捕虜になったジャンヌは、なぜ脱走を企てたのか
ジャンヌ・ダルク編の11回目は、ジャンヌが捕らわれの身となった場面から始まります。ジャンヌを捕まえたのは、ブルゴーニュ派の騎士ジャン・ド・リュクサンブールです。楊さんは、リュクサンブールは今のルクセンブルク公国のことだろうと補足しています。
捕虜になったジャンヌは、最初は貴族捕虜として良い待遇を受けていました。しかし、ジャンヌは「脱走しない」という宣誓を拒否したため、城内の牢獄に移されてしまいます。
ジャンヌが宣誓を拒んだのは、神に反することになるからだと楊さんは説明します。ジャンヌにとってイングランド軍は罰が当たるべき相手でした。この後の宗教裁判でもジャンヌは宣誓を拒み続け、自分の立場を悪くしていきます。
純粋というか、なんというかね、正直というか。
楊さんは、自分の神にしか従わないというジャンヌの態度こそが、最終的に異端と判断される理由になったと話します。
一方で、捕虜のジャンヌはリュクサンブール家の貴婦人たちに世話され、最初はとても優しくされたそうです。その貴婦人は3人いて、全員が「ジャンヌ」という名前だったというエピソードに、スタジオは笑いに包まれます。
楊さんは、女性側からのジャンヌの見方は男性とは違っていたかもしれないと推測します。ジャンヌは騎士という男性限定のモデルに踏み込みましたが、女性であることを捨てたわけではなく、オルレアンでも女性と行動を共にし、名士の妻と一緒に寝たり食事をしたりしていました。
宣誓を断ったジャンヌは、実際に何度も脱走を企てます。最初は見張りを中庭に閉じ込めて逃げようとしましたが、門番に見つかり、塔に移されます。
塔に移されたジャンヌは、シーツをつなぎ合わせて窓から下りようとして失敗し、堀に落ちて気絶しました。塔の高さは20〜25メートルほどで、ジャンヌは3日間何も食べられず、言葉も発せなかったものの、少しずつ回復していったといいます。
この転落については自殺を図ったという説もあります。ただ楊さんは、神に救われると確信している発言もあることから、おそらく自殺ではないだろうと考えています。
パリ大学神学部は、なぜジャンヌを敵視したのか
ジャンヌの捕縛に真っ先に反応したのは、パリ大学でした。当時のパリ大学は、教皇をも罷免する力を持つと自負するほど、教会を代表するお偉方が集まる場所だったと楊さんは説明します。
中心にいたのは、パリ大学神学部の博士たちです。神学部の博士たちはもともと親イングランドのブルゴーニュ派で、終始ジャンヌに敵意を燃やしていました。
楊さんによれば、ジャンヌの「あなた方の本にはそう書いてあるかもしれないが、私の神の本には違うことが書いてある」という趣旨の発言は、当時のキリスト教で最もあってはならないことでした。それは教会の権威を否定することだったからです。
深井さんも、当時のパリ大学神学部はカトリック世界の守護者として絶対的な権威を持っていたと補足します。ローマ教皇庁は教会大分裂 ── 14世紀後半から15世紀初めにかけて、ローマとアヴィニョンなどに複数の教皇が並び立った混乱。教皇の権威を大きく損ないましたを経て権力基盤が弱く、カトリック世界の意思決定は公会議 ── カトリック教会の聖職者や神学者が集まり、教義や教会運営を決める会議。この時代は教皇の上に立つという考え方も有力でしたという会議体が担っていました。
で、そこの会議(公会議)ですごくイニシアティブを握っているのがパリ大学神学部だったんですよ。
深井さんによれば、パリ大学神学部はローマ教皇庁よりフランスの教会のほうが偉いのではないかという「フランス教会中心主義」の理論的な拠点だったとする本もあります。神学部の博士たちには、何が異端かを完全に判断できるという自負と知識がありました。
