当時の世界でペルシャ帝国はどれほど巨大だったのか?
アレクサンドロス大王が生まれた時代背景を理解するために、深井さんはまず当時の世界の勢力図から話を始めます。当時の世界には、ギリシャ、エジプト、ペルシャ、中国、インドという大きく5つの勢力があったといいます。
深井さんによると、5つの勢力の中で最大だったのはペルシャ帝国です。ペルシャ帝国は、今のトルコやエジプトのあたりからイランやイラクを経てインドのあたりまで、ユーラシア大陸の真ん中を治める超多民族国家でした。
ちょっと世界地図見れる人は見てほしいんだけど、(ペルシャ帝国は)超でかい。
約2500年前の技術で、これほど広い土地を治めるのはとても難しいことでした。電話も車もない時代に、ペルシャ帝国は王の道 ── アケメネス朝ペルシャが整備した幹線道路。首都スサから小アジアのサルディスまで約2,400kmを結び、駅伝制で情報や命令を素早く伝えましたと呼ばれる道路を整備し、使者が行き来して中央に情報が集まる仕組みを作ったと深井さんは説明します。
ペルシャ帝国の統治のやり方は、各民族に相当な額の年貢を課して金を集める一方、宗教には基本的に寛容にするというものだったといいます。
都市国家の集まりギリシャと、山の上のマケドニア
ペルシャ帝国からエーゲ海を隔てた隣にあったのがギリシャです。ギリシャは1つの大帝国ではなく、城壁に囲まれたポリス ── 古代ギリシャの都市国家。都市とその周辺の農地からなる独立した共同体で、それぞれが独自の政治体制を持っていましたがたくさん集まり、同盟を組んだり争ったりしている世界でした。
深井さんによると、ポリスは800から1500ほどあったとされ、規模は数百人から数万人まで幅がありました。いちばん大きくても5万人ほどで、当時の中国の林市という街が50万人ほどだったのと比べると、意外と小さいといいます。
僕が今ここにいる田川市の人口が4万なんぼぐらいだから。
樋口さんの住む田川市の人口がアテネと同じくらいだという話になり、深井さんは、ポリスは範囲が狭い城壁の中に人が住んでいたため密度は高かったと補足します。
ギリシャの中心地は、ゼウスやアポロンがいるとされたオリンポス山の下にありました。そのオリンポス山の上の方にもギリシャ人が住んでいて、野蛮人として扱われていたといいます。その地にあったのが、アレクサンドロスが生まれたマケドニア王国です。
野蛮と呼ばれた辺境から(アレクサンドロスは)生まれたんですね。
樋口さんは、マケドニアは中国の春秋戦国時代の秦のような立ち位置だと指摘します。深井さんも、始皇帝が出た秦も野蛮と言われていたとして、本当に同じ感じだと応じています。
300人で大軍を止めたペルシア戦争
深井さんはここから、アレクサンドロスが生まれる100年から200年ほど前のギリシャの話に入ります。もともとギリシャは、経済都市アテネと軍事都市スパルタの二強で、それぞれの強みを生かして共生していました。
ポリス同士はときどき争いながらも、オリンピックのときは仲良くしていたといいます。そこへ領土を広げてきたペルシャ帝国が攻めてきます。ギリシャの人々はペルシャを野蛮だと思いつつも強さは知っていて、ずっと仲の悪かったアテネとスパルタが手を組んで対抗することになりました。
ペルシャは2回攻めてきます。1回目では、アテネがマラトンの戦いでペルシャ軍を追い返しました。深井さんは、マラトンからアテネまでの42.195kmを勝利の知らせのために走ったのがマラソンの語源だというトリビアも紹介しています。
深井さんによると、ペルシャ軍は20万ほどの大軍で攻めてきました。その大軍とスパルタの300人が戦ったのが、映画『300』で描かれた戦いです。スパルタ王レオニダス ── スパルタの王。紀元前480年のテルモピュライの戦いで、少数の兵を率いてペルシャの大軍を山間の隘路で食い止め、戦死しましたが率いた軍は、他国の軍も合わせると1400人ほどいたものの、他国の軍はほとんど役に立たなかったといいます。
