『資本論』が解き明かそうとしているのは何か
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楊睿之さんはまず、『資本論』が全3巻のうち、今回は第1巻の話が中心になると前置きします。この本は市場経済、つまり資本主義のメカニズムを解明するための本だと説明します。
楊さんによれば、『資本論』が扱うのは資本主義の構造的な運動法則、歴史的な発生過程、拡大のプロセス、そして未来にどうなっていくかです。あくまで資本主義の構造を論じた本だといいます。
ここで楊さんは、よくある誤解に釘を刺します。『資本論』は「悪い資本家が消えればいい」と主張している本ではないというのです。
いい悪いの話してるような書き方するから、そういう風に見えちゃうんだけど、そうではないということですね。
ただし楊さん自身、この本が非常に難しかったと繰り返します。深井さんも過去に一度聞いた内容をほぼ忘れているといい、ゼロから聞き直す姿勢で臨みます。
資本主義の細胞は「お金」ではなく「商品」だった
楊さんは『資本論』冒頭の一節を読み上げます。「資本主義的生産様式が支配的な社会に、富は商品の巨大な集まりとして現れ、個々の商品はその富の要素形態として現れる」というものです。
深井さんは一度聞いたはずなのに全くわからないと素直に反応します。楊さんは、この文の主語が「富」であることを確認しながら解説を始めます。
楊さんによれば、唯物史観 ── 生産のあり方が社会や人々の考え方を規定するという、マルクスの歴史のとらえ方の立場から、マルクスは「資本主義的生産様式が支配的な社会」という正確な言い方をしていると説明します。要するに資本主義社会のことです。
そのうえで楊さんは、生物学者が細胞を、化学者が分子や原子を分析するように、マルクスは資本主義の要素形態にあたる「細胞」を商品だと考えた、と話します。
深井さんが「ここですよね」と受けると、楊さんは、富の細胞にあたるものが商品であり、それをこれから述べるのだと確認します。
深井さんは、自分は資本主義を動かしているのはお金だと思っていたと打ち明け、いきなり「商品」と言われて驚いたと語ります。
いきなり意味がわからない上に、そうなの?ってなるじゃないですか。
楊さんは、商品についてマルクスがどう考えているかを、ほとんどの人は理解できないと言います。説明を聞くとわかった気になるが、その理解はたいてい間違っているとも付け加えます。
「商品」とは何か。あらゆるものが商品に変わる社会
楊さんは、ここでいう商品とは、人間の何らかの欲望を充足させる一つのものだと説明します。つまり、何らかの使う価値のあるものです。
さらにこの商品は、資本主義社会において、市場で交換される価値を持つものとして想定されている、と楊さんは続けます。
だからこそ商品の範囲は広い、と楊さんは具体例を挙げます。パソコンのようなモノだけでなく、ホテルや飲食店でのサービスも、すべてこの商品に含まれるといいます。
楊さんは、資本主義とはあらゆるものを商品に変えていく性質を持つと話します。これはマルクス自身が言っていることだそうです。
たとえば封建的な社会や自給自足の社会では井戸水を飲んでいて、水を誰かから買って生きるということはしていなかった、と楊さんは対比します。一方で資本主義社会では、水道代を払い、ミネラルウォーターを買って生きている、と指摘します。
自給自足・封建社会では井戸水を飲み、水を買って生きることはなかった
資本主義社会では水道代を払い、ミネラルウォーターを買って生きている
楊さんは、生活必需品がほぼすべて商品になっている状態で生きているのが資本主義社会であり、それらの商品は市場で交換される価値を持っている、とまとめます。これが冒頭の一節の意味だったわけです。
なぜマルクスの表現はこれほどわかりにくいのか。楊さんは、マルクスがレベルを下げて言ってくれないからだと説明します。
深井さんは、語弊がないようにできるだけ正確に言っているのだと受けます。楊さんは、だから今回は自分たちがそれをさらに噛み砕くと述べ、その方針を打ち明けます。
今回正直ね、間違ってはないけど正確ではないぐらいの粒度で伝えます。
正確に伝えようとすると定義が厳格になり、たとえ話も難しくなる、と深井さんは応じます。今回はイメージで伝える回だという共通認識ができます。
市場とは「所有者を認める場所」だという定義