楊さんは、パリ大学のエリートたちの心情にも踏み込みます。若い頃から猛勉強し、庶民に読めない聖書やラテン語を読めるエリートからすれば、ジャンヌは「ポッと出の村娘」にすぎません。
聖書には勉強すれば神に近づけるとは書かれておらず、むしろ学のない人にも神の声は聞こえています。それでも、こんなにコストを割いた自分たちに聞こえないのにお前に聞こえるはずがないと思うのは人情として自然だと楊さんは話します。
それめっちゃわかる。
さらにパリ大学の博士たちはブルゴーニュ派で、ジャンヌはアルマニャック派です。パリ大学にとってジャンヌは、あらゆる点で都合の悪い存在でした。
深井さんは時代背景として、百年戦争 ── 1337年から1453年まで続いた、フランス王位をめぐるイングランドとフランスの断続的な戦争。ジャンヌはその終盤に登場しますの最中で秩序が乱れているという危機感や、キリスト教圏の外からのオスマン人の脅威も挙げます。カトリック教会は権威を保つため、異端の取り締まりを厳しくしていました。
彼らの目に映る異端っていうのは、永遠に生き返るヒュドラであり、全身を蝕み続けるガンのようなものだったというふうに書かれてる本もありますよね。
裁判を主導したピエール・コーションとは何者か
パリ大学は、ブルゴーニュ公、ジャン・ド・リュクサンブール、ボーヴェ司教ピエール・コーション、そしてイングランド王ヘンリー6世に手紙を送り、ジャンヌを教会裁判で裁きたいので速やかに引き渡すよう求めました。その手紙は、ジャンヌが捕まった瞬間ぐらいに送られてきたほどの速さだったといいます。
ずっともう(パリ大学はジャンヌを)監視してたというか、見てた。
楊さんは、パリ大学はジャンヌが捕まったら何とかしようとずっと準備していたのだろうと話します。
ここで登場するピエール・コーションは、映画や演劇で悪役として描かれる人物で、ジャンヌの処刑裁判を主導しました。ジャンヌが捕まった場所は、どうやらボーヴェ司教であるコーションの管轄エリアだったようです。
コーションは1371年頃にランスで生まれ、ジャンヌより40歳ほど年上です。一貫してブルゴーニュ派で、パリ大学を代表する立場にも立つ重要な司教でした。ボーヴェの司教という職自体も特別なものだったといいます。
コーションは、イングランドにフランス王の正当な権利を与えるトロア条約 ── 1420年にフランス王シャルル6世とイングランド王ヘンリー5世の間で結ばれた条約。ヘンリー5世をフランス王位継承者と定めましたが結ばれた際にも、パリ大学を代表して誓約人のような役割を務めています。
ところが、シャルル王太子とジャンヌがランスへ進軍した際、コーションはボーヴェを脱出し、イングランド王のフランス拠点の中心地であるルーアンに移りました。その後イングランドに渡ったこともあるほど、コーションはゴリゴリのイングランド派でした。
本によっては、ボーヴェを追い出されたことなどから、コーションはジャンヌをひどく憎んでいたとも書かれています。楊さんはその真偽はわからないとしつつも、コーションが処刑ありきで裁判を進めたのはほぼ事実だろうと話します。
ジャンヌはなぜイングランドに「売られた」のか
パリ大学はジャンヌの身柄を自分たちに渡すよう求めましたが、イングランド側の重要人物ベッドフォード公は、パリ大学の介入を避けたかったといいます。楊さんは、パリ大学に絶対的な権限を与えることが、イングランドにとって都合が良くなかったのだろうと見ています。
楊さんがまとめる大きな構図は、ジャンヌは「特大のネタ」で、誰もが自分の手で裁きたがっていたというものです。
ベッドフォード公はパリ大学に渡す代わりに、パリ大学出身の重要人物であるコーションに裁判を行わせるのが妥当だと主張しました。パリ大学も「コーションならいいか」としぶしぶ了承し、ジャンヌはコーションに裁かれることになります。
