帰国した玄奘を待っていた「サードステージ」とは?
17年にわたるインドへの旅から、三蔵法師こと玄奘がついに唐へ帰国します。この回は、帰国後の玄奘がどう生きたのかを追うところから始まります。
その前に深井さんは、旅の途中で「帰りに寄る」と約束していた高昌国 ── シルクロード沿いのオアシス都市国家。往路の玄奘を手厚く支援した王がいたことが、シリーズの前の回で語られていますの後日談を補足します。玄奘が戻るころ、高昌国はすでに唐に滅ぼされ、王も亡くなっていたため、寄ることはできませんでした。
あれね、(高昌国は)滅びてた。
王様も死んで国も滅びてた。
深井さんによると、帰国後の玄奘は人生の「サードステージ」に入ります。冒険から一転して、大規模な翻訳センターを作り、チームを組んでプロジェクトを回していく人生です。
玄奘はインドから持ち帰ったサンスクリット語の原典を、皇帝の協力と資金を得て翻訳していきました。旅の記録である大唐西域記 ── 玄奘がインドまでの旅で見聞きした各地の地理・風俗・仏教事情をまとめた記録。唐の皇帝の求めで編まれましたも、玄奘のメモをもとに、優秀な僧の弁機がわずか1年で書き上げたものです。厳密に言えば玄奘本人は「監修」の立場だったといいます。
335巻でも1割だけ。翻訳チームの分業と晩年の病
帰国後の約20年間で玄奘が翻訳したのは、335巻分とされています。1巻の分量ははっきりしないものの、紙がすでにある時代なので、およそ335冊分と考えてもおかしくないと深井さんは話します。
この翻訳は23人のチームで進められました。楊さんの説明では、役割分担がかなり細かく決まっていたそうです。
唯識論や般若心経のような哲学的な経典を訳すのは、1つ1つに時間がかかります。それでも、玄奘が訳せた335巻は持ち帰った経典の1割ほどにすぎず、残りの9割は訳されないまま玄奘は亡くなりました。
楊さんによると、玄奘は死の直前まで弟子たちから「もう1冊お願いします」と頼まれていました。しかし体力が追いつかず、年を取って最高の訳はもう出せない、という趣旨の言葉が伝わっているそうです。
深井さんは、旅で相当無理をしたためか、玄奘が持病を抱えていたことにも触れます。「冷病」と呼ばれる病で、心臓発作のような症状でしばしば倒れ、悪寒と高熱を繰り返したと伝わります。玄奘は63歳で亡くなりますが、55歳のときにも生死の境をさまよっています。
毎日4時間睡眠、皇帝のお気に入りの翻訳生活
晩年の玄奘の翻訳生活は、かなりストイックなものでした。楊さんは、その1日の流れを紹介します。
(玄奘は)朝必ず4時起きなんですよ。4時に起きて今日のToDoを作るんですよね。
玄奘は朝のうちに、その日に訳す箇所へ印をつけ、チームが集まると翻訳に取りかかりました。ただし、玄奘の仕事は翻訳だけではありませんでした。
玄奘は皇帝のお気に入りで、しょっちゅう呼び出されては話し相手を務めていました。役職に就く公務員でもあり、若い僧たちから寺の運営などの相談を受け、意思決定や指示も行っていたといいます。
深井さんは「毎日4時間睡眠」とまとめ、樋口さんは病で倒れては回復することを繰り返しながらの生活だった点に驚きます。玄奘はこの生活を死ぬまで続けました。
弁機の処刑と玄奘の死。なぜ「三蔵法師といえば玄奘」なのか?
