数千人の学僧のなかでトップ10に入った外国人とは?
インドに到着した三蔵法師・玄奘は、目的地だったナーランダ寺院にようやくたどり着きます。ナーランダ寺院からは迎えの人も来てくれたと深井さんは説明します。
ナーランダ寺院は当時インド最大の仏教大学で、学僧が数千人いました。前回の話にあった有識論 ── 書き起こしでは「有識論」。前後の文脈から、仏教の唯識の教えを指している可能性があります。表記は要確認ですレベルの議論ができなければ相手にされず、叱咤されるという文化だったといいます。
これ(有識論)ぐらいわかってないとお前何?みたいな。
玄奘はその環境で頭角を現し、トップ10に入ります。このトップ10は順位が決まっていない「四天王」のような10人の枠で、経論を50部マスターした人たちでした。50部すべてを修めたのはこの10人だけで、そこに外国人の玄奘が入っていきます。
樋口さんは、玄奘にとってインドの言語がネイティブではない点に驚きます。深井さんは、そのハンデがありながら入ってくるところに玄奘の優秀さが表れていると話しています。
玄奘はナーランダ寺院で5年学び、学び終えた時点で36歳になっていました。樋口さんは「まだ僕より年下ですよ」と反応しています。
帰国の前に、なぜまたインドを回ったのか?
36歳の玄奘は、国を出てから8年ほどが経ち、十分に学んだという感覚があったと深井さんは推測します。それでも玄奘は、帰国する前にせっかくここまで来たのだからインド全体を回ろうと考えました。
玄奘の新たな旅の目的は、もっと多くの仏典を持ち帰ることでした。こうして仏典を探索する旅が始まります。
ひえー。もうどこまで行っても学びたいんですね。
この周遊の旅でも、玄奘は立ち寄った国に滞在して学びます。イーラニャパルヴァダ国で1年、それとは別のパルヴァダ国で2年学び、計4年かけてインドを巡ってナーランダに戻りました。このとき玄奘は39歳です。
玄奘の年齢を並べると、学問と旅にどれだけの歳月をかけたかが見えてきます。
仏教の聖地インドで玄奘が見た意外な光景
玄奘はもともと、仏教の本拠地であるインドでは仏教が栄えているはずだと考えていました。ところが実際に行ってみると、すでに異教徒のほうが多かったと深井さんは話します。
仏教徒もいて、ナーランダ寺院のような場所もあるものの、仏教の中心はすでに東アジアへ移っていました。樋口さんはこれを「衰退気味」と受け止めています。
玄奘が目にしたのは、さまざまな異教徒の苦行です。ジャイナ教 ── 仏教とほぼ同時期にインドで生まれた宗教。不殺生や無所有を厳しく守ることで知られますの空衣派は、所有しないという考えから服も着ない人たちでした。体に灰を塗って苦行するヒンドゥー教徒もいたといいます。
なかでも変わっているのがカーパーリカ ── シヴァ神を信仰する苦行者の一派。髑髏を鉢として持ち歩くなど、あえて社会的タブーに触れる修行で知られますです。髑髏の鉢で施しを受け、墓地で生活し、風呂にも入らない人たちでした。
タブーを犯し続けるっていう、その苦行をしてる人たちがいる。
こうした苦行者を見た玄奘が抱いたのは、軽蔑の心だったと深井さんは説明します。玄奘から見ると、彼らの苦行にはまずロジックがありませんでした。