コーションが移っていたルーアンはイングランド軍の本拠地でもあったため、ジャンヌはルーアンへ移送されます。その際、シャルル7世が奪還に来るのを警戒して大きく遠回りしたそうですが、実際のシャルル7世は何もしていませんでした。
ジャンヌを捕まえたのはブルゴーニュ派のフランス人であるジャン・ド・リュクサンブールでした。ベッドフォード公は、銀貨5トン分に相当する身代金でジャンヌを買い取ったといいます。
ジャンヌがどのような経路でコーションの裁判にかけられたのかを、楊さんの説明に沿って整理すると次のようになります。
捕縛
ブルゴーニュ派のジャン・ド・リュクサンブールがジャンヌを捕らえる
引き渡し要求
パリ大学が各方面に手紙を送り、教会裁判で裁きたいと要請する
買い取り
ベッドフォード公が銀貨5トン分相当の身代金でジャンヌを買い取る
裁判長の決定
パリ大学の介入を避け、パリ大学出身のコーションに裁判を任せる
ルーアンへ移送
奪還を警戒して遠回りしながら、イングランドの拠点ルーアンへ送られる
楊さんは、それだけのお金を払ってでもイングランドは自分の手でジャンヌを何とかしたかったのだと話し、この一連の流れを「ゴリゴリ大人の汚い世界」と表現しています。
イングランドの狙いは、ジャンヌが異端者だと示すことで、ジャンヌの助力で聖別されたシャルル7世に汚名を着せることでした。イングランド王はこの時点でもトロア条約は生きていると主張しており、トロア条約の理論的支柱だったパリ大学とも利害が一致していました。
ジャンヌが捕縛された翌年、ヘンリー6世の名でコーションに宛てた手紙には、ジャンヌが罪を暴かれず処罰されない場合には、ジャンヌを王の下に引き取るという趣旨が書かれていたといいます。楊さんは、これは暗に「必ず死刑にしろ」と言っているのだと解説します。
楊さんによれば、パリ大学の最大の目的はジャンヌを異端と認定したうえで改心させることで、処刑はその次でした。一方のイングランドは処刑を望んでいたため、コーションを裁判長にしたうえで、処刑できなければ身柄を戻すと圧力をかけたのです。
それぞれの思惑は、どこで一致しどこでずれていたのか
楊さんは、ジャンヌをめぐる利害関係者を整理します。まずコーションには、ジャンヌへの恨みに加えて出世欲もあったといわれます。特大のネタであるジャンヌを自分の主導で裁き、キリスト教の教義の守護に貢献した実績を作って、聖職者としてのキャリアアップにつなげたかったのではないかという見方です。
そのためコーションは各所に調整して回り、宗教裁判としての形式を厳密に整えることに力を注ぎました。
ただし、聖職者であるコーションにとっての最良のゴールは、ジャンヌを異端と認めさせたうえで異端から立ち戻らせることでした。死刑を求めるイングランドの圧力との間で、コーションは板挟みになっていたと楊さんは説明します。
イングランド側の狙いは明確で、ジャンヌを異端にして火あぶりにすることでした。宗教裁判という形式で断罪できれば、全てのキリスト教国に対して信仰の守護者としての立場をアピールでき、シャルル7世の権威を失墜させることもできます。
各勢力の立場を楊さんの整理に沿って並べると、次のようになります。
| 勢力 | 立場 | ジャンヌへの狙い |
|---|---|---|
| ピエール・コーション | パリ大学出身の司教、イングランド派 | 自分の主導で裁き実績にしたい。本来の最良のゴールは改心させること |
| イングランド | ジャンヌを買い取った当事者 | 異端として火あぶりにし、シャルル7世の権威を失墜させたい |
| ブルゴーニュ派 | ジャンヌの敵対勢力 | ジャンヌが憎い |
| パリ大学神学部 | カトリック世界の権威 | 自分たちの手で裁き、改心させたい |
一方で、ジャンヌの味方であるはずのシャルル側は、事態に関わろうとしていませんでした。味方がいないまま、敵がそれぞれの思惑でジャンヌを追い詰めていく状況です。