めっちゃ狭くなってる谷みたいなところで300人で待ち構えておいて、そしたら向こう大軍だけど、一気に来れないじゃないですか。
それを一週間スパルタが足止めするんですよ。結果向こうが2万人死ぬんですよ。
楊さんは、1人あたり70人を倒した計算になると驚きます。深井さんによると、ペルシャ側は「スパルタはあと何人いるのか」と問い、まだ1万人以上いると聞いて帰ろうかという空気になったといいます。
まさか負けると思っていなかったペルシャ王ダレイオス1世は、無念のうちに亡くなります。恨みを晴らすよう託された息子クセルクセスが再び攻めてきますが、海軍を作っていたアテネを中心に、ギリシャはサラミスの海戦で再び追い返しました。
楊さんは、ギリシャの共闘を悟空とピッコロがベジータと戦った場面にたとえます。深井さんによると、アテネとスパルタは一時的に飲み会をするほど仲良くなったものの、スパルタの食事がまずくてアテネ人が引いたといいます。
アテネの繁栄とペルシャの政治工作
ペルシア戦争のあと、アテネは大きく発展していきます。深井さんによると、サラミスの海戦をほぼ無傷で戦ったアテネには海軍がたくさん残り、その海軍で海賊を蹴散らしながらエーゲ海に安全な経済圏を作れたといいます。
アテネは貿易でめちゃくちゃ儲けて国力を上げ、民主制の中から優秀な政治家も何人か出てきました。ところが、大きくなるアテネをスパルタは快く思いません。
(スパルタは)何アテネだけでかくなっとんねんって。
スパルタは、ペルシャから資金援助を受けてアテネに対抗しようとします。2回負けたペルシャ帝国はもう大軍を送る統制が効かなくなっていましたが、広大な領土からの年貢で金は持っていました。
ペルシャは、国力の落ちた側に金を渡すやり方で、政治工作によってギリシャ世界をコントロールしようとし、それに成功したと深井さんは話します。
アテネの繁栄
残った海軍で貿易圏を作り、国力が上がる
スパルタの反発
アテネに対抗するため、ペルシャの資金援助を受ける
ペルシャの工作
金を渡す相手を変えながらギリシャ世界を操る
二強の消耗
アテネとスパルタが大決戦し、スパルタが勝つ
全体の沈下
ギリシャの経済圏が下がり、人材が外へ流出する
アテネとスパルタは最終的にギリシャを二分する大決戦を行い、スパルタが勝ちます。けれど深井さんは、アテネが盟主としてギリシャを束ねられたのは頭がよかったからで、軍人が政治をするスパルタには経済も政治もできなかったと説明します。
ギリシャ世界の経済圏が全体的に下がった結果、人々は生活できなくなり、ペルシャの傭兵になってペルシャ国内の戦争に加わるようになりました。優秀な人材を国内に留めておけなくなったことが一番最悪だった、と深井さんは企業や国にもよくある話として語っています。
知的エリートも、報酬を払えるマケドニアやペルシャへ出ていきました。アテネに住んでいたアリストテレスがマケドニアへ移ったのも、こうした流れの一つだといいます。
テーベを押し上げた二人の天才
アテネが没落し、一時的に覇権を取ったスパルタも没落していきます。深井さんによると、スパルタが強国でいられたのは鎖国して外的要因のない体制をとっていたからで、鎖国したまま他国を束ねる盟主にはなれなかったといいます。
アテネとスパルタの国力が下がったとき、ギリシャの中で真ん中より少し下くらいの中小ポリスだったテーベに、たまたま2人の天才が生まれます。それがエパメイノンダス ── 古代テーベの将軍・政治家。紀元前371年のレウクトラの戦いでスパルタを破り、テーベを一時ギリシャの覇者に押し上げましたとペロピダスです。
深井さんは、特にエパメイノンダスを、アレクサンドロス以前の世界で古代の英雄といえば名前が挙がるほどの人物だと紹介します。
