コーヒー15杯にタバコ3箱、建国の父の夜型生活
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最終回は、ケマル・アタテュルクの晩年のプライベートから始まります。文字改革や西洋化などの文化事業に打ち込んでいた時期、ケマルはかなり無茶な生活を送っていたそうです。
深井さんが紹介する日課によれば、ケマルは昼過ぎに起きて、1日にコーヒーを15杯飲み、タバコを3箱空けていました。夜はトルコの地酒であるラク ── アニスで香りづけしたトルコの蒸留酒。水を加えると白く濁るのが特徴で、「ライオンのミルク」とも呼ばれますをつまみなしで1リットル近く飲み、来客や側近と朝まで議論や歓談を続けて、早朝に床についたといいます。
ケマルはナイトクラブにもよく通い、朝までダンスを踊って杯を重ねていたそうです。この話に、スタジオでは「ニコチンとカフェイン中毒」「おまけにアル中」とツッコミが相次ぎます。
ナイトクラブにいて、いきなりケマルが入ってきた時、どう反応をみんなしてたんだろうな。
「私はトルコだ」とまで語った建国の父がナイトクラブに現れたら、一緒に踊るしかないのではないか、という想像で盛り上がります。とはいえ、実際にはスター扱いされていたのではないか、という見方も出ていました。
内縁の妻フィクリエと、3週間で決まった結婚
ケマルの私生活で大きな位置を占めていたのが、義理の父の姪にあたるフィクリエです。フィクリエはケマルを慕い、アナトリア各地で革命運動が起きていた頃から身の回りの世話をするようになりました。
時期としては、第一次世界大戦に敗れ、セーヴル条約 ── 1920年に連合国がオスマン帝国に結ばせた講和条約。領土の大幅な分割を定めており、ケマルたちのアンカラ政府はこれを拒否して戦いましたを結ばされようとしていた頃です。二人はごく内輪しか知らない形で婚姻関係を結んでいたとされます。
未婚の女性と暮らすのは当時の慣習にそぐわないため、公には結婚していないものの、事実上の夫婦で、本人たちも結婚していると考えていた状態だったと説明されます。
ところが、ギリシャ軍と戦うためにイズミルへ赴いていたケマルは、そこで新しい女性と出会います。同じ頃、フィクリエは結核にかかり、ケマルは彼女をミュンヘンの療養所へ送り出していました。
イズミルでケマルが滞在していたのは裕福な商人の家で、その娘がラティフェです。ラティフェはフランスやイギリスへの留学経験があり、語学に堪能な優秀な女性で、秘書のようにケマルを手伝っていました。
ケマルは約3週間の滞在でラティフェを好きになり、求婚します。ラティフェは父の不在を理由にすぐには承諾しなかったものの、最終的に受け入れ、結婚式を挙げて外国メディアの取材も受ける公の結婚となりました。
療養先のドイツにいたフィクリエは、報道でケマルの結婚を知ります。ケマルのもとまで行って面会を求めたものの断られ、フィクリエは自ら命を絶ってしまいます。
前妻の名で呼んだ夫、わずか2年の結婚生活
フィクリエの悲劇があった一方で、ケマルはラティフェとの結婚生活のなかで、妻のことを誤って「フィクリエ」と呼んでしまったといいます。
あれだけ列強各国を退けて、国を作った建国の父がさ。
列強を退けた切れ者でも名前を間違えるのか、という深井さんに対し、1日に何リットルも飲んでいたのだから、という返しが入り、スタジオは複雑な笑いに包まれます。
この一件でケマルとラティフェの間に亀裂が入り、二人はわずか2年で離婚します。離婚の理由はいくつかあったようですが、その一つがケマルの生活をめぐる衝突でした。
ラティフェはケマルの体を心配し、勝手に酒を片付けることがあったそうです。ケマルはそれを差し出がましいと感じてひどく嫌がり、ラティフェは復縁を望んだものの、喧嘩別れのような形で結婚生活は終わりました。
(フィクリエさんに)感情移入しちゃうね、ここだけは。
実子はいないが養子を育て、血縁を政治に持ち込まなかった
ケマルには実子がいませんでした。結婚生活が短かったからなのか、作る気がなかったのか、体質的な理由なのか諸説あるものの、深井さんは重要な点ではないとしています。
一方でケマルは子どもが好きだったようで、男子と女子の養子を自宅で育てていました。深井さんが感心するのは、その養子のほとんどが政治的にも社会的にも目立った活躍をしていないことです。