最終的な落としどころは、イングランドが身代金を払ってジャンヌを戦争捕虜として管理し、コーションが宗教裁判を主催し、パリ大学がコーションと協力して審理にあたるというものでした。これでパリ大学のメンツも立てられます。
そのうえでイングランドは、ジャンヌの身柄を貸すのは裁判の期間中に限るという条件を付け、コーションに「絶対死刑にしろ」と圧力をかけました。楊さんは、ジャンヌはおそらく何もわからないまま、こうした政治的な思惑の渦中に投げ込まれたのだと話します。
中世の異端審問は「リンチ」だったのか
中世の裁判というと、権力側が被告を何が何でも有罪にするリンチのような魔女裁判を思い浮かべがちです。しかし楊さんは、それは全く違うと書いている本があると紹介します。
その本によれば、ヨーロッパは徹底した形式主義と合理主義の世界でした。自分たちで作ったルールを自分たちで守り、そのルールの保証人であること自体が、権威と権力の正当性を担保していたのです。
そのため、パリ大学も宗教裁判のプロセスや手順を厳格に守ることをとても大切にしていました。結論ありきの裁判であっても、裁判に関わる人たちはその点に気をつけていたといいます。
楊さんは、自分で決めた手順を自分で守ることは現代の私たちにとっても大切なことで、彼らもそれをやっていたのだと話します。
当時の裁判所には、国王裁判所・領主裁判所・都市裁判所などの世俗裁判所と、教会裁判所の2つの系統がありました。教会裁判所は、キリスト教の信仰に関わる案件や聖職者が裁かれる場合に使われ、ジャンヌが裁かれたのはこちらです。
裁判長はボーヴェ司教ピエール・コーションで、もう1人の裁判長格として「フランス王国異端審問官代理」のジャン・ル・メートルが就きました。楊さんは「代理じゃない人はどこに行ったんだ」とつっこんでいます。
コーションは教会法と異端審問の手続きに則った公正な裁判を行おうとしました。1日の尋問が終わると書記らが集まり、判事の立ち会いのもとで記録を突き合わせ、質問と答えが首尾一貫したサマリーを作ってラテン語に訳していたといいます。
楊さんによれば、この裁判記録がジャンヌについての主な一次資料で、ジャンヌが何をした人なのかがかなりわかるのはこの記録のおかげです。ただし政治的な目的で行われた裁判なので、記録には一定のフィルターがかかっており、そこが資料の限界だとも言われています。
また、後の復権裁判で問題になるように、裁判にはルール外の点もありました。ジャンヌが教会の牢ではなく世俗の牢に入れられ、イングランド兵が見張っていたことはルール違反だったようです。見張りのイングランド兵は5人がかりで罵詈雑言を浴びせていたといいます。
深井さんは、コーション自身の資格要件も怪しかったとする本があり、コーションがヘンリー6世から身分保証の勅書を出してもらうなど、無理やり裁判の体裁を整えた面もあったと補足します。
シャルル7世のところにジャンヌが来た時に、ほら、審査があったじゃんか。あれと似たようなことも同じことをやってんだよね。
さらに、ジャンヌに同情的な判事もいたものの、コーションらが脅して、ジャンヌに有利な意見を言えない状況を作っていたとも言われています。形式を守ろうとしつつも、公正ではない裁判だったということです。
聖ミカエルは裸だったか?ジャンヌを追い詰めた質問
裁判の最初に行われたのは処女検査でした。ブルゴーニュ公の妹が確認し、ジャンヌは処女であると確認されます。ブルゴーニュ公の妹はイングランド兵に、ジャンヌを犯してはならないと忠告したそうです。
ドンレミ村でジャンヌの人柄を聞き取る調査も行われましたが、村人がみなジャンヌに好意的だったため、コーションが腹を立てて調査費用の支払いを拒んだといいます。
次に行われたのが予備審理です。楊さんは、今の裁判でいえば検察が起訴の要件を集める段階にあたると説明します。
