資本論はまだ完成しない。まず出た『経済学批判』
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前回まででマルクスとエンゲルスはイギリスへ渡りました。樋口さんが「そろそろ資本論できてもいい頃か」と尋ねますが、深井さんの答えは「まだまだ」でした。
今回のエピソードでのマルクスは、1859年に『経済学批判』を出版します。これは資本論につながる著作で、マルクスが41歳ほどの頃のことです。
マルクスは31、2歳でロンドンに亡命して以来、ずっとこの本につながる経済学の勉強を続けていたと深井さんは説明します。
毎日大英博物館で経済学の勉強をして、この時期はとにかく勉強、勉強と言っていたらしいですね。周りの人にも勉強しろ、勉強しろと言っていたらしいです。
マルクスは何事も根本から極めないと気が済まない性格で、パトロンのエンゲルスに「もう少しで完成しそうだ」と言いながら、そこから何年もかかったといいます。見積もりが甘かったのです。
この間、前回も語られたようにマルクスは極度の貧困のなかにいて、子供が3人も亡くなり、本人も持病の肝臓病に苦しんでいました。
でも誰からも頼まれてないしね。大学とかから給料でもらってるわけじゃないから、もう在野の研究者としてずっとこれをやってるわけでしょ。
妻のイェニーは貴族出身ながら、字が汚いマルクスの原稿を清書していたといいます。夫婦二人三脚でこの仕事を支えていたと深井さんは話します。
ロンドン亡命から10年弱かけて、ようやく1859年に『経済学批判』の原稿が完成します。マルクスは本屋へ送る発送費と保険料をエンゲルスにせがみ、エンゲルスは喜んで2ポンドを渡しました。
『種の起源』と同じ年に出た本が売れなかった理由
1859年は、『種の起源』 ── チャールズ・ダーウィンが進化論を発表した著作。生物が自然選択によって進化するという考えを示し、当時大きな反響を呼びましたが出た年でもありました。こちらはベストセラーになります。
一方、マルクスの『経済学批判』はあまり売れませんでした。発行部数は1000部にとどまり、難しすぎてほとんどの人が理解できなかったといいます。
支援者の一人だったリープクネヒトは、この本を「これほどがっかりさせられた本も他にない」と評しました。深井さんは、内容がダメだったのではなく、すごすぎて理解できなかったのだと解釈しています。
ここからさらに7年後の1866年、マルクスが49歳のときに、ようやく資本論の原稿が完成します。ロンドンに来てから20年弱、その間ずっと貧困と持病と闘いながら勉強を続けていました。
20年支え続けたエンゲルスへの、マルクスの感謝
資本論の完成に、エンゲルスは相当喜んだといいます。マルクスもエンゲルスに深く感謝し、手紙を残しました。
出来上がった時には「君がいなかったら、僕はこの仕事を仕上げることはできなかったであろう」と言ってますね。
マルクスは手紙で、エンゲルスが素晴らしい力をマルクスのために商売で使い尽くさせてしまったことを、良心にのしかかる重荷だと書いています。
深井さんは、マルクスの言うことを理解できるエンゲルス自身もすごい人であり、そのエンゲルスが自分の思想活動を止めてマルクスの支援に回っていたと指摘します。
完成したのはまだ第一巻でした。マルクスはこの後亡くなり、第二巻と第三巻はエンゲルスが継いで出版します。マルクスは三巻にまとめるつもりだと手紙に書いていました。
だからエンゲルスという資本家が、マルクスという労働者を使って書いた本ってことですか?
