死期を悟った弟子たちは、なぜ師の姿を写したのか
鑑真は唐招提寺で亡くなりました。数え年で76歳、日本に渡ってから10年ほどが経った頃のことです。
樋口さんは、鑑真が66歳で来日したこと、55歳ごろから日本行きを志していたことを振り返り、その歳月の長さに驚きます。
改めて66(歳)に日本に来て、なんやったら55から日本に来たいっていう話を(していて)。
人生かけてます。
鑑真は臨終にあたって弟子たちを枕元に呼び、寺を発展させてほしいと託しました。鑑真の死は遣唐使によって故郷の揚州にも伝えられ、揚州の多くの寺が弔いの儀式をあげたと記録されています。
鑑真は形式上は密航して日本に来た人物です。それでも故郷の寺で盛大に弔われたことについて、楊さんは、揚州では今も慕われていたということだと話しています。
この時期に作られたのが、有名な鑑真和上坐像 ── 唐招提寺に伝わる鑑真の肖像彫刻で、奈良時代の作。日本に現存する最古の肖像彫刻の一つとされ、国宝に指定されていますです。鑑真が亡くなる前、弟子の1人が唐招提寺のお堂の柱が折れる夢を見ました。
その夢は、偉大な人が亡くなる先触れとされるものでした。弟子たちは師匠が生きているうちに、その顔をそっくり写した肖像を作ろうと決めたといいます。
うわ、じゃあ死期をちゃんと感じてやったんや。
鑑真和上坐像は細部まで丹念に作られていて、顎から喉にかけての髭が1本1本描かれています。楊さんは、髭の1本もおろそかにしない弟子たちの思いが伝わってくると語ります。
楊さんはここで、自身の想像だと断ったうえで一つの推測を加えます。目の見えない鑑真は、弟子の手や顔に触れながら語りかけることがあり、弟子たちも至近距離で師を見ていたからこそ、あれほどリアルな像ができたのではないか、というものです。
鑑真和上坐像は今も唐招提寺で見ることができます。公開は毎年6月の3日間だけで、鑑真の命日である6月6日(旧暦5月6日)とその前後1日ずつです。
いや、僕今見てますけど、画像検索して。本当に生きてるみたいですね、これ。
オリジナルメンバーから少年僧まで、鑑真を支えた弟子たち
鑑真の偉業は、1人の力では到底成し得ないものでした。来日に同行した弟子たちが、鑑真の生活を支え、心の支えにもなっていたはずだと楊さんは話します。そこで最終回では、主な弟子の顔ぶれが改めて紹介されます。
1人目は普照です。第1次渡航からずっと鑑真についてきたオリジナルメンバーで、大功労者といえる人物です。
普照が日本に戻ってから何をしたかは、あまり詳しく伝わっていません。戒律を授けられる有資格者として認められたこと、奈良の西大寺で事務方のトップを務めたことが記録に残っています。
奈良の西大寺は、今では真言律宗 ── 鎌倉時代に、戒律の復興を唱えた僧・叡尊らの流れをくむ宗派。真言密教と戒律の実践をあわせて重んじますの総本山です。楊さんによると、真言律宗は鎌倉時代に戒律をもう一度よみがえらせようと唱えた、真言宗の一派です。
2人目は法進で、鑑真が来日した時の一番弟子にあたる中国の僧侶です。鑑真の右腕として戒律の解説書などを著し、鑑真とともに日本の仏教行政に入って主導的な立場にいました。
法進は、鑑真が引退した後に東大寺の戒壇院の最高責任者を継ぎ、鑑真の死後には唐招提寺も引き継いでいます。
3人目は思託です。普照と同じく第1次渡航から諦めずに参加し続けたオリジナルメンバーで、鑑真の伝記を執筆しました。
思託の伝記は、おそらく鑑真の存命中に書かれたもので、史料としての価値が高いといいます。楊さんは、鑑真チームの功績を文字に残して伝えた、一門のスポークスマン的な存在だったと表現しています。
4人目は如宝で、中国から来たソグド人 ── 中央アジアのオアシス都市を拠点に、シルクロード交易で活躍したイラン系の民族。唐の社会にも多く暮らしていましたの弟子です。鑑真に連れられて来日した時は、まだ10代の少年でした。