深井さんによれば、玄奘は理論を突き詰めたうえでの実践としての苦行ならまだわかる、という心境だったのではないかといいます。実際に、軽蔑しているような記述も残っているそうです。
仏教を飲み込んだヒンドゥー教の盛り返し
深井さんは、インドでは4世紀ごろにはすでに仏教が衰え、ヒンドゥー教が盛んになっていたと説明します。ヒンドゥー教の特徴は、ほかの宗教を少しずつ吸収して大きくなっていく点にありました。
そのためヒンドゥー教は仏教を迫害せず、破壊や禁止もせずに、ただ飲み込んでいったといいます。深井さんは、そのほうが多神教としては自然なのかもしれないと話しています。
楊さんは、ヒンドゥー教の成り立ちをバラモン教 ── 古代インドの宗教。身分制度のもとで司祭階級バラモンが祭祀を担い、動物の供犠を重んじましたから説明します。バラモン教では牛などを生贄に捧げていましたが、農業で牛を使い、力を持ち始めた人々にとって、偉い僧侶に牛を取られることは大きな不満でした。
それが一つの要因になって、そこから仏教とジャイナ教というのが生まれてる、生まれてるんですよね。
楊さんの説明では、仏教とジャイナ教が力をつけると、バラモン教は民衆に親しみやすい宗教になろうと各地の信仰を吸収し、それが今のヒンドゥー教につながりました。そして盛り返したのが、ちょうど玄奘がインドに来た時期だったといいます。
バラモン教
牛などを生贄に捧げ、農業を担う人々の不満を招く
仏教・ジャイナ教の誕生
不満が一つの要因となって生まれ、力をつける
バラモン教の変化
民衆に寄り添い、各地の信仰を吸収する
ヒンドゥー教の隆盛
玄奘の来訪時にちょうど盛り返していた
この流れを踏まえると、玄奘が見たインドは、仏教がいったん落ち、ヒンドゥー教が再び上がっている最中だったことがわかります。
帰国を決めたのは占い? インダス川で経典が転覆
39歳でナーランダに戻った玄奘は、再び帰国するかどうか迷い始めます。最終的に背中を押したのは、まさかのジャイナ教徒の占いでした。
よく当たると評判のジャイナ教徒の占い師から、ハルシャ王とクマーラ王の庇護のもとで必ず帰国できると言われ、玄奘は帰国を決めます。楊さんは、一度軽蔑したはずのジャイナ教で決めるのかと突っ込んでいます。
深井さんは、玄奘が迷った理由を行きと帰りの違いから考えます。行きは持ち帰るものがないので最悪自分が死ぬだけですが、帰りは経典を抱えています。
帰りってさ、経典持って帰ってるでしょ。死んだらすごく悔しいと思うんですよ。
玄奘はおびただしい量の経典を持ち帰ることになり、楊さんは「馬車22」と口にしています。荷物が多いため行きよりしんどい旅で、船で帰るという選択肢もあったと深井さんは説明します。
それでも玄奘は陸路を選びました。往路で高昌国の王と、帰りに立ち寄ると約束していたからです。楊さんはこれを「義理堅え」と評しています。
ところが陸路の途中、インダス川を渡るときに船が転覆し、経典の一部が失われてしまいます。玄奘はこのときも慌てませんでした。
失われた経典をどこで集めたか覚えていた玄奘は、その地にもう一度使者を派遣して写させ、持ってこさせるという方法でリカバリーしたと深井さんは話します。一瞬は焦ったはずだとも付け加えています。
国禁を犯した玄奘は、なぜ堂々と帰国できたのか?
