秦を強国にしたキーマン、商鞅とは何者か
秦が戦国時代の勝者になれた一番大きな理由について、深井さんは、前回紹介した法家の思想を最も「フルで」活かせた国が秦だったからだと説明します。
深井さんによれば、法家の採用自体は他の国も行っていました。ただ、秦ほどうまく活かせた国はなかったといいます。
一番大きかったのが、前回言った法家をフルで生かすことができたのが、やっぱり秦だったんですね。
その法家を秦で実行に移したのが、商鞅 ── 戦国時代の政治家。秦の孝公に仕えて「変法」と呼ばれる大改革を行い、秦を強国へ押し上げたとされる人物ですという人物です。商鞅は秦の国家システムを根底から覆して革新し、その結果、秦の国力は一気に上がっていきました。
商鞅は始皇帝が生まれる100年ほど前、3〜4代前の時代の人です。樋口さんが「直接会ってないんですよね?」と確認すると、深井さんは会っていないと答えています。
法家とは、ルールで国を運営しようと唱えた人たちです。深井さんによれば、それまでの国は王や貴族の裁量に任されていて、法律やルールで運営するという発想がありませんでした。商鞅は、その貴族も含めてルールで縛ろうと言い出したのです。
商鞅が目指したものを一言で言うと富国強兵 ── 国を豊かにし、軍事力を強めることを目指す政策の考え方。日本では明治政府のスローガンとしても知られていますです。民衆の生産力を上げ、戦争で強くし、そのうえで貴族の権力を落として君主の権力だけを上げる。ルールによる中央集権を実現しようとしたのが、商鞅の改革でした。
「頭がいいかはどうでもいい、全員農業しろ」という改革
商鞅の改革の具体例として、深井さんがまず挙げるのが農業の重視です。当時は農業が国力を上げる要の産業だったため、商鞅は民衆に農業へ従事するよう求めました。
一方で、この時代は前回紹介した諸子百家 ── 春秋戦国時代に現れた多様な思想家・学派の総称。儒家、道家、法家、墨家などがあり、各国を遊説して自説を説きましたが各国を遊説していた時代でもありました。深井さんは、話すことや学問することに意識が向いた、人類史上でも初めてといえる時代だったと話します。
その状態に対して、商鞅はむしろ逆に、もう頭いいとかどうでもいいから全員農業しろって言ってるんですよね。
深井さんは、商鞅のやり方を「愚民政策を地でいってる」と表現します。学問は与えず、教養もいらない。とにかく全員が農業をする。さらに次男・三男・四男がいれば分家して新しい田を開拓するよう法律で定め、開拓しなければ罰金を科すという内容でした。
勉強だけでなく音楽も聞かせず、遊ぶ時間があるならその間に農業をしろ、というのが商鞅の方針でした。樋口さんは思わず「マジ奴隷じゃないですか」と反応しています。
深井さんはこの発想を、のちのヨーロッパの産業革命にもなぞらえます。大きな組織の中で一人ひとりが歯車になって分業したほうが、全体の効率や生産力は上がるという考え方です。樋口さんは「手足が命令しないのに勝手に走り出したりしたら困る」と言い換えています。
もう1つの柱が、地方統治の仕組みの変更です。商鞅は、それまで貴族がそれぞれ治めていた土地に、中央から官僚を派遣して管轄させる制度を秦で始めました。樋口さんはこれを「中間管理職を置いた」と表現しています。
深井さんは、改革前の秦の状態を江戸時代にたとえます。徳川家のもとに長州の毛利や薩摩の島津のような家があり、それぞれの土地で殿様をしていた状態です。商鞅の改革は、そこに中央から派遣された知事を置くようなイメージだといいます。
地方の殿様と中央の王では利害が一致しないことがよくあり、全体には良くても一部の地方には都合が悪い命令は通りにくくなります。商鞅の改革は、地方の豪族の権力を剥奪し、王の命令が全土に行き届くようにするためのものでした。
貴族や豪族がそれぞれの土地を治め、地方と中央の利害がぶつかることがある(江戸時代の大名のようなイメージ)
中央から官僚を派遣して管轄させ、地方の権力を削いで、王の命令が全土に行き届く
戦争の手柄で身分が決まる、「100年続ければ統一できる」という予言
商鞅の改革は戦争にも及びました。深井さんによれば、とにかく戦争しまくれという方針のもと、敵の首を取れば身分が低くても昇進でき、逆に身分が高くても首級を上げなければ身分を落とす、という法律を本当に制定したといいます。
人事評価のルールを作った。