活躍した例として挙げられたのは養女の一人で、スイスに留学して人類学を学び、帰国後はイスタンブールの女学校で教鞭をとりました。それでも、あくまで学校の先生という立場です。
一切してない。子供たちも権力に興味がない。政治に血縁を持ち込んでないんですよね。
ケマルは自分の立場を使って養子を要職につけることはしませんでした。ただ深井さんは、学友とも妻とも決別したケマルは、かなり孤独だったのではないかとも語っています。養子との関係性までは、資料からはわからなかったそうです。
盟友イノニュはなぜ酔った英雄に意見し続けたのか
晩年のケマルは、学友と決裂するなかでもずっとついてきてくれた盟友、イスメト・イノニュとも対立するようになります。
イノニュが問題視したのは、ケマルが夜のパーティーで重要な決定を下し、翌日に撤回するような振る舞いでした。公私の区別がつかなくなっていたことに、イノニュは頭を抱えていたといいます。
飯の席で政治の決定をするって、そこそこ良くない挙動だよ。
さらに、国家主導の資本主義の一環で作られた「模範農場」を、酒好きのケマルがビールとワインの醸造所にして私物化しようとしたこともありました。イノニュはこれにも反対します。
怖くて意志の強いケマルに意見するとき、イノニュはウイスキーを飲んでから会いに行っていたそうです。双方が酔っ払っていたのでは、と笑いが起きつつも、深井さんはイノニュの姿勢を高く評価します。
僕はその、それでも怒ってくれるイノニュがいいと思っちゃう。
こんな国の英雄で、こんな意志が強くて、こんな怖い人に、私はトルコだって言ってる人に、マジで言いづらいと思うんだよね。
深井さんは、イノニュは嫌われるとわかっていても、意見するのが自分の役割だと考えていたのだろうと見ています。実際に二人の間には亀裂が走り、イノニュの親族がビール利権を持っているからだというゴシップを、ケマルが信じてしまうこともありました。
首相解任と「君に怒るなんてありえない」のメモ
当時首相だったイノニュを、ケマルは自室に呼び、少し仕事から離れたほうがいいと告げます。事実上の解任です。
ただ、ケマルがイノニュを嫌っていたわけではないようです。その後日を空けずに会った機会に、イノニュは「まだ私に怒っていますか」と書いたメモを渡しました。ケマルは「君に怒るなんてありえないよ」と書いて返し、イノニュがメモを取っておいてよいか尋ねると、好きにしていいと答えたといいます。
これ付き合ってんすか?
授業中の手紙のようなやりとりに樋口さんが思わずツッコみます。深井さんは、人間としては同志で友人として信頼し合いながらも、政治家同士としては対立していたのかもしれない、と推測しています。
イノニュの後任には、言うことを聞きそうな人物が首相に据えられました。晩年のケマルはイエスマンで周囲を固めるようになり、それへの批判もあったと紹介されます。深井さんは、ここに独裁のデメリットが表れていると指摘します。
肝硬変による死と、遺書に書かれたイノニュの名
第二次世界大戦の直前、1938年11月10日にケマルは亡くなります。死因は、酒の飲みすぎによる肝硬変 ── 肝臓に慢性的な炎症が続き、組織が硬く変化して機能が落ちる病気。長年の大量飲酒が主な原因の一つですでした。
医師から飲酒を控えるよう言われながらも、ケマルは療養しつつ公務をこなしていました。手術も受けましたが回復せず、顔色はひどく悪かったといいます。この頃には、かつて排除した戦友のラウフ、フアト、レフェトらが見舞いに訪れていました。
手術の前、ケマルは遺書を書きます。財産はすべて党に寄贈し、そこから養子たちへの手当、歴史学協会と言語学協会の運営費を出すよう定めていました。そして深井さんが驚いたのは、イノニュの子どもの教育費をそこから出すよう書いていたことです。
だからありがとうってことでしょ。ついてきてくれてありがとうってことだと思いますけどね。
あるいはもしかしてケマルからの和解のメッセージかもしれないね。
遺書を書いた数か月後、ケマルは昏睡状態に陥り亡くなります。このときイノニュが見舞いに来ることはなかったそうで、その理由は語られていません。
第2代大統領イノニュは、なぜ第二次世界大戦に参戦しなかったのか
英雄を失ったトルコ共和国は、第二次世界大戦前夜という不安定な時期を迎えます。この状況で大統領になれるのはイノニュしかいなかったとされ、議会は満場一致でイノニュを第2代大統領に選びました。