深井さんは、資本論を書くのに約20年かかった点をあらためて挙げ、一つのことにそれだけ情熱を燃やせるマルクスもすごいと語ります。
資本論が「悪者探し」ではない理由
資本論は、その前の『経済学批判』の続きにあたり、経済学研究の成果です。市民社会や資本主義の構造を分析した書だと深井さんは説明します。
重要なのは、資本論が「資本家が悪いやつだ」という善悪の話をしているのではない点です。
資本主義という性質の社会は、それがこのような理由によってこのような構造を形成しており、この構造は必然的にこうなるんじゃないってことを言ってるわけですね。
樋口さんはこの姿勢を「冷静ですよね」と評します。深井さんは、この考え方がヘーゲル ── ドイツの哲学者。歴史や物事が対立を経て段階的に発展していくととらえる弁証法で知られ、マルクスの思想に大きな影響を与えましたの影響を受けていると付け加えます。
資本主義の矛盾を解明し、資本主義が最終的になくなっていくと明らかにすることが目的の一つでした。ただし、現時点ではその帰結どおりにはなっておらず、挙動も違うところがあると深井さんは断ります。
資本主義という社会の構造と、それが必然的に向かう傾向の分析
資本家個人が善人か悪人かという道徳的な善悪論
自分は棚に上げて娘の結婚に反対した親心
貧困生活のなかでも、マルクスは娘たちにいい教育を与えたかったといいます。労働者の惨状を知っていたからこそ、そこから抜け出せる術を渡したかったのだろうと深井さんは話します。
エンゲルスは自分の給料の半分ほどを送ってくれており、マルクスはそれで少しいい家に引っ越し、ピアノを買い、家庭教師を雇うなどしていました。
かつてマルクスは母親から「経済学を勉強するくらいならお金を稼げ」と怒られていました。ところが自分が親になり、娘が収入のない社会主義者と結婚することになると、自分のことを棚に上げて嫌がったといいます。
親心ってそういうことなんだなって、僕も思った。
実際、マルクスの死後、この娘婿はダメ人間で、娘は悲惨な目に遭い、それがきっかけで自殺してしまったと深井さんは語ります。
各国で高まる労働運動と、第一インターナショナルの結成
マルクスは勉強だけでなく、共産主義活動もエンゲルスと同時並行で進めていました。ここで立ち上げたのが第一インターナショナルです。
当時、資本主義が発展する一方で労働者の餓死が相次いでいました。資本主義が進んだイギリスでは労働組合運動が台頭し、フランスでも労働者の運動が盛り上がっていました。
アメリカでは奴隷解放をめぐる南北戦争が起こり、ドイツでは三月革命が未完成に終わっていました。各国がそれぞれ激動の時代を迎えていたのです。
共産党宣言で説いた「万国の労働者は団結せよ」というロジックにもとづき、第一インターナショナル ── 1864年にロンドンで結成された国際的な労働者組織。各国の労働運動を結びつけることを目指しました。インターナショナルは「国際的な」という意味ですを作って団結しようという動きが生まれました。
1862年頃、ロンドンで開かれた万国博覧会をきっかけに各国の労働者が集まったことも後押しとなりました。マルクスは委員に選出され、創立の宣言と規約を書く大役を任されます。
現在の間違った基盤の上では、生産力のどんな素晴らしい発展も、どんな素晴らしい発明も、労働者の窮乏を取り除くことはできない。
深井さんは、マルクスの文章について「やっぱり文章が下手くそですね。もう少しわかりやすく言えるだろう」と率直に感想を述べています。
エンゲルスもインターナショナルのベルギー連絡役として動き、後にイタリア、スペイン、ポルトガル、デンマークも担当します。この頃エンゲルスはマルクスの近所に住み、毎日会いに来ていたと娘が証言しています。
団結を呼びかけた組織が、内部対立で崩壊するまで
マルクスは委員会の中心人物として努力しましたが、運動は思うようにいきませんでした。資金が集まらず、何より意見がまとまらなかったといいます。
マルクスは病気のため、大会の第一回から第四回まで欠席していました。ジュネーブ、ローザンヌ、ブリュッセルなど各地で開かれた大会に、満を持して第五回で出席します。
ところが第五回でマルクスがやったことは、分裂を決定づけて終わらせることでした。「団結せよ」と言いながら、まとめる力がなかったと深井さんは指摘します。
組織内では、以前マルクスと喧嘩したプルードン ── フランスの思想家。急進的な革命よりも穏健な改良を重視する立場で、マルクスと対立しましたの派閥と、バクーニン ── ロシアの貴族出身の思想家。国家そのものを否定する無政府主義(アナキズム)の代表的人物で、マルクスの共産主義を独裁的だと批判しましたらの対立が激しくなっていきました。
プルードン派は日和見主義寄りで、店主や職人の利益を代表する立場でした。一方のバクーニンは振り切った極左で、そもそも国家などいらないと考えるアナキストでした。