10代で少年で命かけてくるかね。
如宝は東大寺戒壇院の3代目の最高責任者となり、唐招提寺も引き継ぎました。最澄と空海が東大寺の戒壇院で受戒した時、そのトップは如宝だったと考えられるそうです。
如宝は唐招提寺のお堂を拡張するなど、寺の発展に力を注ぎました。空海と親しく、当時嵯峨天皇の文化顧問のような立場にあった空海を介して、朝廷から支援を受けたり、唐招提寺と鑑真の価値を訴えたりしたという説もあります。
4人の弟子の立場と功績を、楊さんの紹介に沿って並べると次のようになります。
| 弟子 | 立場 | 主な功績 |
|---|---|---|
| 普照 | 第1次渡航からのオリジナルメンバー | 授戒の有資格者として認められ、西大寺の事務方トップを務める |
| 法進 | 来日時の一番弟子 | 戒律の解説書を著し、東大寺戒壇院と唐招提寺を継ぐ |
| 思託 | 第1次渡航からのオリジナルメンバー | 存命中に鑑真の伝記を執筆 |
| 如宝 | 10代で来日したソグド人の少年僧 | 戒壇院の3代目責任者となり、空海を介して朝廷の支援を得たとされる |
天台宗の経典と漢方薬、鑑真は日本に何を持ち込んだのか
鑑真が日本にもたらしたものは、経典や仏像、建築様式など数多くあります。楊さんはその中からいくつかをピックアップして紹介します。
1つ目は天台宗です。鑑真のチームは基本的には律宗でしたが、鑑真自身は天台宗にも深く通じた学者でした。
天台宗の経典は、それまで単発では日本に渡ってきていました。鑑真がそれをまとめて持ち込んだことの意義は大きく、後にこの経典を読んだ最澄が、日本の天台宗を開くきっかけをつかみました。
最澄自身も、天台宗の根源を聖徳太子と鑑真に求めており、そのことをありがたく感じていたという言葉を残しています。
うわぁ、じゃあここ繋がってるんですね、最澄とかにね。
2つ目は漢方です。鑑真は漢方薬そのものに加えて、処方や香辛料、医学書も日本に持ち込みました。医療の技術を持つ、医者のような存在でもあったのです。
目の見えない鑑真は、偽物の薬と本物の薬を鼻で嗅ぎ分けていたと伝えられます。素材の見分け方や処方を、弟子たちにも教えていました。
楊さんによると、岡山大学の研究では、今の日本で使われている漢方の処方の一部が、鑑真のもたらした漢方薬に由来するという説も出されているそうです。
鑑真が伝えた戒律は、なぜ形だけになったのか
鑑真がもたらした3つ目のもの、そして最も重要なものが戒律です。では戒律は日本に定着したのかというと、楊さんの答えは「できなかった」でした。
あんだけね、いっぱい寺とか作ってやったけど、ダメだったんや。
鑑真チームの意気込みは非常に高いものでした。唐招提寺には戒律を修めるための僧侶が滞在し、教えを受けた僧侶たちは地方で布教して民衆の尊敬を集め、戒律を授ける僧として各地に赴任してもいます。
それでも、本格的に導入された授戒のシステムや研修は急速に形骸化していきました。鑑真の来日から100年ほど経った頃、ある僧侶が朝廷に次のような状況を訴えた記録が残っています。
- 古いやり方がすっかり忘れられている
- 授戒の時だけ急に出家の格好をする人がいる
- 見習いの[[沙弥::正式な僧侶になる前の見習いの出家者]]にはなれない14歳以下の者が、外見だけ装っている
- 授戒の場で上下関係や順序をめぐって喧嘩し、立会人を罵り、僧侶に殴りかかる
楊さんは、大げさな表現も含まれているかもしれないとしつつ、もし本当なら制度はほぼ崩壊していたと話します。樋口さんは、その様子を北九州の成人式にたとえて笑いを誘いました。
各地に戒壇を設け、授戒の資格を持つ弟子を派遣し、制度の質を保とうと努めたものの、資格審査としての授戒さえまともに機能しなくなっていった。楊さんはこれを「骨抜きにされていった」と表現しています。
