なぜ宇治で源氏物語を語るのか
コテンラジオの今回の収録は、2024年3月17日に京都府宇治市の源氏物語ミュージアムで開かれた「紫式部デー」のワンコーナーとして行われました。宇治市との縁から実現した公開収録で、テーマは源氏物語とその作者・紫式部です。
樋口さんによると、コテンラジオの公開収録はこれが3回目です。1回目は樋口さんの施設IIKANEPALETTE、2回目はICCというイベントで財閥の歴史を扱った回でした。
久しぶりの公開収録ですね。
我々、その基本的に人前に出ないように生活をしているので。
楊さんはまず、宇治が源氏物語ゆかりの地とされる理由を説明します。源氏物語は全54パートのうち44パートが光源氏を主人公とする宮廷の恋愛模様で、最後の10パートは光源氏の子の薫君と孫の匂宮が主人公になります。
源氏物語の最後の10パートの舞台が宇治です。つまり宇治は、物語のラストパートを飾る重要な場所だということです。
じゃあもうめちゃくちゃ重要な場所っていうこと。
樋口さんの源氏物語の知識は、学校の授業と大河ドラマで触れた程度だといいます。会場の来場者やミュージアムの方のほうが詳しいだろうと恐縮しつつ、今回は時代背景から話を始め、大河ドラマや源氏物語を読むときの楽しみ方が変わるような内容を目指すと深井さんは語ります。
古典ラジオなんで、時代背景からちょっと話していこうかなと思ってまして。
雅とは縁遠いといじられた樋口さんは、会場で頷いた人の顔を全員覚えておくと返しつつ、「頑張って雅をインストールしていきます」と意気込みを見せました。
源氏物語の何がすごかったのか?
楊さんは、源氏物語の特徴を一言で「圧倒的なリアリティ」だと言います。フィクションでありながら、現実に起こりうる話として書かれていたという点です。
源氏物語以前にも、日本には竹取物語のような物語作品がありました。ただ、竹取物語はファンタジー要素が強く、深井さんが言うように「エイリアン出てきますからね」という世界です。
さらに当時は、最も格式が高い文章は漢文で、物語は女性や子どもが読むものとされていました。楊さんはこれを、一昔前のアニメや漫画のようなサブカルの立ち位置だったとたとえます。
物語は女性や子どもが読むサブカル扱いで、竹取物語のような現実離れした話が中心。格式が高いのは漢文
実在の時代や人間をモデルにしたリアルな物語が登場し、物語という形式が一気に市民権を得る
現実世界をモデルとした話で起こり得ないことがないじゃないですか。なので、そこがすごく新鮮だったってことよね。
楊さんによれば、源氏物語は実在の時代や王朝、人間をモデルにしたフィクションでした。当時の貴族は「この出来事はあれのことか」「この登場人物はあの人か」と考察しながら読んでいたのではないかといいます。
源氏物語の人間関係、ストーリー、感情描写の解像度もずば抜けていました。深井さんは、恋の苦しみや気持ちの揺れ動き、「やっちゃダメなのにこんなことを」という心理描写が、文学作品として初めて書かれたと補足します。
当時の人気ぶりを示すエピソードとして、楊さんは菅原孝標女の記録を紹介します。紫式部より後の世代の平安貴族の女性で、第一巻から次々に物語を引っ張り出して寝ながら読むのが最高だ、こんな物語が読めるなら天皇の后になることなどどうでもいい、と書き残しているそうです。
当時の天皇の后になるっていうのは、もうすごい、なんていうかな、貴族女性が目指すところで、キャリアの最高峰なんだけど、そういうのが全部どうでもよくなって、物語に没頭して、
楊さんはまた、源氏物語が女性によって書かれた点に、現代の海外の読者が驚いていると話します。当時のヨーロッパでは、女性がこれほどの長編物語を書き、公表し、評価される状況は考えにくかったといいます。
深井さんによると、女性の地位が高かったわけではありません。紫式部という呼び名も本名ではなく、父の職名である「式部」にあだ名の「紫」がついたものです。名前も残らないほどの地位なのに作品だけは有名という状況が、なぜ生まれたのかが後の話につながります。
名前で呼んでもらえてないんですよ。この時代の女性ってみんな。
藤原道長の時代とはどんな時代だったのか?