樋口さんの言い換えに、深井さんも「そうです」と応じます。商鞅が強調したのは、末端の民衆でもルールを理解して自分で判断できるほど明確に伝えることでした。樋口さんはこれを、ビジネスで最終目標の指標を定めるKGI ── Key Goal Indicatorの略で「重要目標達成指標」のこと。組織が最終的に達成すべきゴールを数値などで示したものですの設定にたとえています。
こうした商鞅の政策は、今の感覚からすると民主主義の真逆に見えます。深井さんも、商鞅を悪い人物だと感じる人がいるかもしれないと認めます。そのうえで、商鞅の著とされる本を読んで驚いたことを語ります。
彼はね、別に正しいと思ってそれをやってるわけじゃなくて、時代時代に即したやり方があるだろうと。で、今の時代はこのやり方をしたら富国強兵ができるって言ってるだけなんですよ。
さらに深井さんを驚かせたのは、商鞅の本に「100年間これ続けたら統一できる」と書かれていたことです。そして実際に、およそ100年後に始皇帝が統一を果たしています。
深井さんによれば、当時は誰も統一など考えておらず、そもそも統一という概念があまりありませんでした。7か国はそれぞれ自国を強くし、領土を得ようとはしていても、今のイタリアが「では統一しましょう」とはならないのと同じで、そこまで壮大なことは考えなかったといいます。
深井さんは、始皇帝が商鞅の本を見て「天下統一ができるかもしれない」と考え、それを最初に実行したのではないかと推測しています。今でいえば「世界統一」のイメージを与えたようなものであり、だからこそ商鞅は「ぶっ飛んでる」と評しています。
偉い人にも農民にも法律を平等に施行したことで、秦は氏族 ── 共通の祖先を持つとされる血縁集団。当時の国は、この氏族単位で人々をまとめて治めるのが基本でした単位で治める統治から、個人を国が管理する統治へと先駆けて移っていきました。樋口さんが「戸籍とかで」と尋ねると、深井さんは、国の管理には7つの数字が大事で、その1つが人口だということまで書かれていると答えています。2300年ほど前の話です。
農業と戦争に励まなければ税が重くなるなどの不利益がある法律のもと、民衆は実際に農業と戦争に集中していきました。その結果、秦は本当に戦争に強くなります。深井さんは、白起将軍のような神レベルの将軍だけでなく、兵士自体も強かったのが秦だと話します。
法の平等な施行
偉い人にも農民にも同じルールを適用し、個人を国が管理する
農業と戦争への集中
農業と戦功に報い、怠れば不利益を与える法律で民衆の行動を方向づける
国力の上昇
生産力が上がり、兵士まで強い軍隊が生まれる
統一への道
商鞅が「100年続ければ統一できる」と書き、約100年後に始皇帝が統一する
既得権益との戦いと、王子さえ罰した覚悟
商鞅の改革は貴族の権力を落とすものだったため、当然ながら激しい反発を受けました。深井さんは、これがイノベーションであり、既得権益を潰していくものだったからだと説明します。
商鞅はもともと魏という国で、魏のナンバー2の下で働いていました。そのナンバー2は死の間際、王に「商鞅は天才だから引き立てるべきだ。採用しないなら、他国に行けばその国が強くなるから殺せ」と進言します。しかし魏の王はその話を聞かず、放っておきました。
そこで商鞅は秦へ「就職活動」に行き、何度もの面接を経て採用されます。深井さんは、魏は人材獲得合戦で最も採用が下手な国で、孫子を含め多くの人材を逃していると話します。
採用面接の時点で、商鞅は秦の王に強く覚悟を求めていました。この改革は王が本気でやらない限り絶対に成功しない、というのが商鞅の主張でした。
やるんだったらお前マジでやれよって言ってて。で、採用された瞬間に、まず偉い奴全員集めろって言うんですよ。
秦の王も立派な人物で、商鞅の意図を理解していました。王は商鞅と既得権益の貴族にわざと議論をさせ、その最後に「商鞅の意見を採用する」と皆の前で宣言します。樋口さんは、議論の過程を踏まなければ「王が連れてきた得体の知れない人物」と見なされていただろうと読み解いています。
商鞅の改革は2回に分けて行われ、その施行でも反発が続きました。象徴的なのが、次期王である太子が死刑に当たるルールを破ってしまった事件です。商鞅は王以外の全員に法を適用すると言っていたため、このままでは太子を死刑にしなければならなくなりました。
さすがに次期王の死刑は無理だということになり、代わりに太子の教育係や侍従の鼻を削ぐ刑が科されました。深井さんによれば、貴族の鼻を削ぐのは反乱を起こした者などでなければありえないことで、商鞅はここで激しい恨みを買います。
一方で、この刑を見た民衆は、まさか王子まで罰せられるとは思っていなかったため、商鞅は本当にやる人だと受け止めました。民衆は、きつくても商鞅の定めたルールに従うようになっていきます。