楊さんは、資本主義には商品を交換する市場があると確認します。ただしマルクスは市場を「商品を交換する場所」とは言わず、「相互に所有者を認める場所」だと表現します。
つまり市場とは、誰のものかを決定する取引が行われる場所だ、というのです。深井さんは「同じように聞こえますよね」と反応します。
所有権を確定させる場所。
楊さんは、コンビニで物を買う場面を例に説明します。お金と商品を交換したとき、商品の所有権はこちらに、お金の所有権はコンビニ側に確かに移る、というわけです。
楊さんによれば、交換される前のおにぎりは、まだ確定的にコンビニのものとは言えない状態にある、と考えるそうです。取引によって初めて所有権が確定される場所が市場だという理屈です。
社会的に承認されるってことですね。みんなの合意を得るためにはそれをしなきゃいけない。
楊さんは、みんなの合意のある占有こそが所有であり、その合意が確定するのが交換の瞬間だ、とマルクスの考え方を整理します。
深井さんは、空に浮かぶ雲を「俺のだ」と言っても誰も合意してくれない、と例えます。市場で交換されて初めて所有権が確定される、という感覚がここで共有されます。
楊さんは、河原で拾った石を「これは僕のだ」と思っていても、世間に認められていなければまだ自分のものではない、という例も挙げます。その石を100円で樋口さんに売り、買ってもらえば、初めて自分のものだったと確定する、というのです。
楊さんは、他の経済学者がこうしたことを当たり前として扱うのに対し、マルクスはゼロから考え直していく、とその特徴を強調します。
労働力と貨幣。市場で「特殊な商品」とされる二つ
楊さんは、市場では特に二つの商品が特別なものとして扱われる、と話を進めます。一つは労働力です。労働者は労働力を商品として市場に売っている、というのがマルクスの見方です。
もう一つが貨幣だ、と楊さんは続けます。この労働力と貨幣は、あらゆるものが商品になった資本主義の中でも、とても特殊な商品だといいます。
深井さんは、貨幣が商品だという点で再びつまずきます。貨幣は商品を買うものだと思っていた、というのです。
めちゃくちゃみんなびっくりすると思いますが、マルクスから言わせると貨幣は商品です。
楊さんは、貨幣も商品の中の一つであり、他とはまったく違う性質を持つ特殊な商品だ、と念を押します。労働力と貨幣について詳しく論じる前に、まず「価値」の説明に入ると告げます。
「使用価値」と「価値」。二つに分かれる価値
楊さんは、商品には価値があるという点は誰でもなんとなくわかるだろう、と切り出します。しかしマルクスは、この価値をゼロベースで考え直したといいます。
楊さんによれば、価値をしっかり考えると、一つの商品に独特の二つの価値が同時に存在すると言える、というのがマルクスの主張です。一つは「使用価値」、もう一つはただの「価値」と呼びます。
深井さんは、価値の中にまた価値が出てくる名づけ方に、思わずループしているようだと苦笑します。楊さんも「名前の付け方工夫しろや」とマルクスにツッコみます。
楊さんは、使用価値はそれほど難しくないと説明します。これはモノやサービスの有用性のことで、どういう役に立つか、どんな欲望をどう満たすかを指すといいます。
さらに使用価値は、商品以外のあらゆるものにもあると楊さんは言います。太陽は作物を育て、空気はないと生きていけない。市場で交換されなくても、これらには使用価値があるというわけです。
もう一方の「価値」は、市場上での交換力としての価値だ、と楊さんは説明します。ここから話は一気に難しくなっていきます。
モノやサービスの有用性。どんな欲望をどう満たすか。太陽や空気など、市場で交換されないものにもある
市場上での交換力。ただし価格とイコールではなく、価格が動く際の重心にあたる
価値は価格ではない。「価格の重心」という考え方
楊さんは、市場での交換力である「価値」を、私たちはつい価格だと思いがちだが、それは価格とはイコールではない、と指摘します。
もし価値が価格と同じなら、転売で価格が上がったプレイステーションは「価値が上がった」ことになってしまう、と楊さんは問題提起します。しかし本来の交換力には「重心」があり、動いているのは価格の方だ、というのです。
ここで樋口さんが、具体的な例を出します。同じプレイステーションを、ある店では5万5000円、別の店では5万円で売っている場合を考えます。
A店で売ってるプレイステーションとB店で売ってるプレイステーションの価値が違うでしょうか?