さらにラッサールという人物もいました。ユダヤ人仕立て屋のたたき上げの息子で、現在の制度の中で労働者の地位向上を目指す立場でした。総論では賛成でも、各論では全員が距離のあることを言い合っていたのです。
革命によって労働者階級が政治権力を獲得し、階級支配を絶滅する
国家そのものを否定するアナキズム。共産主義は独裁的だと批判
病気を押して第五回大会に出たマルクスは、エンゲルスとともにバクーニン派の除名を可決させます。賛成32票、不賛成23票でバクーニンは追放されました。
普仏戦争、パリ・コミューン、そしてインターナショナルの崩壊
この時期、国際情勢は激動していました。まず普仏戦争 ── 1870年から71年にかけて、ナポレオン3世率いるフランスとビスマルク率いるプロイセンが戦った戦争。プロイセンが勝利しましたが起こります。
フランスはナポレオン3世が皇帝となる帝政で、プロイセンはビスマルクが率いていました。戦いはプロイセンが勝ち、アルザス・ロレーヌがドイツのものになります。これは第一次・第二次世界大戦まで尾を引く遠因となりました。
敗れたフランスでは労働者が立ち上がり、革命政府を作ります。歴史上初のプロレタリアート、労働者階級による国家が一瞬誕生したのです。これがパリ・コミューンです。
マルクスはこれを「少し早すぎた」と感じつつも、まさに目指していた形だけにめちゃくちゃ期待しました。しかし、パリ・コミューンはわずか2ヶ月で崩壊してしまいます。
その後イギリスでは労働組合が合法化され、労働者の地位が向上していきました。制度の中で改良が進むため、インターナショナルの存在意義も薄れていったといいます。
楊さんは、イギリスでは議会政治が機能し、労働者の意思が政治に反映されるルートがあった点を挙げます。
議会の権限が、イギリスでは王様の権力よりも強かったので、政府は自分たち民衆が作っているという意識になってたんですよね。
だからイギリスでは「国家=打倒すべきもの」という意識がそれほど強くなく、マルクスが言ったようには革命が展開されなかったと楊さんは説明します。
一方で深井さんは、共産主義の考え方が本部から全労働者へ指示を送る中央集権的な枠組みである点を指摘します。
これがね、いわゆる独裁制みたいなのとすごく相性が良くて、これでロシアとか中国とかは独裁的になっていくわけですね。
樋口さんは「どうしても構造的に中央集権にならざるを得ない」とまとめます。このルーツが独裁国家と結びつき、それを採用したところが独裁主義国家になっていったのです。
バクーニンはインターナショナル内で大きな力を持ち始めていたため、彼の追放は結果的に組織そのものの崩壊を招きました。イギリスの動きや労働運動の変化とあわせて、インターナショナルは崩壊し、ここでもまた失敗に終わります。
各国で労働運動が高まる
資本主義の発展とともに労働者の窮乏が広がる
第一インターナショナル結成
万国の労働者の団結を掲げる
内部の路線対立
プルードン派・バクーニン派などが分裂
バクーニン派の追放
大きな力を持つ派閥を除名し組織が弱体化
崩壊
イギリスの労働運動の変化とあわせて失敗に終わる
20年の結晶、資本論の中身へ
楊さんは、マルクスとエンゲルスの実践活動は実績があまり出なかったと総括します。深井さんも同意しつつ、この動きがあったからこそ後にレーニンが出てきたのだと補足します。
資本といういわゆる武器は作ったものの、それをね、なんか実現というか、そこまでは至らなかった。
病気でボロボロになりながら、パリ・コミューンという千載一遇のチャンスも生かせず内部分裂で崩壊するなか、資本論は書き上げられました。次回から2回にわたって、その中身が紹介されます。
深井さんは、いま出版されている資本論の多くが内容を理解できていない様子だと言い、それより先に進んだ理解で伝えられたらと意気込みを語りました。
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まとめ
ロンドン亡命から約20年、マルクスは貧困と病、そして子を失う不幸のなかで資本論を書き上げました。それを支えたのはエンゲルスの献身であり、同時に進めた第一インターナショナルの活動は、内部対立と国際情勢のなかで崩壊に終わりました。
- 資本論の完成までにはロンドン亡命から約20年かかり、その過程で『経済学批判』が1859年に出版された
- マルクスの活動はエンゲルスの経済的支援と理解に支えられ、マルクスは深い感謝を手紙に残した
- 資本論は資本家個人の善悪ではなく、資本主義という社会の構造と傾向を分析した書である
- 第一インターナショナルはプルードン派・バクーニン派などの対立と、バクーニン追放を機に崩壊した
- 普仏戦争後に生まれたパリ・コミューンは労働者国家の初例だったが、わずか2ヶ月で崩壊した