玄奘の翻訳事業の20年間には、スキャンダルも起きています。大唐西域記を書いた弁機が、太宗の17番目の娘で、すでに結婚していた公主と浮気をしたのです。
見つかるんですよ、皇帝に。ガチギレなんですよ。
弁機は処刑されました。この件について玄奘と皇帝が何を話したかは残っておらず、真相には複数の説があると深井さんは説明します。
- 皇帝にハメられて殺されたという説
- 弁機がそんなことをするはずがないという説
- 浮気は事実だが、皇帝が玄奘に気を遣い責任追及を及ぼさなかった説
さらに楊さんは、大唐西域記に含まれる軍事情報を知る弁機の口封じだったのでは、という見方も挙げます。いずれにしても真相は謎のままです。
その後、太宗が亡くなって高宗の時代となり、やがて中国史上唯一の女帝である則天武后 ── 唐の高宗の皇后から権力を握り、のちに自ら皇帝に即位した人物。国号を周と改めましたが現れます。そうした時代の中で、玄奘は持病を繰り返しながら63歳で生涯を終えました。
深井さんによると、「三蔵法師」は固有名詞ではなく称号に近い言葉です。三蔵という3種類の経典を極めた人という意味で、三蔵法師は何人もいます。それでも玄奘があまりにすごかったため、三蔵法師といえば玄奘、となっているのです。
日本にもいた玄奘の弟子・道昭と、奈良に残る骨
楊さんは、日本と玄奘のつながりを紹介します。玄奘の弟子の1人に、遣唐使として唐に渡った日本人僧・道昭がいました。
めちゃくちゃ三蔵法師から可愛がられた記録があって、もう同じ部屋で寝泊まりしてたぐらいの、そういった実は記録も残ってるんですよね。
楊さんは、道昭の帰国後の流れが今に残る寺として、奈良の元興寺と興福寺を挙げます。エピソード説明では、元興寺は道昭が最初に教えを伝えた寺、興福寺と薬師寺は道昭が伝えた法相宗の有力な寺で、道昭がこれらを創建したわけではないと補足されています。
さらに薬師寺には玄奘を祀る建物があり、分けてもらってきた玄奘の骨が納められているといいます。公開は貴重なため数年に1回くらいではないか、と楊さんは推測しつつ、詳しくはないと断っています。
深井さんが「実際本当の骨かどうか」と言うと、楊さんは「伝説ですよ」と応じます。こうして玄奘の生涯をたどる本編は締めくくられます。
言い訳はいくらでもできた。玄奘から深井さんが学んだ2つのこと
本編を終えたあと、3人はそれぞれ玄奘の人生から学んだことを語ります。深井さんがまず挙げたのは、知的探求心の追求を邪魔できるものはないという実感でした。
深井さんによれば、親の死、貧困、国の乱れ、テキストの不足と、玄奘が生きた時代背景や環境は、勉強にとってすべて阻害要因でした。言い訳しようと思えば、いくらでもできたはずだといいます。
砂漠越えたら死ぬかもしれないじゃんとかさ、いくらでも言えるじゃん。もう全部はねのけてるじゃん。
深井さんは、会社を経営していると言い訳したくなる人情はあると認めたうえで、「関係ねえなって思った」と語ります。楊さんも、砂漠や氷山を越えるときほどの覚悟で決断しているかと言われれば、していないと耳の痛さを口にします。
深井さんが学んだもう1つのことは、異なる2つのスキルを掛け合わせる大切さです。玄奘は、体が丈夫であることと、哲学ができることの両方を持っていました。
多分ね、この時も哲学できる人なんて死ぬほどいっぱいいたと思うんですよ。
(山や砂漠を)超えれるやつも多分死ぬほどいっぱいいたんですよ。2つできるやつがいなかったんですよ。
樋口さんはこれに共感し、自身の活動でも廃校、音楽、田舎を掛け合わせていると話します。そのうえで、田舎のように弱みと見られがちな要素でも、掛け合わせるとマイナス掛けるマイナスがプラスになることがある、と付け加えました。
天才でも一人では届かない。人に助けてもらう力