深井さんは時代背景から説明を始めます。紫式部が活躍したのは平安時代の藤原氏全盛期で、摂関政治 ── 藤原氏が天皇の外戚として摂政・関白の地位を独占し、実権を握った平安時代中期の政治形態。道長・頼通の時代に最盛期を迎えましたの頂点にいた藤原道長の時代です。
藤原氏にはもともと南家・北家・式家・京家の4つの家があり、北家が勝ち残って朝廷で権力を握ります。その後、橘氏や菅原氏などのライバルを排斥する時代があり、菅原道真が左遷されたのもこの流れの中です。
藤原氏の全盛期は、道長の父・兼家のころから道長、その息子の頼通の代までです。紫式部はまさにその真ん中、道長の時代に活躍しました。
大河ドラマでは道長と紫式部が恋愛関係として描かれていますが、深井さんによれば、そうした説も実際にあるそうです。
完全にフィクションかどうかもわかんない感じ。
天皇の「おじいさん」になる権力のつくり方
深井さんは、摂関政治が女性の書いた物語の誕生と関わっていると前置きし、仕組みを説明します。摂政は天皇が幼いときに政治を代行する役職、関白は天皇の成人後に補佐する役職で、藤原氏はこの両方を独占しました。
天皇ではない藤原氏がなぜ摂政・関白を独占できたのか。深井さんの答えは、天皇の外祖父 ── 母方の祖父のこと。天皇の母の父にあたる人物は外戚として強い発言力を持ちましたになるというやり方です。
娘を嫁がせる
自分の娘を天皇に嫁がせ、天皇の義理の父になる
子が生まれる
娘と天皇の間に男子が生まれれば、次の天皇になる可能性が高い
外祖父になる
その子が天皇になると、自分は直系のおじいさんになる
摂政・関白へ
天皇の祖父なら摂政・関白をするのが自然とされ、実権を握る
直系のおじいちゃんに後でなることできるんや。
深井さんによれば、外戚が権力を握るのは中国王朝でもよくあることです。道長は娘のうち3人を順に天皇に嫁がせることに成功し、天皇を幼いうちに交代させることで、摂政として政治を代行し続けられる状態をつくりました。
なんかこう、システムの建前と実質が違うっていうのは今でもよくあることだよね。
深井さんは、これは天皇に権力を集中させようとした律令制 ── 中国の王朝をモデルにした、法典に基づく中央集権的な統治体制。日本では飛鳥・奈良時代に整えられましたの崩壊を意味すると応じます。さらに藤原氏は、地方に派遣する役人の人事権を握りました。
税を徴収する国司や受領は、その立場を利用して富を得られます。藤原氏は人事権を使って、受領になりたい人から賄賂を受け取り、どんどん金持ちになっていきました。
当時はナチュラルにこれをやってて、息子の時代までこれが結構成功するみたいな感じなんですよね。
ちょっとなりたいな。
絶対なれないんで大丈夫です。
政治がそのまま恋愛になる宮廷
摂関政治と紫式部の関係について、深井さんは核心に入ります。権力を握るには娘を天皇のもとに送り、子どもを作らせることが大事になります。しかし天皇も人間なので、好きな相手のところにしか何度も通いません。
つまり道長の娘は、天皇のもとに送られた後、好かれなければいけないのです。
では当時の男性は女性の何に惹かれたのか。深井さんによれば、それは教養でした。管弦や琴、和歌といった素養がモテ要素になっていたのです。
平安時代の恋愛では、関係が成就するまで相手の顔を見られませんでした。いざという時も月明かりの下なので、結局ほとんど顔が見えないことも多かったといいます。
楊さんは、当時の高貴な女性は男性の前で素顔を晒すことへの羞恥心が現代とは違っていたと補足します。異性同士が直接会わないため、手紙や和歌がほぼ唯一のコミュニケーション手段で、字の書き方、和歌の詠み方、香の焚き締め、紙の質にまでこだわり、自分の分身のように手紙を送り合っていました。
顔とか容姿を磨くじゃなくて、教養を磨くわけ。愛されるために、みたいな。
マッチングアプリ、マッチングアプリのプロフィールめっちゃ頑張る。
楊さんはさらに、顔が見えないからこそ当時の人々の気持ちは最高潮に高まったと語ります。すだれ1枚の向こうにいる異性の息遣いや絹の擦れる音に興奮する、深井さんの言葉を借りれば「官能的な世界」で、源氏物語もそうした要素を持っています。
紫式部は「お姫様の家庭教師」だった
恋愛に教養が必要になると、次にお姫様に教育を施す必要が出てきます。後宮に入った后を男性が教えるわけにはいかないので、女性が家庭教師としてつきます。深井さんは、それが紫式部や清少納言だったと説明します。