深井さんは、並べたら同じだと答えます。楊さんも、同じ商品だと確認します。
樋口さんは、しかしこのプレイステーションが2円で売られることはまずない、と続けます。価格はある程度決まっていて、それが「価値は価格の重心である」ということの意味だ、と説明します。
楊さんは、大体これにはこれぐらいの価値があるはずだという基準があり、それに合わせて価格が決められる、とまとめます。セールなら下がり、品薄なら上がるが、重心としての価値は変わらないというわけです。
価値は「労働量」で決まる。マルクスの労働価値説
楊さんは、では価値の重心はどう決まるのかと問いを立てます。ここで深井さんは、自分が商売で価格を決めるときは、原材料の費用や、需要と供給が交わるところを考えていると打ち明けます。
楊さんは、それは一般的な経済学の視点だと応じ、マルクスはそうは考えなかったと言います。マルクスは、価値は労働量によって決まると主張したのです。
つまり、商品を作り出すのに必要だった労働量によって価値が決まり、その価値が価格の重心点としてある、というわけです。深井さんは「頑張って作れば作るほど上がっていく」ように聞こえると反応します。
価値が労働量によって決まる。で、これ言った瞬間にさ、特に経営とかしてるとさ、いや嘘やろってなるじゃないですか。
楊さん自身も最初はそう思ったといいます。しかし『資本論』を勉強するうちに、「確かにそうかもしれない」と思うところまでいった、と語ります。
リカードやスミスの労働価値説と、どこが違うのか
楊さんは、労働が価値を生むという考え自体は、マルクス以前の古典派経済学 ── アダム・スミスやリカードに代表される、マルクス以前の経済学の潮流。労働と価値の関係を論じたでも語られていたと補足します。ただし、その中身はマルクスのものとは違うといいます。
楊さんによれば、リカードやアダム・スミスの労働価値説 ── 商品の価値は、それを生み出すのに投じられた労働によって決まるとする考え方は、労働を「苦役」ととらえます。嫌々働いて犠牲を払った分が価値に反映される、という個人の意識のあり方から価値を説明したのです。
しかしこの説明では、喜んで作ったものの価値が説明できない、と楊さんは指摘します。楽しく作ったものはタダになるのかというと、そうではなく、実際には普通に売られているからです。
ここで台本制作に関わった話者から、労働に価値があるという考えが生まれた歴史的背景が補足されます。以下の価値は、マルクスの定義とは別の、主観的・一般的な意味での価値だと前置きされます。
この話者によれば、封建社会は身分秩序の社会で、職業にランキングがありました。聖職者や王、貴族は労働せず、庶民が労働して偉い人の生活を支える構造だったといいます。
そのため労働は卑しい人がするもので、価値がないとされていた、と話者は説明します。それを変えたのが宗教改革 ── 16世紀のヨーロッパで、ルターやカルヴァンらがカトリック教会のあり方を批判して起こした改革運動でした。
ルターやカルヴァンは、どんな職業も神が与えた天職であり、労働は神に仕えることだと考えた、と話者は言います。ここで労働に価値があるという考え方が生まれたそうです。
さらに啓蒙思想の中で、この考えは具体化していきます。話者は、ジョン・ロック ── 17世紀イギリスの思想家。労働が経済的価値の源泉であり、労働した人にその所有権があると論じたが、経済的価値の源泉は財そのものではなく、それを生み出した労働にあると論じた、と紹介します。
ロックは、富は労働の産物だから、労働した人にそれを所有する権利があるのではないか、と主張したといいます。逆に、労働しない貴族が所有権を主張すべきではない、という議論にもつながったそうです。
マルクスの価値は「社会的・客観的」。二つの価値を混同しない
楊さんは、ここまでの話はマルクスに至るまでの西洋哲学的な意味での価値であり、出発点は自己認識にあると整理します。労働には価値があるという、個人の意識からくる価値です。