樋口さんがシリーズ全体を通して感じたのは、一人で旅をした玄奘が、実は多くの人に助けられていたということでした。
樋口さんによると、出資した王たちは自分で悟りを開けないからこそ、お金を出す役割を担っていました。玄奘はそれをうまく活用し、資本を回しながら結果を出したといいます。
思い
まず玄奘自身に強い志がある
ロジックと熱量
その思いを論理と情熱で人に伝える
「こいつならやってほしい」
相手に協力したいと思わせる
成功の連続
協力を得ることを繰り返して目的に到達する
深井さんは、玄奘が私利私欲で動いていなかった点も重要だと補足します。楊さんは、知識があればマウントを取りがちなところを、玄奘がみんなから好かれていたことに人としての深さを感じたそうです。
樋口さんは、大翻訳センターも「人がほしい」と言わなければ実現しなかったはずだと指摘します。コテンラジオで「チャンネル登録して」と頼んだから助けてもらえた経験と重ね、玄奘はお願いするのも超うまかったのだろうと話しました。
楊さんは、相手のニーズに合わせて価値を説けたことを挙げ、深井さんはプレゼンスキルと、それを支える熱量と志があったのだろうとまとめます。樋口さんは、玄奘はどの角度から見るかで姿が変わる人物だと述べ、深井さんが「唯識論ね」と返して笑いを誘いました。
検索で知った気にならない。命をかけた「本物の勉強」
楊さんが改めて感じたのは、学者のすごさでした。玄奘が苦労して中国に持ち込んだ知識が日本に伝わり、今の自分たちもその恩恵を受けている、と楊さんは話します。
知を作り出す方々に対して、もっと敬意を抱かなくちゃいけないなと思ったし。
深井さんは、知識が溢れる今は感じづらいものの、知識には本来命をかける価値があったと応じます。樋口さんも、相対性理論でさえ検索すれば動画で教えてもらえる時代だと続けました。
深井さんは、学ぶ量は受け取る側の姿勢がどれだけハングリーかで大きく変わると話します。満たされない状態で学んだ玄奘と、何でもすぐ検索できる自分たちとでは、学びのレベルが全く違うだろうといいます。
テキストも揃わない満たされない状態で、命をかけて超絶ハングリーに学ぶ
何でも教えてもらえ、すぐ検索できる環境で学ぶ。範囲は広いが、砂漠は渡れない
深井さんは、玄奘を旅をしながら勉強した人だと捉え、APU ── 大分県別府市にある立命館アジア太平洋大学の略称。ライフネット生命創業者の出口治明さんが学長を務めましたの学長だった出口さんの「旅と勉強をしなさい」という言葉と重ねます。
玄奘は唯識論を頭で理解するだけでなく、砂漠や氷山の上で実践していた、と楊さんは話します。学ぶ範囲なら自分たちの方が広いかもしれないが、本当の勉強が何かを教えてもらったと深井さんは振り返りました。
樋口さんは、シリーズが始まる前は西遊記くらいのイメージしかなかった三蔵法師について、知れば知るほど知とは何かがわかった気がすると話します。そして「わかったような気がする」で終わらせず、もっとわかっていこうと思った、と締めくくりました。
まとめ
三蔵法師玄奘編の最終回では、帰国後20年にわたる翻訳事業と晩年、日本の弟子・道昭とのつながりが語られ、最後に3人が玄奘の生涯から受け取った学びを共有しました。
- 玄奘は23人のチームで335巻を翻訳したが、持ち帰った経典の1割ほどにとどまった
- 持病を抱えながら毎日4時間睡眠で翻訳と公務を続け、63歳で亡くなった
- 玄奘の弟子には日本人僧の道昭がおり、薬師寺には玄奘の骨が納められているという
- 深井さんは、言い訳をはねのける姿勢と、2つのスキルの掛け合わせによる希少価値を学びとして挙げた
- 命をかけて旅をしながら学んだ玄奘の姿は、検索で知った気になりがちな現代に本物の勉強を示している