予備審理では意地悪な質問がたくさんされたと本には書かれています。ただ楊さんは、神の声が聞こえるという人の異端審問である以上、ボロを出させる質問をするのはある意味当然で、「意地悪」かどうかは主観だと話します。ジャンヌ・ダルクの本は書き手がジャンヌを好きなものが多く、フラットな本が少ないのだそうです。
質問の例として紹介されたのが、「大天使ミカエルは裸だったのか」という問いです。これに対しジャンヌは「我が主は聖ミカエルに着せるものをお持ちでないとお考えですか」と質問で返し、直接答えませんでした。
「神の恩寵に浴しているか」と問われた際も、ジャンヌは「もし恩寵に浴しているなら、神様がその状態に留め置いてくださるように。愛されていないなら、死んだほうがましです」と答えたといいます。こうした巧みな受け答えが伝えられています。
素朴な信仰とエリートのスーパーロジック
深井さんは、ジャンヌと神学者たちのやりとりを、この裁判の見せ場の1つだと話します。
深井さんによれば、ジャンヌの信仰は、ドンレミ村の教会で聞いた説教やお祈りの言葉、妖精や騎士道の話などを幼い頃からインプットして形成されたものでした。一方、裁く側は、スーパーロジックの上にキリスト教を捉えて解釈する人たちです。楊さんはこれに「ロジックって文化だからね」と応じています。
村の教会の説教やお祈り、妖精や騎士道の話をもとに形成。聖人を心のよりどころにする
スーパーロジックの上にキリスト教を捉えて解釈し、何が異端かを厳密に判断する
その後の普通審理、つまりいわゆる本番の裁判では、「聖女たちは髪の毛を持っていたか」「良い匂いがしたか」「抱いたのは頭か足か」といった質問が繰り返されました。聖女を見たというジャンヌの証言を細かく聞き、矛盾が出るのを探っていたのだと楊さんは説明します。
両足を鉄鎖でつながれ、イングランド兵に暴力を振るわれ、拷問具を見せられるなかで、ジャンヌは速射砲のような質問を浴びて心が折れていきます。最終的には、あまりに物質的で肉感的なジャンヌの聖人崇敬は偶像崇拝的で、悪魔との契約ではないかと言われ始めました。
深井さんは、庶民の信仰はそれほど厳密ではなかったと補足します。木や泉に妖精が住むという感覚も普通にあり、聖人崇拝も広がっていました。教会の分裂などで教会への信頼が揺らいでいたため、民衆は聖人を心のよりどころにしていたのです。
厳密なロジックを持っている神学者のエリートたちが寄ってたかって、矛盾を突こうとして一生懸命頑張ってるっていう感じですね。
楊さんは、この後100年以内にルター ── 16世紀ドイツの神学者。1517年に教会の贖宥状販売を批判し、宗教改革のきっかけを作りましたが現れて宗教改革が起きるのも「そうだよね」という感じだと話しています。
70か条の論告と12か条の告発文には何が書かれたのか
裁判の結果、ジャンヌは有罪となり、まず70か条の論告がまとめられました。論告は、ジャンヌが魔女・占い師・偽預言者であり、「我唯一の聖なる公教会を信ず」という信条を冒涜したとしています。
楊さんは、教会だけを唯一の権威とする信条に対し、ジャンヌが違うことをたくさん言っていたのは確かだと話します。論告はさらに、戦争を仕掛けて血をまき散らしたこと、男装して神の法と自然法に背いたこと、人々に自分を崇拝させ神への賛美を盗み取ったことなどを挙げました。
深井さんは、神の恩寵は聖職者が執り行う儀式を通して初めて信者に与えられるというのが教会のロジックだと説明します。聖職者の手を経ずにジャンヌが神と直接結びつくことは、断じて許されないものでした。
論告の最後には「このように呪われました」と書かれていたといいます。この論告はパリ大学の意見を加えて12か条に要約され、パリ大学のメンツも立つ形になりました。楊さんは12か条を読み上げながら、主な内容を解説していきます。