イノニュは、ケマルが排除した人々とも和解して政治の舞台に復帰させ、反対派も取り込んで体制を維持します。そしてチャーチルをはじめとする連合国側から熱心に誘われながらも、強い意志で参戦を拒み続けました。
背景にあったのは、国がまだ安定せず、カリスマもいない状態で負けた側についたら、築き上げたトルコ共和国がまた崩壊するという恐怖でした。トルコが連合国側に加わったのは、勝敗が決した1945年の8月頃、最後の最後だったと語られます。
滑り込みで勝ち組に入ったことに「それはそれでどうなん?」との声も出ますが、国としては非常に賢い政策だったという点で出演者の意見は一致します。深井さんは、世界中が巻き込まれるなかで1か国だけ巻き込まれずにいるのはよほどのことだと評価し、イノニュを「本当にすごい人」と語ります。
ケマルの葬儀は、科学主義者だった本人の考えに沿って宗教色を排する予定でした。しかし民衆が死者を弔うにはイスラム式で行うしかなく、実際には宗教色の濃い葬儀になったそうです。のちにアンカラには、10年ほどかけて巨大なアタテュルク廟が建てられ、今も見学できます。
温存された軍は、なぜ世俗主義の守護者になったのか
戦後のトルコについては、大戦にほとんど参加しなかったために軍事力が温存され、軍が強い力を持ったことが語られます。日本軍のように敗戦で解体されることがなかったからです。
もともとケマル自身が軍人で、軍が国を作ったという自負もありました。軍のエリートは、ケマルが掲げた6つの原則、とりわけ世俗主義 ── 政治と宗教を切り離し、宗教を国家運営や公的領域から遠ざける考え方。トルコではイスラムの影響を政治から排することを意味しましたを共有しており、自分たちこそケマルの後継者だと考えていたといいます。
軍の温存
大戦に本格参戦せず、敗戦による解体もなかった
世俗主義の守護者を自認
ケマルの後継者だというエリート意識
親イスラム政党の台頭
イスラムを大事にしたい民衆の支持を集める
クーデターの繰り返し
政党が行き過ぎると軍が抑え込む
エルドアン大統領
軍を抑え込み、大統領の権限を強める
イスラムを大事にしたい民衆の支持で親イスラム的な政党が生まれ、それが行き過ぎると軍がクーデターで潰す、という流れが繰り返されてきました。深井さんによれば、最近の軍は世俗主義を強く押し通すことはなくなったものの、守護者を自認した時期は長く続いたそうです。
こうして、貧困層などの声も取り込んで親イスラム的な方向へ勝ち上がってきた政党のリーダーが、現在のエルドアン大統領です。ケマル編の話は、ここで現代トルコにつながります。
オスマン帝国の崩壊から見えた、組織が変われない理由
エンディングでは、14回を通した感想が語られます。深井さんは、オスマン帝国の崩壊プロセスを追えたことが大きな学びだったと振り返ります。崩壊の仕方にも、それを打開したケマルが独裁的になっていく流れにも、再現性があると感じたそうです。
特に深井さんが挙げるのは、イギリスやギリシャを押し返し、セーヴル条約をはねのけてローザンヌ条約 ── 1923年に連合国とトルコの間で結ばれた講和条約。セーヴル条約に代わり、ほぼ現在のトルコの国境が認められましたに切り替えていった場面です。意志の力で覆す現象は株式会社でも同じように起こる、と語ります。
また、国際的に存在感を増している今のトルコを理解するうえで、共和国の成立過程を知っておくことは現代人として重要だとも話しています。
オスマン帝国の話で印象的だったのは、ある時期の強みが後に弱みになる構造です。多民族ゆえの柔軟さで勃興した帝国が、民族自決の時代には混乱を抱えました。騎馬兵の強さで台頭した国が、火砲の時代に統制を失ったことも振り返られます。
みんなが口にし、精一杯の最適解として納得できるが、スピードで負ける
国家システムから変える必要があるが、全体がバランスしているため簡単には壊せない
もう恐ろしいほどに同じことが起こりまくってるよね、今。あらゆる組織で。
一方で、ケマルもいきなり現れて変えられたわけではなく、段階を踏むしかなかったと深井さんは指摘します。変わるには時間がかかるという点を、深井さんは特に重要だと感じたそうです。
強い意志とリアリズム、ケマルが内ゲバを防げた理由
もう一人の出演者は、ケマルと仲間たちが欧米列強による世界分割の野望を実力で阻止したことを最大のハイライトに挙げ、世界的にもほぼ唯一の例だと語ります。逆境に耐える強さに加え、状況に応じて方針を転換し妥協できる柔軟さもあったと評価しています。