朝廷が欲しかったのは、ガチな仏教ではなかった
樋口さんに「なんでなんですか」と問われた楊さんは、授戒の形骸化の理由を一言でまとめます。
楊さんはこの状況を、会社にやってきたプロ経営者にたとえます。ITシステムを入れ、人事を刷新しようとしても、社内は「そこまでドラスティックにやることは望んでいない。今までのやり方で何とかやってきた」という雰囲気だった、という構図です。
その、なんか肩書きと権威だけいただければ、あとはもう全然自由にしてもらっていいんでみたいなこともね。
楊さんは前提として、当時の朝廷や仏教界を批判したいわけではないと断っています。むしろ仏教のローカライズの一つの形として面白いと捉えている、という立場です。
鑑真の志は、日本列島に住むすべての人に戒律を授け、仏の教えに満ちた世界を作ることでした。一方で朝廷が欲しかったのは、僧侶の資格を認める手続きとしての戒律と授戒の儀式だけでした。
日本列島のすべての人に授戒し、仏の教えに満ちた世界を作る
正式な仏教国の要件を満たし、僧侶の資格審査を厳格にするだけでよい
やるならガチでしょみたいな。肩書きだけやっても意味ないし、と思ってるから、鑑真目線ではちょっとおいおいって思いますね。
朝廷の目的は、正式な仏教国になるための要件として、戒律を授けられる僧侶を10人以上揃えることでした。正式な僧侶を自前で量産できれば、あとは仏教を今まで通り国家運営の手段として使う、というのが朝廷の意向だったと楊さんは説明します。
楊さんは言葉を選ばずに言えばと前置きし、それ以上の希望を鑑真たちが抱くことは朝廷にとってありがた迷惑だったと話します。鑑真という権威に来てもらい、授戒の手続きを厳格化してもらえればそれで十分だったのです。
権威を招く
鑑真に来日してもらう
要件を満たす
戒律を授けられる僧侶を10人以上揃える
自前で量産する
正式な僧侶を国内で生み出せるようにする
数を管理する
公務員である僧侶の数を朝廷側からコントロールする
さらに戒律は、サンガ ── 出家者が戒律を守りながら共同生活を送る仏教の修行者集団。本来は自律的に運営される組織ですと表裏一体のものです。朝廷にとっては、戒律は欲しくても、僧侶たちが自治するサンガを作られるのはむしろ困るというのが本心でした。
当時の僧侶は、国の安泰を祈り、大陸との交流を担う外交官でもありました。朝廷は形式上サンガを承認しながらも、僧侶は実質的に国家公務員であり、僧侶を生む授戒の制度そのものも国家が握っていた、と楊さんは整理します。
楊さんは、過去のシリーズで扱ったワイマール共和国 ── 第一次世界大戦後のドイツに成立した共和国。民主的な憲法を持ちながら政治が不安定化し、ナチスの台頭を許しましたを似た事例として挙げます。議会制民主主義のシステムは導入しても、誰もまともに民主主義をやろうとしなかったために議会政治が崩壊した、という流れです。
ツールだけ導入する、でも運用思想とか運用理念が伴ってないと、このような形になっていくよねっていう現象です。
樋口さんは、クリスマスを祝い、神社に行き、寺でぜんざいを飲むという日本人の年末を例に挙げ、それが悪いことかどうかはわからないと応じています。
世界でほぼ唯一、サンガも戒律もない仏教国
授戒の形骸化の結果、日本の仏教は、本当の意味で戒律とサンガを持たない仏教になりました。
楊さんは、これはあくまで自分が読んだ本の見解で、異論もあると思うと断っています。この状況は、仏教の導入から現代まで、およそ1300年間変わらずに続いているそうです。
現在の日本でも、出家の儀式は宗派ごとにばらばらで、戒律に基づく授戒を出家の儀式にしている宗派はあまりないといいます。サンガに似た組織を持つ禅宗の寺はあるものの、守っているのは戒律そのものではなく独自の基準で決めた規則です。