一方でマルクスは唯物史観の立場から、価値を社会的にどう規定されたものかという観点で考える、と楊さんは言います。ここがアプローチとして大きく違うといいます。
古典派経済学の労働価値説と、マルクスの労働価値説。どちらも「労働に価値がある」と言うため、凄まじい混乱を招く、と楊さんは注意を促します。
楊さんは、マルクスの言う価値は、自分の気持ちの問題ではなく、客観的な社会システムの中でどうあるかを考えないとわからない、と強調します。
そのうえで、マルクスが言う価値とは市場での交換力の価値であり、古典派が言う道徳的・倫理的な意味での価値とは別物だ、と両者を切り分けます。
労働を苦役ととらえ、犠牲を払った分が価値に反映されるとする。出発点は個人の自己認識・道徳的な価値
個人の気持ちではなく、客観的な社会システムの中での市場での交換力として価値をとらえる
楊さんは、では市場での交換力である価値が労働にどう備わるのか、という話を、この後マルクスが展開していくと予告します。この部分こそ、他の人はしていないマルクス独自の議論だといいます。
労働の二面性。具体的有用労働と抽象的人間労働
楊さんは、商品の価値は労働量で決まるとして、次に「労働とは何か」を分析する必要があると話を進めます。深井さんは「ずっと分析じゃない」と、掘り下げが続くことに苦笑します。
楊さんによれば、価値に二面性があったように、労働にも二面性がある、というのがマルクスの主張です。どんな労働も、具体的有用労働と抽象的人間労働という二つの性格を持つといいます。
楊さんは、具体的有用労働とは、簡単に言えば労働の質のことだと説明します。裁縫労働は衣料を、農業労働は食料を生産するといった、どんな種類の労働がどんなものを生むかを指すそうです。
もう一つの抽象的人間労働は、どちらかというと量に近い、と楊さんは続けます。労働の質と量と分けるのは正確ではないが、そう理解しないと先に進めない、と割り切ります。
ここで台本に関わった話者が補足します。裁縫にもいろいろな具体的なアクションがあるが、どの労働も人間が筋肉や頭、神経を使ってエネルギーを消費する点では共通している、というのです。
マルクスは、その共通点だけを抽象化して「抽象的人間労働」と呼んだ、と話者は説明します。楊さんは、質を押しなべて均一化し、量的に抽出したものが抽象的人間労働だと言い換えます。
労働の質。裁縫は衣料を、農業は食料を生産するといった、種類や生産性の側面
労働の量。質を均一化し、人間が消費するエネルギーとして量的に抽出したもの
楊さんは、この二つのうち、商品の価値を決めるのは抽象的人間労働の量だと明かします。深井さんは「めっちゃ頑張ったながいっぱい詰まっているものは価値が高くなる」と受け取ります。
しかし具体的有用労働は価値に関係しない、という点がまた分かりづらい、と楊さんは言います。深井さんも「そんなわけない」とまだ思ってしまうと正直に反応します。
需給はどこに消えたのか。「社会的総労働の配分」
楊さんは、さらに新しい概念として「社会的総労働の配分」を持ち出します。価値が労働量で決まるなら、需要と供給の概念はどうなるのか、という疑問への答えです。
需要が高ければ値段は上がり、誰も欲しがらなければ、どれだけ頑張って作っても値段はつかないのではないか。深井さんはそう問いかけます。
楊さんは、この点は『資本論』を読んでもほぼわからなかったと打ち明けます。そこで、参考にしていた佐々木隆二先生に直接質問して教わった内容を紹介します。
楊さんによれば、価値を決める抽象的人間労働とは、社会における総労働の総量の中で、その製品にどれだけの労働が投入されるかの平均値だ、というのがマルクスの考えだといいます。
なぜ平均値なのか。楊さんは、平均値が出ることで需給の概念を包含できるようになる点が非常に大事だ、と説明します。
楊さんは、物を作る生産者が投入できる労働量には限りがある、と続けます。人は24時間しか働けず、抽象的人間労働の量には常に上限があるからです。