深井さんはこれを「詰め将棋的」な戦略性と表現します。他の歴史を見ても、こうした局面で最も多い失敗は内部の紛争、つまり内ゲバで、その原因は各自がイデオロギーを捨てられないことだといいます。
本来大きい目的のために融合して仲間になるべき人たちが、自分たちの意見を主張し合って仲間になれない現象っていうことが起こる。
ケマルは妥協によってこれを防いだ、と深井さんは見ています。スルタン制とカリフ制を廃止する際も、いったんカリフを残すと法に定め、段階を踏んで時間をかけてなくしていった動きが、その戦略性の例として挙げられました。
同時に、ケマルの周りで働いた人々の苦労にも光が当たります。イノニュや、最も危うい場面で笑っていたというフェヴズィのように、英雄の影で支えた人々の苦労や気持ちを拾うことも、歴史を学ぶ楽しさの一つだと語られました。
ヒーローか独裁者か、史実をどこから見るか
樋口さんは、ケマル・アタテュルク編なのでケマルを主人公として見てきたと語ります。トルコという国が今しっかりあるからこそヒーローに見えて感動したものの、一歩間違えればという分岐点が数多くあったと感じたそうです。
結果は今いい風に見えてるので。(独裁については)考えないといけないなっていうのは思いましたね。
深井さんが補足するように、ギリシャから見ればこれは敗戦の歴史であり、イギリスから見ても思うところがあるはずです。さらにケマルは57歳で亡くなりましたが、80歳まで権力の座にいたら、まったく違う形で歴史に残ったかもしれないとも語られます。
深井さんは、どの時点で何を評価するかは結末次第で変わりうると述べます。今回のシリーズは、ケマルを明らかなヒーローとしても、ただの独裁者としても描かず、女性関係を含むだらしない面も紹介しました。
普通に女性を傷つけてますからね。
樋口さんは、どう見なければならないという決まりはなく、いろんな面がある人だったという印象だと語り、総じて面白く熱くなれたシリーズだったと締めくくります。
参考書籍3冊と、次回ジャンヌ・ダルク編の予告
最後に深井さんが、チームで読んだ本の中からおすすめの3冊を紹介します。これらをバリューブックスから購入すると、利益が出版業界や著者に還元される取り組みになっています。
| 書名 | 出版社・刊行年 | 紹介のポイント |
|---|---|---|
| ケマル・アタテュルク オスマン帝国の英雄、トルコ建国の父 | 中公新書・2023年 | 最も新しく、フラットに書かれている |
| 文明史から見たトルコ革命 アタテュルクの知的形成 | みすず書房・2020年 | 全体像が最もわかりやすく、台本作りに役立った |
| イスラムと近代化 共和国トルコの苦闘 | 講談社選書メチエ・2013年 | 近代以降のトルコ理解に役立つ |
1冊目の著者は、出演者の母校である九州大学の小笠原弘幸先生です。昔の本は英雄譚のような書き方が多いため、ケマルについては最近の本を読むのがおすすめだといいます。
2冊目はシュクリュ・ハーニオールさんの著作で、訳は新井政美さんと柿崎正樹さんです。ケマル研究のなかでも最もフラットな研究の一つとされていると紹介されました。3冊目は新井さんの編著で、イェニチェリの変化や、共和国成立後にイスラムが復活した理由をわかりやすく解説しているそうです。
番組が広告収入に頼らず、COTEN CREWの支援で成り立っているからこそ、14回もかけてケマルを語れたという話もありました。次回のテーマはジャンヌ・ダルクで、中世ヨーロッパを理解するうえで欠かせない英仏の百年戦争もあわせて扱う予定です。
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まとめ
ケマル・アタテュルク編の最終回は、英雄の乱れた私生活と孤独、盟友イノニュとの対立と信頼、そして死後のトルコを追いながら、歴史上の人物を一つの視点で評価することの危うさを浮かび上がらせる回でした。
- 晩年のケマルは大量の酒とタバコに浸る生活を送り、1938年に肝硬変で亡くなった
- フィクリエとラティフェをめぐる女性関係には、英雄の傷つける側面も表れていた
- 嫌われても意見したイノニュは、ケマルの死後に大統領となり、第二次世界大戦への参戦を最後まで避けた
- 温存された軍が世俗主義の守護者を自認したことが、現代トルコの政治の流れにつながっている
- ケマルの評価は、トルコ、ギリシャ、イギリスのどこから見るか、いつの時点で見るかで大きく変わる