鑑真を祖とする律宗は今も存在し、総本山は唐招提寺です。ただ、唐招提寺はもともと修行の場でしたが、次第に戒律を学問として研究し伝える場へと性格を変えていきました。律宗の僧侶だからといって、戒律を厳しく守って暮らしているわけではないそうです。
中国や韓国、東南アジアの仏教にはサンガがあります。途絶えたり堕落したりと揺れ動きながらも、サンガこそ仏教の基本だという理念は保たれてきました。
すごいな。入ってきた時に目的的やったんですね。日本は。
楊さんは、他の地域の仏教が人々の信仰に沿って自然にサンガを形成したのに対し、日本の仏教は国策として導入されたことが前提にあると説明します。
なんか本当に悟りを得たい人たちが自主的にやったんじゃなくて、機能として導入しちゃったから、いらない機能とされたものがなくなったみたいなことか。
一方で楊さんは、日本の体制の中から最澄や空海のような天才が出てきたのも事実であり、どちらが良い悪いとは簡単に判別できないと付け加えています。
サンガがないことから、日本の僧侶には他の仏教圏では珍しい生活の形があります。出家の際に戒律に基づく儀式をしない、お酒を飲む、結婚して家族を持つ、子どもに寺を継がせる、肉を食べる、といったものです。
楊さんによると、お釈迦様はお布施でもらった肉を食べることは禁じておらず、スリランカや東南アジアの上座部仏教 ── スリランカや東南アジアに広まった仏教の流れ。出家者の戒律とサンガを重んじる伝統を持ちますでは今も肉を食べるそうです。ただし楊さん自身は本で読んだだけで、実態は確認できていないと断っています。
一方、中国を含む東アジアの仏教圏では、僧侶はベジタリアンでなければならないという通念があります。楊さんの四川省の実家の近くでも、お坊さんは酒を飲まず肉を食べないというのが一般常識でした。
サンガが存在し、揺れ動きながらもサンガが仏教の基本という理念を保つ。東アジアでは僧侶は酒も肉も口にしないのが通念
厳密な意味でのサンガがなく、戒律に基づく出家の儀式もほぼない。飲酒、結婚、寺の世襲、肉食が見られる
日本ではこうした生活が、仏教的にはそれほど問題にされず、せいぜい社会通念として好ましくないと批判される程度です。世間から見放されて崩壊するサンガが、そもそも存在しないからです。
なんで戒律があんなに重要で守られていたかっていうと、サンガが崩壊するとお布施とかが入ってこなくなったりとか、あと立ち位置が守れなくなる。
日本ってその辺がリスクがないからやっちゃうよねって感じですね。
楊さんが読んだ本には、日本は世界でも類を見ない、本当の僧侶を見分けることが困難な仏教国だと書かれていたそうです。
それでも空海や最澄、親鸞、法然のような人物が現れました。楊さんは、サンガも戒律もまともに存在しない日本で突き詰めていく僧侶は、本当に本気の人なのだという見方もできると話します。
だってサンガがなくても悟りに近づけれてるクラスの人たちってことやから。サンガって効率を上げるためのものですもんね。
揚州の鑑真仏教学院に受け継がれた日本とのつながり
戒律は日本に定着しなかったものの、鑑真の活躍が残したものはあります。鑑真の故郷・揚州には、鑑真がかつて所属した大明寺が今もあります。
大明寺は2006年に仏教大学の鑑真仏教学院を開校しました。仏教の国際交流を担う人材を育てるための学校で、仏教英語と仏教日本語という2つの専攻があります。
鑑真仏教学院は海外や日本の仏教大学とも交流しています。ただ楊さんは、中国政府の管轄下にあるため、純粋に仏教だけを極める場というわけでもないようだと付け加えています。
唐招提寺と大明寺の交流も今も続いています。楊さんは、こうしたところに鑑真の息吹が残っていると語り、鑑真の一生の話を締めくくりました。
戒律は鑑真を縛ったのか、自由にしたのか
