられるのは最低限の富だけで、自己決定権は認められず、存在価値は福祉のスティグマ化によってさらに奪われていくといいます。
石川さんは、障害者運動が求めてきたものを次のように整理しています。
- 機会と配慮があれば働ける労働有資格者であるという主張
- 働けない重度障害者の自己決定権
- 自立の概念の変更と、社会的障壁や差別の可視化
- 能力主義の相対化と、優生思想や選択的中絶への批判
つまり障害者たちの告発は、十分な分配を受けられないことだけに向けられたものではなく、自己決定ができないこと、排除され尊重されないことへの怒りでもあったと総括されています。
分配ではなく投資と捉えたら何が変わるか?
楊さんの「助けるという前提自体が上下関係なのか」という問いに、深井さんは、今の社会では生産者が偉いというルールが実際に動いており、恩恵もあると認めます。ただし、それは絶対性のない前提条件に基づいたシステムだといいます。
本来は人権の概念に基づくと存在価値とか関係ないはずなんです。
深井さんは以前から、人の存在価値を人間が判断するのは不可能であり、その影響は人知を超えた不可知領域だと考えてきました。そのため、お金を稼いだから偉いという単純な話にはならず、複数の指標があるべきだと主張しています。
人間が決めてる常識である以上はさ、人間によって変えられる可能性がある。
そのうえで深井さんは、石川さん自身の考えとは別に、自分が受け取った示唆としてひとつのアイデアを語ります。インクルージョンを拡大すれば、一見役に立っていない人も必要だということになり、その人へのお金は分配ではなく投資になる、という考え方です。
投資だというふうに捉えることができたら、それ(分配)じゃないんでコンフリクトしないんですよ。
深井さんは、コンフリクトが当たり前だと思って議論していること自体をメタ認知すれば、新しい領域に進めるかもしれないと話しています。
全8話を振り返って。深井さんが伝えたかったこと
本編を終えた振り返りで、深井さんは、シリーズを通してインクルージョンという考え方への理解が深まったことが一番の収穫だったと語ります。
楊さんは、ダイバーシティのような言葉が、どうしても「助けないといけない」という文脈で使われがちだと指摘します。これに深井さんは、障害がないと思われている人同士でも助け合いはあり、助けなくていい人はいないと答えます。
助けなくていい人なんていないんで。それをこの助け方を特別視するみたいなことが我々の認知バイアスだという受け取り方を僕はしました。
深井さんはシリーズ全体の学びを改めて整理します。障害は富の傾斜配分から生まれ、分配しない人を決める過程で、生産できない人や戦えない人が障害者とされてきました。その理由づけは時代ごとに宗教や科学が担い、安易な社会科学が社会ダーウィニズムと重なって、優生学がブーストされたといいます。
今起こっているのは社会ダーウィニズムではないかもしれないが、必ず同じようなことが起こっていると思う。
当時の人々も頭が良かったのに誤謬に陥ったのは、人間がストーリーで理解したがる特性の限界ではないか、と深井さんは考えます。恣意的な解釈は人の人生を切り開くこともありますが、障害の歴史では誰かの人権を大きく阻害してきました。
気づけないものに、どう気づくのか?
楊さんは、そこに視点がなければ理論上気づけないものは気づけない、と指摘します。深井さんは、知的障害者と直接話した体験からメタ認知を得たニーリエ ── スウェーデンの社会福祉行政官ベンクト・ニィリエ。ノーマライゼーションの原理を体系化したことで知られますを例に、自ら体験しに行くことが必要だと話し、「義務かもしれない」とまで思うようになったといいます。
深井さんは、障害科学の研究者である野口晃菜さんのウェブ記事「差別は良くないけれども、障害者施設建設には反対」を紹介します。記事で伝えられている調査では、日本で障害者と関わったことがない人が回答者の51.9パーセントにのぼり、スウェーデンやアメリカ、中国、インドより際立って高いそうです。
関わる体験の欠落は、新しい認知を得る壁になります。一方で、難民問題、児童教育、高齢者問題など、すべての問題に関わることはできません。深井さんは、資本主義と民主主義と人権の概念を持つ現代人としてどう向き合うかを、リスナーそれぞれが考えるきっかけになればと話します。
深井さんはまた、エド・ロバーツの活動の背景には思想があり、その思想を取り入れて前人未到の挑戦をした人がいて、変わった常識で育った世代がADAを成立させた、その全てが学ぶべき点だと振り返ります。
アナロジーの落とし穴と「知らざるを知らずと為す」
深井さんは、自分が常識を外すときには数学モデルや別ジャンルの出来事を置き換えて考えることが多いと明かします。しかし今回、それがダーウィンの理論を社会に安易に当てはめた優生学と同じ構造だと気づき、理解した気になっていた自分にも気づいたといいます。
アナロジーを考えてみること自体、僕は悪いことじゃないと思ってるんですけど、やっぱり絶対視するっていうのが良くないんだなと思ったから。
深井さんは、自分が生きる社会で絶対視されていることを絶対だと思う危うさから逃れられるのは人文知だと考えます。そのうえでCOTENが寄付ではなく投資を求めるのは、人文学に投資してほしいという意味だと話し、これは自分の確証バイアスかもしれないとも付け加えます。
深井さんが思い出したのは、論語 ── 孔子とその弟子たちの言行を記録した儒教の古典の「これを知るをこれを知ると為し、知らざるを知らずと為す、これ知るなり」という言葉です。知っていることと知らないことを区別することこそが知るということだ、という意味です。
全部わかってる感じになってるってのはわかってないってことで、ここがわかってないなと思ってるのがわかってるってことだよってことだね。
ソクラテスも無知の知を言ってるし、その人間の認知の盲点をその時代の彼らからは実はですね、認識はしてたんですよね。それを我々が学ぶかどうかっていう話です。
わからなさに耐える「知的体力」とは?