ジャンヌの捏造であり、悪魔的精霊に由来する
庶民が正確に見分けたと言うのは信仰上の誤り
神の命令だとして男の服で教会の儀式に出たのは神への冒涜
17歳で両親の意思に背いたのは、父母を敬えという教えに反する
自殺に通じる罪
天国に行けると断定するのは傲慢不遜
教会が望んでも神の命令に背かないと言い張るのは背教
男装について楊さんは、教義上、女性が身を守るための緊急対応として男装することは例外的に認められていたと補足します。ジャンヌの場合は長期間男装を続けたことを突っ込まれました。自然法については、民主主義の回で学んだ「人間のもともとの理」として当時の感覚に組み込まれていたと話しています。
ここで自殺っていう言葉が出てくるのね。
第10条の「神が特定の人を偏愛していることを知っていると言い立て、汝の隣人を愛せという教えに背いた」という告発に、楊さんは「どの口で言ってんだろう」と苦笑します。ジャンヌはむしろイングランド兵の捕虜と食事を共にするなど、隣人愛を実践していたとも言えるからです。
楊さんはこの第10条について、フランスが勝つと言い続けたことを指しているのではないかと推測します。裁判では実際に「イングランドもキリスト教国なのになぜフランスなのか」と聞かれ、ジャンヌは神がそうおっしゃったという以上の理由を答えていません。
最後まで重い嫌疑として残ったのは、声の問題と男装の問題でした。声を識別する権限は教会にあり、たとえその声が神のものでも、教会を通さずに従うこと自体が教義上の反逆にあたると楊さんは説明します。
この一文でもう終わりやん。
改心を拒むジャンヌと、既得権益を守るエリート
ジャンヌは全ての嫌疑に反論しましたが、無駄に終わります。パリ大学やコーションにとって最大のミッションは異端者を教会の権威にひざまずかせることだったため、ジャンヌは何度も説諭され、考えを改めるよう促されました。
しかしジャンヌは、神から直接声が聞こえていると信じているため、説諭を跳ね返し続けます。楊さんは、ジャンヌは怖がりながらも、最後には神が救ってくれると思っていたのだろうと話します。パリ大学神学部も、ジャンヌを離教者・背教者とする結論を出しました。
楊さんは、農家の娘が神の話を聞けることを認めれば、学識者は自分の立場と権威をすべて失うため、認めるわけにはいかなかったのだと解説します。そのうえで、既得権益層が自分たちを守るというムーブは誰にでもあるもので、これを認められる人間はほとんどいないだろうと話します。
楊さんも、キリスト教会を批判するのは簡単だが、今のニュースを見ていても自分たちもあまり変わらないと感じると話し、この歴史から学びを得られると語っています。
一度は撤回したジャンヌが「戻り異端」になった経緯
異端宣告を受けたジャンヌは、火刑を前にもう一度説諭を受け、自説を撤回するよう勧められます。ジャンヌは、処刑が怖かったから、騙されたからなど諸説ある理由から、異端誓絶用紙、いわゆる自説撤回の書面にサインしました。
別の本には、コーションが最終判決の朗読を始めた途中で、ジャンヌが「読むのをやめてください。教会の命令にすべて従います」と叫んだという情景が書かれているそうです。
(撤回を)自分から言ったんや。それを。
教会の庇護に戻ると誓ったことで、ジャンヌは死刑から無期懲役に減刑されます。聖職者側にとっては「我々が勝った」という成功に見えましたが、火あぶりを期待していたイングランド側は強く反発し、コーションにつかみかかる関係者もいたといいます。
ところがその2日後、ジャンヌはまた声が聞こえたとして撤回を取り消し、男装に戻ってしまいます。声と男装という2つの最も大きな罪を、再び犯したことになりました。