玄奘は出国のとき国の法律を犯しており、普通に考えれば犯罪者として帰れない立場でした。深井さんは、なぜ玄奘が帰っていいと思えたのかが、考えるポイントの一つだったと話します。
楊さんは、そもそも帰らなくてもよかったのではと指摘します。自分の知識欲を満たすだけなら、ナーランダで学び終えた時点で目的は果たしているからです。
深井さんは、記録には残っていないかもしれないと断ったうえで、玄奘は自分が発見した真理を中国の人に正確に伝えたくなったのではないかと推測します。
このころ唐はすでに太宗 ── 唐の第2代皇帝・李世民。「貞観の治」と呼ばれる安定した政治を実現し、中国史上屈指の名君とされますの時代でした。43歳の玄奘は太宗に上奏文を書き、国禁を犯して天竺に来たこと、象が溺死して経典を持ち帰れずにいること、皇帝に挨拶したいので使者を送ることを伝えます。
深井さんの見立てでは、情報収集に長けた玄奘は、太宗が西へ勢力を伸ばそうとしていることを察知していました。西域の情報をメモしまくっていた玄奘は、その情報交換を想定していたと考えられます。
交渉材料にしてるんですよね、自分のデータを。
本来4ヶ月で往復できる道のりを、使者は7ヶ月かけて戻ってきました。太宗が高句麗攻めに忙しかったためと言われていますが、上奏文を見た太宗はすぐに会うと決断し、そこからの帰路は楽になったといいます。
玄奘が中国に帰国したのは44歳のときです。旅は17年に及び、20代後半から40代半ばまでを費やしたことになります。
太宗の誘いを断り、スポンサーにした交渉術
太宗は玄奘に会い、その非凡さを見抜きます。そして僧侶を辞めて国政に参与してほしいと頼みました。
翻訳のために帰国した玄奘は、この誘いを太宗を立てながら失礼にならないよう断ります。そして結果的に、経典の翻訳チームを作らせることに成功しました。
向こうのオファーはあなたを雇いたいですって言われたのに、自分のスポンサーにさせてるんです、その後。
太宗のオファーは「僧侶を辞めて国政を手伝ってほしい」
玄奘は僧侶のまま、国の支援で経典の翻訳チームを得る
実際にどんな会話がされたかはわからないと深井さんは断っています。楊さんは、翻訳事業が国にとってどれだけ大事かを、玄奘がロジカルに詰めていったのだろうと推測します。
唐の初期は仏教より道教 ── 老子・荘子の思想や神仙信仰をもとに中国で成立した宗教。唐の皇室は老子と同じ李姓であることから道教を重んじましたが中心で、太宗も仏教には乗り気でなかったと考えられます。深井さんは、道教にも通じていた玄奘がうまく説得したのだろうと話します。
支援の交換条件として出されたのが、旅の記録『大唐西域記 ── 玄奘が見聞した西域・インド諸国の地理や風俗をまとめた書物。7世紀の中央アジアや南アジアを知る重要な史料です』の執筆でした。つまり、大唐西域記は玄奘が書きたくて書いたものではなかったということです。
一説には、公開された大唐西域記はフルバージョンではなく、軍事機密を削った一般公開版だとも言われます。樋口さんはこれを「ディレクターズカット版があるわけだ」と表現しています。
帰国後の20年、翻訳に捧げた人生へ
帰国した玄奘は、ありがたい経典を持ち帰った偉い僧として民衆から大歓迎されます。しかし玄奘はそこから、再びストイックな人生に入っていきます。
玄奘はその後20年生き、太宗の支援で組んだ翻訳チームとともに死ぬまで翻訳を続けました。楊さんによれば、中国中から優秀な僧を集めたプロジェクトチームだったといいます。
だって(翻訳の20年は)十七年の旅より長い。
深井さんは、往路で麹文泰に呼ばれ、嫌々立ち寄ったころの玄奘と、太宗に翻訳チームを作らせた玄奘とを比べ、苦労と交渉の経験が玄奘を成長させたと話します。
あの時と最後太宗に会って翻訳チーム組成させる時の成長違うよね。
楊さんは、さまざまな王と渡り合い、ナーランダのような最高学府でトップに立った実績があるからこそ、玄奘は皇帝相手にも交渉できたのだろうとたとえています。次回は帰国後の翻訳事業の話になります。
まとめ
玄奘はナーランダ寺院でトップ10に入り、さらにインドを巡って学び尽くしたうえで、経典を中国に伝えるために帰国を選びました。国禁を犯した身でありながら、西域の情報を交渉材料に太宗の支援を引き出し、残りの人生を翻訳に捧げていきます。
- 玄奘はナーランダ寺院で経論50部を修めた10人の一人となり、その後4年かけてインドを周遊した
- 当時のインドでは仏教が衰え、各地の信仰を吸収したヒンドゥー教が盛り返していた
- 帰路のインダス川で経典の一部を失ったが、集めた場所を覚えていたため使者を送って補った
- 太宗の官職の誘いを断り、逆に翻訳チームの支援を得た。その交換条件が大唐西域記の執筆だった
- 17年の旅から44歳で帰国した玄奘は、その後の20年を翻訳に費やした