楊さんが「全部わかっていないとなると怖い」と漏らすと、深井さんは、絶対視しなければ大丈夫で、全部わからなくても価値はあると答えます。楊さんも、わからなさの苦しみに耐えることが実はベストな状態ではないかと応じます。
体力がないとわからなさに耐えれないくて、はあはあ言ってすぐわかったみたいになってYOUTUBEとか見ちゃうから。
深井さんは、インクルージョンという言葉をネットで調べて読むのと、8時間かけて障害の歴史を聞くのとでは理解が違うはずだと話します。さらに8時間でも足りず、福祉の現場やスポーツの現場、海外旅行など、論理と関係なく知らされる体験を「楽しく学ぶ義務」があると感じたといいます。
深井さんは、2022年の今もSNSなどでは社会ダーウィニズムや優生学が見られ、否定論が主流になりきっていないとも指摘します。ただし「完全否定されるべき」と言い出せば逆の絶対視になる、と慎重な姿勢も示しています。
評価軸を増やす体験は、どこからやってくるのか?
楊さんは、評価軸を外したり変えたりするのは難しいので、評価軸をたくさん増やせば一歩進めるのではないかと提案します。
深井さんはこれに賛同し、評価軸を増やすのは座学よりも体験だと話します。自分の評価軸が増えた瞬間を振り返ると、座学はそれを補強しブラッシュアップしてくれたものの、生んだのは体験だったといいます。
その人にとってのいい人間であろうとし続けるとか、社会に何か貢献しようとし続けていると、どこかのタイミングで自分の認知不和とか不可知領域にボコボコにされる時っていうのは必ず来るんじゃないかなと思ってて。
楊さんに「いい人」の意味を問われた深井さんは、社会規範に従うことではなく、自分の中の美意識に従って、自分と向き合い正直に生きる状態のことだと言い直します。そう生きていると、仕事や家族、恋愛などで社会とハレーションが起き、そのつらい体験が評価軸を増やすのだといいます。
新しい評価軸は自分の育ちや経験からは絶対に見えないブラインドスポットにあるため、どれだけ考えてもわからず、挑戦を諦めずに続ける中で「あ、そこか」と訪れるものだと深井さんは語ります。次回は三部作の3部目として、社会福祉の歴史が扱われると予告されています。
まとめ
障害の歴史編の最終回では、エド・ロバーツが鉄の肺とともに大学へ通ったことから始まる自立生活運動が、自立の定義を変え、全米に広がり、次世代によってADAの成立へつながった流れが語られました。さらに石川准さんの議論を通じて障害を生む分配システムの構造が示され、深井さんは、気づけない前提を疑うメタ認知と、わからなさに耐える知的体力の大切さを強調しています。
- エド・ロバーツらは、援助を得ながら自分で人生を決めることこそ自立だと、自立の定義をひっくり返した
- 自立生活運動は思想、前人未到の挑戦、新しい常識で育った世代というバトンを経て、1990年のADA成立に結実した
- 石川准さんは、障害者運動を財と権利と尊厳の分配システムの変更要求の歴史だと総括している
- 過去の誤謬と同じことが今も起きている可能性を考え続けるメタ認知が、現代人に求められると深井さんは語る
- 評価軸を増やすのは座学より体験であり、わからなさに耐える知的体力が必要だとされる