楊さんは、異端者が改宗した後に再び異端に戻ることを戻り異端 ── 一度異端を捨てると誓った者が、再び異端の立場に戻ること。中世の異端審問では、原則として死刑に相当する重罪とされましたと呼ぶと説明します。ジャンヌの死刑はこれで確定しました。
一方で、男装以外の服を残さず、着ざるを得ない状況を作ってわざと戻り異端にしたという説もあります。
イングランド側はもうジャンヌを死刑にすることに一番心血を注いできたので、これでジャンヌをハメたのではないかという説もある。わかんないです。
ジャンヌが一度は減刑されてから火刑に至るまでの流れを整理すると、次のようになります。
ルーアンの火刑台で、ジャンヌの最期に何があったのか
戻り異端となってから死刑までは、わずか2日しかありませんでした。1431年5月30日の朝、ジャンヌはマルタン・ラドブニュ修道士に告解をし、聖体拝領 ── キリストの体とされるパンを受ける、カトリックの重要な儀式。死を前にした者にとっては救いに関わる意味を持ちますを受けます。
午前9時にジャンヌは牢屋を出て、ヴィユ・マルシェ広場へ連行されます。広場にはイングランドとフランスの聖職者や領主たちが勢ぞろいし、民衆は憤激するよりも困惑や哀れみを感じながら眺めていたと本には書かれているそうです。
火刑台に縛り付けられたジャンヌに対し、神学博士ニコラ・ミディが異端を呪うような説教を行い、判決文が読み上げられました。説教では「1つの部分が苦しめば、全ての部分が共に苦しむ」という聖書の一節が引かれ、異端は伝染するから死体が残らないよう焼く必要があるという意味で語られたといいます。
楊さんは、ここから残酷な描写になるので苦手な人は次回から聞いても話は通じると前置きしたうえで、最期の場面を紹介します。
ジャンヌはひざまずいて祈り、十字架を求めましたが、近くにはありませんでした。1人のイングランド兵が棒を組み合わせて十字架を作って渡すと、ジャンヌはそれに接吻し、胸に当てたといいます。
腕を後ろ手に杭に縛られて十字架に触れられなくなると、ジャンヌはもう1本の十字架を目の前に置いてほしいと頼みます。近くにいたドミニコ会の修道士が急いで十字架を取りに行き、炎の中で最後まで掲げ続けました。ジャンヌは息絶えるまで「イエズス様」と叫んでいたと伝えられています。
絶命した後、服を剥いでジャンヌが女性であることを人々に示し、灰になるまで焼き尽くしてセーヌ川に捨てたといいます。楊さんは、死体を残さないことが彼らにとってとても大事だったと説明します。
処刑の場面には、煙の中から白い鳩がフランス国王の方角へ飛び立った、煙の中に「イエズス」の文字が浮かんだ、心臓だけが焼け残った、死刑執行人が「聖女を焼き殺してしまった」と倒れた、などの証言が残っています。楊さんは、どこまで本当かは全くわからないとしつつ、伝説化は死の直後から始まったと話します。
次回の最終回では、ジャンヌの死後、百年戦争とジャンヌの評価がどうなっていくのかが語られる予定です。
まとめ
捕らわれたジャンヌ・ダルクは、パリ大学のメンツ、コーションの出世欲と恨み、イングランドの政治的な狙いが絡み合うなかで、形式だけは厳密に整えられた異端審問にかけられました。教会を通さずに神の声に従うという信仰そのものが、有罪の決め手となったのです。
- パリ大学神学部は教会の権威を否定するジャンヌを敵視し、イングランドは身代金で身柄を買い取ってコーションに裁判を任せた
- 中世の異端審問はリンチではなく、ルールを守ることが権威の正当性を支える形式主義の裁判だったが、実際には違反や圧力もあった
- 素朴な信仰を持つジャンヌと、スーパーロジックで矛盾を突く神学者たちの対決が裁判の見せ場だった
- 声と男装が最大の罪とされ、一度撤回したジャンヌは戻り異端として1431年5月30日にルーアンで火刑に処された
- 楊さんは、既得権益を守ろうとする教会の姿を、現代の自分たちにも通じるものとして捉えている