エンディングで樋口さんに感想を聞かれた楊さんは、鑑真を「偉人」「素晴らしいお坊さん」と評したうえで、戒律そのものよりも、ホモ・サピエンスにとってルールとは何かを考えたと話します。
仏教徒ではない楊さんにとって、戒律は人をがんじがらめにするものというイメージでした。ところが鑑真は何百もの戒律を徹底的に守りながら、国や民族を超えて活躍しました。
ガンジンの心に戒律があるからこそ、実は自由になれたっていう部分もあるのかなとふと思ったんですよね。
樋口さんは、自身のダイエットにたとえてこの考えに応じます。痩せたい時はルールがないと無理で、ルールをガードレールのように使っているといいます。
要はこれ(ルール)を超えちゃったら事故みたいな。だから食い過ぎないようにルールをまず決めるじゃないですか。
痩せるっていう、僕からするとそれが自由なんですけど、痩せれるという自由じゃないですか。痩せれないって不自由だから。
楊さんはこれを、自由を束縛するものではなく「何かを達成するための環境設計」と言い換えます。樋口さんは、悟りたい僧侶にとって戒律は、目的へ向かうための補助線やガードレール、松葉杖のようなものかもしれないと続けました。
ルールっていうのは自分を枠組みの中に押し込めるっていう側面だけで見るのはもったいなくて、自分の枠組みであったり、限界を超えさせてくれる力を持つっていうこともあるっていうことですかね。
樋口さんは、お金を貯めたい人が「今月は財布に3万円だけ入れて、それ以上使わない」と決めるのも同じだと例を挙げます。そのうえで、多くの人がルールに嫌なイメージを持つのは、納得のいかない校則や法律が多すぎるからではないかと話します。
楊さんが「鑑真は戒律を全部納得していたのか」と問うと、樋口さんは、鑑真は悟りの道を自ら選び、嫌ならやめることもできたから前向きに守れたのかもしれないと答えます。
なんか僕らがルールに対して嫌な気持ちになるのって、やっぱり国とか学校とか会社とかだと思うんですよ。それって辞めにくいから、ルールの強制力の嫌さの方が前に出ちゃう。
楊さんはマフィアを例に、抜けたら命に関わる組織と違って、仏教はサンガから抜けても殺されることはないと応じます。だからこそ、戒律を守るかどうかは完全に自分の自由意志が問われる、というわけです。
吉本の年功序列は、なぜ「あった方が楽」なのか
樋口さんは本題から少し離れるとしつつ、吉本興業にいた頃の経験を話します。吉本では年齢ではなく芸歴で上下が決まり、どれほど売れていても後輩は先輩の下という、典型的な縦社会でした。
これ、ザ年功序列の古い縦社会じゃないですか。でも(このルールが)なかったらめちゃくちゃ大変やぞって思ったんすよ。
樋口さんによると、もし売れている方が偉いとすると、翌年に人気が逆転すれば上下関係も入れ替わってしまいます。
しかも、ギャラの高さ、テレビでの露出、ネタの評価など、何をもって「売れている」とするかの軸がいくつもあります。楊さんはこれを「秩序に対するコンセンサスが取れない」とまとめました。
誰が先輩かが一目でわかり、人気が変わっても上下関係は動かない
人気の逆転で上下が入れ替わり、ギャラ・露出・ネタのどの評価軸で判断するかも決まらない
芸歴と年齢のどちらで決めるかが定まっていないだけでも、初対面で「どっちが後輩か」の言い争いになりかねない、と樋口さんは話します。決めてもらっておいた方がずっと楽だというのが実感でした。
楊さんは、群れで生きるホモ・サピエンスにとってルールを守ることは重要視されるため、現象として納得がいくと応じます。ルールのない世界は「天下大乱」、戦国時代のようになるという点で、2人の見方は一致しました。
芭蕉が見た涙と、何も語らない鑑真の沈黙
楊さんのもう一つの感想は、鑑真の気持ちについての想像でした。鑑真自身が思いを書き残した文書は意外と少なく、何を考えて日本で過ごしたのかはよくわかっていません。