娘を入内させる
権力のために娘を天皇に嫁がせ、子を産ませる必要がある
天皇に好かれる
子が生まれるには、天皇に何度も通ってもらわなければならない
教養が決め手
顔が見えない恋愛では、和歌や手紙などの教養がモテ要素になる
家庭教師が重要に
后に教養を授ける女性、つまり紫式部や清少納言が政治的に重要になる
深井さんによれば、紫式部たちは女性としての身分は低いものの、政治にとって重要なパートを担っていた存在です。
先生がしょぼかったら教養つかないからモテないから権力持てない。
こうした状況が成り立ったのは、当時の貴族社会が平和だったからだと深井さんは言います。反乱などはあったものの、他の時代や他の国に比べると概ね平和で、武力ではなく教養や人間関係に関心が集中していました。
その象徴として、紫式部が宮中に出仕した後、無視されるといういじめにあい、5ヶ月間引きこもったという話が紹介されます。楊さんは、中華王朝なら毎年遊牧民が攻めてくる状況だったと対比します。
他の国戦争して殺し合いしてるからさ。なんか無視、無視されたとかないよ。
教養が重視される中で、后を中心に教養ある女性たちが集まる「サロン」ができあがります。深井さんは、平安時代の三大サロンとして中宮彰子、中宮定子、選子内親王(大斎院選子内親王)のサロンを挙げます。
紫式部が属したのは中宮彰子のサロン、清少納言が筆頭だったのは中宮定子のサロンです。サロン同士は競争関係にあり、紫式部は清少納言をボロクソに言っていたといいます。
紫式部が出仕したころには中宮定子はすでに亡くなり、そのサロンは消えていました。それでも「あのサロンは良かった」と言う人がいて、紫式部がイライラしていたことが日記に残っているそうです。楊さんは、中宮定子はサロンの教養レベルと華やかさを高めた后として有名で、清少納言はその中で目立った存在だったと補足します。
こうやってサロンが出来上がって、それがある程度お互いに切磋琢磨しながらですね、競っていくっていう中で、それで生まれたのが源氏物語だったってことだよね。
道長が紫式部を支援し、熱心にスカウトしたとされるのも、小説を読みたかったからではなく政治的理由からだと深井さんは説明します。
女房たちはなぜ「他者」を知ることができたのか?
楊さんは、紫式部や清少納言のような女房の役割を整理します。女房は后の身の回りの世話や教育係を務めるだけでなく、男性貴族との取り次ぎをする外交官のような役割も担っていました。
当時の后には政治的な役割もあり、男性貴族は后に取り入って情報や人事上の配慮を得ようとしていました。そのため女房には、男性貴族と渡り合えるだけの漢文などの教養が求められ、女房たちのレベルが上がれば、サロン全体の評価と政治的なリソースも集まるという構図でした。
あそこの結婚相談所行ったらいい女の人がいっぱいいるよみたいな感じになっていく。
こうした環境の中で、清少納言や紫式部は日々の出来事を書き残し、女房文学 ── 宮廷に仕えた女房たちが書いた日記・随筆・物語などの総称。枕草子や紫式部日記、源氏物語が代表例ですというジャンルが生まれます。深井さんは、ここでの女房は今の「妻」の意味ではなく、付き人のことだと補足します。
楊さんがもう1つ面白い点として挙げたのが、女房として働いた貴族女性の世界観です。当時の一般的な貴族女性は、家族や親戚に囲まれた狭い人間関係の中で一生を終え、自分と異なる他人の具体的な在り方を知らないのがほとんどでした。
家族・血縁者・親戚の中で一生が完結し、世界を自分の視点からしか見られない
実家を出て后に仕え、他人の存在を知ることで、自分を客観視・相対化する視点を得る
楊さんによれば、女房たちは他者という視点を獲得し、紫式部は自分を客観視し相対化する視点を得ました。そこから源氏物語のような文学も生まれたのだろうと語ります。
当時メディアがそんなにないから、テレビとかもちろんないし、本とかもね、そんなに出てないし、読めるかどうか分かんないしみたいな部分があるから。
楊さんはさらに、紫式部には物事のディテールを見逃さないセンスと、自分の思考を突き詰めていく特性があったようだと付け加えます。深井さんは、そうした状況にある女性は割合でも数でも少なかっただろうと応じます。
源氏物語の女性たちはなぜ次々と出家するのか?