そのうえで生産者は、限られた労働量をどの生産部門にどれだけ投下するかを差配している、と楊さんは言います。その差配の際に、当然、需給を考えているというのです。
つまり、需要と供給を加味して労働生産量を配分した結果として労働量が決まり、その労働量が価値を決める、という理屈になります。需給は結果論として労働配分の中に含まれている、というわけです。
労働量の上限
人は24時間しか働けず、投入できる抽象的人間労働の量には限りがある
需給を加味した差配
生産者は、どの部門にどれだけ労働を投下するかを、需要と供給を考えて配分する
配分の結果としての労働量
差配の結果として決まった労働量が、価値の重心点になる
無駄なものは作れない。石の加工の例で考える
楊さんは、この考え方に立つと、無駄なものには誰も労働量を投下しないと説明します。したくても、そんなことをする生産者は資本主義の中で淘汰されて負けていくからです。
仮に無駄なものを作る人がいたとしても、価格と価値は別物なので、価値の重心点は保たれる一方、価格は需給に左右されて下がりうる、と楊さんは言います。
楊さんは、樋口さんを例にした石の話を持ち出します。汚い石を長い時間かけて加工した場合と、最初から綺麗な石を拾った場合を並べます。
もし加工した石をどうしても欲しいという人が現れたら、価格はどう決まるか。楊さんは、樋口さんが頑張った分だけ高くなる、と説明します。
ただし、これは量産できる再生産性のあるものにしか適用されない、と楊さんは条件をつけます。一発だけ作って売る芸術品は、資本主義的生産体制の商品とはみなされず、このモデルには当てはまらないといいます。
楊さんは、樋口さんが毎回河原で石を拾って加工し続けるなら、需要がなくても、欲しいという人には高く売ろうとするはずだ、と言います。そうしないと生活できないからです。
だからそういうことが需給の概念だと説明できないんですよ。この現象が説明できないんです、需給の概念だと。
深井さんは、1000個作って1個も売れなければその仕事を辞めるだろう、と応じます。楊さんは、その場合は違う仕事に移ると受け、価値はあるが売れないものとして扱われると整理します。
自分の生活を守るために、労働量が価値を決める
楊さんは、佐々木先生の論文の記述を紹介します。労働者は抽象的人間労働というコスト、つまり時間と労力を費やして生産したものを、そのコストを基準にできるだけ高い交換比率で交換しようとする、というものです。
逆に、コストに見合わない低い交換比率で交換することは避けようとする、と楊さんは続けます。深井さんは「安く売りたくないもん」と同意します。
なぜそうするのか。楊さんは、支払った抽象的人間労働というコストを無視して交換すれば、自分の生活を再生産していけないからだ、と説明します。
つまり、生活を維持するために各人が自分の労働を配分している、というわけです。深井さんも、食べていけなければ仕事が続けられないと納得します。
楊さんは、こうした個々人の私的利益に基づく労働配分こそが、結果的に価格の重心点、すなわち価値になる、とまとめます。その配分の中に需給の概念が包含されている、というのがこの回の核心です。
ここで深井さんが素朴な疑問を口にします。みんな24時間しかないのだから、一人ひとりが同じくらいの価値を生産していないとおかしいのではないか、というのです。
楊さんは、確かに一人ひとりが同じくらいの価値を生産しているはずだと受けます。それにもかかわらず分配がおかしい、という話がこの後に出てくると予告します。
だから共産主義になるんでしょうね。
楊さんは、当時は労働者が皆、非常に低い賃金で働かされていた時代であり、マルクスはその現実を無視していないと補足します。ここで「労働の強度」という概念を持ち出します。