2人の友情のきっかけは戦場でした。深井さんの記憶では、部隊がほぼ全滅し、怪我をして敵軍の真っただ中に横たわっていたペロピダスを、エパメイノンダスがめっちゃ怪我しながら命がけで救い出したといいます。
そこからめちゃくちゃ友情が生まれるんですよ、二人の中に。
2人はクーデターで政権を取り、軍事改革を進めます。人口も少なく金もないテーベを強国にするため、斜線陣や、特殊部隊の神聖隊といった戦略を考え出し、ついにスパルタを倒しました。
それでも、テーベはもともと強い国ではなく、アテネやスパルタの全盛期に比べればまだ弱いままでした。ギリシャの中心に誰も強い国がいない状態で出てくるのがマケドニアだ、と深井さんは話します。
テーベで学んだフィリッポス二世という天才
ペロピダスとエパメイノンダスが足しげく通って戦略会議をしていた貴族の家に、外交上の人質として他国から来ていた青年がいました。それがアレクサンドロス大王の父、フィリッポス2世です。
フィリッポス2世は10代半ばで、牢屋に閉じ込められるのではなく、ゲストのような人質として貴族の家で悠々と過ごしていたといいます。
この人が要はそのテーベがライジングしていく様をクソ間近で見てるんですよ。
フィリッポス2世はテーベで学んだことを吸収して帰国し、マケドニアを強くして、最終的にギリシャを統一します。樋口さんは、フィリッポス2世を個人的にはアレクサンドロスと同レベルの天才だと考えているといいます。
政治的なうまさを含め、王様として優秀。上司にしたいタイプ
戦争の強さでは上回り、伝説として名を残した
深井さんは、戦争の強さならアレクサンドロスが上だが、王様として優秀なのは多分フィリッポス2世だと話します。上司にするならフィリッポス、という点で深井さんと樋口さんの意見は一致しました。
アレクサンドロスに用意された英才教育
樋口さんは、アレクサンドロスが伝説になったのは少なくとも3分の1は父のおかげだと話します。深井さんも、フィリッポス2世がマケドニアの軍隊を強くし、軍勢を整え、人口を増やし、戦争に勝つための土台をすべて作ったと同意します。
アレクサンドロスは王子でありながらスパルタ教育を受け、ベッドで寝ない生活をしながら武力を鍛えられました。さらにフィリッポス2世は、万学の祖と呼ばれるアリストテレス ── 古代ギリシャの哲学者。論理学、自然学、倫理学、政治学など幅広い学問を体系化し、「万学の祖」と呼ばれますを招き、アレクサンドロスを直接教えさせています。
深井さんによると、アリストテレスの学問領域は哲学だけでなく、医学、動植物の観察、社会科学、倫理など多岐にわたり、数学で習う命題証明もアリストテレスが作ったものだといいます。
フィリッポス2世は、将来アレクサンドロスの側近となる人たちにも同じ教育を受けさせました。共通言語でコミュニケーションできるように、未来の部下まで一緒に育てていたのです。
楊さんは、スパルタ式の武力、アリストテレスの知性、父が整えた環境、そして仲間まで揃っていると驚きます。次回はフィリッポス2世の話をさらに掘り下げる予定だと告げられ、この回は締めくくられました。
まとめ
アレクサンドロス大王の登場前、ギリシャはペルシャ帝国の侵攻と政治工作の中で覇権がアテネ、スパルタ、テーベと移り、全体として弱っていきました。その空白の中で、テーベの天才たちから学んだフィリッポス2世が辺境のマケドニアを強国にし、息子のための土台を整えていたことが語られています。
- ペルシャ帝国は王の道と年貢、宗教への寛容さで超多民族国家を治めていた
- ギリシャはペルシア戦争に勝ったが、その後ペルシャの資金による政治工作で弱っていった
- アテネ、スパルタ、テーベと覇権が移る中、優秀な人材がマケドニアやペルシャへ流出した
- フィリッポス2世はテーベで学んだことを生かし、アレクサンドロスと側近に同じ教育を受けさせた