深井さんは、源氏物語には女性がたくさん登場し、その多くが次々と出家していくことに触れます。背景の1つは末法思想 ── 釈迦の入滅後、時代が下るにつれ仏の教えが衰え、世が乱れるとする仏教の歴史観。日本では平安後期に強く意識されましたで、当時は仏の出現から2000年ほどが経ち、そろそろ終わるのではないかという感覚があったと大まかに説明します。
そのため極楽浄土を目指す信仰が高まり、何かとすぐ出家するという行動をとりがちな時代でした。光源氏に言い寄られて断りきれず出家する、という場面もあるそうです。
すげえな。繋がるんですね。
楊さんは、当時の平安社会は社会構造がかなり固まってきていたと説明します。仕組み化によって情報や人が流れる良さがある一方、人の心が仕組みに沿わないときには強い葛藤や苦しみが生まれます。
楊さんはこれを、学校を出て1つの会社に定年まで勤めるのが正解とされた一昔前の日本にたとえます。そこから浮きこぼれる人が必ずいるように、平安の貴族社会でもそうした人が数多く出ていました。
そういう意味では現代と近いかも。
楊さんによれば、源氏物語の光源氏をはじめとする登場人物は、基本的にみんな苦しんでいます。光源氏がいろんな女性と楽しく過ごす話というイメージとは違い、愛してはいけない相手を愛してしまう苦しみが延々と描かれているのが源氏物語の本質だといいます。
深井さんは、恋愛と政治が表裏一体の社会では、天皇が1人の妃だけに通い続けることが軋轢を生むと説明します。本来は妃の父の身分で重みづけが決まるのに、身分の高くない娘を寵愛してしまうことが、当時の読者にとっては「エモい」のです。
楊さんによれば、源氏物語の最初のエピソードもまさにそれです。光源氏の父である帝が、一番目の妃より立場が下の桐壺の更衣を深く愛してしまい、生まれたのが光源氏でした。
すげえライトなロミオとジュリエットみたいな感じ。
絶対ダメじゃないけど、ちょっとダメみたいなやつ。
深井さんは、社会の空気感を共有している人たちが「ダメなのに」とドキドキしながら読んでいたと語ります。天皇自身も読者なので、登場人物のモデルが自分や父ではないかと思うこともあったはずです。
なんなら天皇とかも読んでるから、天皇からしたらさ、このモデル俺じゃね?とかなる。
言えないからそれを書いてあるっていうところがメンタルにこうエモく来るみたいなね、話だということですね。
出家の意味について深井さんは、生きながらにして社会のフレームワークから外れ、俗世とは別の世界に行けることだと説明します。出家してしまえば、言い寄ることもできなくなります。
楊さんは、朝廷の貴族は互いに血縁関係があるほど距離が近く、その繋がりをすべて断ち切る出家は相当な決意を要したと補足します。特に若い女性の出家は大きなインパクトを持っていました。
中宮定子の悲劇とフィクションという逃げ場
楊さんは、清少納言が仕えた中宮定子の話に戻ります。中宮定子は一度出家しますが、天皇が定子を好きすぎるあまり、出家を強制的にキャンセルさせてしまいます。
天皇ってすごいですからね。
楊さんによれば、出家をキャンセルさせられた中宮定子は周囲から激しく非難され、その後亡くなります。社会のどうしようもない構造にはめ殺されたようなこの出来事は貴族社会でセンセーショナルに受け止められ、他の貴族にも出家が続出したといいます。
出家
中宮定子が出家する
出家のキャンセル
定子を深く愛する天皇が、出家を強制的に取り消させる
非難と死
周囲から激しく非難され、定子は亡くなる
物語への反映
事件を知る紫式部が、人生の苦しさを物語に反映させたとも言われる
それが嫌やから出家したのに、また組み込まれるみたいな。どうしようもないですね。
楊さんは、中宮定子が味わった理不尽さが、紫式部の執筆の動機の1つになっていたとも言われていると紹介します。
話を聞いた樋口さんは、フィクションだからこそ許される、出家とは別の「守られた空間」が物語の中にあったのではないかと語ります。
フィクションやから許されるみたいな、いわゆるその出家とは違った守られた空間みたいなところが物語の中ってあったのかなって今思ったんですよね。
楊さんは、樋口さんの感想が学者の見解と同じだと驚きます。樋口さんが「出家しよう」と冗談を返したところで時代背景の話が一区切りとなり、源氏物語そのものの中身は後編で語られることになりました。
まとめ
前編では、源氏物語が当時なぜ熱狂的に読まれたのかを、摂関政治の仕組みから解き明かしました。権力のために天皇に好かれる必要があったことで教養が政治の武器となり、后に仕える女房たちが重要な役割を担います。その女房として他者を知った紫式部が、社会の枠と人の心のずれを、リアルなフィクションとして描き出したという流れです。
- 源氏物語の特徴は圧倒的なリアリティで、実在の人物や時代を思わせる描写が当時の貴族の考察と熱狂を生んだ
- 藤原氏は天皇の外祖父になることで摂政・関白を独占し、その結果、恋愛と教養が政治の中心になった
- 后に教養を授ける女房は、身分は低くても政治的に重要な存在で、紫式部もその1人だった
- 女房として外の世界に出たことで、紫式部は自分を客観視し、他者を知る視点を得たと語られた
- 固まりつつある社会の中で葛藤する人々の苦しみと、中宮定子の悲劇が、源氏物語に反映されたとも言われている