労働の強度とは、同じ時間を使っていても、めちゃくちゃ頑張っている状態を指すそうです。深井さんが「密度のようなものか」と尋ねると、楊さんは労働の密度だと思われると答えます。同じ労働時間でも給料が高い人は、この強度が高いと説明できるといいます。
ざっくりおさらい。商品・価値・労働のつながり
楊さんは、ここまでの話を改めて整理します。資本主義は、商品の集まりのような富の現れ方をしており、その商品は市場で交換される使用価値を持ったものだといいます。
同時に商品は、交換力としての価値も持っている、と楊さんは続けます。その価値は労働量によって決まり、その労働量とは具体的有用労働ではなく抽象的人間労働のことだ、と念を押します。
なぜ労働量で決まるのか。楊さんは、私的利益に基づく労働力の差配が必ず行われ、その差配には需給が含まれると振り返ります。有利に交換できなければ生活、つまり労働の再生産ができないため、必ずそう行われるといいます。
楊さんは、そのように行われた結果の労働量こそが価値を反映する、というのがマルクスの主張だとまとめます。深井さんは、ピンときたかは判断できないが、言っていることはわかると応じます。
楊さんは、この説明はおそらく60点くらいだろうと控えめに評価します。ここまでが労働の二面性と、なぜ労働量が価値を決めるかの説明だと区切りをつけます。
なぜコテンラジオは説明できないのか。モデルとしての『資本論』
深井さんは、この台本を書くために読んだ本の労働量に触れ、番組や台本には価値があるのかと尋ねます。楊さんは、それは使用価値ではなく「価値」だと答えます。
ただし、価値の重心は高いのに価格がついていない、と楊さんは苦笑します。無料で公開しているため、マルクスの理論では説明できない活動だ、というのです。
マルクスが説明できないことを僕たちは今やってます。
ここで楊さんと樋口さんは、『資本論』がモデルの話をしている点を強調します。個々の特殊なケースや、変わった振る舞いをする産業はあるかもしれないが、全体としての法則を示しているというのです。
楊さんは、このモデルに該当しない事象が起こってもよく、これは統一理論ではないと説明します。基本的にはこう挙動し、この法則が資本主義の性質を決めているという考え方だといいます。
だからこそ、無料で公開する自分たちのような動きをする者は、本来なら資本主義の中で淘汰されるはずだ、と楊さんは言います。頑張って作ったものをタダで出していては生きていけないからです。
普通のマルクスが想定している労働者とかだったら、儲かる方に自分の労働力を配分するからね。
楊さんも、自分ならコンサルの方が年収が高くなるので、本来ならデータベースなど作らずコンサルをするはずだ、と応じます。マルクスから見ても謎の挙動になっている、というわけです。
樋口さんは、ここまではまだ前半の3分の1ほどだと指摘します。もう一つの特殊な商品である労働力と、貨幣の話をしないと、この議論はクリアにならないといいます。楊さんは、次回は貨幣とは何かを扱うと予告して締めくくります。
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まとめ
この回は、『資本論』第1巻の入り口として、資本主義の細胞である「商品」から、価値と労働の関係までをたどりました。マルクスの言葉は正確さゆえに難解ですが、身近な例で追うと、価値が労働量で決まるという主張の輪郭が見えてきます。
- 『資本論』は資本主義の構造を解明する本であり、資本家の善悪を論じるものではない
- マルクスは資本主義の「細胞」を商品ととらえ、市場を「所有者を相互に認める場所」と定義した
- 価値には「使用価値」と、市場での交換力である「価値」があり、後者は価格そのものではなく価格の重心にあたる
- マルクスの価値は労働量、なかでも質を抽象化した「抽象的人間労働」の量で決まり、その配分の中に需給が包含される
- これはモデルの理論であり、無料で価値を公開するコテンラジオのような例外は、本来なら淘汰されるはずの存在として説明されない