しかし商鞅の最期は悲惨でした。王が亡くなり、罰を受けた側の太子が王になった瞬間、商鞅は殺されます。手足を馬車につなぎ、馬車を四方に走らせて体を引き裂く車裂きの刑で、その刑を定めたのは商鞅自身だったといいます。
樋口さんが「やらなければ殺されないのに、やって殺される」と悲しむと、深井さんは次のように答えています。
樋口さんは、今では当たり前の「仕組み作り」が、当時はまったく当たり前ではなかったと受け止めます。貴族が個人の好みや血縁で人を引き立て、ルールではなく雰囲気や風習で回っていた世界に、法の前の平等という仕組みを持ち込んだのが商鞅でした。
深井さんが特に高く評価するのは、商鞅が法を作るだけでなく、運用にこそ覚悟が必要だと誰よりも理解していた点です。深井さんは、会社でも仕組みを作っただけでは動かず、経営者や社員に運用する覚悟がなければ機能しないと重ねています。
なぜ秦には優秀な人材が集まったのか
秦にばかり優秀な人材が集まった理由について、深井さんの答えは意外なものです。秦は後進国、いわば「ベンチャー」だったからだといいます。
秦の歴代の王は頭を低くして、外国人でも優秀な人をどんどん採用していました。商鞅自身も外国人です。深井さんは、今の日本人が中国人や韓国人を採用するのと同じ感覚だったと説明します。
秦からすると、中央の優秀な人たちを、東京から地方都市がめっちゃ人材呼んできて、頑張って採用してるみたいな絵ですよね。
反対に、中央の国々は外国人を見下していて、自国の人材しか雇わない傾向がありました。その代表が魏です。樋口さんがそれを「大企業ですよ」と評すると、深井さんも同意します。
深井さんによれば、魏には最初に優秀な人材が集まっていたのに、孫子でさえ逃し、最後には負けてしまいます。樋口さんは「イノベーターを採用できない」と指摘し、深井さんは、血筋や学歴のようなものを見てしまう採用だったと話します。
王が頭を低くして、外国人でも優秀な人材をどんどん採用する。商鞅も外国人
外国人を見下し、血筋や学歴のようなものを重視して、孫子や商鞅などの優秀な人材を逃す
この構図は、エピソード説明でも触れられているとおり、秦が法家という当時は異端の革新思想を最も導入できた背景とも重なります。貴族などの既得権益層が他国ほど成熟していなかったことが、秦の強みになったと考えられます。
商鞅の遺志を継ぐ李斯、そしてキングダムへ
樋口さんが「商鞅は漫画『キングダム』に出てくるのか」と尋ねると、深井さんは、時代が前なので登場はしないものの、話には出てくると答えます。
代わりに『キングダム』に登場するのが、商鞅の遺志を継いだ李斯 ── 秦の政治家。法家の思想に基づいて始皇帝の統治を支え、のちに丞相として中国統一後の制度づくりに関わった人物ですです。深井さんは、李斯は同じ法家の学派に属し、秦にとって非常に重要な人物で、漫画でも今後大きな地位を占めていくだろうと話します。
樋口さんは「キングダムについて知りたい人に、キングダムに出てこない人の話をずっとしている」と笑いつつ、キングダムを楽しむためにこの流れが必要なのだと受け止めます。深井さんも、こうした流れの先に李斯がいると思って読むと面白いと勧めています。
深井さんは、商鞅が秦に採用されたのは30代前半で、自分たちと同じくらいの年齢だったと付け加えます。当時1000万人ほどいたとされる人口の生活を一変させる法律を、その若さで作ったことになります。
最後は樋口さんが時代の古さを確かめようとして「何万年前」と言い間違え、2人で笑う一幕もありました。2300年ほど前、日本はまだ縄文から弥生の頃で、深井さんは「古代の中国は本当に早い」と締めくくっています。
まとめ
秦が戦国時代を勝ち抜いた土台は、始皇帝個人の資質だけでなく、約100年前に商鞅が法家の思想で国家システムを作り替えたことにありました。ルールによる中央集権、農業と戦争への動員、そして運用への覚悟が、のちの統一を準備したと深井さんは語っています。
- 商鞅は「ルールで国を運営する」法家の思想で、貴族も含めて法で縛り、富国強兵と中央集権を目指した
- 農業の強制、地方への官僚派遣、戦功による昇進と降格など、民衆の行動を明確なルールで方向づけた
- 商鞅の本には「100年続ければ統一できる」とあり、約100年後に始皇帝が統一を果たした
- 王子の側近まで罰した覚悟がルールを機能させたが、商鞅自身は恨みを買って車裂きの刑で殺された
- ベンチャー的な後進国だった秦は外国人でも優秀な人材を採用し、人材を逃し続けた魏との差が広がった