江戸時代、松尾芭蕉は鑑真和上坐像を見に訪れ、「若葉して御目の雫ぬぐはばや」という句を詠みました。鑑真の閉じた両目に涙がうっすら浮かんでいるように見え、若葉で拭ってやりたいと感じた句です。
楊さんがこの句から思ったのは、鑑真は日本に骨を埋めながら、一度も日本を目で見たことがないという事実でした。
彼はどんな日本を想像していたのか、感じていたのかとか、なんかね、想像しちゃいますね。
楊さんはヘレン・ケラーを思い出したといいます。樋口さんも、日本の桜の色も、東大寺の大仏の姿も、唐招提寺の形も、鑑真は言葉から想像するしかなかったのだと気づきます。
なんか最初から見えてないのと、見えてた状態から見えなくなって日本に行ったんだと、なんか全然感覚違う気がしました。もっと見たいやろうなっていう。
鑑真和上坐像は、目も口も閉じていて、笑ってはいません。楊さんには、その表情が喜怒哀楽も苦しみも喜びも、すべて飲み込んでいるように見えたといいます。
楊さんは、これも全くの想像だと断りつつ、苦労や思いを飲み込んで語らないことまで戒律で決まっていたのだとしたら、鑑真は本当に戒律に生きて戒律に死んだ人だと話します。樋口さんは「俺やったらベラベラ喋ります」と笑いました。
楊さんはさらに、弟子たちが伝記を書き、寺を盛り立てたのは、師匠があまりに自分のことを語らないからこそ、自分たちが残さなければと思ったからではないか、とも想像しています。
樋口さんはこれを、ユーザー自身が発信してくれるSNSのUGC ── ユーザー・ジェネレーテッド・コンテンツの略。企業ではなく利用者が作って発信する口コミや投稿などのコンテンツのことにたとえ、「UGCの走りですよ」と冗談めかしました。
55歳からの旅に、樋口さんが感じたシンパシー
最後に樋口さんは、鑑真を「めっちゃ好き」だと語ります。日本へ行くという決断には、人間のいい意味での非合理性を感じるといいます。
本人から見た世界観と、当時のその価値観の中では合理的かもしんないですけど、やっぱりなんかね、人間のいい意味での非合理性を感じるんですよね。いや、行くつったからもう行くんよみたいな。
周りからは整合性がないように見えても、本人の中では筋が通っていて、突き進む。樋口さんは自分もずっとそうしてきたので気持ちがよくわかると話し、楊さんも樋口さんは自分の戒律を貫いて世界とぶつかっていると応じました。
何よりやっぱりこう55歳からこれやったっていうのは、やっぱりまだまだ人生フルスロットルいけるぞっていう思わせてくれて、なんかめっちゃ勇気出るなと思いました。
1人でも行くと言った鑑真に20人の弟子がついてきたことに、樋口さんはクラウドファンディングに通じるものを感じたといいます。楊さんは、打算でやっていたら気づかれるだろうと付け加えました。
樋口さんは、1人で鑑真編を語り切った楊さんをねぎらい、シリーズを締めくくりました。
まとめ
鑑真編の最終回は、鑑真の死後に残った坐像や弟子、経典、漢方といった遺産をたどりつつ、最も重要だった戒律が日本に根づかなかった理由を掘り下げる回でした。朝廷が求めたのは資格審査の仕組みとしての戒律であり、その結果として日本にはサンガも戒律もない独自の仏教が生まれた、と楊さんは整理しています。
- 鑑真和上坐像は、死期を悟った弟子たちが生前の師の姿を写した像とされ、今も毎年6月に3日間だけ公開されている
- 普照、法進、思託、如宝らの弟子が、伝記の執筆や唐招提寺の継承で鑑真の遺志を受け継いだ
- 鑑真が持ち込んだ天台宗の経典は最澄に影響を与え、漢方の処方の一部は今の日本にも由来が残るという説がある
- 朝廷がそこまで本格的な仏教を求めなかったため授戒は形骸化し、日本はサンガも戒律もない、世界でもほぼ唯一の仏教国になったとされる
- ルールは人を縛るだけでなく、目的を達成するための環境設計にもなりうる、という視点が2人の対話から示された





